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あさりに食われる

掲載日:2026/08/11

ゼロ円


 梅雨がいつの間にか明けた七月のある日、首元に垢が染みついた長袖ワイシャツを身に纏った海老名は本八幡駅で電車を降りる。汗で蒸れて酸っぱい匂いのするスマートウォッチを叩きつけて早足で改札を出た後は、人の流れに従って駅の出口を目指す。目の前には居酒屋、カラオケ店、コンビニが広がるが、海老名の目を釘付けにしたのは左前方に見える駅前大型パチンコ店である。新台入れ替えの広告が一面に飾られた壁に向かいながら傷だらけのスマートウォッチを確認する。時刻は九時二十分。抽選に参加するのにちょうど良い時間だ。新台に胸を踊らせながら抽選列に並ぶことを想像しつつパチンコ店を横切る。今日は公民館の前で海老名が働く英会話教室のチラシを配る日だ。八百メートルほど先にある公民館に向かって歩き、頭の中では抽選列に並んでいる。パチンカスの間ではよく言われることだが、パチンコ、パチスロを打つ時間よりも、抽選に並んでいる時間の方が楽しい。特に、戦いの一日を共にできる仲間と並ぶ時間は記憶の財産となる。友人が少ない海老名にも、一日中一緒にスロットを打てる友人が数名だけいる。さらに言うならば、海老名の数少ない友人は、漏れなく全員パチンカスである。

 このような暑い日の並びと言えば、エスと東千葉駅近くのホールに並んだことが思い出される。その店では立体駐車場に整列し、開店の二十分程前に抽選を受けることができる。エスは週に二、三回のペースでスロットを打つ生粋のパチンカスであり、設定判別などの知識では海老名を凌駕している。もっとも、海老名はスロットを打つ際は、設定がどうだ、期待値がどうだだのと、あれこれ考えることを良しとせず、目の前の演出を楽しむことに専念することが真摯な姿勢だとすら考えている節がある。整列中にエスはその日の熱さを様々なサイトで調べ上げる。海老名も新台についての情報を得たいのだが、スマホには格安シムが入っているため、このように数百人が整列している状況では満足にインターネットを利用することができない。手持ち無沙汰で、エスのスマホを覗き込み、「今日の作戦はどうしようか」などと声をかけ、雑な返事を得る。このような思い出が、今の海老名にとってはたまらなく恋しい。

 公民館についた海老名は入り口前の段差に座り、時計を確認する。公民館に申告している時間まで二十分ほどある。もう開館時間は過ぎているので、約束の時間よりも多少早く受付へ行き、ビラ配りを始めても問題はなかろうが、受付の人に少しでも嫌な顔をされたらどうしようという不安が頭をよぎり、座って待つことを決める。スマホアプリの「やることリスト」を開く。ビラ配りの後も本日中にこなさなければならない細かな仕事がいくつもあり、憂鬱な気分になる。スロットを打ちたいと思う。沈んだ気持ちを潜めながら受付に声をかけた後、ビラ配りを始める。道行く人に声をかけながらビラを配るが、受け取ってくれるのはほんの一握りだ。職場からは百部のビラを持ってきており、このうちの五十部を配り切ることが午前中のノルマである。ノルマと言っても、これを達成できたかどうかはいくらでも誤魔化しがきくものであり、仮にサボってスロットを打っていたところで、何食わぬ顔で教室に戻れば誰も海老名の不正には気がつかないだろう。しかし海老名にはそのような大胆な不正をする度胸はなく、また真面目というキャラによってなんとか職場内での居場所を確保できている海老名にとって、そのような不正を糾弾されることは耐えがたい。

 ビラ配りの途中、明るい短髪の中年女性から「そちらの教室で教えてくださるのはアメリカ英語ですか?それともイギリス英語ですか?」といった質問をされた。咄嗟の質問に「いやあ。難しいですね。ネイティブ講師にはアメリカ人もイギリス人もいますが、、」と歯切れの悪い答えを返す海老名。中年女性は不服そうに帰っていく。公民館の前を通る人を眺めながら、頭の中で振り返る。「そもそもアメリカ英語、イギリス英語の違いというのは文法面ではほとんどなくてですね、我々は全ての英語に通用する基礎をお教えしているんですよ。」「現在、英語は世界中で話されていましてね、アメリカ人、イギリス人、日本人、様々な講師の英語に触れることで、世界中で共通する英語を身につけていただきたいと考えているんですよ。」落ち着いて考えると良い返事はいくらでも思い浮かぶ。思考に時間を要する海老名は、昔から会話の中で良い返しができず、後から振り返って後悔することがある。この英会話教室で働いて七年目になるが、コミュニケーションを教える立場である自分が、コミュニケーションに難を持っていることを自覚するたびに惨めな気持ちになる。「レア役引きてぇ」現実逃避に耽ると独り言が出る。今の独り言、聞かれてないかな。少し不安になる。

 余計なことで頭を埋め尽くしながらも、なんとか六十部のビラを配り終え、十二時半ごろに帰路に着く。大して重要でないノルマであるとはわかっていても、やはり達成できると嬉しいもので、自分の成長を感じながら教室へ向かう。再度駅前のパチンコ店を目にしたが、打ちたいという気持ちはかなり小さかった。パチンコ、パチスロなどとはしばらく距離を置き、社会人としての自己研鑽に時間を使いたいと考えながら教室へ向かう。猛暑の中で立ち続けたせいか、食欲は湧かず、教室のウォーターサーバーの冷えた水を飲むことが楽しみだった。頭の中で本日のやることリストを整理する。教室に着いた後、水を飲み干し、教室長にビラ配りを報告。その後、教材を整備してシニアクラス、ジュニアクラスを指導。三件程度個別レッスンをした後、夏の入会キャンペーンのビラ作成。最後にジュニアクラスの保護者への指導報告連絡だ。入職当初は全ての業務にとにかく時間を要していたが、今は淡々と終わらせる業務とこだわりを持って時間をかける業務の区別がつけられるようになってきた。そう考えながら軽やかな足取りで教室に着いた。

 業務はだいたい計画通りに進んだ。教室長には「ビラ配りに行って参りました。六十部配れました。」といかにも褒めてほしそうに報告したため、「ノルマ達成、ありがとうございます!」と言っていただけた。自分のペースで教材作成を数時間した後、レッスンのために教室へ行く。シニアクラスのレッスンは平和に終わり、いつも通り受講生の方々に励まされた。その元気を持って臨んだジュニアクラスでは、子どもたちの残酷な正直さに自信を打ち砕かれた。レッスンの始め、海老名はいつも全力の明るさで「ハロー!エヴリワン!」と挨拶をする。この日も、わざとらしいくらい舌を歯に押し付けながらハローを発音した。「ハロー。。ミスターエビナ。。」気だるそうな返事が返ってくる。教室の中には十数人の小学生がいるはずなのに、三人くらいの声しか聞こえなかった。遅刻ギリギリで急いで自転車を漕ぎ、汗だくの子、スマホを教室長に没収されて不機嫌な子、大きな声を出すのが苦手な子などがいて、教室全体の雰囲気もどんよりとしている。今日はダメな日だ。レッスン開始十秒で察した。この英会話教室ではネイティブ講師が実践的な英会話指導を担当し、海老名が読解や文法の指導をしている。文法と言ってもあくまで英会話教室であるので、日本語、英語を交えながらアウトプット中心の指導をするのがこの教室の、あるいは海老名のスタイルである。「ハウズザウェザー?」精一杯明るさを振り絞った問いかけに暗い返事が返ってくる。子どもたちは喋るのが面倒なので、プリントを穴埋めして九十分を乗り切りたいと考えていることが伺える。「プリーズハヴァルックアットディスハンドアウト」それでもスタイルを変えない。これは海老名のプロ意識ゆえなのか、それとも単に臨機応変に教え方を変えられないためか、はたまた子どもたちのニーズに合わせて淡々とレッスンを進めている姿を教室長に見られた際の気まずさを恐れてなのか、海老名にもわからない。個別レッスンを終えたミスタージョーンズが教室を覗いているのが目に入る。途端に自分の英語に自信がなくなり、日本語で指導をする。

 気がつけば二十二時を迎え、帰る前のルーティンである教室のゴミ集めをしている。教室内に捨てられた紙くずと講師室の様々なゴミを集めると、ちょうどゴミ袋の半分が満たされる。元々は教室長がやっていたことだが、いつの間にか海老名の習慣になっていた。画面を前に一人残る教室長に挨拶をし、教室を出る。夜の本八幡駅前は居酒屋、カラオケ店の看板に照らされている。その中でも一際海老名の目を引くのは例のパチンコ店である。閉店間際であるため、実践を終えたパチンカスたちがぞろぞろと店から出てくる。彼らが向かう先には景品買取所があり、大学生らしき五人組がはしゃいでいる。「ワンチャンまくりじゃね?」「まじ?」「等価なのデケー!」「最後の上位エグすぎ!」大きな声で騒ぐ彼らを、負けたパチンカスたちは鬱陶しく思っているだろう。また、懸命に働いた後のサラリーマンたちは馬鹿らしいと蔑んでいるだろう。しかし海老名は彼らに羨ましさを抱いていることを素直に認めている。パチンコパチスロで勝ったこと、その喜びを分かち合える仲間がいること、海老名にとって涙が出るほど恋しいものである。パチンコ店の自動ドアの前に立ち、店から爆音が聞こえる。店内には気難しい顔でパチンコを打つ中年男性がちらほらと見える。打たなかったから今日の収支はプラマイゼロ。そう思いながら駅に向かった。


 マイナス十万


 二ヶ月間渇望していたお盆休みがやってきた。「世間一般では実家に帰省する日のようだが、普段から実家に寄生している自分にとってはただの小連休だ」毎年この時期になると言いたくなる、海老名の渾身のギャグである。もっとも、これを披露できる相手はおらず、また二十九歳で実家に住んでいることに後ろめたさを抱いている海老名が、自分からそれを明かすような発言をするわけがない。仕事へ行き、家に帰りそして寝るだけ。この生活を繰り返す海老名にとって連休が楽しみで仕方がなかった。もっとも、ここ数年は連休までに仕事を消化し切ることができず、連休中も仕事を持ち帰る必要があったり、仕事のことを考えることで憂鬱になったりすることもある。休みの初日はひたすら一巻無料の漫画を読み漁った。パチンコパチスロ以外に趣味を持たず、普段は職場と自宅を往復するだけの海老名は自然と金が溜まっていて、漫画を買うくらいわけがないのだが、この後のスロットに向けて一円でも節約したいと思うのだ。

 夜になると電車に乗り、品川にあるマリファナの家へ向かう。駅から十五分くらい歩くと薄暗い住宅街があり、その真ん中に四階建てのマンションがある。その最上階にマリファナは住んでいる。家賃は九万円で、浪費家のマリファナはギリギリ食い繋いでいる。マリファナという名前の由来は、かなり前、二人が社会人になりたての頃に彼がこの部屋でマリファナをキメていたからである。海老名が到着すると、実家から送られてきたというホルモンを焼き、即席のご飯をチンしてくれる。また「今日も洗濯ある?俺の分を回すからあったら今お願い」と、慣れた流れで海老名をもてなしてくれる。マリファナという名前で借金もあるくせに海老名よりもずっと自立して見える。その後は飯を食いながら二人でスロットの動画を見る。「うわー、この台ほんと爆発力えぐいな」「明日この台いっちゃう?」「いやー、今から緊張するね。でも俺たちならここでリプレイ引けると思うわ。なんならレア役。」マリファナとスロットを打つ前日のこの会話が心地よい。たとえ明日、十万、二十万円と勝ったところで生活が変わるわけではない。いや、貯金がほぼゼロで借金もあるマリファナにとっては死活問題なのだろう。ただ、実家寄生社会人を長いこと続けている海老名にとっては貯金の一部が変動するだけだ。ほんの些細な変化。そのはずなのに明日の勝ちを想像すると心が躍る。中学生の時の、スタメンとして初めて試合に出られる練習試合の前日のような、もしくは大学生の時、英語の解説動画をティックトックにアップしてみた時のような、これから何かが変わるかもしれないという期待。職場ではこの感覚を久しく感じていない。マリファナのベッドの横に敷いた布団に横になる。マリファナはすぐに眠りに落ちたようだが、海老名は目を瞑りながら懐古に耽っている。中学で夢中になっていたバレーボールも高校ではすぐにやめてしまった。大学生になって様々な解説動画をアップし、コメントももらっていたが、社会人になって空き時間に動画を作るのが億劫になりやめてしまった。そんな人生だった。急に、中学の卒業式に送った、当時よりを戻したかった元カノに送った、ワンチャンを狙うメッセージの内容を思い出し、恥ずかしさのあまり目を開く。あんなメッセージ、もう忘れられているだろう。自分さえ忘れれば、なかったことと同義だ。そう自分に言い聞かせ、目を閉じて回想から逃げるように、明日のスロットのことを考える。チャンスゾーンでレア役を引いて、隣のマリファナにドヤ顔を披露することを考える。

 翌朝、アラームの音で不機嫌になりながら起きる。低血圧気味の海老名は、朝はいつも調子が悪い。うつ伏せで眠っているマリファナの尻を八割程度の力で叩き、起こす。ほとんど無言で、行きの電車の時間を確認する会話のみを交わして支度をする。余裕を持って家を出られるように計算してアラームをかけているのだが、出発の時は結局いつも小走りをすることになる。昔から腹が弱い海老名は、毎朝十分強トイレに篭ることがルーティンだが、友人の家ではこれができず、終始屁を我慢するような不快感を持ったままマリファナと駅へ向かう。川崎行きの東海道線は、人権を剥奪されたと思うほど混んでいる。自分の汗と隣のおじさんの汗が触れる気持ち悪さを感じながら屁を我慢する。川崎に着き、いつもの改札口から出て、パチンコ屋にいくまでは二人とも無言だった。

 この日は駅から歩いて五分程度のところにある中型店の抽選に並ぶ。三百人くらいが並んでいて、海老名とマリファナよりも若く見える人が多い。「今日は来店演者的にけっこう熱いよな!」「昨日七千枚出しちゃってさ、マジエグかったわ!」聞こえてくる会話はスロットについてばかりだ。朝の不機嫌と電車でのストレスが重なった海老名とマリファナは言葉を発さない。些細なことで口論になりやすい関係の二人にとって、これが平和に一日を終える術であるとわかっているのだ。九時四十分になり、先頭に並んでいる人から抽選のボタンを押し、整理券を受け取る。マリファナが百二十番、海老名は二百十五番だった。スロットを打てることに対して、やっと胸の高まりが始まり、二人はこれから打つ台を話し合う。海老名は相変わらず格安シムのため繋がらないので、無制限プランに加入しているマリファナのスマホで店の台を調べる。抽選で決まった番号での再整列の後、客は一列になって店内に入る。隣を通る中学生くらいに見える三人組が不思議そうな目でこちらを見ている視線が辛い。教え子と会うリスクがないことが川崎まで遠出してきたことの最大の利点だ。マリファナが先に入店し、メッセージで台の埋まり状況を教えてくれる。設定狙いについてうるさく、それが楽しみでこの店を選んだマリファナだが、海老名と並びで打つことを優先してくれるようだ。先に入店したマリファナは、あえて人気が下火になっている台で両サイドが空いているものを確保し、海老名を待ってくれていた。遅れて入店した海老名も無事着席し、二人の実践が始まった。

 最初の当たりまでほとんど会話がなかった。チャンスゾーンにいる時もお互いの台をチラリと見るだけだった。「おお、初当たり早かったな」「いやー、ここで伸ばして持ちメダルを作りたいね」開始から二十分が経ち、海老名が当てた時にやっとまともな会話が交わされた。この距離感が心地よい。かつて様々な友人とスロットを打ったが、そろそろ飽きてきたのではないかであったり、軍資金切れでやめたいのではないかであったりと、あれこれ考えながら打つ必要があり、自分の台に集中できなかったことを思い出す。軽い当たりを引いてはショボく終わるということを繰り返し、十四時になる頃には二人でマイナス六万円だった。マリファナが当たりを伸ばしていて、海老名が当たりをまた引き当てたタイミングで、「いったん飯いくか」マリファナが声をかける。台に休憩札をたてて、二人は油そば屋に向かう。マリファナが確認することなくダブル盛りの食券を買う。大学生の時からパチンコ、パチスロを打つ際はこの油そば屋で飯を食っている。大学生の時は食後にまだ物足りなさがあったが、今回は最後の二口を食べる前に満腹になり、水を飲みながら無理矢理平らげた。二人は握手を交わし、「午後、捲ろう。マジでやろう!」いつものやりとりをする。昔はこれをやるだけで流れが変わるような気が、本気でしていた。テーブルを布巾で丁寧に拭き、コップの水を氷ごと飲み干し、「ご馳走様でした!」やや体育会系なあいさつをして店を出る。

 午後も同じような展開が続いた。途中、あと一歩で上位の当たりに突入し、それまでの負けを一気に取り戻せるかもしれないチャンスもあったが、途端にヒキが悪くなりダメだった。閉店の一時間くらい前のキリの良いタイミングで二人とも実践をやめた。昔はムキになって閉店ギリギリまで打つこともあったが、閉店直前に当たり、消化し切る前に閉店時間を迎えるというリスクを回避するためにはここでやめなければならない。二人で十万負けが確定した。収支を折半するノリ打ちではあるが、もちろんマリファナには現金がないため、この十万円は海老名の口座から負担し、マリファナに「借金五万追加、計百十万」と送る。「マジ、節約して返せよな」「ほんと、今月から節約生活始めます」お決まりの会話を交わす。川崎駅のエスカレーター下で「スロットやめるか」「今回はマジでやめようかね。新しい趣味が欲しいよね。筋トレ?」この会話も百回しているのではないだろうか。

 マリファナと分かれた後、電車内でその日のマイナス分を家計簿アプリに入力する。アプリには普段買ったジュースやパン、文房具の値段が一円単位で記録されている。そこにマイナス五万円を打ち込むと、今まで百数十円のジュースを我慢したり、値引きのパンを選んだりしていたことがバカらしく思えてくる。そもそも貯金をする意味があるのかとすら疑ってしまう。実家暮らしのおかげで、毎月十万円近く貯金できているが、仕事をやめられるほどの蓄えができるのは数十年後であり、この貯金が人生をどう豊かにしてくれるのかがわからなくなる。考えるのが嫌になり、今日打ったスロットの、外してしまった上位の当たりの演出を調べながら駅に着くのを待つ。

 

 プラス十七万


 この日は休日出勤であったが、仕事が十七時ほどに終わったため、眼鏡屋に向かった。目的は新しい眼鏡の購入と、レンズが傷ついたもののレンズ交換だ。レジでドタバタしないように、アプリの会員証や支払い用の決済アプリを事前に立ち上げておく。もちろん、この店でどの種類の決済が可能であるかも予習済みだ。店員さんと一通りのやりとりを終えた後、新しい眼鏡を受け取るまで一時間待つ必要があると言われた。この待機時間を良い口実に、海老名は真っ直ぐパチンコ屋へ向かった。口実といっても、誰から責められるというわけではないのだが、一人でパチンコ、パチスロを打つようになったらいよいよ本当にまずいと思っているため、今回はあくまで時間潰しだという自分への言い訳である。

 名前だけは聞いていた新台に座り、手元にあった一万八千円を軍資金として打ち始める。開始十五分、四千円がなくなろうとした頃にこの日初の当たりを引いた。チャンスゾーン中に小役を引く必要があったのだが、この日は面白いくらいに引きたい時に役を引くことができ、一番良い当たり方をすることができた。気がついたら千枚程出て、やめるのにちょうど良いタイミングだ。期待値で考えるならば、ここでやめるのがベストだ。しかし、流れが来ている気がしたため、「たぶん、まだやめ時でないし、次の当たりまで回すのがわかりやすいと思う。パチンカスだから続けるわけではない。」とまたもや自分への言い訳をする。普段は「流れ」のような非科学的なことは一切信じず、占いや風水のようなものは馬鹿が信仰するものだと思っている海老名だが、スロットを打つ時だけはこれらを信じたくなる。当たりを目指して通常時を回している最中に眼鏡屋から呼び出しのメッセージが届く。スロット台に休憩札を立てて、駆け足で眼鏡屋に行き、見え方の確認の質問に全て「はい」と答え、急いでホールに戻る。休憩札があれば十分程度の離席は問題なく、誰かに台を横取りされたなんていう経験はないのだが、現実世界から早くスロットの世界に戻りたかった。

 台に戻り、三百五十枚ほどメダルを使ったところで再度当たった。この時も神様のお導きを感じるくらいに引くべき役を引くことができた。上位の当たりに突入した時や、一撃で三百ゲームを上乗せたときは台の写真を撮ってマリファナに送った。日曜は職場、大学、趣味のバレーボールと様々なコミュニティの人たちと飲みに行っているマリファナだが、「ええええ!やっば!」「引き強すぎ笑笑」と、逐一丁寧に返信してくれた。擬似的にマリファナと一緒に打っている気分になり楽しさが上乗せされた。「めっちゃ勝ったらマリファナにも金恵むわ!」「もうすぐ十万勝ち!十万超えた分は全部あげる!」意気揚々とメッセージを送る。二人の大学生時代、一緒にやっていたオンラインゲームで戦績をあげた時、そのスクリーンショットをマリファナに送ったのを思い出す。その時も「おおお、すげえ笑」と逐一リアクションをくれた。

 十九時半ごろに引いた当たりだが、気がついた頃には二十一時五十分になっていて、七千枚出ていた。そろそろ閉店時間も心配になり、演出も見ずにひたすら回し続けた。それでも当たりは終わらなかった。二十二時三十分、周りの客もほとんど店を出た頃に海老名の当たりが終わった。リザルト画面には八千二百枚と表示されている。海老名の人生で最高の勝ち額である。ボケっとしていたらこの当たりを没収されてしまうような気がして、急ぐようにメダルが入ったカードを受付に持って行く。「すごいですね!どの台で出したんですか?明日は当店の周年記念日なのでぜひまたお越しください」店員さんが元気な声をかけながら景品を手渡してくれる。「そうなんですね!時間あれば来ます。」翌日は仕事なので来店するという選択肢はない。景品を現金に替え、十七万円を入れたポーチを固く握りしめながらコンビニへ向かう。ネット銀行に現金を入れて、アプリの残高に反映された時、やっとこの日の勝ちが実感できた。翌日の仕事に備えるために、足早に駅に向かう。普段は二十二時半には寝ているため、いつもより睡眠時間が一時間半ほど減ってしまう。それでも明日は頑張れる気がした。電車内でマリファナに七万円を送金し、「世界で一番尊敬しているのは誰だ?」「海老名さんです」お決まりのやり取りを交わした。


 プラス五百円


 まだまだ寒さが続く一月。新小岩駅を目指して電車に揺られる海老名は苛立っている。約三ヶ月ぶりにエスとスロットを打てる日だった。この日は二人がよく行くパチンコ屋のそこそこ熱い日で、六百人ほどが抽選に参加すると予想していた。この店のシステムでは、朝の九時三十分にアプリで抽選があり、九時五十分ごろから整列が始まる。前日から電車を調べ、余裕を持って家を出発したのだが、あろうことか逆方向の電車に乗ってしまった。二十分ほど余裕を持っていたため、すぐに気づけばまだ間に合うはずだった。しかし、普段の電車通勤の慣れのせいで車内のアナウンスを聞くことも一切なく、エスとの連絡と、スマホでスロットの新台情報を得ることに没頭していた。逆方向の電車に乗って十分ほど経った後で間違いに気づき、慌てて電車を降りた。折り返しの電車の時間を調べたところ、九時四十七分に目的の駅に着くことがわかった。「まだ間に合うかもしれない」希望と不安が入り乱れた心境でエスに連絡をする。深呼吸をして焦る気持ちを抑えていると、アプリで抽選を受けられる時間であることに気づいた。こういう時は後ろの方の番号が良い。後ろの方が、番号が呼ばれるのが後になり、整列時に不在で抽選が無効になるリスクが軽減される。祈りながらアプリを開き、抽選を受ける。スロットが回る、安っぽい演出で番号が知らされる。百九十六番。絶妙に良い番号で、今の海老名にとっては不運を伝える数字だ。おそらく、九時五十二分ごろに海老名の番号が呼ばれて、その時に店の前にいなければ無効となってしまう。

 乗り換えの際も走って移動し、順調に電車に乗れた。頭の中では駅についてからパチンコ屋に向かうまでの道筋を想像している。改札周辺は混んでいるので、人にぶつからないようにだけ気をつけようと考える。目的の駅にあと五分で着くという時に、突然電車が止まる。安全確認のために一時的に電車を止めたとのアナウンスが流れた。海老名は泣き出したい気持ちになる。「一分の遅延なら駅からダッシュでパチンコ屋に行けば間に合う」頭の中でシミュレーションを繰り返す。一分が経った後、悲しみは苛立ちに変わった。電車は三分後に再出発した。ドアの前で足首の柔軟運動をし、ダッシュに備える。電車のドアが開くと同時に走り、一直線にパチンコ屋の整列場所に向かう。「百九十番、百九十一番、、」店員さんが客を呼び出して整列させていた。ちょうど、海老名の数番前までが呼び出されていた。強烈な安堵感に包まれる。大学二年生の時の成績を確認した時のことを思い出す。その時は複数の科目で課題提出が遅れていて、何単位か落とすことを覚悟していた。しかし、すべての単位を取れていたのだ。自分の権利を死守するかのように、横三列の並び列に、隣の人にややくっつくように並ぶ。周りをキョロキョロと見回して安全を確認した後、エスからのメッセージを確認する。「そろそろ整列が始まる」「間に合いそう?」「百番台に入ったわ(泣)」自分のことを心配してメッセージを送り続けてくれたエスの優しさを噛み締める。エスの番号は二百七十三番だった。

 開店時間である十時を迎えると、待機の三列は一直線になって店内に案内される。パチンコ屋の横から、正面の自動ドアに向かう際、駅から出てきたスーツ姿の人や、オシャレな格好の若者とすれ違う。思わず、自動ドアにうっすらと映る自身の身なりを確認する。寝癖を直しただけの髪型に黒縁メガネ、ダウンジャケットに、いつ買ったかも覚えていないズボン、穴があきかけたスニーカーである。買った当初は気に入っていた黒縁メガネも、すごくダサい気がしてくる。恥ずかしい。早足で店内に入り、台を探す。アプリで引いた百九十二番から、不在者の分が繰り上げられ、百五十四番目の入店となった。スロットを打つことはできるが、新台や人気台に座れるかはわからない、絶妙な番号である。海老名にとっての第二希望の機種が一台空いていた。第一希望の台を確認しに行っている間にこの台が取られる可能性が高い。第一希望の台はここから二列先なので、行って戻ってくる間に二十人くらいが入店するはずだ。そうなると、かなりの台が埋まってしまう。こんなことを二秒間で考え、結局、第二希望の台に腰を下ろした。再び安堵感に包まれる。数分前まで感じていた恥じらいはすっかりと消えていた。さっそく打ち始めようと思った時、またしても不安に立ち戻る。お金がないのだ。本来なら二十分ほど余裕を持って到着する予定だったため、駅前のコンビニ銀行で七万ほど下ろす予定だった。今から立ってコンビニへ行くと、確保した台は無効となる。台から動くことができない。しかしこのまま座り続けていても、不正な台確保とみなされて注意を受けることになる。店員が後ろを通った時、リュックの中の財布を探しているフリをした。中学生の時にソフトテニスコートの柵を飛び越えようとして折り、先生にバレるのではと怯えていたことを思い出す。この状況を打破する方法はただ一つで、エスから金を借りることだ。エスとは大学で知り合った。同じ学科に男子が少なかったということもあり、大学内ではほとんどの時間を共にした。昼休みによくスマホゲームをしながらカップラーメンを食べた。大学四年生になってからはよく一緒に一円パチンコを打った。大らかな性格のエスは海老名のたわいもない話をいつも小さく笑いながら聞いてくれる。海老名が金を貸してほしいと言えば、嫌な顔ひとつせず貸してくれることは予想できていた。もし逆の状況で、海老名に現金があったならばエスに金を貸すことは少しも嫌でないし、むしろエスを助けられることを嬉しく思うだろう。ここまで考えていながら、エスにお金を貸してほしいと言い出せない。この気の弱さのために何度、もどかしい思いをしたかわからない。自分よりも悪い番号を引き、おそらく希望の台を取れないであろうエスに、入店してすぐに金を貸してほしいとは言い出せないのだ。「台取れた?マジごめんなんだけどさ、お金下ろし忘れちゃって、いったん一万だけ貸してくれない?」「台どう?いったん1万借りて良い?笑すぐ返す!」メッセージを打っては消すことを繰り返す。メッセージを打ち直していると、「ギリギリスロットには座れたわ!」エスからのメッセージが届いた。早足でエスが座っている台に行き、「台取れたのナイス!そういえば金下ろし忘れたわ!飯の時に返すから一旦ちょっと借りて良い?」一呼吸も置くことなく早口で言い切る。「おお。良いよ」エスは札束が入った財布から一万円を取り出し、海老名に手渡した。駆け足で自分の台に戻った海老名は、速やかに一万円をサンドに差し込み、流れ作業のように三十ゲームほど回す。この日初めてのレア役を引いたところで、やっと安堵感を味わった。

 この日打った台は新台で、ある程度の情報はインターネットで見ていたものの、実際に打つのは初めての台だった。当たり自体は軽いが伸ばすのが難しいタイプの台。前兆が何度も外れ、投資が七千円になった頃、その日初のチャンスゾーンを引き当て、無事に突破できた。あとはレア役を引いて伸ばすのみ。一打一打が楽しい。スロットはレバーを叩いた瞬間に役が抽選される。運に任せるしかないことではあるが、ここぞという時は目を瞑って第六感的なタイミングに任せてレバーを叩く。はるか昔にそれで上手くいった試しがあるので、条件付けされたネズミのように過去の成功の再現を試みるのだ。合理的に考えればこんなことは馬鹿げているなんてことはもちろん承知の上で、意識的にスロットに没頭する。これが海老名流の楽しみ方である。ここぞというタイミングでは引けなかったものの、レア役のおかげで当たりはそこそこ伸びて五百枚ほど出たところで当たりが終了した。その後は軽い当たりを引いてはショボい結果で終わるということを繰り返し、昼になり、エスとメッセージで昼食休憩に行くことを決めた。この時点で五千円ほど勝っていた。

 スロットの島の端っこでエスと落ち合う。店内は非常にうるさく、お互いに何を言っているかわからないが、会話をするまでもなく一緒に出口に向かう。「牛丼で良い?」「おう。いったん牛丼ね。勝ったら焼肉いこ!」パチンコ屋を出ると、何回したかわからない会話をしながら歩いて二分の牛丼屋に行く。エスも海老名も、一番安い牛丼の中盛りを頼む。ここではできるだけ出費をしたくないのだ。「エスはどう?勝ってる?」「いやー。挙動は良いんだけど、引きがクソすぎて伸ばせないわ。今のところ三万負けくらい。」「マジかー。まあ三万なら全然捲れるよね。高設定ワンチャンある?」「示唆は出てるけど、まああって四かなー」三ヶ月ぶりに会った二人だが、会話はスロットについてのみである。お互いの近況報告などは不要だ。聞かずとも、お互い大きな変化がなく、安定しているがつまらない、そしてそこそこに辛い生活をしているのは十分にわかりあっている。体育会系上がりのエスはいつも飯を素早く平らげ、海老名が食べている間はスロットの設定判別を調べている。「じゃあ行きますかー」滞在時間十分ほどで牛丼屋を出てパチンコ屋に戻る。また別行動で、元々打っていた台に戻る。海老名は残り五百枚強のメダルと七千円の残金で再び打ち始める。早めに当たってショボく終わり、少しだけメダルが減った。いつもの海老名ならばここでやめるという選択肢はなく、閉店まで全ツッパが当たり前である。しかしこの日は「今辞めれば約プラス五千円」「交通費を引くと約四千円。負けたエスへの慰めで油そばを奢れば約二千円。エスが実践を終える二十二時ごろまで千五百円ほどで時間を潰せば、手元に五百円が残る!」「千五百円で遊べば良いのか。ネットカフェで漫画も良いし、カフェでゆっくり読書というのもやってみたかった」スロット台を前に約八時間の過ごし方を想像する。勇気を持って退店し、残金七千円を回収し、メダルを八千円に交換した。エスに一万円を持っていき、「ちょっと挙動が悪いから、この店と、歩いてちょっとの店でハイエナしてみるわ!」と伝える。素直に「勝ち確で今日は終わるわ!」とは言えない。あくまで、同じ土俵で戦い続けているという体裁にしておきたい。「おっけ。俺もいまマイナス五万くらいだけどお互い頑張ろ!」エスからの返事に安心する。

 エスになんとなく後ろめたさを抱きながら店を後にし、新小岩駅前の商店街を歩く。勝利を確定させ、無敵になった気分だ。前方右に小さな書店が見える。頭の中で練っていた、本を買ってカフェで読むという計画を実行に移せると気づいた。書店の入り口には、おそらく流行っているのであろう、人気のありそうな本が並んでいる。しかし、本屋になど年に一度くらいしか行かない海老名はどの本にも馴染みがない。店頭の本を適当に一冊買おうと思い値段を見たところ、千円以上のものが多い。「いやいや、本とカフェ代を合わせて千五百円やねん」おもしろ系ユーチューバーになったつもりで小さくつぶやく。なんでも良いので五百円以下の本が欲しい。パチンコ、スロットには平気で万札を何枚も投入する海老名だが、日常の出費には非常に神経質で、予算内に収めるために何度も頭の中で考える。その過程自体が好きなのだ。今回も予算千五百円の中で本を買ってカフェで時間を潰す、この実行自体に快感を見出そうとしている。名作文学の文庫本コーナーに行き、その中でも安いものを探す。五百円を下回る本はなかなかない。本を取り出し、値段だけを見て棚に戻すことを繰り返していると、ヘミングウェイの『老人と海』が三百九十円で売られているのを見つけた。大学で英文学をかじった海老名は、この作品の一節を英語で読んだこともあるため、少しばかりの親近感もあって、この本を購入した。エスのいるパチンコ屋の方向に向かって歩き、途中のカフェに入る。コーヒーが大して好きでない海老名は抹茶ラテを注文して、二十人くらいが座れる大テーブルに腰掛ける。隣には大学生と思われる女性が英語を勉強している。自身の大学時代を思い出す。勉学に打ち込むわけでもなく、趣味に没頭するわけでもなく、そして友人と遊び呆けるわけでもなかった無の生活だったと振り返り、寂しさに襲われる。かろうじて、エスのような友人に恵まれ、今も関係が続いていることが唯一の救いであるとも思えてくる。スロットで十万円負けた日の最後に打ったパチンコの三回転目で当たり、二万円だけ回復した時のような、小さいようで、それ一つで結果オーライと思わせてくれる力を秘めた救いだ。そう思いながら、『老人と海』の一ページ目を開く。一ページあたりの文字数はそんなに多くなく、ページ数も少ないので読み切れてしまいそうだと思う。最後に本を一冊読み切ったのは、浪人生の時に本屋で自己啓発本を丸々一冊立ち読みした時だ。読書については、「楽しさを得るためならばゲームやパチンコ、漫画の方がずっと良いし、知識を得るためだったら参考書や動画で勉強した方が良い」と中学生の時から考えていて、人生について考える時間が存分にあった浪人生の時くらいしか本を読まなかったのだ。高校生の時に好きな現代文の先生に勧められて小説を読もうとした時もあったが、最初の二十ページあたりで断念したことも覚えている。今回も『老人と海』の三十ページあたりで飽きてきた。しかし、今回はスロットの勝利を噛み締めながら、カフェで優雅に読書をすることそれ自体が目的であるため、もう少し頑張って読み進めることに決めた。五十ページを過ぎたあたりから面白くなってきて、八十ページくらいまでノーストップで読んだ。作中の力強い描写を味わいつつも、ページを捲る最大の原動力は、カフェで読書をしている自身への陶酔であり、この時間もスロットを打っているエスへの優越感すら抱いていた。インターネットでエスが打っている台の状況を確認する。マイナス四千枚になっている。この台を打っているのは朝からずっとエスであるため、これがそのままエスの負け額だ。数少ない友人が十万円を失っている状況であるにも関わらず、この後で油そばを奢ることを免罪符とし、エスの負け額を眺めながら自身は優雅に読書をしているのである。カフェに三時間ほど滞在した後、さすがに飽きてきたため再度パチンコ屋に行き、エスの台を覗き込む。「どう?」「設定は良さそうなんだけどなー。でも十万いかれてるわ」「まじか。俺もハイエナできる台なくて彷徨ってたわ」エスの負け額をここで初めて知ったことにする。「俺ももう少しハイエナするけど、エスがやめるタイミングで俺もやめるわ!飯いこうぜ!」そう言い残してパチンコ屋を出て、次はハンバーガー店で二百五十円のラテを買い、『老人と海』とエスの台データを交互に見ながら夜を待った。結局、この日エスは十四万円負けた。生活に困窮するレベルではないだろうが、しかしダメージの大きさは想像するだけで苦しくなるため、エスの気持ちを想像することはやめてしまった。「ネットで調べたらさ、超美味しそうな油そば見つけたわ!奢るから行こ!」わざとらしく明るい声をかける。雰囲気を変えたかったのと、一人千円の予算に収まる油そば屋に誘導したかったのだ。油そば屋では思い出したかのように近況報告をした。といっても、お互い仕事の愚痴ばかりである。また帰りの電車ではスロットの話をする。この日から海老名は定期的に小説を読むようになった。


 マイナス十二万


 この年のゴールデンウィークは珍しく三連休を取ることが出来た。成田空港行きの電車内で海老名はパスポート、ポーチ、モバイルバッテリーがバッグに入っていることを何度も確認する。これから大学時代の先輩であるケイさんと二泊三日の韓国旅行に行くのだ。旅行と言っても目的は一つで、仁川国際空港近辺にあるカジノに行くのだ。一週間前に突然電話がかかってきて、連休中の予定を尋ねられた。ケイさんは年に二度ほど、突然海老名に電話をかけては近況報告を求めたり、飲みに誘ったりしてくる。本来なら相手の都合を考えずに突然電話をかけることは失礼であると考えている海老名だが、ケイさんからの誘いは嬉しく、いつも長話をしてしまう。ここ最近海外に行ってみたいと考えていたようで、英会話講師の海老名なら飛行機やホテルの手配も上手なのではないかと考えたようだ。海老名は紛うことなきパチンカスであり、ケイさんも昔スロットをよく打っていたことは知っていたので、カジノに行ってみたいということになり、海老名の限られた休日で行ける場所を考えて韓国になったのだ。電話の後、その日のうちにホテルと航空券を予約した。

 ケイさんと会うのは一年ぶりなので、第一声でどんな声をかけるかや、その後の話題も念入りに考えた。成田空港で会ったケイさんは白い半袖にワイドパンツを履いていて、初対面の時と変わらないほど若々しかった。「久しぶり〜」ケイさんから声をかけてくれた。「久しぶりですね!飛行機、こっちみたいです!」元気に返事をする。「ごめんごめん、先に一服して良い?」タバコを吸わない海老名だが、喫煙所までケイさんについていく。ケイさんが電子タバコを吸っている間、話しかけるべきなのか迷う。「なんか緊張してる?笑」言われたくないと思っていたことを言われてしまった。「あれ、そんな風に見えます?」苦し紛れの返事をした。

 出国手続きを済ませ、搭乗時間を待つ時間はカフェで過ごした。ケイさんは当たり前のように奢ってくれた。打ちたいと思っているカジノスロットやバカラの話、家業の話など、ケイさんの口は止まらなかった。ケイさんは資産家の家系の長男で、家業を継いで、何やら難しそうな仕事をしている。二人で飲んでいる時に商談の電話がかかってきて内容が聞こえてきたことも何度かある。それに比べて海老名は大学生の時にアルバイトで入った英会話教室で正社員になり、室長から言われた通りにレッスンと広報活動をしている。普段はやりがいを持って取り組んでいる仕事だが、ケイさんの前では簡単でつまらない仕事のように思えてくる。ケイさんの語りは止まらず、相槌を打つだけでやっとだ。しかし、海老名に話のターンが回ってこないことに安心を覚えた。

 飛行機に乗ると、二人はカジノスロットの話で盛り上がる。「とりあえず軍資金で十万円下ろしてきたんですけど、どれくらい持ちますかねー。今日一日遊べると良いなー」という海老名に対し、「そんな弱気なの?俺はジャックポット引くつもりだよ。ジャックポットってたぶん、百万とか、一千万円くらい出るからさ、そしたら日本に帰ってきた時に銀座のクラブとか連れて行ってやるよ。」全く根拠のない自信だろうが、この発言ができること自体が羨ましい。パチスロのロングフリーズですら人生で数回しか引いたことのない海老名は、一日しか行かないカジノで、もっと確率が重いであろうジャックポットを引くなどという発想は元からなかったのである。

 飛行機は二時間半ほどで韓国に到着し、二人は空港出口へ向かう。カジノは歩いて行ける距離にあることは予習済みであるので、マップアプリを見ながらケイさんを案内しようとする。「ごめんごめん、一服するね」また腰を折られた。ケイさんがタバコを吸っている間、ホテルの場所を確認しようとしたところ、顔が青ざめた。住所を間違えて、カジノから五十キロ離れたホテルを予約してしまっていて、キャンセルも効かないのだ。費用も無駄になるし、今から新しいホテルを予約する必要もある。喫煙所から出てきたケイさんは「お待たせ!じゃ、行こうか」落ち着いた口調で話す。

 マップでカジノの場所を調べながらケイさんを案内する。ホテルのことを言い出せない。こっそり新しいホテルを予約して、初めからそこを予約していたことにしようかとも考えた。ケイさんは「泊まれればどこでも良いよ!任せる。」と言ったきりだったので、インターネットで新たに予約すれば不可能ではない。しかし、「ホテルの名前は事前に送信していた。予約を間違えたのは自分の責任だが、確認しなかったケイさんにも非があるということで、新たに予約するホテル代も半額負担してもらえないだろうか。」と海老名は考えていた。それをケイさんに言い出す勇気はなく、どう伝えればケイさんの気を害さないかを考えながら歩いていた。ケイさんの話は止まらない。「こうやって生えている植物も日本と全然違うね。俺、旅行の時はこういう細かいところまで見るのが好きなんだよね。海老名はどう?」非常にどうでも良い。「そうですねー。まあ、好きです」頭の容量の九割でケイさんにホテルについて伝える方法を考え、残りの一割でケイさんに返答する。「なんか不安なことでもある?」ケイさんのこの言葉に救われた。事情を包み隠さずに伝える。「そうだったんだ。それくらい気にしなくて良いよ。予約とかありがとうね。今から泊まれそうなホテルある?もう直接行って聞いてみる?」ケイさんの優しさに涙が出そうになる。新しいホテルも割り勘で予約した。

 アプリで新たにホテルを予約した後は一気に晴れやかな気持ちになり、ケイさんとカジノで共に戦うのが楽しみになってくる。カジノは高級ホテルに併設されていて、正面玄関前には豪勢な噴水が佇んでいた。カジノの入り口に着くと、日本人スタッフに案内されて、会員登録、両替、チャージなどを済ませ、いよいよ好きなゲームで遊べる状態になった。ケイさんとはバカラとスロットを打とうと話していたのだが、探すまでもなく入り口のすぐ先にスロットマシンが数台設置されていた。なんとなく入り口付近のスロットは怪しい気がして、さらに奥に進む。カジノ内は迷路のようになっていて、非常に広く感じた。スロットコーナーといった明確な線引きはないものの、スロットマシンが五十台ほど設置してある一角を見つけた。ケイさんは事前に調べていた、動物が登場するマシンを見つけると「わかんないけど、とりあえず打ってみるわ」と五十万ウォンをチャージしたチケットを挿入した。海老名も近くにある同じ機種に着席し、三十万ウォンをチャージしたチケットを入れた。レートを設定できたが、最低レートで挑んだ。これから初めての戦いが始まるという期待に心を躍らせながらケイさんの方を確認すると、突然ケイさんが立ち上がって、海老名の方へやってくる。「一服行ってくるね笑」調子を狂わされ、喫煙所について行く気にはならなかった。

 日本のパチスロとは違い、ボタンを一度押すと勝手に画面の中のリールが回り、停止し、結果を教えてくれる。カジノのスロットと言えば日本のパチスロとは桁違いの速さで金が溶ける恐ろしいマシンというイメージがあったが、最低レートならば日本のパチスロよりもゆっくり、ちまちまと遊べることに気づいた。取るに足らない小当たりを繰り返し、じわじわと現金を減らしていたが、開始から三十分くらいの時に大当たりを引いた。一時期は二十万ウォンまで減った海老名の残高は三十五万ウォンまで回復した。さっそくケイさんのもとに駆け寄り、「フリースピン引いて、十五万ウォンくらい出ました!」息を荒げて伝える。「おお、すごいじゃん。俺はまだだな」ケイさんは初めてカジノに来たとは思えないくらいの落ち着きぶりだ。

 大当たりから三十分もすると、再度当たらない展開が続き、海老名のチケットの残高は二十五万ウォンになっていた。単調な演出にも嫌気がさしてより液晶画面の大きい、ゾンビが登場する派手そうな台に移動した。ケイさんはまだ最初に選んだ台をじっくりと打っている。熱そうな演出を何度かスルーした後、大当たりらしいものを引いた。先ほど打っていた動物の台よりも演出が複雑で、何が大当たりなのかもイマイチわからないが、ゾンビのボスのような巨大なモンスターを倒し、派手な音が鳴った。ここから何ゲームかで当たりを伸ばしていくゲーム性なのだと、長年のスロットの経験が教えてくれた。日本のパチスロでは久しく感じられていないワクワク感が湧いてくる。これから何が起きるのだろうか、何かすごいことが起きるのではないだろうか、自分しか引けていない、ものすごい当たりなのではないだろうか。人生が変わるのではないだろうか。結局、その当たりはショボく、三万ウォン程度しか増えなかった。その後、粘ってもう一度同じような当たりを引いたが、同じく数万ウォンしか増えなかった。

 手始めにチャージした三十万ウォンがなくなり、残りの六十万ウォンも全てチケットにチャージした。この後ケイさんとトランプゲームに挑むためにいくらか残しておこうと思っていたが、スロットで負けている海老名は引きたくなかった。「いったんスロットで勝って、換金してからトランプに行こう」ケイさんの様子を見にいくと、まだ同じ台を打ち続けていて、軍資金を順調に減らしていた。海老名は新しく、液晶画面が大きく演出が派手そうな台に座る。途中でボタンを二度押せば演出をスキップでき、一秒間に一ゲームのペースで回せることに気づいた。最初は果てしない可能性を秘めているようにかんじさせてくれたカジノスロットだが、段々と演出が単調に思えてきて、当たりを引くまでは高速で回すようになった。一万円が五分で溶けた。小当たりを引いて少し増えてはまた減り続けることを繰り返し、軍資金は五分の一くらいにまで減った。「結局、どのギャンブルも店側が勝たなければいけないので、打てば打つほど客が負けるようになっている。今だって、高速で回すこの一回転ごとに自分の金は減っている。ギャンブルなんて馬鹿馬鹿しい。この軍資金がなくなったらケイさんを待って、もう足を洗おう」一人で悟ったような気になりながらボタンを連打する。

 半ば自暴自棄になりながらスロットを高速消化していた時、後ろからケイさんに肩を叩かれた。「どう?勝ってる?俺は全然だなー。」「僕もけっこうやばいっす。」海老名はボタン連打をしたため、おそらくケイさんよりも軍資金の減りが早い。わざわざ韓国まで来て自暴自棄になっていたことが途端に恥ずかしくなり、これを隠したくなる。「ちょっと別の台も見てみようか」残りの軍資金について聞かれず、トランプにも誘われなかったことに安堵する。その後ケイさんと並びで巨大なルーレットマシンやバカラマシンで遊び、軍資金が残りわずかだった海老名も、途中でレートを上げて勝負に出たケイさんも、無事すっからかんになって深夜にカジノを出た。

 タクシーでホテルに向かう道中ではカジノの悪口で盛り上がった。「あんなもの、負けるようになってるんだよな!もう絶対行かないわ!」「そうですよね。演出的にも日本のスロットの方が絶対面白いですよ」「明日は普通に観光して美味しいものでも食べようよ」なぜか、今までで一番ケイさんを近くに感じた。


 トントン


 アラームが鳴る前に目が覚めた。時間の見当がまったくつかないままスマホを触ると朝の五時であるとわかる。あと三十分寝られる。日々眠気と戦っている海老名にとって睡眠時間は貴重である。すでに夢の中にいるのか、頭が冴えているのかわからない状態で布団に潜り、想像の世界に入り込んだ。ベトナムに移住して、オンラインで働いてのんびりと暮らす妄想、フードデリバリーで小銭を稼ぎながら全国を転々と移動するパチプロになる妄想。この時間が心地良い。仕事に行きたくない。

 スマホのアラームの音が、どこまでが夢で、どこからが思考だったかを曖昧にする。アラームの音を消すと、素早く起きて歯を磨いた。スマホのアラームは三分おきに十回ほどセットされているが、結局最初の一回か二回で起きてしまう。トイレでスマホのカレンダーを確認すると、今日で十五連勤であることに気づく。集客のための公民館でのイベント参加など、一日数時間の仕事だけで直帰できる日もあったが、仕事が全くないという日は十五日間なかった。さらにいうと、ここ数ヶ月は休日でも家で何かしらの仕事に関係することはしていた。パチンコパチスロも二ヶ月ほど打っていない。休みがなかったのと、その休みの日にエスやマリファナと時間が合わなかったら打ちに行くことはなかった。二ヶ月間、唯一の出費であるパチンコパチスロが絶たれていたため、給料のうち、実家に納めた金以外のほとんどが貯金に回っている。五年ほど継続している投資信託も、一時期は日に日に増える残高に高揚感を覚えていたが、今は先が予想でき、海老名の気持ちを高揚させることはなくなった。「投資で生活が楽になるとか、退職できるのが早くなるとかじゃなくて、今仕事をやめたいんだよ」独り言を言おうと思ったが、出たのはため息だった。

 気持ちは沈んでいても、体は朝のルーティンを淡々とこなす。髪を濡らした後ドライヤーで乾かし、寝癖を直す。中途半端に短く、ただ寝癖が直されただけの前髪に黒縁メガネの姿は、かつて自分がバカにしていた、外見に無頓着な高校の同級生を彷彿とさせた。スーツに着替えて家を出ようとした時、手にささくれが何ヶ所かできていることに気づく。指の毛も生えている。いつも気づいた時に、ささくれは爪切りで切り、毛は剃刀で剃っている。今から手入れをすると電車に一本乗り遅れてしまう。一本乗り遅れたところで仕事に遅刻するわけではないのだが、毎朝の余裕を持った準備ができなくなる。こういった妥協を積み重ねると仕事が、そして人生がズルズルと悪い方向に引っ張られてしまうような気がするため、急いで玄関を出る。

 駅までは歩いて二十分だ。ケイさんに教えてもらった通り、帽子を被って日焼け対策をしている。昨夜丁寧に考え込んだレッスンの計画を思い出すが、途端につまらなく感じてしまう。子どもたちの笑いを狙った箇所もあるが、大滑りの予感がしてきたため、今から恥ずかしくなってくる。自身の英語力も大学生の時から伸びているのか不安になってくる。英会話講師になった頃は、自身も英語学習を継続し、毎年海外に行って研鑽を積んで、いつかは独立するといったことを考えていた。しかし、働き始めてからは日々のレッスンと指導報告、広報活動を終わらせることだけで精一杯で、休日は漫画かパチンコ、パチスロに費やすだけである。最近始めた読書が唯一の堂々と紹介できる趣味であり、読書家を名乗れるくらいまでには頑張ってみようか、いつか自分の小説も書いてみようかと、少しだけ明るい気持ちも湧いてくる。電車で数ページだけ小説を読むと、職場の最寄り駅に着く。

 気がつけばこの日のレッスンは全て終わっていた。滑る気がしていてならなかった箇所はなんとか、微かな笑いを取ることができた。シニアクラスの受講者さんたちからは今日も応援をいただいた。時折海老名に対して上からな物言いをしてきて不快になることもあるが、基本的には優しい人たちである。なんだかんだでやりがいのある仕事なんだと思いながら講師室に戻ると、自身の机が恐ろしく散らかっていることに気づく。七割は自己責任で、三割は他の講師が、海老名に任せる仕事を机の上に置いて行ったからである。教室の営業時間中はデスクワークに専念することができず、また同時に複数のことを考えられない海老名は、業務中に発生する細かな事務作業をいったん机の上に置いておき、退勤前にまとめて片付けることにしている。器用な先輩講師はノートパソコンを持ち歩き、隙間時間さえあれば事務作業を片付け、ほとんど定時に退勤している。

 定時を二時間過ぎ、先輩講師が退勤したため講師室には海老名と教室長のみが残る。「君は真面目だねー。俺の若い頃よりもはるかに頑張ってると思うよ」お決まりの声かけをしてくれる。入職時は教室長のデスクワークの内容がわからなかったが、レッスン料、講師の給与、教室の家賃等の計算、クレームの対応、ホームページの更新、教材の発注など、教室の運営に関する総括的な業務を一人でこなしている。といっても、海老名を含めて正社員講師が五名、アルバイトが二名の小規模な教室だが、三十代で独立し、それから教室の運営に関することを一人で決定してきたことを尊敬している。そんな教室長に「頑張ってるね」と言われると、言われた仕事を淡々とこなしているだけの自分が惨めに思えてくる。ビラを十枚多く配れただの、レッスンでウケをとっただのと、些細なことで抱いた達成感が空虚に感じられる。そしてこの時は、その言われた仕事が終わらず苛立っていた。普段は嬉しい教室長からの雑談が、この時は鬱陶しかった。定時から三時間が過ぎた頃、教室中のゴミをゴミ袋に集めて、倉庫に入れて教室を後にした。「お先失礼します」という時間でもない気がしたので、静かに「お疲れ様です」と伝えた。


 あさりに喰われる


 マリファナが転勤することになった。「海老名くん、やばいやばい、俺広島行きになった」「そうか!向こうでも節約して借金返せよ」「ううう。今それ言う?」電話で冗談混じりに話したが、実際寂しさはなかった。会おうと思えば始発で新幹線で広島に行き、広島のパチンコ屋の抽選に一緒に並ぶことだってできる。みんな、それぞれの道で先に進んでいくんだ。急に過去の友人の様子が気になりインスタグラムを確認する。結婚して子どもがいるやつ、独立して塾を経営しているやつ、ユーチューバーとして生きているやつ、様々なやつらがいる。彼らに自分の近況を堂々と話すことができるだろうか。

 海老名の生活は変わらず、朝起きて、慌ただしく支度をして、仕事へ行き、ビラ配りやレッスンを終え、デスクワークにつき、教室長と雑談をしながら翌日のレッスンの準備と事務処理をする。事務処理が終わらない日は休日も教室に行くが、だいたい教室長と二人になる。たまに「このレッスンは盛り上がるぞ!」というものができ、ワクワクしながら帰宅する日もあるが、翌朝にはそれが退屈なものに感じられ、もっと無難なものを作ればよかったと後悔をする。ここ最近はシニアレッスンの受講者さんや教室長の雑談が鬱陶しい。「海老名くんは一人暮らしの予定はあるの?」「まあ、実家が一番だもんね!若いうちはいられるだけ実家にいた方が良いよ!」「結婚したいと思うことはあるの?」「ごめんごめん、今の若い人は三十代になってからの人も多いもんね」

 ある休日に無性にスロットが打ちたくなった。この月は一度も遊びに行っていないので、五万円くらいまでならば負けても良い。マリファナは広島にいて、エスを突然呼び出したことはない。仕方がなく、職場の最寄り駅から徒歩五分の場所にある小さなパチンコ屋に向かう。そこは五円スロットが置いてあって、同じように無性にスロットが打ちたくなった時に行くことにしているのだ。席は七割ほど埋まっていたので、とりあえず空いていた台に座った。

 通常時はひたすら主人公の一行が歩いている。時々レア役を引くが、当たりには繋がらない。四百ゲームくらい通常時を回す。ゆっくりと金が減る。カジノで大敗を喫した時に、スロットも所詮打てば打つほど負けに向かって沈んでいくものだと悟った。設定狙いができるようになれば勝ちが増えるのかもしれないが、仕事へ行き、たまに得た休日をスロットに割くということは変わらない。人生がスロットの通常時のように思えてくる。主人公の一行は荒野を歩いている。海老名は砂浜を歩く。レア役を引けば派手な演出がきて、当たりを匂わせる。当たりを引けばメダルが増える。そんな時は砂浜に波が押し寄せて、海老名の足を飲み込む。波の冷たさが気持ち良い。このまま全身を波が飲み込んでほしい。そんな波もすぐに引いてしまう。波が引くと、先ほどよりも海が遠くなる。海老名は歩き続ける。当たりは終わり、またメダルが減っていく。スマホを確認すると、夜の二十時半。休日を無駄にした気がする。読書をしておけば良かった。とりあえず次の当たりまで回してみよう。海はすっかり干潮になり、砂浜は乾いてきている。砂の地面にはポツポツと穴が空いていて、その下に得体の知れない、あさりのような化け物が息を潜めているような気がする。止まったらそいつに食われるような気がして歩き続ける。早く次の波が来てほしい。

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