三章
この想いはなんだろう。
この胸の高鳴りはなんだろう。
会うたびに、声を聞くたびに、笑顔を見るたびに心の中で知らない感情がゆっくりと育っていく。
その感覚は、別に不安だとか不快感があるとか、そんなじゃない。ただ、身体と心の歯車が組み合わさない感覚にどうしても動揺はしてしまう。
『真琴』
優しい声で、彼はいつも俺の名前を呼んでくれる。
だからだろうか。
彼が俺にしてくれたことを、実は夢で思い出すのだ。
イジメられていたところを助けて貰った時。
ずぶ濡れになりながらもカフェでお茶をした時。
一緒に桜の木の下で昼食を摂った時。
ハンバーガーショップに寄り道した時。
優しく嬉しそうに俺の顔を見て微笑んでくれた時。
そんな経験が、想い出がゆっくりと再生され積み重なっていくたびに心の中に小さな苗木が育っていく。
誰かに愛されていると、認めてもらえていると思える幸福の木――。
✿ ✿ ✿
入学して一ヶ月ほどの月日が経ち、新入生全員が学校生活にも私生活にも慣れてきた頃のことだった。
「ねぇ、聞いた? “百合の君”の話?」
「聞いた聞いた! っていうか前に見た! 偶然廊下を通り掛かったところを見られたんだけど……本当に格好いいよね。つい見惚れちゃった!」
「噂じゃ、別クラスの女子と付き合ってるとか……!」
「そんなの正しく“百合”じゃない!」
キャアキャアと女子生徒達の黄色い声がクラス中を飛び回っている。
「…………」
そんな中、俺は黒髪に黒縁眼鏡、そしてマスク姿という入学した頃から変わらないスタイルを貫き通しながら壁の花を決め込んでいた。普段であれば文庫本を読んでいるところだが、こうも甲高い声で騒がれては読書に集中するどころの話ではなかった。
(“百合の君”……? “百合”って、あの花の百合?)
正直嫌でも飛び込んでくる会話に耳をそばだてる。女子生徒達の言う“百合の君”というワードが誰のことを指しているのかは不明だが、なんとなくそのワードが引っ掛かった。
(意味はよく分からないけど、取り敢えず……百合、他の意味、女性で出るかな?)
そんな軽い気持ちでポチポチとスマホで検索をかけてみる。するとものの数秒で検索結果が表示された。
「…………ッ!?」
そこにはなんと信じられない言葉が記されていた。
『女性どうしの恋愛や、その関係性を例えて“百合”と呼ぶ』
百合の花言葉といったサジェストに並んで表示された文面を思わず凝視する。
(女性どうしの、恋愛……?)
それは所謂、同性愛と呼ばれるものだ。それについては知識はないものの、今まで恋愛に無縁だったこともあり特にこれといった嫌悪感があるわけではなく、普通の恋愛の形の一つとして認識していた。
だがまさか、そんな身近な花に特別な意味があるとは思いも寄らなかった。
(それじゃあ、男の人どうしの特別な呼び方とか……あるのかな)
そう気付いてしまうと、何故か胸がドキドキした。
まるで親に隠れてイケナイ物を読んでいる時のような感覚に襲われながらも、先ほどとは別の検索ワードを入力してみた。すると、ものの数秒で表示された。
(薔薇? 男性どうしだと、そう呼ぶんだ……)
どこかマイペースに、綺麗な隠語だなぁと思いながらもスマホの画面を消すとチラリと忍くんの席のほうに視線を向ける。
忍くんはやはりというべきか、入学してからというものずっとクラスの中では人気者だった。
眉目秀麗という言葉はまるで忍くんのためにあるかのようで、男女両方から人気があった。けれど、
『友達なんて本当は作る気はなかったんだよ』
そう言っていた言葉のとおり、忍くんはのらりくらりと話題を躱しては、他の生徒達とはあまり親密になろうとはしていなかった。俺だけを除いて――。
(もしかして、俺だけが……“特別”?)
何度か食事を共にして一緒に行動しているうちに――そう気付くまでさほど時間は掛からなかった。昼食も放課後も他の生徒に誘われても、忍くんは棘のたたないよう断りをいれてるのを幾度となく目にしている。
そして隙を見て教室から抜け出しては、フィーカを使ってお互いに居場所を伝え合いまるで密会でもしているかのような生活をしていた。
正直、それはとても気楽な関係だった。俺自身も忍くん以外のクラスメイトと積極的に交流したいとは思っていなかったから、二人きりでいられるのは幸せ以外の何物でもなかった。
「それにしても、薔薇かぁ……」
つい先ほどスマホで仕入れた知識もあってか、ポツリと呟く。恋愛、交際、異性、同性――世の中には色んな恋愛の形があるのは知っている。そんな中で自分が“どれ”にカテゴライズされるかなんて分からない。それに今はまだ誰とも付き合うことなどしていないから、恋愛事に対して特に大きな不安はない。だが今自分自身が抱いている感情が、もし同性に向ける愛情なのだとしたら――そう思うと少しだけ心がソワソワした。
「…………」
そんな違和感を人知れず抱えながらも、ホームルームと午前中の授業を終え、いつもの場所で昼食を摂ろうと忍くんと合流した。
そして忍くんに聞いてみようと思っていたことをポツリと問いかけた。
「ねぇ、忍くん。“百合の君”って話、知ってる? 俺は今まで知らなかったんだけど、今朝クラスメイトの女の子達が騒いでたからさ」
「“百合の君”? あー……、なんか入学仕立ての頃から女子の間で話題になってたよ。なんでも、そこら辺の男より格好いい女だって」
「……? 女の子なのに、格好いい?」
いまいち理解ができない感覚に小首を傾げる。
「アレじゃね? 所謂女子の中での“王子様”的なイメージを体現したような奴だよ」
「……忍くんは“百合の君”が誰か知ってる?」
「あんま興味ないな。所詮は他人の恋愛事情だ。そんなの犬も食わないよ」
涼しい顔でそう答えながら、忍くんはモグモグとお弁当を食べ始める。俺も購買で買っておいたパンを齧りながらも、ぼんやりと空を仰いだ。
「王子様かぁ……」
「なに、真琴。王子様にでもなりたいの?」
「そ、そんなんじゃなくてさ! オレにとって王子様のイメージは忍くんだなぁって、なんとなく考えちゃって……」
「ゴホ……ッ! オレが、王子?」
俺の言葉に噎せた忍くんは慌てて飲み物を飲みながら胸元をさする。そして怪訝そうな表情で俺を見た。
「真琴の目にはどう写ってんだ、オレは。そんなご立派なモノじゃねぇよ」
「そ、そっか。……でも、百合と……薔薇かぁ」
“百合の君”と聞くと、やはり朝に検索した言葉のことを思い出してしまう。つい意識したことがポツリと唇から零れ落ちた。
「ん……? 百合と薔薇がどうかした? 花でも欲しいなら帰りに花屋でも寄ってく?」
「あ、えっと……だ、大丈夫! ちょっとある事を思い出しただけだから!」
熱くなった顔を冷ますようにブンブンと手を振りながら誤魔化すと、俺は飲み物に口付けた。
「ふーん……? まあ大したことにいなら良いけど」
幸いなことに、忍くんから深く追求されることもなく、内心ホッとしながらパンを食べ進める。そして当たり前のように一緒に帰ることができるのが、嬉しくて堪らなかった。
「あっ、花屋じゃないけど……本屋さんは寄りたいかな。気になってる作家さんがいてね、ちょっと一冊だけでも買って読んでみようかなぁって」
「ふーん、本ねぇ。いいんじゃん? 最近は電子書籍とかが増えたから本屋自体行くこと久々だわ」
「忍くんは電子書籍派?」
「んー、特になに派ってわけじゃないけど。そういう真琴は紙派なの?」
「そうかも……。紙の厚みとか、読み進めていくうちに残りのページが減っていく感覚とか、そんなのも楽しみながら読んでるかも。……へ、変かな?」
「いんや、変だなんて思わないよ。楽しみ方は人それぞれだし、おかしいことじゃないって。真琴は色々気にしすぎ」
そう言って忍くんはクスクスと笑った。
「忍くんはどんな本読むの?」
「色々だよ。漫画も読むしライトノベルとか。あとは実用書とかエッセイなんかも読むかな。家には家族も読んだりするから、ハードカバーとかの紙の本が多いけど、個人的な漫画とかなら電子書籍で持ってたりするよ」
「あー、漫画って冊数が多いのは百巻近くあるのもあるよね。置き場所がなくなってくるのは分かるなぁ」
コクコクと頷きながら、紙の本と電子書籍を使い分けてるのかと密かに感心してしまう。
「そんじゃ、帰りに寄るところは決まったな。駅前のでっかい本屋、行こうぜ」
「うん」
そんな会話をしているとスマホのアラームが鳴り響いた。
「あっ、時間だ」
「だな。ドヤされる前に、さっさと戻ろうぜ」
そう言って互いにゴミを片付けると、さっさと教室へと戻り午後の授業を受けた。
――そうして、放課後。
俺は忍くんと一緒に駅前の本屋へと来ていた。
大きい本屋さん自体は、来るたびに見たことのない新刊や作家さんが増えている。だからこそ選ぶことに迷ったりして時間をくってしまうのだが、今日は既に買い物は決まっていたから目的の本自体はすぐに見つけ手に入れられることができた。
けれど問題はその後だった。幾つもレジがあり店員さんが忙しなく動いているというのに、会計の列が長すぎて一向に進まない。そんな焦りからフィーカを使い忍くんに連絡を入れた。
『ごめん、会計までもうちょっとかかりそう!』
『ん、ゆっくりでいいからな。目的の本、見つかって良かったな』
そんな会話をしながらもなんとかレジに辿り着くと会計をし、人混みの間を縫うように進みながらなんとか本屋の出入口まで辿り着いた。
「お疲れさん」
「待たせてごめん! 思ってたよりもレジ前の列が長くって……時間くっちゃった」
「おかえり。気にしてないよ、スマホ見てたしさ」
その時、ポチポチとスマホで何か調べごとをしていたらしい忍くんが声を上げた。
「あ……、オレちょっと用事思い出したわ。真琴、ちょっとあの店ついでに寄って良い?」
そう言って忍くんが指差したのは、意外なことに花屋さん。本屋さんの向かいに建てられたその店は駅ナカや駅ビルの商業施設に入っているのを見たことある、少しだけ高級そうな花屋さんだった。
「うん、構わないよ。行こう」
(家族とか使用人さんに頼まれたのかな?)
そんなことを思いながらも、忍くんに連れ添って花屋さんへと向かう。中は大小様々な色をした切り花に囲まれていて、とても華やかだった。
「綺麗……」
名前が分からない花も多くあるものの滅多に花屋に寄る機会がないこともあり、ついキョロキョロと辺りを見回してしまう。すると、
「何かご入用でしょうか?」
積極的な店員さんに声をかけられ、俺は一瞬で固まってしまった。
「あの……、えっと……」
どう答えたものかと頭の中がグルグルしていると、徐ろに忍くんが前に立ち店員さんと何かを話し始めた。
(良かった……)
これで忍くんが欲しがっている花も見つかるかも知れないと安堵する。そして改めて控えめながら店内を見回して行った。
そうして暫くしてから、会計を済ませた忍くんが持っていたのはなんとも目を惹く赤い薔薇の花束だった。
他の人が持っていたら、もしかしたら恥ずかしくないのかとかキザったらしくないのかとかそんな野暮ったい思いを抱いたかもしれない。
けれど忍くんが持っていると、不思議とそんな思いを抱くことはなく寧ろとても似合っていると思った。
「ふぁ……、凄い」
(忍くんが持つと、本当に王子様みたいだ)
そんなことを思いながらも、俺はトトッと駆け寄った。
「買い物、それだけでいいの?」
「ああ。……それじゃ、いつもみたくお茶してこうぜ」
「うん」
俺達は店員さんに見送られながら、行きつけでもあるチェーン店のカフェへと向かった。お互いにカフェラテとココアを頼んでは、番号札を貰い席でまったりと待つ。その間に話し合うことと言えば学校の授業の苦手科目のことやテストが近いこと、そしてまだ設立していない同好会についてだった。
「今日担任の東センセにさ、早く部活入れー! って急かされたよ。今まで同好会を作るからって誤魔化してたけど、そろそろ言い訳が苦しくなってきたかも」
「俺も同じこと言われたよ……。同好会、どうしよっか」
「真琴、なんか興味あることとか好きなモノとかある? 固執というかこだわりがあるモノとかさ」
「こだわり、かぁ……」
興味があること、好きなこと。そう訊かれてしまうと読書は好きな部類に入る。けれどそうなると文芸部などを勧められてしまうような気がした。
「忍くんはどう? 何か案というか、好きなモノってある?」
「オレ? 好きなモノはまあ、そこそこあるけど……一つに絞るのが難しいんだよなぁ」
「うーん……」
二人して腕を組み首を傾げて悩んでいると、店員さんがちょうど飲み物を持ってきた。お礼を言ってからそれぞれ受け取ると、それに口付け一息つく。
「正直言うとさ、オレはどんな同好会でもいいんだよ。こうやって、真琴と一緒にいられる時間が作れるなら、なんでもいいんだ」
訥々と紡がれた忍くんの言葉。
それはとても優しくて、どこか幸せそうな声音だった。その言葉に嬉しさを抱きながらも俺も同意をした。
「それは、俺もだよ。今だってこうしてお茶するだけでも幸せだし」
微笑みながら、注文した生クリームのせココアに口付ける。お互いに飲み物に口付けながら、数秒ほど静かな沈黙が降りた。それは気まずいものなどではなくて、互いが互いのことを分かり合っているからこそ訪れる心地よい沈黙。
「……ねぇ、忍くんってコーヒー好きなの? ほら、いつもカフェラテ頼んでるし」
「ん? あー、まあ好きかな。家でも淹れたりして飲むし、こうして真琴とお茶したりもするしね」
「じゃあさ……、『バリスタ同好会』ってどうかな。俺、コーヒーはブラックじゃ飲めないからいつもミルクを入れるんだけど……忍くんが美味しいって言ってくれるようなコーヒーを淹れられるようになりたいな」
「……。それって、オレのためにわざわざ淹れてくれるってこと? 真琴が?」
「う、うん。多分、普段から飲んでる忍くんのほうが詳しいだろうけど……せっかくなら、忍くんのために美味しいコーヒーを淹れてみたいなって思って」
「なにそれ……オレのためとかめっちゃ嬉しいんだけど。『バリスタ同好会』、いいじゃん! それにしよう!」
「良かった……それなら早速明日提出しようよ。それならきっと東先生も納得してくれるんじゃないかな」
同意してくれたことに内心ホッと安堵しながら微笑む。そしてどんな活動をしていくか、器具類はどうするか、活動場所の確保などについて話をまとめていった。
「わぁー、だいぶ遅くなっちゃったね」
気付けば時間は夜の十九時。
ついついカフェで話が盛り上がってしまったこともあり、気付くと夜はとっくに更けていた。門限といったものは無いけれど、両親がいれば多分怒られていたことだろう。
春とはいえ夜は少しだけ冷えた。雲はなく、煌々と輝く白い満月が、冷たく夜の街を照らしていた。繁華街から自宅がある住宅街へと移動する。車通りはあれど、少しずつ人気は少なくなっていった。
「ごめんね、長々と付き合わせちゃって……。家の人や使用人さんに怒られない?」
「前にも言ったけどさ、両親はほとんど帰ってこなかったり、帰り遅かったりするから気にしなくていいよ。まあ、小言いうヤツが一人いるけど、大丈夫大丈夫」
忍くんはケラケラと軽く笑いながらも片手を振った。
そうして気付けば、あっという間に俺の家の前まで来てしまっていた。
(寂しいな……。もう少し話してたいのに)
けれどそれは時間が許してはくれない。相手にも相手の都合がある。それを自分勝手な思いで我が儘を言ってはいけないだろう。
そんなことをモヤモヤと考えていた時だった。
「――真琴、ほらよ」
「え……?」
突然、バサリとなにかを忍くんから手渡された。
それは良く見ると忍くんが今日花屋さんで買ったばかりの薔薇の花束だった。
「これ、家族の人に贈るための物じゃないの?」
「……誰にどうあげるかは、オレの自由っしょ? 今日の真琴、なんだか珍しく花に興味持ってたみたいだったからさ。プレゼント」
「あ、あり……がと。花束なんて初めて貰ったよ」
しかも異性からではなく同性から貰うなんてことは、生きているうちにそう何度も起きることはないだろう。忍くんにどんな意図があるのか、なんでわざわざ買ってくれたのか。そんなことをどう問い掛けたら良いかと悩んでいると――、
「そんじゃ、今日はもう夜遅いしオレは帰るよ。また明日な、真琴」
「あ……っ」
一方的に別れの言葉を口にをすると、引き留める間もないまま忍くんは自分の家のある路へと行ってしまった。半ば呆然と立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
✿ ✿ ✿
「花瓶、花瓶……。あっ、あった。良かった」
家の中へ入るや否や、俺は真っ先に花が飾ることができるような花瓶を探した。幸いにも母親が花好きだったこともあり、リビングの棚の一角にガラス細工でできた花瓶がしまわれていた。それを取り出し水と栄養剤を溶かして合わせると、早速受け取ったばかりの薔薇の花束を飾った。
「一本、二本、三本、四本……」
ついつい薔薇の本数を数えながら一本ずつ丁寧に花瓶の水の中へと落とし込んでいく。その薔薇の花束は丁寧に棘が抜かれていて、全部で十一本もあった。花束として何本からが正解というのは恐らくないだろう。けれど、キリのいい十本などではなく十一本という本数が妙に引っ掛かった。
「薔薇の花束……。えっと、十一本……?」
(なにか特別な意味があるのかな……? うーん?)
花好きな母親とは違い、種類や花言葉といった物にはてんで疎い。もっともそれらに詳しい男子高校生というのも稀有な話かも知れないが……。
「調べたら出てくるかな……」
すぐにスマホで調べたりできるのは便利だが、本などを読まずに何でもかんでも頼り過ぎるというのは些か問題かもしれない。そんなことを思いながらも、ものの数秒でインターネットという情報の海から引き上げられた答えに、我ながら目を疑った。
十一本の薔薇の花束の意味。それは――、
『最も愛おしい人』
『あなたは私の宝物』
そんな意味が込められていた。