5. 翌朝
翌朝、私はお泊りセットの入った大きめのバッグを肩にかけると、駅に向かった。
いつもの通勤時間より、少しだけ遅い時間だけど、未だ通勤の人たちでバスはいっぱいだった。九時始業の人たちかな?
チケットは自由席のものを既に買ってある。私は、乗りたいなぁと思っていた新幹線に余裕で乗り込んだ。
新幹線を降りる駅までは一時間と少し。その後、私鉄に乗り継いで、新幹線で過ごした時間と同じくらい進むと、崇の住んでいるマンションから最寄の駅に着いた。
ホームに下りたのは私と、あと数人だけ。
慣れない駅構内を歩くのは少し不安だ。それでも、改札口を案内する看板を頼りに構内を進む。
正午過ぎ。一日の内で一番暖かい時間帯。平日の真っ昼間に出歩くなんて滅多にないから、この明るい屋外の風景がひどく新鮮だ。
そんなことを思いながら角を曲がると、目の前に改札口があった。その向こうは、眩しい日差しの射す初めて見る町の景色。一瞬怯んだ足を叱咤して、私は駅の改札を通って外に出た。
歩道の隅に寄って、ハンドバッグからインターネットで調べた地図をプリントアウトした紙を取り出す。
崇の家に行くのは初めてだから、迷わないようにあらかじめ調べておいた。崇はこの駅まで迎えに来るって言ってくれてたけど、一応サプライズで早く来ることにしたんだし、準備は整えているつもりだ。崇の家の近くにあるというスーパーもばっちり調査済み。
「えっと……」
目の前に見えるコンビニとカフェの位置と道路の形を確認して、現在地と崇の住んでるマンションの位置関係を確認する。
地図の縮尺から見て、ここから歩いて十分くらいのところだ。荷物もあるし、スーパーの位置から言っても、まずは崇の家に行くのがよさそう。
「よっ…と」
私は肩のバッグを掛け直すと、崇のマンションへ向かって歩き始めた。
時折吹き付ける風はすごく冷たいけど、それさえなければぽかぽか陽気。さしずめ、小春日和って言うところ。散歩気分で歩けるのが嬉しい。
崇の住んでいる町は、東京近郊にあるベッドタウンの一つだ。坂の多い町で、その勾配に沿って段々畑のようにマンションやアパート、一戸建てが立ち並んでいた。崇はここから片道一時間以上かけて通勤しているらしい。
予想通り、歩き始めて十分余り経ったとき、崇の住んでいるマンションの名前を冠した建物を見つけた。
「あ、ここだ……」
ついに、来ちゃった。
なんということはない。どこにでもあるような、賃貸マンション。
オートロック式の共同玄関を崇から預かった合鍵で開けた。崇の部屋は一階だ。
部屋番号を確認しながら外廊下を進む。しばらくそうしながら歩いて、とあるドアの前で立ち止まった。ドアの脇にある空の表札の上に書かれている数字を見る。一〇六号室、崇の部屋だ。ちょっと胸が高鳴る。
――やだ、私。崇が家にいるわけじゃないのに。
一人で苦笑し、鍵穴に鍵を入れた。がちゃりという音がしてドアが開くようになる。
私は呼吸を整えると、そっとドアを引き空け、中へと入った。
まず思ったのは、いかにも男の人の一人暮らしの家っていう雰囲気だなってこと。
玄関には傘立ても下駄箱もなくて、積み上げ式のシューズラックが一つ。スニーカーと革靴が乱雑に置かれている。その一番上の段には、黒い傘が引っ掛けてあった。
音を立てちゃいけないような気がして、そっと靴を脱いで上がる。
玄関の脇には二つのドア。それぞれトイレとバスルームらしい。セパレートタイプみたいだ。
私は、そのさらに奥のドアを開けた。そこには、二畳ほどの大きさのキッチンと、居住区になっている部屋があった。聞いていたとおり、1DKのマンションだ。
私は肩に掛けていた荷物を足元に下ろして、部屋の中を見回した。
キッチンを除いて、部屋は八畳もないくらいの広さ。それに押入れらしき扉がある。壁沿いにはシングルベッドと箪笥。反対側の壁にテレビとオーディオ類、それと小さな本棚。その間、部屋の真ん中にはコタツが置かれていて、座椅子が二つその周りにあった。
コタツの上には、ノートパソコンと未開封の郵便物がざっくりとまとめられた状態で乗っている。窓際のカーテンレールには、洗濯物が引っ掛けてあり、床に敷かれた絨毯の上には、片付けられていない洗濯物の山があり、その脇で何かの書類が散らばっていた。
私は腰に手を当てて、ため息をつくと苦笑した。
「掃除のしがいがありそうな部屋ね」
でも、まずは買い物に行こう。全然知らない土地だし、慣れてない台所だし、早く始めるに越したことはない。
私はキッチンの方へ脚を向け、家にあるものを確認する。
まずは冷蔵庫。予想通り、ほとんど空に近かった。ビールだけはしっかりある。食材は一通り買ってこないとダメみたいだ。
調理器具の方はどうかな?
コンロ下の扉を開けてみる。フライパンが一つと大きさ違いの鍋が二つ。小さな鍋以外はほとんど使われてないみたいに、綺麗なままだ。いかにも百円均一で買いましたって面構えのボウルやザルも、一応いくつかはちゃんとあった。それと、電気ケトルとオーブン付きの電子レンジ、炊飯器。レンジ台になっている棚の中には、申し訳程度の食器もある。お米も未だ十分あるみたいだ。
私はケータイに必要なものをメモすると、ハンドバッグだけを持って崇の家を出た。
スーパーは、崇のマンションから駅とは反対方向に五分ほど歩いたところにある。
崇の家には本当に食材も調味料の類もほとんどなかったから、私は両手に荷物を下げて帰路に付くハメになった。指に食い込むほどの重さの荷物を持って上り坂の道を歩くのは、ちょっと厳しい。
それでも、疲れて帰ってくる崇が喜んでくれればいいや、なんて思う。
夕食のメニューはもう決まっている。ハンバーグに温野菜を添えたものと、ほうれん草の胡麻和え、ひじきの煮物、水菜と大根とトマトのサラダ、お味噌汁、白いご飯。それと、デザート(?)と言うか、バレンタインのチョコレートとして、ビターチョコレートを使ってトリュフを作る予定だ。
それに、できれば部屋の掃除もしたい。
崇が帰ってくるのは、きっと七時くらいになる。今日は残業しないって言ってくれてるから、会社の終わる時間から逆算して考えて、だいたいそのくらいになるはずだ。
それまで、あと六時間ほどある。全部終わらせるには十分な時間だ。
私は一人、微笑んだ。