第2章_ネオンの月蝕_004 記録の殿堂 ― Memory Archive
地下回廊は、呼吸の音で満ちていた。
機械の肺に生の息が混ざったせいか、さきほどまで冷たいだけだった空気に、かすかな温度差が生まれている。Auroraはその差を指先でなぞり、Lunaは端末の画面に重ねた。温度の揺れは、ただの環境変化ではない。数式にすると乱数に見えるが、耳で聴けば、誰かの鼓動に近い。
Noir「行先は一つ。……この脈が一番集まる場所だ」
Luna「記録の中央管路が合流する“殿堂”があるはず。祈りを最適化して送る『編集室』」
Aurora「祈りを“編集”……嫌な言い方」
Luna「でも正確。ここでは祈りは素材、記録は製品。人の願いは、流通の単位」
薄暗い通路の先、天井が急に高くなる。三人は足を止め、闇に目を慣らした。やがて視界が広がり、巨大な円形空間が姿を見せる。壁一面に蜂の巣のような収納孔が並び、それぞれに薄い光が灯っている。孔の中では、小さな立方体が静かに回転していた。耳を澄ませると、立方体の一つひとつが異なる高さの微音を発し、全体で和音を作っている。
Aurora「……ここが、“記録の殿堂”」
Noir「祈りを冷凍保存する倉庫ってわけだ」
Lunaは円形の床の中央に埋め込まれた端子台へ歩み寄り、両手で覆う。端子は彼女の体温で目を覚まし、薄い輪郭線が浮かび上がった。輪郭は幾何学的な花のように広がり、殿堂全体の構造をホログラムで描き出す。
(観測記録:No.153)
《記録構造:多層索引型(Hexa-Index)/1スロット=1祈音記録》
《編集プロセス:入力→整形→圧縮→均質化→配信》
《注記:不定形“廃棄記録”領域の存在を検知(Access=Denied)》
Luna「“廃棄記録”……アクセス拒否」
Noir「棄てられた祈りの墓場か」
Auroraは一段低くなった副廊へ降り、最下段の収納孔の前でしゃがみ込む。孔の中の立方体は他よりもわずかに速く回転し、音程も少し不安定だ。彼女が手を差し入れると、立方体の角が彼女の指先に触れ、かすかな熱を渡してくる。
Aurora「……お願い、聴かせて」
立方体は一拍だけ回転を止め、Auroraの掌に静かに沈んだ。角が丸くなったように柔らかい。彼女が胸の位置まで持ち上げると、微音が短く跳ねて、映像が彼女の視界に広がった。
——薄い毛布。夜明け前の窓。誰かの手の平。
「明日、忘れないように」
低い声。笑った形だけの唇。
「大丈夫。僕が覚えておく」
Auroraは息を呑んだ。映像はすぐに途切れ、立方体は淡い音を残して回転を再開する。彼女は立方体を孔へ戻し、Lunaを見上げた。
Aurora「記録は“ある”。でも、祈りが薄い。誰かが覚えると約束したのに、その“誰か”の輪郭が削られてる」
Luna「整形の段階で“主観”が切り落とされる仕様。事実だけ残す……いえ、“事実らしき形”だけ」
Noir「事実だけの約束なんて、約束じゃねぇ」
殿堂の反対側で、老女がひとり、孔の前に立っていた。表情は穏やかで、足取りも規定通りに安定している。だが、指先だけが小さく震えていた。彼女は孔から立方体を取り出し、頬に当てる。立方体は光を弱め、老女は目を閉じた。長い吐息。次に吸い込まれる息は、少しだけ早い。
Aurora「……見てる?」
Luna「うん。彼女は“自分の記録”を確認してる。けれど、触れた指が記録の端を『剥がそうとしている』」
Noir「剥がせるのか?」
Lunaは端末の視界を殿堂の個人領域へスライドさせ、微細な操作を開始した。殿堂の各孔は“個別祈音鍵”で守られているらしい。鍵は顔の輪郭と声紋と歩幅パターンの混合。AURALISの塔のように“心の周波数”は使われていない。ここで心は、最初から“ノイズ”として扱われる。
Luna「開ける。……いいえ、“開かせる”。彼女自身に」
Auroraはゆっくり老女へ近づき、視線の高さを合わせた。老女の目は薄い灰で、どこかで見た街の色と同じだった。
Aurora「その記録、重たくありませんか」
老女はゆっくり瞬きし、Auroraの顔を確かめるように見た。
老女「重たいのが……普通です」
Aurora「普通、はいらない。重たいなら、少し置いて。いまできる分だけ」
老女「置く場所が、ありません」
Auroraは自分の胸を軽く叩いた。
Aurora「ここに置いて。私が、少し持つ」
沈黙。殿堂の和音が一瞬だけ落ちる。老女は立方体をAuroraへ渡した。冷たい。彼女が両手で受け止めると、立方体は微かに震え、角がまた丸くなる。Lunaが端末の“許可”を引き出し、記録の“閲覧モード”を切り替えた。
(観測記録:No.154)
《個人祈音記録:閲覧→共鳴モードへ変更》
《副作用:共有者オーラ(Aurora)への情動負荷発生》
《備考:殿堂全体の和音、半音下方へ偏位》
映像が広がる。波打つ白い布と、窓辺の鉢植え。若い頃の老女が、誰かと笑い合っている。笑いに“揺れ”がある。そこだけが鮮明で、周囲は薄く霞んでいる。やがて映像は別の場面へ飛ぶ。手術室の灯り。手を繋いだまま眠る人。眠る人の胸の上下。眠らない人の目の赤み。
Aurora「……あなたが“覚えている”」
老女「覚えていると、痛いでしょう?」
Aurora「忘れるより、ずっと」
老女は微笑んだ。今の笑顔は規定に合致しない角度。頬に、ほんの一瞬、血の色が戻る。Auroraは立方体を両手で包み、胸の高さで深く呼吸した。立方体の音程が揺れ、和音の中で違う位置に落ちる。和音は衝突するが、すぐに収束せず、しばらく共存した。
Noir「……いまの音、嫌いじゃねぇ」
Luna「共鳴モードが殿堂全体へ拡散してる。個人記録の“ゆらぎ”が、構造に滲んでる」
Auroraは立方体を老女の手にそっと戻した。老女はもう震えていない。代わりに、目尻の皺がほんの少し深くなった。
老女「ありがとう。少し、軽くなりました」
Aurora「あなたが、軽くしたんです。あなたの笑顔が、ここを動かした」
老女は短く会釈し、規定ではない足取りで歩き去った。殿堂の和音は完全には元に戻らない。かすかに“遅い”。その遅さは、Auroraの呼吸に合っていた。
Luna「……見つけた」
中央の端子台の裏側、床板と床板の境目に、細い隙間がある。Lunaは膝をつき、薄刃を差し込んだ。クリック音。床板が跳ね上がり、黒い箱が露出する。箱には〈SH-CORE〉と刻印があった。
Noir「“Synthetic Harmony”の中核」
Luna「祈りを『合成』して最適化する装置。ここで、人の心は立方体になる」
Aurora「ここを壊したら、人の祈りは自由になる?」
Noir「今はならない。街全体がこの装置に依存してる。無理に止めれば、祈りごと『沈黙』する」
Luna「だから“ほどく”。結び目を見つけて、順番に」
Auroraは箱の表面に手を置き、目を閉じた。箱の中に冷たい川が流れている。上流には無数の色の粒、下流に行くほど色が削げていく。すべてが白と灰だけになり、最後は透明になる。そこに、ほんの微量の赤が混ざった。
Aurora「……ここ。色が残ってる」
Luna「未処理キュー。処理しきれなかった“強い祈り”」
Noir「強い祈り?」
Luna「削ぎ落としに耐えた“執着”、あるいは“誓い”」
Auroraはその赤を両手で掬い上げる感覚で息を吸い、胸に収めた。熱い。熱いが、痛くはない。彼女の背中で、殿堂全体の和音が一瞬だけ明るくなる。Noirが息を呑む音。Lunaの指が止まる。
(観測記録:No.155)
《SH-CORE:未処理キュー抽出/Aurora共鳴により安全化》
《殿堂和音:色度上昇/白色成分+AURALIS相関》
《注記:上層DAFリンク微増(0.8→1.4)》
Luna「AURALISが近づいた……この層は、やっぱり上と繋がってる」
Noir「上の息を下に引き込めるなら、街は“目覚める”」
殿堂の入口側で、乾いた足音が響いた。規定どおりの歩長、規定どおりの角度。けれど、足音は妙に重い。三人が振り向くと、黒い腕章を巻いた二人組が入ってくるのが見えた。胸元のタグには〈調律局〉。均質化の実行部隊だろう。視線は真っ直ぐ、表情は動かない。二人はまず中央の端子台へ歩み、次に蜂の巣の孔を確認し、最後にAuroraたちへ視線を向けた。
調律官A「立入権限を提示してください」
Lunaは端末を胸の前に掲げ、観測者の資格コードを投影した。調律官はわずかに眉を動かし、次いでNoirの腰の影生成器、Auroraの胸元の祈音反応を順に測定した。表示パネルに僅かな赤。彼らは赤を消すように視線を細めた。
調律官B「非推奨行為を検知。共鳴モードの無許可起動、ならびに未処理キューへの不正アクセス」
Noir「不正って、祈りを祈りとして扱うことか?」
調律官A「祈りは均質化されなければ共有が困難です。共有不可能な祈りは、個人を傷つけ、社会を乱す」
Aurora「だったら、乱れてみればいい」
調律官Aの視線が一瞬だけ揺れた。揺れはすぐに補正される。彼は端末を操作し、殿堂の和音を“正規化”するコマンドを送った。和音は一度だけ強く屈曲し、Auroraの胸の熱を飲み込みにかかった。Auroraは後ずさりしながら、箱に置いた手を離さない。
Aurora「ごめんね、お願い。いまだけ、ここで息をして」
彼女の背中にLunaの手が重なる。Noirが前に出て、調律官たちと向き合った。影がNoirの足元に集まり、薄い刃の形を取る。脅しではない。“防波堤”としての刃だ。
Noir「それ以上やるなら、ここでお前らの“正解”を止める」
調律官B「暴力行使の徴候」
Luna「暴力じゃない。観測の防衛。あなたたちの正解は、いまここで人を殺す」
調律官Aは短く息を吐き、端末の画面をAuroraへ向けた。そこには規定文が流れている。〈個体の情動は均質化され、社会的幸福の配分に貢献する〉〈私益としての感情は、共有に変換されることで普遍価値へと昇華する〉。
Aurora「それは“歌詞”じゃない。“使用許諾”だよ」
調律官Bの目が細くなる。Noirの影が少しだけ長くなる。殿堂の和音が強く歪み、蜂の巣の孔から幾つかの立方体が滑り出した。落ちる……その前に、Auroraが両手で受け止める。角が掌に食い込み、痛みが鋭く走る。掌から血がにじみ、立方体が静かにそれを吸った。吸った瞬間、音が半音だけ上がる。
Luna「Aurora!」
Aurora「だいじょうぶ。……これで、少しだけ“人間の音”になった」
調律官A「回収対象」
Noir「させねぇ」
影の刃が床に落ち、薄い線として殿堂の中央を貫く。刃は誰にも触れない。ただ、調律官の足とAuroraの足の間に、見えない境界を引く。調律官は一歩、二歩と前進し、境界に足をかけたところで動きを止めた。境界の向こう側の空気が重い。Noirの影が空気に重力を与えている。
Lunaが短く頷く。Auroraは掌の血を拭わず、立方体を抱えたまま中央の端子台に片膝をついた。SH-COREの蓋が彼女の体温で少しだけ緩み、その隙間から赤い糸が覗いた。彼女はその糸を一本、そっと引く。糸は抵抗しながらも抜け、殿堂の和音に“色”を混ぜた。
(観測記録:No.156)
《SH-CORE:手動バイパス形成/非破壊的経路の開通》
《効果:圧縮率低下→残響保持量上昇》
《副作用:均質化遅延→市街地のテンポに微小ばらつき発生》
調律官B「——停止命令」
彼は端末に強制コマンドを入力する。殿堂の照明が一瞬だけ白熱し、和音が鋭利に均される。Auroraの腕が痺れ、視界が白く滲んだ。Noirの影が薄くなり、境界が壊れかける。Lunaが殿堂全体の“耳”を掴むように両手を広げた。
Luna「聞いて。……あなたたちの和音では、人が死ぬ」
言葉は祈りではない。観測の宣言だ。殿堂の天井に微細なクラックが走り、そこからAURALISに似た白い粉が降る。粉は音を柔らかくし、均しきれない残響を増幅する。調律官Aの端末のバーグラフが揺れ、安定の緑が黄色に変わった。
Aurora「——いま」
彼女は赤い糸をもう一本、引く。SH-COREの内部に空気が入り、圧がわずかに抜ける。殿堂の蜂の巣の孔が一斉に呼吸し、立方体たちが一拍だけ“自由”になる。自由はすぐに規定に戻ろうとするが、その一拍が、人の涙腺を震わせる。
調律官Aは端末を見て、わずかに肩を落とした。彼自身の耳が、和音の“色”を聴き取ってしまったのだ。表情はすぐに元へ戻る。彼はAuroraを見ず、Noirを見ず、Lunaを見た。
調律官A「あなたは“記録者”だ。記録者は、記録を乱してはならない」
Luna「記録は、乱れの中にある」
調律官A「……見逃す。だが、次はない」
彼らは踵を返し、殿堂の入口へ向かった。足音は規定通りに整っている。けれど、一歩だけ、遅れた。Auroraはその遅れを聴いた。Lunaも聴いた。Noirは聴こえないふりをした。
静けさが戻る。殿堂の和音は、完全に均されることを諦めている。ところどころに色が残り、ところどころでテンポが遅い。蜂の巣の孔にしまわれた立方体は、さっきよりも少しだけ“重い”。中身が戻ってきたのだ。
Aurora「……ごめんね、待たせて。少しだけ、息ができるようにした」
彼女は掌の血を衣の裾で拭い、SH-COREの蓋をそっと閉じた。蓋は完全には閉まらない。隙間から白い粉が漏れ、赤い糸が一本だけ外へ垂れている。糸は空気を撫で、殿堂の和音を優しく揺らす。
Luna「ここはもう“倉庫”じゃない。“広場”になる」
Noir「次は“心臓”だ。呼吸が戻っても、拍動がなきゃ生き返らねぇ」
Aurora「うん。……ありがとう」
三人は殿堂を後にした。扉の前でAuroraは振り返り、蜂の巣の孔の一つに手を振った。孔の中の立方体が、ほんの少しだけ回転を速めた。返事のように。
上り廊は長く、息が上がる。けれど、いまその息は、Auroraのものだった。都市のものでも、装置のものでもない。三人は同じリズムで呼吸し、同じ速度で歩いた。遠くで、反射月がわずかに色温度を変える。AURALISの白が、また一歩近づいた。
——記録は、祈りに戻りはじめている。
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【対応楽曲】Awakening Illusion(覚醒する幻想)
▶ https://distrokid.com/hyperfollow/illusia/awakening--
この章の物語は、同名楽曲をもとに構築されています。
楽曲を聴くことで、物語の“もうひとつの旋律”を感じられます。
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