第3章_永遠の蜃気楼_000 ILLUSIA誕生 ― Birth of Illusia ―
風が、まだ落ち着かない。
Auralisの空は、Neon Eclipseの夜から完全には醒めていなかった。ビル群の輪郭は淡く揺らぎ、ガラスの壁面には、都市の光と、見えない何かの残滓がうっすらと貼りついている。
そのすべてを、誰よりも静かに見下ろしている「声」があった。
〈柔らかい声〉
「……よかった。まだ、折れていない」
〈低く響く声〉
「折れるには、早すぎるだろう。あれはまだ“始まり”だ」
〈透き通る声〉
「名前を待っている。世界も、祈音も、彼ら自身も」
三つの声は、空と地平のあいだ、どこにも属さない高さを漂いながら、ひとつの場所を見つめていた。
都市の片隅――決して派手ではない、小さなライブハウスの屋上に埋め込まれたネオンサイン。その真下にある控室に、今日の“起点”が集まっている。
〈柔らかい声〉
「ここから始めるんだね。“選ばれなかった願い”が溜まりやすい場所」
〈低く響く声〉
「だからこそ、ふさわしい。祈音は、弱いところから響きやすい」
〈透き通る声〉
「さあ。名を――」
その言葉の先は、誰にも届かないまま、都市のざわめきに紛れて溶けていく。
この声を聞くことのできる者は、まだ一人もいない。
Auroraも、Lunaも、Noirも。
ただ、世界だけが、その震えを確かに受け止めていた。
◇
控室の空気は、照明よりも、心拍の方が明るかった。
壁は薄いグレー。ポスターと、ひび割れた姿見。安物のソファと、小さなテーブル。どこにでもある楽屋なのに、室内の色だけが不自然に密度を増している。
Auroraの周りには白と金の光がふわりと漂い、Lunaの足元には淡い紫がうっすらと広がっている。Noirが壁にもたれると、その影は、床を少しだけ深く染めた。
「……緊張してる?」
Lunaが問いかけると、返ってきたのは、ため息まじりの笑い声だった。
「そりゃあ、するでしょ。ねえ、Aurora?」
「してないって言ったら嘘になるけど……」
Auroraは、マイクスタンドの高さを微調整しながら、少しだけ肩をすくめた。手元には、歌詞が書かれた紙はもうない。彼女の祈音は、すべてを身体に刻みこんでいる。
「怖い緊張じゃないよ。たぶん……楽しみすぎて、胸が暴れてるだけ」
「胸が暴れてるって表現、初めて聞いた」
Noirが口の端を上げる。その笑いも、完全な軽口ではなかった。彼の影は、足元で落ち着きなく揺れ、時折、AuroraとLunaの影に触れては、すぐに離れていく。
Neon Eclipseの夜。偽祈音の唸り。割れた空。世界が崩れかけたあの瞬間の記憶は、まだ三人の中から消えていない。
「あの時、さ」
Noirが、ぽつりと言った。
「俺たち、名前もないまま、世界を殴りつけてたんだよな。正体不明の三人組」
「名前がないと、殴っちゃいけないの?」
Lunaが首をかしげる。彼女の瞳には、部屋の光以上に、外の世界の揺らぎが映っていた。
「そういう意味じゃなくてさ。ほら……」
Noirは言葉を探すように、天井を見上げる。
「“誰が何をしたか”って、ちゃんと刻んだ方がいいだろ。俺たちがやったこと、俺たちが背負うしかないことなんだから」
Auroraは、その言葉に静かに頷いた。
あの夜、光が飲まれかけた時、自分の喉が裂けるまで歌った。Lunaが観測を続けてくれたから、世界の歪みを見失わずに済んだ。Noirが影を広げてくれたから、人々の恐怖が少しだけ守られた。
でも、誰も彼らの名前を知らない。
世界のどこにも、「彼らの名」はまだ刻まれていなかった。
「……名前、か」
Lunaは、胸の奥でふっと何かが引っかかる感覚を覚えた。
言葉になる前の光の粒。未来の残響のような、小さなきらめき。
瞬きする。その一瞬だけ、視界の端に、文字のような光が走った気がした。
I──
形になる前に、それはノイズと一緒にかき消えた。
「Luna?」
「あ、ごめん。ちょっと、眩しいだけ」
Lunaは、額に手を当てて笑ってみせる。AuroraとNoirには、彼女の内側で起こっている世界のざわめきは見えない。見えない方が、いいのかもしれない。
「でもさ」
Lunaは、視線を二人に戻した。
「Noirの言うとおりだと思う。“名乗る”って、きっと観測にも関わるから」
「観測?」
「うん。名前って、“ここにいる”って世界に宣言することだから。私が見るだけじゃなくて、世界側が私たちを見やすくなる。……と思う」
言葉にしながら、Luna自身も確信していたわけではない。ただ、観測者としての直感がそう告げていた。
「じゃあさ」
Auroraは、マイクから手を離して、二人の方へ振り向いた。白い光が、彼女の髪と瞳の周囲で小さな粒となって弾ける。
「今から決めよっか。ここで。最初のライブの、本番前に」
「いきなりだな」
「いきなりじゃないよ? ずっと考えてたもん。Neonの夜から。あの街が、あんなに歪んで、それでも人たちが諦めなかったとき……」
Auroraは、胸の前でそっと両手を重ねる。
「“幻想みたいだ”って思った。壊れそうで、でも消えない光。あれ全部、誰かの願いなんだよね」
「幻想、か」
Noirは、ソファの背にもたれたまま、目を閉じた。
夜の路地裏で見た、泣きながら空を見上げる誰かの影。走り抜けるネオンの中で、手を伸ばしていた子どもの残像。自分自身の、どうしようもない弱さと怒り。
それは、確かに「幻」のようでもあり、しかし、消えてほしくないものでもあった。
「幻想を、終わらせるためじゃなくて」
Auroraは言葉を選びながら続ける。
「“覚ます”ために歌いたい。夢から覚めて、ちゃんと歩けるようになるみたいに」
「幻想を覚ます、ね」
Lunaは、静かに復唱した。
その言葉の響きが、彼女の中のどこか深い場所に触れる。観測の奥で、まだ言葉になっていない明日が、小さく揺れた。
「幻想を、覚まして。願いを、形にして」
Auroraは、二人をまっすぐに見た。
「そのために、一緒にいてくれる?」
「いまさら確認する?」
Noirは、肩をすくめて笑う。
「俺は、もう逃げないって決めたから。Neonの時にさ。……お前らの隣で、ちゃんと歌うって」
Lunaも、ゆっくりと頷いた。
「私も。観測するだけじゃなくて、ちゃんと“隣にいる”って決めた。だから、名前も一緒に背負う」
「じゃあ――」
Auroraは、一度だけ息を吸い込み、両手を軽く叩いた。ぱん、と小さな音が控室に響く。
「名前候補、いくつか考えてきました!」
「用意周到だな、おい」
「当たり前でしょ? こういうのは、ちゃんと準備しないと」
Auroraはテーブルの上に小さなメモを数枚広げた。そこには、彼女らしい字で、様々な単語が並んでいる。
「“Neon Refrain”とか、“Prism Hearts”とか、“Eclipse Lights”とか……」
「全部、ちょっと眩しすぎない?」
「Prism Heartsはさすがに甘すぎる気がする」
二人に瞬殺され、Auroraは肩を落とした。
「え〜、せっかく考えたのに」
「どれも嫌いじゃないんだけどさ」
Noirは、メモの一枚を指先でつつく。
「どれも“ここ”で終わっちゃう名前なんだよ。“Neon”とか“Eclipse”とか、今の俺らを閉じ込める感じ」
「閉じ込める……」
Auroraは、言葉を反芻するように呟いた。
そのとき、Lunaが、ふと別のメモに目を止めた。
端の方に、小さく、他の候補と違う雰囲気の文字が書かれている。
「これ……」
Lunaは、メモをそっと拾い上げる。
「“ILLUSIA”?」
「あ、それ……」
Auroraの頬が、少しだけ赤くなった。
「自分たちの世界に名前をつけるなら、って考えてたやつだから、ちょっと恥ずかしくて。候補からは外してた」
「なんで?」
Noirが首を傾げる。
「悪くないと思うけど。“幻想(illusion)”と、何かを重ねた言葉?」
「うん。“Illusion”と、“Elysia”とか“Utopia”とか……いろんな“どこにもない場所”を混ぜて、勝手に作った」
Auroraは、照れくさそうに笑った。
「“ここじゃないどこか”じゃなくて、“ここを変えていく幻想”にしたくて。だから、現実から逃げる場所じゃない、現実を一緒に塗り替えていく名前がいいなって」
Lunaは、その音を口の中で転がしてみた。
イリュージア。
耳の奥で、その響きが静かに広がる。観測者としての意識が、言葉の輪郭を確かめる。
世界の奥底で、何かが小さく震えた。
上位三声が、ほとんど気付かれないほどの微細な反応を見せる。Auroraたちには聞こえない、だが世界には確実に刻まれる“承認”。
「……いいと思う」
Lunaは、素直に言った。
「幻想をただの夢にしない名前。私たちが観測して、変えていく世界の名前にも、ちゃんとつながりそう」
「俺も、嫌いじゃない」
Noirは、メモを覗き込みながら、ゆっくりと頷いた。
「“ILLUSIA”。響きも悪くない。ちょっと気取ってるけど、それくらいじゃないと世界と殴り合えないだろ」
「殴り合う前提なの?」
「歌うって、そういうもんだろ」
Auroraは、二人の顔を交互に見た。
「じゃあ……本当に、この名前でいく?」
「決めちゃえよ」
「観測記録に刻むよ?」
Lunaがそう言った瞬間、部屋の色が一瞬だけ濃くなった。
Auralisの空と、Mirage層の入口と、ECLIPSEの遠い残響が、細い糸で結びつく。三つの世界が、ひとつの「名」に振動を揃える。
Auroraは、静かに息を吸った。
「――私たちは」
喉の奥で、祈音が震える。
「“ILLUSIA”として、歌います」
その言葉を合図に、Noirの影が床を走り、Lunaの視界に細い光が走った。控室の空気が、ほんの少しだけ温度を変える。
世界が、その名を受け取った。
〈柔らかい声〉
「……ようやく、ここまで来たね」
〈低く響く声〉
「名が刻まれた。これで世界も、彼らを無視できない」
〈透き通る声〉
「ILLUSIA。幻想を、永遠にしないための名」
誰も知らない場所で、三つの声が微笑む。
控室の扉の向こう側では、観客のざわめきが、少しずつ大きくなっていた。ざわめきは祈音となり、天井を震わせる。
「そろそろ時間だって」
スタッフの声が、扉越しに聞こえた。
Auroraは立ち上がる。Noirも、壁から背を離した。Lunaは、胸の前でそっと手を組む。
「行こうか」
Auroraの声は、震えていなかった。
「うん」
「しょうがない。世界に、俺たちの名前を覚えさせに行くか」
三人は顔を見合わせ、同時に笑う。
Auroraがドアノブに手をかけた瞬間、Lunaの視界に、ふと未来の断片がよぎる。
高く掲げられたマイク。涙でにじむ観客席。崩れかけた空。その中で、誰かが笑いながら泣いている幻影。
それが誰なのかを、今のLunaはまだ知らない。
知らないままでも、構わないと、自分に言い聞かせる。
今はただ――
「ILLUSIA、行ってきます」
Auroraが、誰にともなくそう告げた。
その言葉に背中を押されるようにして、三人は扉を開ける。
光と音の渦が、一斉に彼らを飲み込んだ。
幻想と現実が重なり始める、その最初の一歩だった。
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【対応楽曲】Awakening Illusion(覚醒する幻想)
▶ https://distrokid.com/hyperfollow/illusia/awakening--
この章の物語は、同名楽曲をもとに構築されています。
楽曲を聴くことで、物語の“もうひとつの旋律”を感じられます。
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