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乙女ゲームのモブ令嬢に転生したので、儚げ美青年の当て馬くんは私が頂こうと思います。

作者: 五十鈴 美優

 目が覚めたとき、私は知らない天井を見上げていた。


 いや、正確には「知らない」わけではない。この装飾過多な天蓋付きベッド、壁にかかった油絵、窓から見える広大な庭園。

 ここがどこなのかは、すぐに分かった。


 ここは私が前世で百時間以上プレイした乙女ゲーム『ノーブル・ロマンス・アカデミア』の世界だ。


「お嬢様、お目覚めですか?」


 メイドが恭しく入ってくる。私は慌てて鏡を見た。映っていたのは、栗色の髪に琥珀色の瞳を持つ、十五歳くらいの少女。


(この子は……)


「アイリス・ヴェルヌイユ……」


 私が転生したのは、ゲーム内でほとんど台詞もないモブ男爵令嬢だった。

 前世の記憶がはっきりと蘇る。私は二十歳のどこにでもいる大学生。趣味は乙女ゲーム。特に『ロマアカ』は全ルートコンプリート済み。そして私には、誰よりも愛したキャラクターがいた。


「セリアン・アルトワ様……!」


 思わず声が出る。

 セリアン・アルトワ。侯爵家の次男。攻略対象ではないが、全ルートに登場する重要キャラクター。プレイヤーの幼馴染という設定で、どのルートでも主人公を助け、情報を与え、影で支える存在。


 そして、全てのルートで死ぬ。


 終盤、攻略対象と主人公が結ばれることを妬む一派が、魔物を使って主人公を襲撃する。そこでセリアンは主人公を庇って致命傷を負い、「ずっと君が好きだった」と告白して息を引き取る。攻略対象が魔物を倒し、主人公は涙を流す。

 セリアンの死は、攻略対象との絆を深める感動的な演出として描かれていた。


 私はそれが許せなかった。


 何度プレイしても、セリアンは死ぬ。選択肢も、救済ルートもない。彼はただ、主人公と攻略対象のラブストーリーを盛り上げるために消費される存在だった。


「今度こそ、セリアン様を救ってみせる……!」


 私は拳を握りしめた。そして、もう一つ決意した。


「ついでに、私のものにする」


 前世でどれだけ彼に恋焦がれたか。画面の向こうの彼に、どれだけ「私を見て」と叫んだか。今度は違

う。今度は、この世界にいる私が、直接彼にアプローチできる。


 モブ令嬢だろうと何だろうと関係ない。

 私は本気だ。主人公が見向きもしない当て馬なら、私がいただく。



 転生から三日後、私は学園に入学した。

 王立貴族学園。王国の貴族子弟が通う名門校。ゲームの舞台そのものだ。


 入学式で、私は主人公を見つけた。


「エリーゼ・ブランシュフルール……」


 白い制服に身を包んだ、金髪碧眼の美少女。ゲームの主人公その人だ。伯爵令嬢という設定で、明るく優しく、誰からも愛される性格。

 実際、彼女の周りには既に人が集まっていた。


「私も最初はあんな風に注目されると思ってたんだけどなあ……」


 前世でも私のように貴族令嬢に転生する物語は沢山あったが、モブは所詮モブである。誰も私に興味を示さない。


「まあいい。目的はエリーゼでも名声でもない」


 私の視線は会場を走らせていると、意識する前に目が止まった。

 式典の隅、窓際に一人で立っている青年。


 亜麻色の髪。切れ長の青灰色の瞳。整った顔立ちに、どこか儚げな雰囲気。身長は高く、制服を着こなしているが、その存在感は不思議なほど薄い。


 セリアン・アルトワ。

 私の推しキャラだ。彼がすぐ近くで動いているというだけで心臓が跳ね上がる。画面越しではなく、本物の彼がすぐそこにいる。ただそれだけで。


「よし……!」


 私は真っ直ぐ彼に向かって歩き出した。


「あの、セリアン・アルトワ様でいらっしゃいますわよね?」


 彼は驚いたように振り返った。


「……はい。あなたは?」

「アイリス・ヴェルヌイユと申します。お話ししても?」


 セリアンは困惑した表情を浮かべた。無理もない。モブ令嬢がいきなり話しかけてくるのだから。


「構いませんが……」

「ありがとうございます! 実は私、セリアン様のことを以前から存じ上げておりまして、ぜひお近づきになりたいと思っていましたの!」

「……え?」


 彼の困惑が深まる。


「社交界でのお噂はかねがね。聡明で、剣の腕も立ち、それでいて控えめな方だと」


 これは嘘ではない。ゲーム内の設定だ。


「それは……過分なお言葉です」


 セリアンは僅かに頬を染めた。同じ15歳の青年が、純粋に照れている。


「あの、アイリス様。私は特に目立つような人間ではないので……もしかして人違いでは?」

「いいえ。セリアン様で間違いありませんわ……!」


 私は力強く頷いた。


「よろしければ、お友達になっていただけませんこと?」

「友達……ですか」


 セリアンは戸惑っている。そりゃそうだ。いきなり過ぎる。

 でも、私には時間がない。三年後のエンディングには魔物襲撃が起こる。それまでに彼と信頼関係を築き、死亡フラグを回避し、できれば彼の心を掴まなければならない。


「はい。私、セリアン様のような方ともっと仲良くなりたいのですわ」


 セリアンは少し考えてから、小さく微笑んだ。


「……こちらこそ、よろしくお願いします」

(やった! 第一段階クリア!)


 その後、私はセリアンと少し話をした。彼は物静かだが、話してみると聡明で優しい人だった。ゲームで見た通り、いやそれ以上に素敵な人だ。


 ただ一つ問題がある。


 会話の途中、エリーゼが近くを通りかかったとき、セリアンの視線が一瞬そちらに向いた。

 そして、その瞳に淡い光が宿った。


(……やっぱり)


 セリアンは既にエリーゼに恋をしている。ゲーム通りだ。セリアンとエリーゼを近づけなければ良いという単純な話ではなさそうだ。


「これは……長期戦になりそうね」



 それから私は、セリアンとの距離を少しずつ縮めていった。

 まず、彼の居場所を完璧に把握した。


 前世で背景イラストの端に彼が映り込んでいないかを、くまなく探していた経験が役に立った。


 午前の授業が終わると、セリアンは中庭の大樹の下でよく本を読んでいる。午後の自習時間は図書館の魔法史コーナー。放課後は剣術練習場か、または裏庭の噴水近く。


「アイリス様、また会いましたね」

「偶然ですね、セリアン様」


 偶然なわけがない。完全に計算だ。でも、セリアンは疑うことなく微笑んでくれる。優しい人だ。

 私たちは少しずつ、友人らしい会話をするようになった。


「セリアン様は魔法史がお好きなのですね」

「ええ。古代の魔法体系には興味深い記述が多くて」

「私も最近読み始めましたわ。でも難しくて……教えていただけませんこと?」

「もちろん」


 セリアンは嬉しそうに説明してくれる。彼は教えるのが上手だった。難しい内容も、分かりやすく噛み砕いて話してくれる。


「セリアン様、とても分かりやすいですわ。良い教師になれるのでは?」

「そんな……照れますね」


 頬を染めるセリアンは本当に可愛い。ゲームをしていた頃よりも何倍も魅力的だ。


 でも、私の作戦はこれだけではない。


「あ、エリーゼ様がいらっしゃいますわね」


 中庭で、エリーゼが友人たちと楽しそうに話しているのが見えた。私の言葉に、セリアンの視線がそちらに向く。


「セリアン様は、エリーゼ様とはお知り合いなのですか?」

「……幼馴染です。父同士が親友で」


 セリアンの声が少し柔らかくなる。ズキリ、と胸が痛む感覚がした。この痛みも、ゲームをしていた頃より何倍も痛く感じられる。


「素敵な方ですね。私も何度かお話ししたことがあるのですが、とても優しくて」

「ええ……彼女は本当に良い人です」


 セリアンの表情が穏やかになる。

 私は内心で舌打ちしそうになったが、身体で隠した拳を握りしめて代替した。


 ここで嫉妬を見せてはいけない。私の作戦は、エリーゼを否定することではなく、エリーゼを肯定しつつ、セリアンの心を少しずつ私に向けさせることだ。


「では、今度三人でお茶でもしませんこと?」

「え?」

「エリーゼ様とセリアン様が幼馴染なら、私も一緒に仲良くなりたいですわ」


 これが私の作戦。


 エリーゼを敵視せず、むしろ積極的に関わる。そうすることで、セリアンにとって私は「エリーゼの友人」という安全な存在になる。

 そして同時に、エリーゼには攻略対象に好意を向けてもらう。万が一にでもエリーゼがセリアンを恋愛対象として見てしまったら終わりだ。


「……アイリス様は、本当に優しい方ですね」


 セリアンが微笑む。私の愛した、儚くて綺麗な笑顔だ。でもそれは、エリーゼに向けられるものとは少し違う。


「そのようなことはありませんわ。ただ、お友達が欲しいだけです」


 嘘ではない。友達としてセリアンの隣にいたい。そして、いずれは友達以上の存在になりたい。

 そのためなら、私はなんでもする。



 翌日、私たちは三人でお茶をした。


「アイリス様、セリアンと仲良くなってくれて嬉しいですわ」


 エリーゼは本当に良い子だった。明るくて、気遣いができて、誰に対しても優しい。セリアンを好きにならないことだけが欠点の主人公だということは、私が一番知っていたけれど。


「エリーゼ様こそ、お誘いありがとうございます」

「堅苦しいのは無しよ。エリーゼで良くってよ」

「では私のこともアイリスとお呼びくださいませ」


 三人での時間は楽しかった。エリーゼは場を盛り上げるのが上手く、セリアンも普段より饒舌になる。


 そして、私は気づいた。

 エリーゼの視線が、ときどきどこか遠くを向くこと。彼女は今、誰かを探している。


 そう、攻略対象だ。


 ゲームではこの時期、エリーゼは既に攻略対象たちと出会い始めている。私はエリーゼを観察し続けた。そして、彼女が惹かれているのが誰か、突き止めた。


 レオナルド・フォン・エーデルハルト。

 王家の傍系にある公爵家の嫡男。攻略対象の一人で、通称「王子様ルート」。完璧超人で、誰に対しても礼儀正しく、それでいて少し不器用なところがある、王道の攻略対象。


(なるほど……エリーゼはレオナルド様ルートに入りつつあるのね)


 なら、話は早い。真っ直ぐな性格のレオナルドの攻略は比較的簡単で、選択肢も難しくなかった。余程のことをしない限り、交流を続けていれば結ばれる。

 私は積極的にエリーゼとレオナルドを引き合わせることにした。


「エリーゼ、レオナルド様が図書館で勉強会をお開きになるそうですわ。一緒に行きませんこと?」

「え? でも私なんかが参加しても……」

「大丈夫です。レオナルド様はお優しい方だそうですから」

「……それなら、お願いするわ」


 作戦成功。

 勉強会で、エリーゼとレオナルドは自然に会話を始めた。レオナルドも、エリーゼに興味を持っているようだった。


「順調ね」


 私はセリアンの横で呟いた。レオナルドとも旧友である彼も勉強会に参加しており、思いがけず遭遇イベント発生だ。セリアンは私のモブオーラで覆い隠しているからか、エリーゼとレオナルドは完全に二人きりの世界に入っている。


 今頃、私たちは背景イラストの端に映り込んでいることだろう。


「……アイリスは、本当にエリーゼの良い友人ですね」


 セリアンが言う。彼の表情は複雑だった。エリーゼが他の男性と楽しそうに話しているのを見て、彼は何を思っているのだろう。


「セリアン様は……エリーゼのことが好きなのでしょう?」


 私は思い切って聞くことにした。

 セリアンは驚いたように目を見開き、それから静かに頷いた。


「……分かりますか」

「何となく。でも、エリーゼには気持ちをお伝えしないのですか?」

「言えません」


 セリアンは悲しそうに微笑んだ。


「私は彼女の幼馴染で、友人です。それ以上の関係になれるとは思えません」

「どうしてですか?」

「彼女にはもっと相応しい人がいるからです」


 セリアンの視線がレオナルドに向く。


「レオナルド様のような、立派な方が。私は……ただの次男で、特別な力もありません」


 ああ、これだ。


 セリアンの自己評価の低さ。彼はいつも自分を過小評価している。それがゲームでも描かれていた、彼の魅力であり、同時に悲劇へと繋がってしまった。


「セリアン様」


 私は彼の手を握った。


「あなたは十分素敵な方ですわ。聡明で、優しくて、剣も強い。もっと自信を持ってくださいませ」


 セリアンは呆然としていた。


「アイリス……」

「私、セリアン様のこと、本当に素敵だと思っていますのよ?」


 これは本音だ。

 セリアンは少し頬を染めて、それから静かに微笑んだ。


「ありがとうございます。でも……やはり私は、エリーゼの幸せを願うだけです」


 まだだ。まだ彼の心は動かない。

 でも、私は諦めない。



 一年生の終わり頃、私は決意を新たにした。


「セリアン様を守るには、私が強くならないと」


 ゲームでは、セリアンは魔物からエリーゼを庇って死ぬ。なら、私がセリアンを守ればいい。そのためには戦闘能力が必要だ。


 幸い、アイリス・ヴェルヌイユという人物には、若干の剣術の心得があるという設定だった。父親が軍人で、幼い頃に基礎を教わったらしい。


「よし、本格的に鍛えよう」


 私は剣術の特別クラスに申し込んだ。教官は騎士志望の学生の間で“レジェンド”と呼ばれ畏れられている老騎士で、容赦なく鍛えられた。


「ヴェルヌイユ嬢、もっと腰を落として! 剣は力だけじゃない、技術だ!」

「はいっ!」


 毎日筋肉痛だった。前世の運動不足の体とは違い、若い体は順応が早かった。それでも訓練は過酷だった。


 ある日、練習場でセリアンに会った。


「アイリス、剣の練習をしているのですか?」

「ええ。自分の身は自分で守りたいので」

「……偉いですね」


 セリアンは感心したように言った。


「セリアン様も剣がお強いですわよね。よければ、手合わせしていただけませんか?」

「僕でよければ」


 私たちは向かい合った。

 セリアンの剣は美しかった。無駄がなく、流れるような動き。対する私の剣は粗削りで、力任せだ。


 当然、負けた。


「参りました……」

「いえ、アイリスは筋が良いですよ。続ければもっと強くなれます」


 セリアンは優しく微笑んだ。彼ほどの剣の腕があれば、あの魔物に殺されずとも済んだはずだ。

でも、そうはならなかった。


 それは彼の自己評価が低く自己犠牲的で、何よりエリーゼへの想いが“彼女を守る”という点にのみ集中したからだろう。あるいは、感動的な演出をしたいというゲーム側の強制力かもしれない。


 だったら尚更、私が強くならなければ。


「……それでは、これから定期的に教えていただけますか?」

「もちろん」


 こうして、私はセリアンから剣を学ぶことになった。

 週に二回、放課後に一緒に練習する。汗を流し、時には笑い、時には真剣に剣を交える。

 この時間が、私は何よりも好きだった。


「アイリス、防御がずいぶん上手くなりましたね」


 二年生になる頃には、私の剣術はかなり上達していた。まだセリアンには勝てないけれど、それなりに戦える程度にはなった。

 そして、もう一つ。

 私とセリアンの距離も、少しずつ縮まっていた。


「アイリスは、どうしてそんなに頑張るんですか?」


 ある日、練習後にセリアンが聞いた。


「守りたい人がいるからです」


 私は正直に答えた。


「守りたい人……」

「ええ。とても大切な人ですわ」


 セリアンは少し寂しそうに微笑んだ。


「その人は幸せですね。アイリスのような人に守られて」


(違う。守りたいのはあなたなのに)


 その思いは口にすることはできなかったけれど、一年生の時に比べれば、彼が私のことを少なからず良く思ってくれているようで嬉しかった。


 一方で、エリーゼとレオナルドの関係も順調に進んでいた。二人は頻繁に一緒にいて、誰の目にも明らかに惹かれ合っていた。

 セリアンはいつも、それを遠くから見守っていた。


「エリーゼ、幸せそうですね」

「ええ。レオナルド様も、エリーゼのことが好きみたいですわ」

「……そうですか」


 セリアンの声は穏やかだったが、その瞳には諦めの色が浮かんでいた。


「セリアン様」

「なんでしょう」

「あなたは、エリーゼの幸せを願っているのですよね。でも、ご自分の幸せは願わないのですか?」


 セリアンは黙った。そして、「僕の幸せは……エリーゼが笑っていることです」と言って笑った。


「それだけですか?」

「……それだけです」


 セリアンは頑なだった。


(嘘だ。そんなわけない)


 二年生になって、セリアンがエリーゼを想う気持ちに終わりが見えないことに、私は薄々気づき始めていた。それでもセリアンが笑っているだけなんて嫌だ。ずっと私の隣にいてほしいという気持ちは止めどなく溢れてくる。


 私は少し焦りを感じ始めていた。三年生になれば、魔物襲撃のイベントが起こる。もう、残された時間は少ない。



 私たちは三年生になった。


 エリーゼとレオナルドは、もはや学園中が認める恋人同士だった。正式に交際宣言はしていないが、誰もが二人の関係を知っていた。

 セリアンは相変わらず、二人を遠くから見守っていた。


「セリアン様、お辛くはないのですか?」


 私は思い切って聞いた。彼が気持ちに区切りをつけられれば、死亡を回避できるかもしれない。


「……辛いですよ」


 セリアンは初めて、弱音を吐いた。


「でも、どうしようもありません。エリーゼはレオナルド様を選んだ。それが彼女の幸せなら、僕は受け入れるだけです」

「でも……」

「アイリス」


 セリアンは私を見た。


「あなたは、僕に優しすぎます」

「そんなことはありませんわ」

「いいえ。あなたはいつも、僕を気遣ってくれる。励ましてくれる。一緒にいてくれる」


 セリアンの瞳が潤んでいた。


「僕は……あなたのような友人がいて、本当に幸運です」


 友人。

 その言葉が、胸に刺さった。私は、友人以上になりたいのに。


「セリアン様」


 私はたまらず彼の手を握った。


「私は、あなたのことが……」

「アイリス」


 セリアンが私の言葉を遮った。


「ごめんなさい。今の僕には、あなたの気持ちに応えることができません」

「セリアン様……」

「本当に、ごめんなさい」


 セリアンは深く頭を下げた。彼は気づいていたのだ。私の想いに。

 私は何も言えなかった。

 彼は誠実すぎた。だからこそ、エリーゼへの想いを捨てられない。


「……分かりました」


 私は微笑んだ。泣きそうだったが、我慢した。振られることなんて、ずっと前から分かっていたのに。


「でも、諦めませんから。いつか、セリアン様が私を見てくれるまで」


 セリアンは悲しそうに微笑んだ。


「アイリスは、本当に強い人ですね」


 その日から、私たちの関係は少し気まずくなった。でも、私は変わらずセリアンの隣にいた。剣の練習も続けた。

 最終的に結ばれなくてもいい。セリアンの命が助かるのなら友人のままでいい。魔物との闘いの末に命を落としたとしても、彼が生きていてくれるのなら。


(ゲームのセリアンも、こんな気持ちだったのかな)



 秋。

 学園の裏手、魔法の森と呼ばれる場所で、異変が起き始めていた。


「魔物の目撃例が増えているそうです。特に、森の奥深くにはくれぐれも近づかないように」


 授業で教官が言った。


(……これか)


 ゲームでは、この時期に魔物が森から溢れ出し、やがて学園を襲撃する。

 そして、その裏には、レオナルドとエリーゼの仲を妬む貴族たちの陰謀がある。彼らは魔物使いを雇い、わざと魔物を学園に放つ。標的はエリーゼだ。


 そして、それを庇うセリアンが死ぬ。


(絶対に、そんなことはさせない)


 私は密かに準備を始めた。

 魔物に対抗するための魔法薬。防御の護符。そして、剣の訓練を更に強化した。そんな様子にセリアンも異変を感じているようだった。


「アイリス、最近何か隠していませんか?」

「え?そのようなことはありませんわ」

「でも、妙に剣の練習が激しいような……」

「気のせいですよ」


 私は誤魔化した。本当のことは言えない。「あなたが死ぬから準備してる」なんて。



 秋の終わり。ついにその日が来た。


「学園に魔物が侵入しました!全員、避難してください!」


 緊急の警報が鳴り響く。

 生徒たちは慌てて避難し始めた。その流れに逆行し、私は剣を抜いた。今日のために、毎日身につけていた。


(エリーゼとレオナルド様はどこ……?)


 私は校内を走った。

 中庭へと向かうと、エリーゼがいた。そして、彼女を捉えた大きな魔物。フェンリル・ウルフという黒い毛並みを持つ、狼のような中級魔物だ。エリーゼの何倍もの体格をしている。


「エリーゼ、下がって!」


 私はエリーゼの手を引いた。その時、遠くから走ってくる人影があった。セリアンだ。


「やめろ!」


 彼は叫びながら走る。フェンリル・ウルフが呻き声を上げながら、真っ直ぐにエリーゼを捉え、勢いよく飛びかかろうとしている。


 その時、セリアンはエリーゼの前に飛び出した。

 まさにゲーム通りの展開。


「させるかああああっ!」


 私は全速力で走り、セリアンと魔物の間に割り込んだ。

 そして、セリアンの細身の体を片腕で抱え込み、もう片方の手の剣をフェンリル・ウルフに叩き込んだ。


「ぐっ……!」


 衝撃が腕に響く。魔物は怯んだが、倒れない。


「アイリス!?」


 セリアンが驚愕の声を上げる。

 私はセリアンを抱えたまま、剣を引き抜いてもう一撃。今度は腹部に突き刺さった。魔物が悲鳴を上げる。


 ほどなくして視界の隅に騎士たちを引き連れてやって来たレオナルドが見えた。私は手を挙げて知らせる。


「レオナルド様!こっちです!」


 私はセリアンを担ぎなおし、エリーゼを抱えレオナルドたちのいる方へ走り抜けた。


「魔物をお願いします!」

「分かった!進むぞ!」


 レオナルドの合図で騎士たちが魔物に向かう。

 私はエリーゼを、ゲームで彼女が隠れていた定位置の茂みに座らせると、セリアンを抱えたまま校内へ続く裏口へと向かった。


「ちょ、ちょっと、アイリス!」


 私は階段を駆け上がった。目指すは屋上。屋上なら魔物の様子も見えるし、安全だ。ゲームの展開通りなら、フェンリル・ウルフがセリアンに襲い掛かることもない。

 できるだけエンディングに近づけること、そしてそのエンディングを確認するためにも屋上は最適な場所だ。

 屋上に着いて、私はようやくセリアンを下ろした。


「はあ……はあ……運動不足じゃなくて良かった……」

「アイリス、一体何が……」


 セリアンが問い詰めようとしたその時、下から魔物の咆哮と、剣のぶつかる音が聞こえた。

 私たちは手すりから下を覗き込んだ。


 中庭では、レオナルドが剣を振るっていた。彼の剣技は見事で、フェンリル・ウルフに傷をつけていく。エリーゼは彼の背後で、回復魔法を唱えている。


「……完璧だわ」


 私は呟いた。

 これがゲームのクライマックスシーン。攻略対象が主人公を守りながら魔物を倒す、感動的な場面。


 ゲームでは、この時セリアンは既に死んでいて、レオナルドが「セリアンの分まで!」と叫びながら戦う。


 でも今は違う。

 セリアンは私の隣で、無事に立っている。


「見てください、セリアン様。レオナルド様、格好いいですね」

「……ええ」


 セリアンの表情は複雑だった。


「エリーゼも、輝いています」

「ええ……」

「二人とも、幸せそうです」

「……そうですね」


 セリアンの声が震えた。


 下では、ついにレオナルドがフェンリル・ウルフを倒した。大きな音を立てて地面に倒れたそれは、もうピクリとも動かない。そして、レオナルドはエリーゼを抱きしめた。


「エリーゼ、無事で良かった」

「レオナルド様……」


 二人は見つめ合った。そして、ゆっくりと顔を近づけ、口づけを交わす。

 まさに、ゲームのエンディングシーンそのものだった。


「……ああ、終わったのですね」


 セリアンが小さく声を漏らした。


「セリアン様」


 私は彼の手を握った。冷たく震えたそれを、できるだけ強く握る。私の体温が、少しでも彼に伝わってほしいと思った。


「……アイリス」

「セリアン様。あなたは生きています。あなたは、まだこれから幸せになれるのですよ」

「僕が……幸せに?」

「ええ」


 私は深呼吸した。心臓の奥が震えて、少し痛む。でもその痛みを押し退け、声を振り絞る。


「セリアン様。……私ではだめですか?」

「え……」

「私、ずっとあなたのことが好きでした。最初に会った時から……いえ、もっと前から」


(前世から、とは言えないけれど)


 セリアンの顔をまともに見ることができず、握った手と地面を見ながら私は続けた。


「あなたは聡明で、優しくて、強くて、それでいて少し不器用で。そんなあなたが、私は大好きです。いつか、あなたが私だけを見てくれる日まで私は待ちますから」

「アイリス……」

「エリーゼを想うあなたも、素敵でした。でも、もうエリーゼにはレオナルド様がいます。だから」


 私は両手に力を込め、顔を上げてセリアンを真っ直ぐに見据えた。


「今度は、私だけを見てくださいませ。私は、あなたのことを誰よりも大切に思っていますわ。その気持ちだけは誰にも負けませんわ」

「……本当に、僕でいいんですか?」

「あなたがいいのです。あなたでないとだめなんです」


 セリアンは震える手で私の頬に触れ、ゆっくりと微笑んだ。その笑みは、これまで一度も見たことのない表情をしていた。


「……実は」


 彼が言った。


「僕が庇おうとしたのは、エリーゼではないのです」

「え?」

「あなたです、アイリス」


 私は呆然とした。

 セリアンがその命を投げ打ってまで庇おうとした相手が、エリーゼではなく、私?


「魔物が襲ってきた時、僕が見たのはエリーゼの隣にいたあなたでした。あなたが危ない、と思って、僕は走り出したのです」

「で、でも……」

「この数ヶ月……いえ、もっと前から僕は、心のどこかであなたに惹かれていたのだと思います」


 狼狽える私に、セリアンは手を強く握り返した。その手は既に温かくなっていた。


「あなたはいつも僕の隣にいてくれた。励ましてくれた。一緒に笑ってくれた。思い返せば、あなたといる時間が一番幸せな時間でした」

「セリアン様……」

「エリーゼへの想いは確かにありました。でも、それは憧れのようなもので。あなたへの想いは……もっと深くて、温かくて」


 セリアンは言いながら私を抱きしめた。その温かさが、痛んでいた心臓を癒していく。


「だから……僕が言おうと思っていたのに」


 セリアンが照れたように笑った。


「だって、待ちきれなかったんですもの……!」

「強引ですね」

「あなたが優柔不断だからです」


 私たちは笑った。

 下では、エリーゼとレオナルドが周りの人々に祝福されている。


「アイリス」


 セリアンは身体を離すと、私の手を握った。


「僕と、付き合ってください」

「はい……!喜んで」


 私は満面の笑みで答えた。夕日が、私たちを照らしていた。

 ゲームのエンディングではない。

 これは、私たちだけの、新しい物語の始まりだった。



 それから半年後。

 私とセリアンは、正式に婚約した。両家の承認も得て、モブ令嬢ながらも学園中が祝福してくれた。


「アイリス、おめでとう!」


 エリーゼが駆け寄ってきた。彼女も、魔物襲撃事件から程なくしてレオナルドと婚約した。


「ありがとう、エリーゼ」

「セリアンを幸せにしてあげてね」

「ええ、もちろん。全力で愛するのみよ」


 セリアンは相変わらず、少し照れくさそうにしている。


「アイリス、あまり恥ずかしいことは……」

「何を仰っていますの。……これでは先が思いやられますわね。正式に婚約したのですから、今まで我慢していた分、心ゆくまで可愛がっていただこうと思っていますのに」

「え」


 セリアンの顔が固まり、時間差で真っ赤になる。こんな彼は、ゲームでも見たことがない。私だけが出せる、私だけの表情だ。


「冗談です」

「……本当に?」

「半分は本当です。もう半分は私が可愛がって差し上げますわ」

「な……アイリス!」


 あの日から、セリアンは少しずつ変わった。もっと自信を持つようになり、もっと笑うようになった。

 そして何より、彼は私を見てくれるようになった。


「ねえ、セリアン様」

「なんですか?」

「私、実は……」


 言おうかどうか迷った。私が転生者であること。前世からセリアンが好きだったこと。ゲームの世界だと知っていたこと。

 でも、やめた。


「なんでもありません。あなたと出会えて幸せだって、改めてそう思っただけですわ」

「僕もです。あなたと出会えて本当に良かった」


 彼は私の手を握った。


「これからもずっと隣にいてください」

「もちろんですわ。絶対に離しませんから」


 私は彼の手を握り返した。窓の外に広がる空は青く、風は穏やかで、私たちの前には明るい未来が広がっていた。

 当て馬キャラなんて、もう誰にも言わせない。


 セリアン・アルトワは、私だけの、かけがえのない恋人なのだから。







ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


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改めて、ここまでお付き合いくださりありがとうございました!

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