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四章

 桜庭真琴はマイペースな人間だ。

 昔から何処かぼんやりとして、他人から見れば間の抜けた人間に見えていたかもしれない。けれどそれは誤った見解だ。ぼんやりしているように見えていても、その頭の中は常にフル回転をしていた。思慮深い、そう言い換えてもいいかもしれない。

 けれど、そのことを人に伝えるのは難しい。理解を得ることは難しい――そう思わせることがあった。

 それは思っていることが、すぐに言葉として形にならないこと。思慮深いが故の、短所とも言えるところだった。

 家族に対しては、そんなことは起こらない。

 起きるのは決まって家族以外の対人関係で発生した。

 希有な見た目に加え、言葉足らず――それは真琴にとって人間社会に適応するためには致命的なハンデとなった。


 ✿ ✿ ✿


『バリスタ同好会』を設立したはいいものの、一応活動場所として使われていない空き教室を候補として見当していたが、時期は既に六月を過ぎていたこともあり、どこも部活や他の同好会で満席となっていた。

「やっぱ、空き教室はなかったかー」

「そうだね。出遅れちゃったもんね、俺達」

 部活動とは違い、同好会は顧問や生徒数、活動場所などに制限はない。そのメリットを活かせる場所はないかと色々校内を散策してみたものの、これと言って目ぼしい教室はすぐには見つからなかった。

 そうなると、自然と場所は絞られてくる。

(忍くんの家でするか。俺の家でするか……)

 そうぼんやりと考えていた時だった。

「よし、お祖父さんの所に行こう……!」

「えぇ……!」

 予想外の場所を提案され、俺は思わず声を上げた。

「お祖父さん……って、まさか校長先生のところ? えっと、まさか校長室でやるの?」

「うん。お祖父さんも嗜好品の類は好んで飲まれるし、別に問題ないんじゃないかな?」

 公私混同と言うべきか、平然ととんでもない事を提案する忍くんに心臓が追いつかない。校長室といえば、教師陣もそうだが一般生徒がそうやすやすと出入りしていい場所ではない筈だ。

 自分自身でもマイペースだと自覚することはあるが、忍くんはもしかしたら俺よりももっとマイペースなのかもしれない。

(きっと、心臓とか鋼でできてるんだろうなぁ……)

 忍くんのお祖父さんこと校長先生を見たのは入学式だけだ。たったそれだけで人柄などを到底判断できる筈もなく、ただただ怒られないだろうかという不安だけが胸の内側に降り積もっていった。

 不安がる俺とは対照的に、大丈夫大丈夫と言葉を繰り返す忍くんの後を着いて行きながら、俺達は校長室へと足を運んだ。

「なに? 同好会の場所に使いたいじゃと……?」

「そうなんです。空き教室が全滅で、もしお許しが頂けるならこの部屋の一角をお借りできませんか? 勿論、淹れたてのコーヒーを振る舞いますから」

「…………」

 肉親どうしとは言え、立場は校長先生と一生徒。

 そんな二人の会話に耳を傾けながらも、緊張しながら俺は忍くんの横にこそっと控えていた。きっと怒られるだろうな、とそんな不安で頭の中がグルグルしていたその時だった。

「成る程ね……まあ、構わんよ」

 驚いたことに、そんな軽い二つ返事が返ってきた。

「放課後に来客者が訪れることも少ない。こうして生徒との交流を深めるのも悪くはないじゃろう」

「ありがとうございます!」

 驚いたことに校長先生と話を取り付けてしまったことに唖然としながらも、慌てて頭を下げてはお礼を言った。

「忍、それに……真琴くんと言うたかな」

「は、はい……!」

 急に名前を呼ばれ、慌てて返事をする。

「コーヒーを淹れるにしてもどんな道具を使うつもりなんじゃ? ペーパードリップにネルドリップ、ステンレス製フィルターなんかもあるじゃろう。それにポットやサイフォン、コーヒーミルや豆も必要になってくる。用意はできるのかい?」

 つらつらと紡がれるコーヒーの知識に圧倒されながら、用意ができるのかと問われれば自分の家には単純に市販されているコーヒーメーカーしかない。『バリスタ同好会』と名乗るのなら、やはりそれ相応の道具と知識と技術が必要だと思った。

「ど、道具は……」

「ウチにあるのを持ってきて使おうかなと思ってます。コーヒー豆の焙煎も本当は生豆からしたいところですが、さすがに学校じゃあ無理なんでそこは事前に焙煎された物を使います」

 まるで質問を予想していたと言わんばかりにフォローをしてくれた。口ぶりからどうやらひと通りの道具は忍くんの家にあるようだ。伊達に家でも飲んでいる、と言っていただけのことはあるなぁと思いつつ、俺はもごもごと言葉を選びながらも精一杯告げた。

「美味しいコーヒーを淹れられるように頑張りますので、宜しくお願いします……!」

「……そうかい。それじゃあ楽しみにしているよ」

 深い皺が刻まれた瞳を柔和に細めながら、校長先生は穏やかに頷いた。

「それでは失礼します」

「し、失礼します!」

 話があっという間にまとまり許可を得ると、俺達は校長室を後にした。緊張のあまり深く息を吐き出すと、隣にいた忍くんはまるで面白い物でも見るかのようにクスクスと楽しそうに笑っていた。

「わ、笑わないでよ。忍くん」

「よっぽど緊張したんだね? 真琴」

「それは、当然でしょ。まさか校長室で活動をするなんて夢にも思わないじゃん。想定外すぎるよ、イレギュラーだよ」

 つい小言をもらしてしまうものの、こうして活動場所は固まった。一つ一つ課題をクリアしていることにホッと安堵していると、不意にこそっと忍くんが囁いた。

「お祖父さん用のコーヒーは俺が淹れるから、真琴はオレ用のコーヒーを淹れてね。スッゲー楽しみにしてるから」

 ニッと八重歯を見せて笑う忍くん。

 その姿に胸がドキドキしながら、コクリと俺は頷いた。その時だ。

「お、いたいた。おーい、神岸、桜庭」

 不意に俺達を呼ぶ声に振り返った。するとそこには担任の東先生がいて、こちらに近付いてきた。

「同好会の活動場所、無記名じゃないか。書いて再提出だぞ」

「あっ、はーい! 活動場所は今決まったんで、一緒に職員室に行きます。真琴、先に教室に戻って帰り支度しといてよ」

「うん、わかった。それじゃあ、同好会の書類提出、お願い」

 そう言って、俺達は一度別れた。

 

 茜色に染まる校舎。 

 部活動に勤しむ生徒達の声をBGMにしながら、俺は一人で誰もいない教室へと戻った。人知れず無意識に鼻歌が零れる。

 もっと色々なことを忍くんとしていけるのだと思うと、ワクワクが止まらない。どんなことがあっても、乗り越えられるんじゃないか――そんな自信がゆっくりとだが日に日に自分自身の中で育っていた。

 もう、昔のようにイジメられてばかりの自分じゃない。怯えてばかりの自分じゃない。そう気付かされるたびに、まるで新しく生まれ変われたかのような気分になる。

「早く、色んなことをもっと話したいなぁ……」

 ポツリとそう呟いた。刹那、 

「おい、オタク眼鏡。来い」

「え……」

 それは拒否権など無いと思わせるような圧倒的に強い言葉だった。放課後、誰もいない筈の教室だった。

 けれど振り返るとそこには体格の差はあれど、何人もの強面の生徒ばかりがいて全員が全員、まるで射殺さんばかりに此方を睨み付けていた。

(あ……っ)

 そして気付く。教室の入口近くの扉にはだいぶ前に俺をカツアゲし、いじめた同級生達もいた。

(嫌な予感しかないな……でも)

 逃げられる気など、いや、逃げる気など到底起きなかった。それは昔からいじめられ続けたが故の諦観からだった。

「……わかった。着いてくよ」

(どうして、自分ばかりがこんな目に……)

 そんな感情が一瞬浮き上がったが、すぐに泡のように割れて消えた。


「オタク眼鏡、テメェなに企んでやがる……!」


 放課後。場所は屋上。人っ子一人いない……いや、俺と加虐者達だけしかいない閉鎖的な空間で、突如まるで異端審問でも行うかのように問い詰められた。

 その意味が、真意が俺にはよく解らなかった。

(企む? 誰が? なにを? なんのために……?)

 様々な疑問がグルグルと頭の中を巡り巡る。

 だが結局、答えは持ち合わせてはいないし、出ることもなかった。

「あの、意味がわから――」 

 ない、と言おうとした途端胸ぐらを太い腕と手に掴まれた。

「惚けるんじゃねえ! あの“神岸”とつるんで何を企んでやがるって聞いてんだよ!」

「…………ッ!」

 鼓膜を破りそうな、どこか切羽詰まったような勢いすら感じる捲し立てる声。同時に複数人もの敵意を感じる視線が突き刺さる。

(俺……なにかしたのか?)

 言葉にできない黒い罪悪感が心を染め上げる。

 だがそれと同時に首を絞め上げられる感覚に息がつまった。

「ちが……、何も、知ら……ない」

 辛うじて呼吸をしながらも言葉を吐き出す。

 けれど、そんな言葉を聞き入れて貰えるほどやはり相手は甘くなかった。さらに絞め上げられる感覚に次第に呼吸ができなくなる。振り解く力も気力もないまま意識だけが霞んで消えていく。

 本当に理由が解らなかった。

 彼らがいったい何を恐れているのか。

 彼らが何故、忍くんを恐れているのか。

 その結果何が起こると言うのだろうか。

 答えなんてモノは何一つ、俺の中には存在していなかった。

(くる、し……い……)

 パクパクと呼吸を、酸素を取り込もうとしても一向に空気を取り込めない。その苦しさに、恐怖に身体が震える。 

(助け……て……。忍くん……)

 誰かに頼ることしかできない。

 自分一人じゃ何も解決できない。

 そんな情けなさを抱きながら、心の中で名前を呼んだその時だった。

「なにしてんの? テメェら」

 聞き覚えのある声が、耳朶に鋭く突き刺さった。

 その声はあまりにも冷たくて、聞き覚えがある筈なのに、聞いたことのないような冷徹さを帯びていた。

 その瞬間、ザワリと周囲の空気が変質したのが判った。肌に突き刺さるような冷たい空気。怒りを帯びピリピリとしていた筈の空間が、畏怖に染まっていく感覚――それは、俺が今まで生きていて初めて感じるモノだった。

「う、ぐ……」

 俺を絞め上げていた男の力が緩まり、ドサリとアスファルトの地面に落とされる。その痛みと息苦しさから解放され、必死に酸素を貪り食う。そんな中、一人の生徒の悲鳴が上がった。

「ぎゃああ…………!」

 一人、二人、三人、四人――。

 それは立て続けに鳴り響いては、次第に音が近付いてくる。そして最終的には人の垣根を裂くようにして、その人物は姿を現した。

「か、神岸……忍」

 俺の胸ぐらを掴んでいた男の声が震えていた。

 なにをそんなに恐れているのだろうか。

 忍くんは優しくて、良い人なのに――ぼんやりと霞んで消えそうになる意識の中でそんなことを思う。

(忍くん……)

 唯一分かったのは、また忍くんに助けて貰った――ただそれだけを思いながら俺は意識をゆっくりと手放した。


 昏い昏い闇の中。

 まるで水の中に沈んでいくかのように、意識はどんどん闇の底へと落ちていく。不思議と恐怖はない。ただ、耳にこびり付く誰かの泣き声だけがずっと木霊していた。

「えーん……えぇーん……!」

 その泣き声には聞き覚えがあった。

 泣くことでしか訴えられない現実。

 どう足掻いても埋められない現実。

 それが幼い俺を苦しめていた。

『気持ち悪い!』

『こっちに来るな!!』

『あっち行け……!!!』

 次々と剣のような言葉が幼い胸を、心を抉る。

「なんで、そんなこと言うの……?」

 その問いに、答えはなかった。

 ただただ現実は残酷で、無情で、真琴という“異物”を排除しようと必死だった。子どもだけという小さな空間は――圧縮された世界の中はドロドロとした悪意だけが満ち満ちていた。

 独りが嫌だった。

 寂しいのは辛かった。

 自分の在るがままを受け入れて欲しかった。

 けれど、そんな機会は訪れなかった……そう、高校生になるまでは――。

『オレと“友達”にならない?』

 そう言ってくれたヒトがいた。

 初めて俺のことを受け入れてくれたヒトがいた。

 闇の中に佇んでいた俺に、微かな光が差し込んだ。

 トクン……。

 そのヒトのことを思うと、胸が高鳴る。

 顔が熱くなって、胸が苦しくて、今まで感じたことのない気持ちが溢れそうになる。それが同性相手に向けていい感情なのかも定かではないまま、それでもできることならずっと一緒にいたいと願ってやまない。

「……、こと」

 微かに音が響いた。

 闇の中を反響するその音は、次第に重なり大きくなっていく。

「まこと……、……真琴……」

「ン……っ」

 優しい声。そしてそれは……大好きなヒトの声。

(俺を呼ぶのは……?)

 そんなことを思いながらゆっくりと重い瞼を持ち上げる。するとそこは馴染みのない天井で、傍には忍くんの顔があった。

「真琴……っ! 良かった……、目ェ覚ましたんだな」

「忍……くん?」

「無理して動くなよ? ここ、オレの部屋だから安心していいからな」 

「忍くんの……部屋?」

 言われた言葉をそのまま反芻する。

 頭がぼんやりしていて、記憶が定かではない。

 軽い頭痛と首の回りが何故か鈍痛がする。

「なんで、忍くんの家に……?」

 俺のその問いに、忍くんは柳眉を下げ申し訳なさそうな表情をした。

「ごめんな。オレのせいで怖い目に遭っただろ。良く休んでくれていいから」

 そう言って忍くんは優しく俺の頭を撫でてくれた。そしてフワリと鼻腔を擽る香り。それが忍くんの香りで、ベッドに寝かされているのだと改めて理解した。

 自分の寝ているベッドよりもずっと大きくてフワフワで柔らかかった。そして傍には忍くんがいる。そんな妙な安心感もあるせいか、つい俺は力なく微笑んだ。

「忍くんが助けてくれたの? ……ありがとう」

「職員室から戻ったら、鞄はあるのに真琴の姿はないし……フィーカにも連絡一つ入ってなかったからさ。捜したよ」

「……ごめんね」

「真琴が謝ることじゃない。オレの責任だから」

「……忍くんが、どうして謝るの? だって忍くん、なにも悪いことしてないのに」

 それは純粋な疑問だった。

『オレの責任』だと言う苦渋に満ちた表情が、目に焼き付いて離れない。俺は何度も助けられているのに……。

「前に話しただろ? オレのことをステータスとか、アクセサリー扱いで“友達”を名乗ってたやつらのこと」

「うん……」

「中学の頃だけど、そんな繋がりの人間関係が嫌になってさ。一度だけソイツらと喧嘩したことあるんだよ。勿論、オレが勝ったんだけどさ」

「……もしかして、ボコボコにした?」

「うん」

 あっさりとした、肯定の言葉が返ってきた。

 初めて会った頃に思ったが、忍くんは喧嘩が強い。

 そして意外ではあるものの、場数慣れをしているような印象を受けていたこともあり、なんだか忍くんらしいと思ってしまった。

「そんなこともあってさ、真琴に絡んできていた奴らってのが……中学校時代の人間関係の残り滓なんだ」

 残り滓、という表現はまた少し乱暴かなと思ったもののなんとなく喧嘩を振られた理由と彼らが怯えていた理由には合点がいった。

「だから、オレのせいで巻き込んだようなものなんだ。恐い思いをさせてごめんな……」 

 忍くんはそう言うと、そっと俺の手を握ってくれた。

「一応専属の医者にも診て貰ったけど、大きな怪我がないようで安心したよ。でも心配だからさ……今日は泊まっていきな」

「え……? でも……」

「お願いだから」

 まるで懇願するかのような言葉に、躊躇いも薄れていく。寧ろ長く一緒にいられることが嬉しかった。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな……。お邪魔します」

「うん、甘えていいからな。なんとなく真琴って、甘え下手そうだし」

「う……っ」

 まるで見透かしたような忍くんの言葉が胸に刺さる。

 でも、痛くはなかった。

「ねぇ、忍くん。俺、熱でもあるのかな?」

「ん? どっか痛む? 医者は特に何も言ってなかったけど……」

「なんかね、忍くんを見てると胸がドキドキするんだ。顔も熱くなるし……熱かなぁ、って」

「…………」

「教室にいる時も、つい忍くんのこと気にしちゃうんだ。もっと席が近かったら良かったのに……」

 俺の言葉に何故か忍くんは一瞬だけ真顔になって、そして無言になる。けれどすぐに穏やかに微笑んでくれると、俺の手を優しく握り返した。

「……多分、それは熱じゃないと思うよ。でも、無理しないで安静にしてな」

「うん……ありがとう」

 それだけ答えると、俺は再び瞼を閉じると浅い眠りについた。


「……。……まさかの無自覚とか。ってゆうか、鈍感?」

 再び眠りについた真琴の顔を眺めながら、オレは小さく呟いた。真琴が抱いている感情は、昔、初恋を抱いた時と似ている。そして自惚れなどでなければ、それは恋心だ。

「…………ッ!」

 急激に顔が熱くなる。

 どう言葉にすればいいのか、頭と心が追いつかない。

 噛み合わない歯車どうしが、無理やり噛み合おうと軋み合っているような感覚に胸が苦しくなった。

(両想いって思ってもいいんだよな……?)

 まだ真琴には打ち明けていない言葉がたくさんある。

 伝えていない気持ちがたくさんある。

 それが実るかも知れないと思うと、胸がドキドキする。

(花束は、あげたけど……きっと真琴はその意味に気づいてないだろうし)

 まだ真琴から直接的な告白を受けたわけじゃない。

 自惚れてはいけないと思いながらも、それでも嬉しい気持ちが勝ってしまう。

「オレは……真琴のこと……好きだよ」

 眠っている今だから言える言葉。

 そう囁くと、優しく額にキスをした。

「…………」

 そっと離れると、真琴の寝顔を見つめる。

 そしてふと思う。

 どうして真琴に惹かれたのだろう、と。

 改めてきっかけを思い返すと、それは入学式の日まで遡る。


「なっちゃったかぁ、高校生に」


 お祖父さんが勤める高校の門を潜りながら、オレはポツリと呟いた。桜が両脇に植えられ、その真ん中を赤レンガ造りの長い歩道が延びている。満開に咲き乱れる桜を見上げながら細く長く息を吐く。新しい高校生活――それは正直に言えば、暗鬱なものだろうと予想ができたからだ。

 新しく築かなければならない人間関係。

 学長の孫という立場。

 中学時代の友人関係という残り滓。

 そんな諸々のことを思うと、しばらくは気が抜けないなと思った。

(まあ、いまさら友達なんてわざわざ欲しいとは思わないけど……)

 そんなことを思いながらも正面に見える昇降口へと向かう。恐らく同学年と思われる生徒が何人も行き交い、雑音が増えてくる。

(鬱陶しいな……)

 さっさと割り当てられたクラス表を見て立ち去ろう。

 そう思っていた時だった。

「…………!」

 桜が舞い散る白い闇の中。

 オレは、その人物を見つけた。

 一瞬で“同族”だと判る他人との距離の取り方。

 マスク越しでも判る、貼り付けたような薄っぺらい表情。

 周りはザワザワとした喧騒ばかりで――幾多もの話し声が飛び交っているというのに、その人物は誰一人とつるむことなく、話しかける素振りすら見せない。 

 マスク越しでも判る“なにかが欠けた”表情。

 透明感のない眼差し。

 世界を、他人を、すべてを拒絶せんとする雰囲気。

 自分とは似ていて、それでも違う“位置”にいるその存在感が、目に焼き付いて離れなかった。

「…………」 

 頭ではすぐに理解できない。

 解読できない感情が胸の中に降り積もった。

 ただ唯一思ったのは、身に付けているネクタイの色が同じだったことから同学年ということだけ判別できた。

(おんなじ新入生か……)

 一瞬、声を掛けようかと思ったが諦めた。

 今はただ、遠くから見ることだけできればそれでいい。オレが彼なら多分そうする、そう思ったからだ。貼り出されたクラスと名簿一覧。それを見に行くついでに、彼の声を少しでも聞こうと耳をそばだてた。

「桜庭……、桜庭真琴……。あっ、あった……Aクラスか」

 控えめながらも、彼は綺麗な声をしていた。

(Aクラスなのか……。オレは――)

 名簿一覧に目を通して行く。すると名前があった。

 幸運なことに、彼と同じAクラス。

 彼――桜庭真琴という名前を忘れないよう胸の内に刻み込みながらも、オレは一人教室へと向かった。

 恒例とも言える入学式の挨拶や教室でのホームルームを済ませながらも、オレは時折彼のほうに視線を向けていた。

 一挙一投足を見逃さないようにするくらい、それくらいオレは気付けば彼に惹かれていた。

「……変なの……」

 正直言って、今まではそんなことはなかった。“友達”なんてものは信じられない生き物で、厄介事を持ち込む害獣だ。人のことを勝手に値踏みし、自分勝手な物差しで測っては――利用できるなら利用する。

 そんな手前勝手な人間達とつるむ気なんて毛頭ない。

 入学前はそう思っていた――なのに、桜庭真琴という人物にだけは不思議と惹かれた。それが好奇心なのか、好意なのかは分からない。それでもきっかけがあるなら、一度くらいは声を掛けてみたいと思っていた。

「まあ、そんなきっかけある筈ないだろうけど……」

 同じクラスメイトでありながら話しかける理由も特に思いつかない。内心諦めながらも、のらりくらりと日々を過ごす。そして入学式を終えてから一週間ほど経った、ある日のことだった。

 校長室にいるお祖父さんに挨拶をしてから帰る途中、あるものを見た。単純に言えばイジメ、カツアゲと言った類のもの。

(お気の毒様だな……)

 一対多数。不利なのは簡単に見て取れる。

 目をつけられた以上、骨の髄までしゃぶり尽くされることだろう。所詮は他人事だと気にせず帰ろうとした瞬間、ふと視界の片隅に見覚えのある顔が見えた。

 イジメを受けている相手――それは見まごうことなく桜庭真琴その人だった。

「…………!」

 それに気付いた瞬間、一瞬で頭の中が沸騰した。

 けれどすぐに理性を取り戻すと、オレは躊躇うことなく行動に移した。結果は勿論オレの勝ち。

「……無事? 怪我は?」

 イジメていた奴等をコテンパンにし、呆然としている桜庭を一瞥する。どんな形であれ、こうして話しかける機会を得ることができたのは僥倖だった。

 けれど、内心わずかに躊躇いが生まれる。これ以上踏み込むべきか。それとも潔く立ち去るべきか。桜庭真琴の存在は気になっていた――それは、本音を認めてしまうのなら恋愛感情のようなものも含まれているのかも知れない。だからこそ、距離を縮めることに少しだけ怖さもあった。

(急に関わりすぎても、怖がらせるだけかな……)

 そう思ったオレは特にお礼を求めるつもりもなく、そのまま立ち去ろうと背中を向けた。だが、

「た、助けてくれた……お礼、させて」

 意外な言葉が投げかけられた。

 普段の彼の様子からは思いもよらない、大胆な行動だと思った。けれどだからこそ、これは好機だとも思えた。距離を縮める口実ができた、と……。

 それからというもの今では一緒に行動する友達となった。恋心という名の下心は多少あれど、それでも一緒にいられることは嬉しかった。話せば話すほど真琴は今まで出逢ってきたどんな学友とも違う。少しだけ控えめで、でも優しくて誠実だと思えるような人間だった。

 だからこそ、優しくしたいと思う。

 だからこそ、守りたいと思う。

 何を犠牲にしてでも、何から拒絶されようとも――オレの世界には真琴さえいてくれればいい。そう思うようになっていた。

「もっと、真琴のことが知りたいな……」

 ポツリと独白する。

 何が好きで、何が嫌いなのか。

 オレといて、どう思ってくれているのか。

 もっと真琴の心を、声を訊きたいと思った。

(欲を言うなら、抱き締めたい……真琴の体温をもっと近くで感じていたい)

 だがそれは叶わぬ願いだ。自分のエゴだ。

 それを貫き通してまで、真琴を傷つけるような行為はしたくない。

「真琴……」

 再び真琴が目を覚ましたら、一緒に食事を摂ろう。

 そんなことを思いながら、オレはそっと真琴の手を握った。宝物を慈しむかのように、そっと――。

 

 ✿ ✿ ✿

 

「ねぇ、聞いた? 別クラスの男子、何人かがまとめて転校したって話」

「えー? 私は退学したって聞いたけど」

「どっちにしても、いきなり過ぎだよねぇ」

「なんかヤバイことに手を出してたとか……?」

 教室の中を漂うソワソワとした空気に混じってそんな会話が耳朶に飛び込んできた。普段なら気にも留めないであろう噂話――だが、先日自分の身に降りかかったことを思うと胸騒ぎがした。

 理由は明白だ。

 転校……もしくは退学とされた生徒のほとんどが、自分をイジメていた人物ばかりだったからだ。

(俺は気を失ってたから分からないけど……もしかして、忍くんがなにかしたのかな。一応、校長先生の孫……だし)

 そう思うと何故だろう。いつも高鳴る胸の鼓動とは少し違う。不安のような罪悪感のような音が胸を締め上げてくる。チラリと視線を忍くんがいる席へと向けると、そこには何食わぬ顔で授業の準備をしている忍くんの姿があった。

「…………」

 俺が気絶している間になにがあったのかは、忍くんに訊いてはいなかった。忍くんの家で休ませて貰って普通に土日を過ごし、週が明け一緒に登校したと思ったら、朝には『集団転校』の噂話で持ちきりだったのだ。

 まさに寝耳に水だった。 

 忍くんには一度ならず二度も助けられている。その感謝の気持ちは伝えたいけれど、もし『集団転校』の要因が俺にあるなら話をしてみたいと思った。

 たとえイジメてきた相手だとしても、やり過ぎなのではないか。報復の代償が大きすぎるのではないか。そんな言葉にできない不安に密かに眉を顰めた。


 キーンコーンカーンコーン……!

 

 四限が終わり、昼休みの始まりを告げる鐘の音が鳴った。俺はそっと席を立つと忍くんの元へ行き、パシリと手を掴んだ。

「ん? どした、真琴?」

「行こう。忍くん」

 まともに忍くんの顔を見られないまま、昼休みに利用する旧校舎へと向かう。今日はいつものコンビニや購買のパンなどではなく、忍くん家の使用人さんが二人分の昼食を持たせてくれた。

 ベンチに座り、お弁当の荷解きをしながら忍くんに問いかける。なるべく、違和感なく、自然に――。

「ねぇ、忍くん。『集団転校』の噂話って訊いた?」

「うん? ああ、朝からなんか持ちきりだったヤツね。それがどうしたの?」

「……えっと、あまりにも知っている人達ばかりが唐突に転校してくから、あまりにも驚いたっていうか……」

 しどろもどろになりながらも、言葉を選ぶ。

「だから、もしかして忍くんがなにか言ったりしたのかなぁ……って。まさか、そんなことないよね……?」

「したよ」

「え……っ?」

 それはあまりにも潔く、羽根のように軽い答えだった。

「な、なんで……?」

「なんで? 答えなんて決まってるじゃん。真琴のことをイジメたからだよ」

 至極当然のことのように忍くんは言う。

「オレはね、好きなモノや大切なヒトを害されるのが一番嫌いなんだよ」

 嫌い、とはっきりとした口調で忍くんはそう口にした。好き嫌いを明言しない印象を抱いていたせいか、こうもはっきりと言葉にされるのが意外で俺は言葉に詰まる。

「……確かに誰だって自分の大切なモノを蔑ろにされたら怒ると思うよ。でも、だからって……転校なんて、少しやり過ぎなんじゃないかな」

 恐る恐る、嫌われる覚悟でやり過ぎだと言葉を紡ぐ。

「俺は……確かにイジメられてたけど、やり返す力も度胸もないけど、急にこんな形でいなくなられたら……なんだか胸がザワザワするんだ」

 俯きながら、少しずつ自分の感情を吐露していく。

 本当は忍くんと喧嘩なんてしたくない。

 嫌われたくない。けれど、だからといって自分自身が感じた罪悪感をそのまま抱え込んでおくことは俺には無理だった。

「なにか他に方法があったかも……しれないのに」

 そこまで言葉を口にしてから、恐る恐る忍くんの顔を見た。すると忍くんは少しだけ困ったような、寂しそうな表情をしていた。

「真琴は優しいね」

 そう言うと忍くんはゆっくりと歩み寄ってきた。

「…………ッ!」

 殴られるかもしれない。

 忍くんはそんなことはしないと理解していても、今までイジメられてきた経験故か、一瞬だけれどビクリと肩が跳ねる。そしてギュッと目を瞑っていると、

「真琴」

 酷く優しい声音で名前を呼ばれた。

 その安心感からゆっくりと目を開けるとすぐ傍に忍くんの顔があった。そして以前殴られた頬にそっと手を添えると不意に唇に軽くキスをしてきた。驚きのあまり目を見開き固まっていると、忍くんは囁くように言った。

「オレが真琴を大切にしたいって思っているのは、こういうこと。意味……解る?」

「…………ッ!」

 大切にしたい理由――その真意を汲み取った瞬間、顔が熱くなるのを感じた。

「言い訳だって分かってる。けどさ、オレにとって真琴の存在はただ“普通”の大切なんかじゃない。だからそれだけ腹立たしかったんだよ」

「…………」

 その言葉に、ふっと薔薇の花束の意味を思い出した。 

『最も愛おしい人』

『あなたは私の宝物』

 その意味に、囁かれた言葉にギュッと胸が苦しくなった。そして、恐る恐る忍くんの胸元に身体を寄せた。

「う、自惚れじゃなかったら……だけど。忍くん、俺のこと好き……なの?」

「……うん。好きだよ」

「いつ、から?」

「ずっと前から」

 嘘偽りを感じられない、真っ直ぐな言葉。

 そして不意に背中に忍くんの腕が回された。

「ずっと、こうしたかった……抱き締めたかった」

 囁く言葉に、声に、身体が熱くなってくる。

 そうして自分自身も、気付かされた。

 忍くんのことを、どう思っていたかを――。

(勘違いなんかじゃ、なかったんだ……)

 そう思うと、俺も震える声で答えを返した。

「俺も……忍くんのこと――好き、です」

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