8. 「どした?」
「どした?」
崇の声に、いつもみたいな明るさがないことに気づいて、私は聞いた。
「ホント、悪いんだけどさ。昨日の約束、守れなくなっちまった」
「え……?」
なんとなく、崇の次の言葉が予想できた。私の体がこわばり、ケータイを握る力が強くなる。
「残業、入っちまったんだ。今夜も遅くなる。明日は休めるんだけどな。だから、ホントわりぃんだけど、今日……」
「わかった」私は崇の言葉を遮り、できるだけ明るい声で続けた。「仕方ないよね、崇、忙しいんだもん。じゃあ、今夜は行くのやめるね。その代わりに、明日の朝イチでこっちを出るよ。そうすれば昼前には着けるから」
遅くまで残業するなら、ゆっくり身体を休めた方がいいに決まってる。私がいたら、きっと全然休まらないだろうから。
「え? あ……うん。そっか。悪いな、本当に」
「いいって。じゃあ、お仕事がんばって」
「あぁ。また、帰ったら電話する」
「うん。無理しないでね」
電話を切った後、私はケータイを握り締めた。自嘲の笑みを浮かべて大きくため息をつく。開いた口から小さく声が漏れた。
「張り切っちゃって……バカみたい。私」
自分の軽率な行動に、自分で呆れる。崇を驚かせて、そして喜ぶ顔が見たかっただけだけど、そんなの私のエゴでしかないんだよね。
なんだか、今、崇の部屋にいることが、急に恥ずかしくなってきた。
私は立ち上がり、コートを羽織る。部屋の電気を全部消すと、そのままハンドバッグを持って家を出た。
崇の家を出たものの、別に行く当てがあるわけじゃない。足の向くままに歩く。
全然知らない土地。知っている人もいない。大学時代の友達のケータイに片っ端から電話したら、一人くらいはこの近くに住んでるかもしれないけど、そんなことする気力もなかった。
さっき崇との電話で「明日行く」と言っちゃった手前、今夜崇の家に泊まるのは憚られる。どこかに、空室のあるビジネスホテルがあるといいんだけど。
気がつくと、駅前まで来ていた。
そこまで来て、自分がハンドバッグしか持っていないことに気づく。お泊りセットを入れていた大きい方のバッグを、崇の家の部屋の隅に置いたまま忘れて来てしまっていた。
「あぁ、ホント、私ってバカ……」
なんだか、泣きたくなってきた。
そのとき、自分の立っているすぐ脇のお店から人が出て来た。扉が開くのとともに、芳ばしい香りが鼻をくすぐる。
コーヒーの香りだ……。
そこは、駅前のカフェ。確か、初めてこの駅に着いたときに見たお店だ。私は引き寄せられるように、お店の中へと入った。
「いらっしゃい」
店の奥から落ち着いた声がした。入り口の真正面にあるカウンターの向こう側で、このお店のマスターと思しき初老の男性が、穏やかな微笑みを湛えて私を見ている。
「お好きな席へどうぞ」
マスターの声に、私はお店の中を見回した。歴史を感じる少し重みのあるインテリアで統一された店内は、カウンター席が三つ、それと二人掛けテーブルが三つしかない、小さなお店だ。
店内は私以外にも二人のお客さんがいて、その人たちは個々にテーブル席に座っていた。雰囲気からして常連さんみたいだ。
私は少し迷った末に、カウンターの一番隅の席を選んで座る。コーヒーカップを拭き上げていたマスターが手を休め、私の目の前にメニューを差し出してくれた。
「決まったら、声かけてね」
私は頷いてメニューを受け取る。
メニューはビニール製の表紙がついた数ページの冊子になっていた。私はそれを開くと目を落とした。コーヒーや紅茶の名前が並んでいる。だけど、全然頭に入ってこない。
――と、すぐ目の前で、ことりという音がする。顔を上げると、マスターが優しげに微笑んでいた。その手元には湯気の立つマグカップある。
「疲れた顔してるね。これ飲んでごらん。温まるよ」
カウンターの上に置かれたマグカップを覗き見ると、程よく暖められたミルクが入っていた。私は驚いて顔を上げる。
「あ、あの……」
「特別サービス」
マスターは微笑みながらそう言い、片目を瞑って見せた。
「ありがとうございます……」
私は、両手でミルクの入ったマグカップを包むと、一口飲んだ。少しだけ砂糖が混ぜてあるみたい。ほのかに甘い。
ほっとする……。
私は、二口、三口とゆっくり味わい、残りを一気に喉に通した。頭がはっきりしてくる。
マスターが、相変わらずにこにこと私を見ていた。
「あの、すみません」
私はマグカップをマスターに返しながら言った。
「いや、いいんだよ。僕にも君くらいの娘がいてね。あ、今は家を出て地方で一人暮らししながら働いてるんだけどね。たまーにそうやって疲れた顔して帰って来るんだ」
「そう、なんですか……」
確かに、マスターの年齢は私の父さんくらいに見える。
「君、この辺りの人じゃないんだろう?」
「え……?」
マスターの言葉に、私は驚いた。
「たまたま、ね。今日のお昼ぐらいだったかなぁ。君が駅から大きな荷物を持って出てくるところが見えたんだ」
確かに、この店の位置からだと、改札口から出てくる人がよく見えるはずだ。それにしても、まさか見られてただなんて。私は自分が駅前で何をしていたか思い出す。確か、このカフェと、隣のコンビニとを見比べつつ、地図を見て崇の家を探してたんだっけ。ちょっと恥ずかしい。
マスターが先を続けた。
「さっきお店に君が入ってきたとき、すぐにわかったよ。あぁ、昼間の子だって。でも、お昼の活き活きした表情とは全然違う顔をしてたからね、ちょっと心配になったんだ。何かあったのかい?」