3. 会社に着くと
会社に着くと、更衣室へ直行する。制服のある会社は、毎朝の身支度にかかる時間が少なくて済むから楽だ。
親からの「地元に戻って来ること」というのを条件に北海道にある大学へと進学した私は、その言い付け通り、地元に本社のある企業を選んで就職していた。
そして、それなりに名の通った大学を出ていたおかげか、希望していた企業にすんなりと入社できた。今はそこで総務部に所属している。
唯一の難点は、田舎にある企業のせいか、フレックス制じゃないこと。毎朝毎朝、八時半から、きっちりとお仕事が始まる。
「おはようございまーす」
「高橋さん、おはよう」
「おはよ」
「寒いねー」
さほど広くない更衣室は、既に女子社員でいっぱいだ。
自分のロッカーを開けて、肩に掛けていたバッグをとりあえず足下に放り込む。そして着ていたコートをハンガーに引っ掛けて中に入れると、代わりに別のハンガーに掛かっていた制服に手をかけた。
「あーすかちゃんっ!」
「ひっ!?」
突如、両頬を冷たいものが触れた。あまりにも突然過ぎて、肩がびくんと上がる。この冷たいのは、手だ。誰かが後ろから私の頭を包むようにして当てられていた。
それに気が付いて、私は素早く振り向いた。
「おはよー」
目の前に、にこにこ顔で立っていたのは、順子先輩だった。黒い髪をショートカットに整えていて、背は私よりも少し高い。
「もぉー、やめてくださいよ、順子先輩。驚くじゃないですか」
「えへへー」
順子先輩は、悪戯が成功したときの子供とまったく同じ表情を浮かべて、私の隣のロッカーを開けた。
順子先輩は私よりも二年上の先輩。だけど全然そんなことを感じさせない。ちょっと悪戯が好きだけど、どこか憎めない快活な人だ。同じ部署に所属している。
「はぁ、ほんっと毎朝眠いよね」
着替えの手を休めず、順子先輩が言った。
「そうですね。でも、ようやく木曜日ですから。もうちょっとです」
「ふわぁ……」
順子先輩は大きく口を開けて欠伸をした。
順子先輩は、来週、昇格試験を控えている。だからきっと、毎晩遅くまで勉強しているはずだ。
「私にとっては『未だ』木曜日って感じよ。それに明日香ちゃんは明日、お休み取ってるんでしょ? あと一日だけじゃん」
「ええ」
明日、私は崇の家に遊びに行く予定だ。最近土曜日すら休日出勤で潰れていた崇が、久しぶりに土日とも休めることになったから。
でも、崇の家に行くっていうのは、両親には内緒だったりする。未だお付き合いしてるってことすら言ってないし。でも、そうすると数日間も家を空けられないから、代わりに、東京に住んでいる大学時代のお友達の家に遊びに行くって言ってある。
「そうなの? 楽しそうねぇ」
「風邪を引かないように気をつけるんだよ」
そう笑顔で口々に言ってくれた母さんと父さんとの笑顔を思い出して、私の心は少しざわついた。だけど今は、崇に会いたいって気持ちの方が勝ってしまう。
「――あぁ、そっかぁ」
制服のスカートを履きながら答えた私は、順子先輩の方を見た。順子先輩は一人うんうんと頷いている。
「明日、バレンタインデーだもんね」順子先輩はちょっと含みのある笑顔で、私の方を見た。「明日香ちゃん、彼ピのとこ行くんでしょ?」
「え? ええ……」
そう。奇しくも今日はバレンタインデー。私たちが付き合うようになって初めてのバレンタインデーだし、できれば手作りのチョコレートをあげたいなって思う。だけど、明日、会社が終わってから移動したんじゃ、崇の家に着くのはもう夜の遅い時間だ。
だから私は、ちょっと大胆な計画をたてた。
明日、お休みをいただいて、朝から移動しちゃうって計画。
そうすれば、お昼過ぎには崇の家に着ける。崇の家の鍵は預かってるから、崇がいなくても家には入れるし、多分調理器具もあるだろうから、チョコレートも余裕で作れるはず。ついでに、夕食も作るつもりだ。
もちろん崇には内緒。だって、驚かせたいし。できれば、喜ぶ顔も見たい。
「いいなー、そういうの。なんか『通い妻』っぽい」
順子先輩がにやにやと笑いながら言った。
制服に着替え終わった私は、最後にカーディガンをその上から羽織りながら言った。
「そんないいものじゃないですよ。遠距離恋愛なんて」
「そうかなぁ? 遠くてなかなか会えないからこそ、一緒にいる時間を大事にできるでしょ?」
「まぁ、そうかもしれないですけど……」
確かにそうかもしれない。だけど、断言できるほど私は未だ崇と会ってない。
それにやっぱり、私にとっては、好きな人が近くにいるってだけで羨ましい。
「近過ぎるとね、お互いに努力しなくなるからダメなんだよね」
私の心の声を聞いていたかのように、順子先輩がそう続けた。
順子先輩の彼氏は同じ年齢の人だそうだ。しかも同棲しているらしい。確か、もう五年くらい一緒に住んでるって前に聞いたことがある。そろそろ結婚を考えているみたいだけど、なかなか踏ん切りがつかないみたい。
「それって順子先輩自身のことですか?」
「アっタリぃ!」
明るく言う順子先輩に、私はついくすりと笑ってしまう。その隣で、やはり着替え終わった順子先輩が、ため息をついた。
「って言うかさ、昨日ケンカしちゃったんだよねぇ、私たち」
「そうなんですか?」
「ほら、私、来週、試験があるじゃん? だから、この週末は、勉強したいって言ったの。そしたら彼ピ怒るんだもん」
順子先輩は苦笑している。私も暗くならないように、冗談半分に聞いてみた。
「『仕事と俺とどっちが大切なんだ!?』とかですか?」
「そうそう、それそれ!」
え? 冗談だったんだけど。
順子先輩は固まった私に構わず先を続けた。
「バレンタインなのにって。でもさ、私としてはただ勉強したいだけで、チョコを渡さないとは一言も言ってないのにね。実はもう用意してあるし。でも、ケンカになっちゃったし、渡しづらいよねぇ」
私たちは更衣室を出て、一緒に総務部のあるフロアへと並んで歩き出した。
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。きっと彼氏さん、順子先輩からのチョコレート、待ってますって」
「そんな可愛げのあるやつだったら、初めからケンカにならないんだけどなぁ。
だいたい、会社も会社だよね。バレンタインデーの直後に試験の日程組むんじゃないっつーの!」
順子先輩は眉根を寄せると、胸の前で腕を組んだ。