10. 家に帰り着くと
家に帰り着くと、崇は座椅子の上に胡坐を掻いた。そして私にも座椅子に座るよう促す。
だけど私は素直にそれに従えなくて、キッチンと部屋との境目辺りで立ち尽くした。そんな私を、崇が厳しい目で見詰めて来た。とても拒否できるような雰囲気じゃない。諦めて私は座椅子の上に正座した。
しばらくの沈黙。
やがて、崇が口を開いた。
「明日香さん。オレは今、すごく怒ってます。なんでかわかる?」
そのちょっと他人行儀な言い回しに、心の距離を感じてしまう。
「今日、私が勝手に来ちゃったから……」
崇に断りもなく、勝手に来て、勝手に家に入って。
そんなの、崇に言われるまでもなく、わかりすぎるほどわかってるよ。自覚してる。
だから余計に悲しくなる。崇のことが好きなのに。嫌われたくないのに。でも、怒らせたのは私。だから、泣いちゃダメだ。泣いたら許される、そんな考えの女だって思われたくない。
「全っ然違います」崇が遮った。「来てくれって言って、鍵を渡したのはオレだろ? だから、そんなことで怒ってねぇよ。むしろ、明日香が来てくれて嬉しいくらいだ」
そうは言うものの、崇は膨れっ面のままだ。
「じゃあ、なんで……」
「本当にわかんねぇの?」
崇は怪訝そうに私の顔を覗き込む。私は小さく頷いた。
だって、それ以外で崇が怒る理由が、本当に思い当たらない。
そう言って、崇はため息をつくと右手で自分の髪をくしゃっとかき上げた。
「こんな時間に、明日香が一人で外をほっつき歩いてたからだよ」
「え?」
「危ないだろ?」
私は驚いて崇を見返した。
本当に、それだけ? そんなことで怒ってるの?
だって、私にとっては、このくらいの時間に外を歩くのなんて日常茶飯事だ。ちょと残業したら、すぐに九時台にはなる。もちろん、遅くなるよって両親に連絡していることが大前提だけど。
崇は、相変わらずの膨れっ面の中に、複雑な感情を入り混ぜたような表情で私を見ている。
多分、本気で言ってくれてるんだ。
「……ごめんなさい」
私が謝ると、崇はため息混じりに、ようやく笑顔になった。
「よく来たな」
そう言った崇の手が、私の背中に回る。そのまま抱き寄せられた。
本当に久しぶりの崇の温もりに胸が高鳴る。私は目を閉じて、崇の胸に頭を持たせ掛けた。とくん、とくんという、崇の心臓の音を聞いていた。そんな私の頭を撫でながら、崇は続けた。
「家に帰って、びっくりした。部屋の中がすげぇ綺麗になっててさ。それに、隅っこに見慣れない女物のバッグが置いてあってさ。すぐに明日香が来てくれたんだってわかったよ。でも、家の中のどこにも明日香いねぇし。ケータイ確認したけどメールも着信も来てねぇし。焦った。何かあったのかと思った。で、電話した」
私は密かに納得する。崇がスーツのまま駅に来てくれた理由、そして、そのときに防寒対策を一切していなかった理由。きっと、私が想像している以上に、慌ててたんだと思う。
「うん、ごめん」
私には、こう言うことしかできない。
「オレが夕方に電話したとき、もうここにいたんだろ? なんで来てるって言ってくれなかったんだよ?」
「それは、驚かせたくて……」
崇の身体が揺れた。私の今の頭の角度からは崇の表情が見えないけけど、きっと今、崇は苦笑してるんだと思う。
「――あぁ、オレ、最初にどこにいるか聞いたもんな」
「うん……。それで、もう来てるよって言い出しにくくなっちゃって」
崇の手が私の頭を撫で続けてくれている。それがすごく気持ちよくて、私はずっとこうしていて欲しいと思った。
「駅で何してた?」
「駅って言うか、駅前のカフェで、マスターに話を聞いてもらってたの」
崇の質問に答える。だけど、私の答えは崇の質問の意図とはちょっとずれていたらしい。崇が重ねて尋ねてきた。
「その後。駅から、どこか行こうとしてたんだろ?」
もう今更だ。本当のこと言おう。
「本当のこと言うとね、今日、会社休んで来てたの。でも、崇から今日も残業になったって聞いて……疲れて帰って来るだろうし、身体も休めたいだろうし、私がいたら邪魔かなって思って……」
「バカ明日香」
崇の声がして、頭を撫でていた手が止まった。そして、代わりに顎を持ち上げられる。
気が付いたときには、崇の唇が、私のそれに押し当てられていた。
そして、ゆっくりと離れる。崇は優しく微笑んでいた。
「邪魔なんて、思うわけねーじゃん」
崇の顔がまた近づいて来る。
唇が重なった。何度も何度も、お互いに啄ばむように。
だんだんと、頭の奥の方に痺れにも似た感覚が生まれてくる。気が付いたときには、崇の手が私の腰の辺りに甘く柔らかく添えられていた。
ちょ…ちょっと……!
私は何とか腕を持ち上げて頭を引き、崇の口元を覆った。崇の動きが止まる。その隙に私は身体を起こして崇から離れる。
崇が不服そうな目で私を見た。それを誤魔化すように、私は笑顔を作る。
「あ、あの。あのね? 夕食……食べよ?」
そう言って、私は立ち上がった。そのままキッチンの方へ向かう。
「夕食?」
背中越しに崇の声が聞こえてくる。炊飯器を確認すると、ちゃんと保温モードに切り替わっていた。ご飯も炊き上がってるってことだ。
「もうね、ほとんど準備できてるの。あと、ハンバーグ焼いてサラダ作るだけ」
私はそう言いながら冷蔵庫を開けた。中から、作っておいたほうれん草の胡麻和えとひじきの煮物、そして、ハンバーグの種とそれに添えるつもりの茹でた野菜、それとサラダ用の水菜と大根、トマトを取り出す。本当はお味噌汁も作ろうと思ってたけど、もういいよね。崇はビールを飲むだろうし。
「準備しておいてくれたのか?」
「うん。ちょっとだけ待っててね」
私はフライパンをコンロに乗せて、油を敷いた。暖めている間に、ハンバーグの種を大小二つに分けると、ボウルの中に叩きつけたり両手で弾くようにしたりして、中の空気を抜く。
熱くなったフライパンにハンバーグを入れたとき、崇もキッチンに入ってきた。
「オレも手伝うよ」
「本当? じゃあ、これ、お皿に盛ってくれる? それと、ご飯が炊き上がってるから、それもお願い」
そう言いながら、私はさっき冷蔵庫から出したタッパーを崇に渡した。
「わかった」