55 heart top〜心臓を破いて、栄えて、少女は――〜
彼女はこの世界も可哀想と思う。もっとも嫌いではない。慣れない生活を送るわけではないからだ。やはり北海道札幌市は都合がいい。
令和八年の夏の朝、その都会の駅前に彼女――群青色のロングヘア。学生服姿――は立っている。ほかに人はもちろんいない。
だがしばらくして、「日本人がこんなところで何をしているんだ?」と、話しかけられた。
彼女は、「キミはアジア人ね? あぶれたの?」と、同年代の男に言った。
男は肩をすくめた。「本気で言ってる?」
「本気よ。キミもこの世界にいるんだから」
「ならセックスする?」と、男は苦笑しながら言う。
「良いわよ」と、彼女は微笑んで答える「赤ちゃんは何万人ほしいの?」
「冗談だよ」男は戸惑いながら言う「キミはあぶれたの? 失礼」
「違うわ。――キミは観光客? ならお気の毒ね」
男は微笑し、「ああ、気の毒だよ。でもキミに会えたからよかったよ」
彼女も微笑する。「ありがとう」
「じゃね」
「ええ」
彼女は一人になった。
だがやがて、駅の方向から、今度は白人――若い男――に、「休憩中?」と、声をかけられた。
「違うわ。キミはそうなの?」
「えっ? 私も違うよ」相手は戸惑いながら答えた「私は研究者だ」
「研究者?」
「ああ。だからこの世界にいる」
「私はアン。私のことを研究する?」
「キミを? どんな研究ができるんだ?」
「研究したいなら、まずキミの血を私に浴びせて」
研究者はぎょっとして、「血!?」
アンはふっと笑い、「水でもいいわ」
「水か。まぁ水なら……」
「駅入ってすぐの自販機で買ってくれば?」
「ああ、そうしよう」
戻ってくると、「浴びせるとどうなるの?」と、研究者は聞いた。
「それは浴びせてからのお楽しみよ」
「浴びせるか……手を出して」
アンは首をかしげつつ言われた通りに。と、研究者はその手に水を流した。そうしながら、「どのくらいでいいの?」と、研究者は聞く。
「もういいわよ」
研究者はやめる。するとアンは、「後ろを見て」
そうした途端、「この赤い壁は!?」と、研究者は驚愕する。
それは見目木製、高さは三メートル程度で、彼の眼前に横たわっていた。
「隙間が空くわよ」
その瞬間、ちょっと左右に開いてそれはできた。
アンは、「そこから何が見える? 白人ではないでしょう?」
「――ああ、違う。なんて読むんだ?」と、研究者は振り返る「その子は!?」
「紹介するわ、彼女はシズカ。私と同じ日本人よ」
アンの隣には、十代半ばの少女――黒髪のロングヘア。アンとはデザインが異なる学生服を着た――が立っている。
アンは、「浮かんでいる内容は彼女が分かるわ」と、肩をすくめる「もっとも教えてくれるかどうかは聞いてみないとだけど」
研究者はシズカを見る。「教えてほしい。頼む」
「嫌よ」シズカは眉をひそめてきっぱりと答えた「アンなんかに協力したくないの」
「どうして?」
「ゲスだから」
「ゲス?」
「そう、私に酷いことを言わせようとするんだから」と、シズカは研究者を指差し、「だから後ろの内容を知ろうとはしないことね。ランダムだろうと多少は不愉快になるだろうから」
「ランダム?」
シズカは手を下ろし、「ええ、ランダム。キミの血や水によって必ずしも白人の語りには繋がらないってこと」
研究者は戸惑いながらアンを見る。「キミの目的はいったいなんなんだ?」
「誇りのためなんじゃない?」シズカが苦笑して言った「どうなの? アン」
「それもあるわ」アンは研究者を見ながら言った「私は嫌なのよ、良いものばかりを残すなんて。コインには表と裏があって当たり前のように私は良いものばかりじゃなく――」
「シャラップ!!」研究者は遮った「誇りのため? ほざくなよ! キミのような存在が!」と、振り返る。
と、赤い壁がぱっと消えた。
と、研究者は駅のほうへ歩き出した。
「また失敗したわね」と、シズカはアンに楽しそうに言った「また私の語りを聞けなかった。もうやめれば?」
「やめないわ」と、アンは真剣な顔で即答した。
二週間後の朝、駅前にいるアンは、驚かれた。
「ずぶ濡れじゃないか!?」
「キミ、前に会ったわね」と、アン――学生服を着た――は落ち着き払って言った「二週間前に会ったアジア人」
「そうだよ。名乗ってなかったな、私はクロ。キミに会いたくて来たんだけど、それはそうとどうしてずぶ濡れなんだ?」と、アジア人――襟足の長い黒髪。アンより背の高い身体に緑色のジャケットと黒いジーパンを着用した――は慌てながら聞く。
アンは微笑して、「私に? セックスしたいから?」
「そんなこと言ってる場合か!? いったいどうしたんだ?」
「知りたい?」と、クロの背後から声。彼は振り返り、
「キミは?」
「シズカよ。彼女がそうなってるのは、ひとつは誇りのためよ」と、シズカは呆れた様子で言った。
「誇り?」
「そう、誇りたいのよ、くだらない」
「えっ?」と、クロは驚き、アンに向き直る「キミは……」と、ためらうが、「キミは子供を産むことができる。その誇りで十分だろ。だからもうやめてくれ」
アンはにこっとして、「ならセックスしよう? 私を女にしてよ?」
「えっ!? いやいやいや、催促してないよ。――ごめん、キミにはその誇りは正しくなかった。――その格好どうにかしようよ。寒くない?」
アンは首をかしげる。「分かったわ」と、その瞬間、彼女の身なりは濡れる前の学生服姿に戻った「私にはその誇りは正しくなかったってどういうこと?」
「アン、場所を変えて話さない?」と、シズカはアンの隣に行って、「特急列車の中がいいわ。そこで話しましょう?」と、彼女に聞く。
「私は良いけど」と、アンはクロを見る。
「私もいいよ」と、クロ。
数分後、三人は誰もいないその車内の席についた――向かい合って座れるように席を動かしてから。
通路側の席に座った途端、「ごめん」と、クロは向かいのアンに謝った「さっきのはちょっと言い方が悪かった。キミにとってさっきの女性の誇りは、むしろもちろん当てはまる」
「そうかしら?」と、アンの隣のシズカが楽しげに言った「むしろ不適当よ。ねぇ? アン」
アンはふっと笑うと、「話の続きは?」と、クロに促した。
「あ、ああ。――アン、キミには、子供を産む誇りよりも誇れるものがある」
アンはびっくりする。「それは何?」
と、列車が動き出す。
「終点は天塩中川。でもキミ達は名寄にすら行けないさ」と、発車直後にアン達の横から、楽しむような声がした。
見ると、「日本人、彼女にピストルを向けるな!」と、クロは斜め前の席の若い男に怒鳴った。黒い長髪で青いスーツを来た男は、アンにピストル――オートマチック――の銃口を向けている。
「キミ、どこの?」と、シズカが男に言う「二週間以内の、どの水の――」
「日本人じゃない」と、話の途中で、ピストルをアンに向けたまま男はクロに言う「私はツグドクーンラ人だ」
「なら復讐か? そんなことはさせないぞ」と、クロは顔をしかめて言った。
すると相手はふっと笑い、「復讐じゃない。むかついたんだよ、子供を産むことよりも大事なことがこの女にあるなんて」と、アンを睨む「それがなんなのか知りたがっているな? むかつくな、子供を産む誇りで満足できないのか?」
「できるわよ」アンは断言した「子供を産むことは素晴らしいことよ。誇らしいことだわ。分かっているわ、私」
「ならなぜ知りたがる? ――私にも教えてほしいわね?」
と、途中から声が女のものとなった。
アンは怪訝な表情で、「キミは……いや、誰でもいいわね」と、微笑する「教えないわ」
「あら、度胸があるわね」と、“ツグドクーンラ人”はピストルを下げる「それに免じて聞かないであげるわ」と、立ち上がる。
「キミは誰だ?」クロが“ツグドクーンラ人”に聞く。
“相手”は微笑して、「私は――」
「何!?」クロは驚愕する「キミが?」
“相手”はなお笑いながら、「私にしつこくしないでね。始末しちゃうから」と、立ち上がる「直近は研究者だったわ。じゃ旅を楽しんで。ちなみに私のオススメは智恵文よ。じゃね」
と、“ツグドクーンラ人”はぱっと消えた。
「残念だったわね」と、シズカはつまらなそうな顔でアンに言う「そうでしょ? なんとか人だろうと」
アンは肩をすくめ、「そうね。――クロ、話の続きを聞かせて?」
「その前に言っておくことがあるわ」と、シズカはクロに言う「アンは元の世界で暮らしたいと願っているわ」
「何? アン、本当か?」クロは意外そうに聞く。
「まぁそうね。そこには――」
「なるほど、会いたいよな」と、クロは立ち上がる「なら私が叶える。キミの願いを」
「どうして?」
「私はキミが好きだ」
「えっ?」と、アンは驚く。
「私は“あいつ”と戦う。そして必ず勝利してキミの願いを叶える」
アンはふと心配になる。
「そんなことはやめて。始末されてしまうわ。――私とセックスしましょう? 私に誇りを教えて? それがあれば私は――」
「キミとセックスはしない」クロはきっぱりと遮った「言っただろう? キミにはそれより誇れるものがある。キミは私にそれを教えてくれた。だから私はキミが好きだ。だから私は戦える。私はキミを幸せにしたいんだ」
アンはどきっとした。
「じゃ、行くよ」
「待って!」
アンが叫んだ瞬間、彼はぱっと消えた。
アンは青ざめて俯く。「クロ……」
ふとシズカはクロの席に座って、「よかったじゃない?」と、楽しげに言う「女性の多様性を示すことができて。おめでとう」と、肩をすくめる「まぁ、一人犠牲者が出たけど」
「……犠牲者?」と、アンは顔を上げる「クロは大丈夫だわ」
「はっ? どうして?」シズカは笑いながら聞く。
アンは自分の胸に左手を置く。「心のこの強い感じ――彼へのこの想いはそうとしか思えないわ」
「あはははっ! ――なら彼が死んだらどうする?」と、シズカはふいに真剣な顔で聞く。
アンは微笑する。「死ぬわ」
「へぇ! なら確認しに行きますか」
と、シズカはぱっと消えた。
と、アンは両手を胸の前で合わせる。
彼女は彼の無事を祈る――
やがて、列車は美深に到着した。
「アン」
彼女ははっとして顔を上げる。
「クロ!」彼女は歓喜する。
席に戻ったクロは微笑して、「アン、キミの願いは叶うよ」
アンはびっくりする。「倒せたの?」
彼がここにいるなら――だがにわかには信じがたい。
「いや違う。“あいつ”は賭けたんだ、私達が戦火で死ぬ可能性に。でも大丈夫だ」と、クロは立ち上がる「キミは私が守り続ける」と、アンに手を差し伸べる「私を信用して、私と付き合ってくれないか? “あいつ”を倒しきることはできなかったけど……」
アンは立ち上がる。「私はキミを愛しているわ」と、アンは両手を広げる「きて……」
クロは彼女を抱きしめる。
アンは幸せを感じる。
ふと、腹の虫が鳴る音がした。
二人は顔を見合わせる。
「ごめん……」と、クロは恥ずかしそうに言った。
アンはくすっと笑い、「ねぇ、次の音威子府で名物の蕎麦を食べない? あっ、すごくお腹減っているなら下川町のうどんにする? 美深の駅前に店があるのよ」
「キミはどちらにしたい?」
「蕎麦」
「なら蕎麦だよ」
「大丈夫?」
「ああ。――アン、その……」
「何?」
「キ、キスしていいかな? いや、セックスはしないけど、その、キスくらいはさ……」
アンは微笑み、目を瞑る。「お願い、して……」
「ああ――」
二人はキスした。
と、列車が動き出した――
〈了〉




