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終章

 心地よい香りが鼻腔を擽る。

 その香りは、苦味があったり酸味があったり。

 甘かったり、香ばしかったりと多種多様だ。

 そして香りの記憶というモノは、特に思い出を喚起しやすいという。プルースト効果と呼ばれるコレは至るところで起こる。

 例えば雨の匂いを嗅いで幼少期を思い出したり、特定の香水の匂いを嗅いで、身近な人を思い出すきっかけになるという。 

 ……だからかもしれない。

 その香りに触れると、幸せなことばかりを思い出す。

 想い人と初めて会った日のことを。

 想い人から赤い薔薇の花束を貰った日のことを。

 そして――告白された瞬間(とき)のことを。

 

 ✿ ✿ ✿

 

「コーヒーはね、お湯の温度が一番大事なんだよ。お湯の温度が一度でも違っただけで風味は変わるし、蒸らした時間の長さでも味の深みが変化する飲み物なんだ」

 まるで専門家のように、コーヒーについて語らいながら忍くんは目の前でネルドリップという布製のドリッパーを使いながら校長先生こと、お祖父さん用のコーヒーを淹れていた。

 一滴一滴のお湯が注がれる度に、香ばしい匂いが校長室全体に広がっていく。その香りに思わず瞳を細め、肺腑の奥まで吸い込んでは細く吐息を零した。

「良い香りだね……。そう言えばコーヒーの香りについて少し調べたんだけど、コーヒーのアロマって千種類もあるんだって。凄いね……」

「焙煎や挽き方、淹れ方でだいぶ変化するからね。奥深くて楽しいでしょ?」

「うん。ここまで奥深いものだなんて、俺知らなかったよ」

『バリスタ同好会』を設立してからというもの、校長室の片隅でコーヒーを淹れながら調べたことの共有や味の変化について語り合う日々を過ごしていた。

「そういえば『バリスタ』ってさ、年齢関係なく取れる資格らしいね。――オレ達、とっちゃう?」

「そうなんだ。とるならもっと技術を磨かないとね」

 取れそうな資格なら是非チャレンジしたいと思う。

 そして今は技術面ではまだま忍くんに劣るけれど、美味しいと言ってもらえるようなコーヒーを淹れたいと思った。

「えっと……『の』の字を描くようにお湯をいれる」

 一方で俺は、忍くんと自分用にとペーパーフィルターを使ってコーヒーを淹れる練習をしていた。コーヒーミルで挽いたばかりのコーヒーを紙のフィルターへ入れ、適した温度にまで達したお湯を『の』の字を描くようにゆっくりと注いでは、蒸らしていく。

 そうしてゆっくり抽出していったコーヒーを、二人分のマグカップに注ぎ、ミルクを足してカフェオレにした。

 お祖父さんにネルドリップ式で淹れたばかりのコーヒーを持っていき戻ってきた忍くんにマグカップを渡す。

「はい、忍くん」

「ん、ありがと」

 そうして二人で淹れたばかりのカフェオレに口付けると、思わず同時に苦笑いをした。

「なんだか……薄い?」

「アメリカンコーヒーってヤツだな」

 クスクスと忍くんは楽しそうに笑う。そして、

「オレの好みからは、まだ遠いかな」

 そう呟いた。好みから遠いと言われてしまうと、密かに悔しいような残念な気持ちになるものの、淹れたばかりのコーヒーを味わいながら互いに微笑んだ。

「コーヒーってこんなに研究しがいがあるんだね」

「だな。生豆買って、自分で焙煎できるようになったら、もっと幅が広がりそうだけどな」

 日も暮れて、校長先生から帰るよう促された俺達は、道具を片付けて急いで学校を後にした。

 梅雨が近いせいだろう。

 湿度と温度が高く、風は生温くて少しだけ不快感を煽った。雨の匂いまではしないものの、少しだけ雲行きが怪しい。それでも天気のことなどお構いなしに忍くんから寄り道をしようと誘われた。

「なあ、どこか寄り道しないか? 真琴、行きたいところとかある?」

「そうだなぁ……。それじゃあ、花屋さんに寄りたいな」

「花屋? 前に百合だとか薔薇だとか言ってたけど、今の時季に百合ってあったか」

「……まあ行ってみようよ。俺も花には詳しくないから、店員さんに聞こうと思って」

 そう促しながら、以前忍くんと来た花屋さんへと向かった。以前来た時とはまた花の種類が変わっていて、時季的に紫陽花の種類が多いように思えた。

「じゃあオレ、入口のところで待ってるから」

「うん」

 それだけ言い残すと、俺はカウンターにいた店員さんに勇気を出して声をかけた。そして目的の花と本数を伝え、ラッピングをして貰う。

(花なんて、初めて買うなぁ……)

 ドキドキしながらも精算し、綺麗に赤いリボンが結ばれた花束を受け取った。

「お待たせ。忍くん」

「そんな待ってないよ。……なんの花、買ったんだ?」

「ひ、秘密……っ」

「秘密ってなんだよソレ」

 クスクスと笑いながらも、一緒に店を出ると普段なら行きつけのカフェに立ち寄るどころだが、今日はそうしなかった。かわりに少し遠回りして忍くんの家のほうから帰りたいと告げると、忍くんはあっさりと了承してくれた。

「オレは長くいられるのが嬉しいから良いけど、真琴からしたら遠回りになるじゃん。いいの? あっ、それとも前みたく泊まってく? それならそれで大歓迎だけど」

「と、泊まるのは魅力的だけど……どうしようかな」

「いいじゃん。明日休みだし、夜遅くまで遊ぼうぜ」

 そう言って、忍くんは不意に俺の手を握ってきた。周囲は暗くて、人の気配はない。唯一の灯りと言えば、等間隔で設置されている電灯だけだった。

「それじゃあ、忍くんの家にお邪魔しようかな」

「やったね。ゆっくりしてってよ」

 電灯が仄かに自分達の姿を照らす。

 まるでその空間だけが、俺達を世界から切り取ったかのように包んでいた。

 今なら、花も映えるだろうと思った。だから、

「忍くん」

「ん……? おわ……!」

 俺は勇気をだして声を掛けると、グイと軽く腕を引いて抱き寄せた。その動作に驚いたのか、目の前にある忍くんの表情は少しだけ赤く、緊張しているようだった。

「忍くんにね、ずっと渡したかったんだ」

 そう言うと俺は、先ほど花屋で買ったばかりの薔薇の花束をおずおずと取り出す。

「えっと、ね……。これ、なんだけど……」

 そう言って、俺は九本の赤い薔薇の花束を見せた。

「これって……」

「忍くんなら、分かると思って……」

 そう言いながら、はにかむような笑みを浮かべた。

「忍くん。大好きだよ」

 

 九本の赤い薔薇の花束――その意味は、俺にとって変わることのない気持ち。

『いつも貴方を想っています』

『いつも一緒にいてください』


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