一章
初対面で相手に与える印象は、外見が五十五%、話し方が三十八%、話の内容が七%で決まるという――心理学者・メラビアンが提唱した言葉だ。
通称メラビアンの法則と呼ばれるコレを信じるなら、俺はずっと日陰者でいい。
そう、高校に入学したばかりの俺は思っていた。
日陰者で、誰にも迷惑をかけないでひっそりと息を殺すように生きていく。そう密かに計画していたのに――人生というのはなかなか、思い通りになってくれないらしい。
突然、バチンとした痛みが頬に当たった。
そして数秒遅れてジンとした熱が頬に滲むように拡がる。
「あ……っ」
痛いと思うよりも先に、衝撃に身体がよろけて地面に尻もちをついた。そして殴られたのだと、遅れて理解した。
「ばっか、お前。顔面はやめろって……!」
「いいだろ、別に。コイツいっつもマスクで顔隠してんだからさぁ」
「あー、それもそっかー」
ギャハハハと下劣な嗤い声が頭上から降ってくる。
相手は、三人。殴られた理由は、不明。
何かが彼らの癇に触ったのか、それとも気まぐれなのか。カツアゲといった金銭的な目的なのか。どちらにせよ、理不尽な暴力には変わりなかった。
(入学早々ついてないな……)
共学の、一応地元では進学校として名高い高校に入学して、はや一週間。他の学校とは異なり、曲がりなりにも進学校と聞いていたからかこれまでのようなイジメも早々ないだろうと高を括っていたところはあった。
しかしどうやら、その考えは甘かったらしい。
(これでも一応隠してたんだけどな……それでも駄目か)
俺は毎日マスクで顔を隠すように登校していた。目立たず騒がずひっそりと学校生活を過ごす予定だったのだが――どうやら、それが逆に目立つ行為だったらしい。
(歯は……折れてないみたいだな)
どこか俯瞰したような感覚でそんなことを思いながらも、殴られた側の頬に冷たい手のひらで触れる。
熱くて痛かった。
理由も分からないまま呼び出され――正確には無理やり連れてこられた上にいきなりコレだ。しかも場所はベタなことに人気の少ない校舎裏。
助けを呼ぼうにも仲のいい知り合いなんていないし、誰かいたとしてもこんな面倒事は見て見ぬふりをするだろう。
「こいつ、見るからにオタクだよなぁ? 金あんのかね」
「オタクくんさー、金くらい持ってるよな?」
「さっきのは手加減してやったんだぜ? さっさと有り金全部出さねぇともっと酷い目に遭わせてやんぞ」
「そうそう。たとえばコレとか――なっ!」
直後、腹部に男の爪先がめり込んだ。
加減も容赦もなく、腹部を蹴りつけられた衝撃で校舎の壁に叩きつけられる。咳き込むものの、痛みばかりが身体中を侵して、ろくな言葉が出てこない。
「が、は……」
吐息とも咳ともとれない音だけが口からもれる。
霞む視界の中で三人を見上げる。三人は俺を囲うように立っていて、逃げ場はなかった。
(お金……いくら財布に入ってたっけ……)
漠然とそんなことを思う。勿論、有り金すべてを渡したところで恐らく本当の目的は俺をいじめることなのだから、無駄かも知れない。
「誰、か……」
消え入りそうな望みを抱きながらも、言葉を紡ぐ。
誰でもいい。
教師でも学生でも、年上でも同学年でもいい。
誰でもいいから、この状況から脱出できる何かに縋りつきたかった。
「たす――……」
「あー。イジメはっけーん」
助けてと言いかけたその時、その場の殺伐とした空気を切り裂くような明るい声が突如響いた。頭上から降ってきた声に、思わず声が響いてきた渡り廊下がある方向を見上げるとそこには一人の生徒がスマホを構えて立っていた。
カシャ……カシャシャシャシャシャシャシャ!
カメラの連写機能を使って撮られていく証拠の数々。
全員が全員、呆然とそれを見上げる。
「いーけないんだー、いけないんだー。センセに言ってやろー」
まるで子どものような歌を歌いながら、明らかに三人を挑発する誰か。そして、
「よっと……!」
渡り廊下を飛び越えて着地すると、ニンマリと妖しい笑みを浮かべた。
「入学早々カツアゲ? 派手なことやってんね」
「なんだ、テメェ! さっき撮った写真消しやがれ!」
「痛い目に遭いたくなきゃ、逃げたほうが身の為だぞ」
「それともお前も仲間に加えてやろうか」
三人の生徒達は各々下卑た嗤いを浮かべ、標的を俺から突如現れた人物に切り替え始めていた。
「何? オレに手ェ出す気? やめといたほうが身の為だと思うよ」
「ンだと……!」
「だってオレ、アンタらより強いからさ」
ブチン……っ!
相手のその言葉に、三人の堪忍袋の緒が切れた音がした。そして――そこからの出来事はあっという間だった。俺が逃げろと声をかける間もなく、相手に飛びかかる三人組。
それを軽い身のこなしで回避しては顔面にストレートの拳を放ち、一人目をダウンさせる。そして二人目に至っては俺が蹴り飛ばされた時と同じような威力で腹部に拳をめり込ませ昏倒させ、三人目に対しても顔面にハイキックをかまして倒していた。
「すご……い……」
圧倒的多数の暴力に対して、圧倒的な力を以て制圧する。その人外紛いの強さに呆然と呟きながら、俺はその光景に半ば見惚れていた。
弱くて、勇気もなくて、ただ誰かに縋りつこうとした俺とは違い――名前も知らないその人物は男達に立ち向かった。喧嘩であるというのに、それがとても輝いて見えた。
「……無事? 怪我は?」
「……え……」
周囲が静まり返った中、不意に声を掛けられた俺はつい間抜けな声を上げてしまう。それにクスリと笑った相手は俺の目の前まで歩いてくると手を差し出してきた。
「立てる? 保健室でも行く?」
「……だ、大丈夫。保健室は、行かなくても……」
「そう、アンタがそう言うならいいけど。取り敢えず、証拠は撮ってあるし、安心していいよ」
「……あ、ありがとう。それに、助けてくれて」
なんとかお礼の言葉を紡ぎ出しながら、俺は相手の手を取るとゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、ね。もう変な奴らにからまれるなよー」
特にお礼を求めるでもなく、ヒラヒラと手を振って立ち去ろうとする相手に焦り、俺は咄嗟に手を掴んだ。
「……なに?」
「た、助けてくれた……お礼、させて」
そうして、話は冒頭へと巻き戻る――。
通り雨だったのか、駄菓子屋の軒先で休んでいると雨は止んだ。俺は、神岸忍と名乗った人物を引き連れて有名なカフェへと足を運んだ。
「な、何飲む?」
「ンー、雨で身体も冷えたしカフェラテのホット」
「わかった。……あの、カフェラテのホットを一つとココアのホットを一つください」
「はい、かしこまりました」
料金を支払い札を貰うと、近くの席へとお互いに座る。
「あの……神岸くん」
「ん? 忍でいーよ。同い年でしょ?」
「じゃあ、忍くん……。どうして俺を助けてくれたの? 危険だったのに」
「んー? たまたま、かな。校長室立ち寄った帰りに校内散歩しながら帰ってたら、つい見えたモンだからさ。見捨てておくのも後味悪いじゃん」
「たまたま……。でも、校長室に用事って?」
一般生徒が簡単に立ち入るような場所ではない。
加えて相手が、入学早々校長室に呼び出されるような品行粗暴な人物にも見えない。
(どんな理由なんだろう……)
思わず気にかかり、じっと忍くんを見てしまう。
すると俺の視線で察したのか、忍くんは気になる? と問うてきた。
「ねぇ、真琴。オレの名前、憶えた?」
「忍くん」
「苗字は?」
「えっと……神岸」
そこまで答えると、クスリと忍くんは妖げに笑った。
「じゃあ問題。オレらが入学した学校の校長の名前は?」
唐突な質問に俺は動揺した。
何故今ここで校長先生の名前を訊くのか。
そんな疑問を頭の片隅におきながら、必死に言葉を絞り出す。
「えっ? えっ? えーっと、確か、確か……神岸……なんちゃらさん……?」
「ぶふ……っ!」
俺の答えが余程間抜けだったのか、忍くんは噴き出した。そしてクスクスと笑いながら目元を拭った。
「京一郎、だよ。神岸京一郎――そんでもって、オレのお祖父さん」
「…………!」
信じられない言葉に思わず絶句する。
「信じらんないって顔してるな。でもホントだよ」
どう言葉を紡ごうかと掴みあぐねていると、店員さんが注文した飲み物を持ってきた。温かいカフェラテとココアをそれぞれ受け取ると、忍くんはあまり吹き冷ますことなく熱いカフェラテに口付ける。
一方俺の方は頼んだココアに生クリームが乗っていたことに密かに幸せを感じていた。
(生クリームのせココアだぁ……!)
そっとマスクを外す。すると――。
「へぇ、真琴ってそんな顔してるんだ。……って、ちょい待ち。頬、赤くなってないか?」
「え……?」
忍くんは嬉しそうに俺の顔を見ていたが、不意に頬に冷えたお絞りを添えられた。
「やっぱり早めに冷やしとけば良かったか……」
どこか苦渋に満ちた表情で呟く忍くん。
それに対して俺は首を横に振った。
「大丈夫だよ。大して腫れてもなさそうだし、雨に濡れて冷えたし」
「むー」
俺の答えに納得いかないような表情をしながら、着座すると忍くんはカフェラテを一口飲む。つられるようにして俺もココアを口にすると、飲み物の温かさが五臓六腑に染み渡っていくのを感じた。
「……美味しい」
「フフ、ヒゲついてるよ?」
そう指摘されて、生クリームを慌てて紙ナプキンで拭きながら恥ずかしさのあまり赤面する。加えて人前で――同級生の前でマスクを外すのがあまりにも久しぶりすぎたのもあり、急に心臓がドキドキしてきた。
『オレは神岸忍。――真琴、オレはアンタのことを絶対にいじめないし嗤ったりしない。約束する』
忍くんは“宣言”したとおり、斑な髪色を見ても顔を見ても笑ったりしない。今はタオルで拭ききったせいもあり黒染めの大部分は落ちていた。それでも、気持ち悪いだとか揶揄することなくこうして一緒にいてくれている。
――それが、とても嬉しかった。
「それにしても良かったの? お礼が飲み物だけで」
「いいんだよ。別に、見返りが欲しくて助けたワケじゃないし。それに、こうやって真琴とお茶するだけでも充分なお礼だよ」
「……! ありがとう……」
思いも寄らない言葉に顔が熱くなる。おかしい……ついさっきまで雨に濡れて震えてたはずなのに、今は身体が熱く感じる。
自分の変化を悟られないよう、誤魔化すようにココアに口付けると小さく息を吐いた。
「嫌なら答えなくていいんだけどさ。真琴はああいう絡まれ方、良くされるの?」
突然の問い掛け。
それにどう答えるべきかと数秒黙ってから、コクリと頷いた。
「昔は昔で、髪も染めてなかったしカラコンもしてなかった時は見た目でイジメられた。髪染めしてカラコンをして顔をマスクで隠すようにしたら、今度はそれはそれで絡まれることが増えた……かも」
「うわ……、災難どころの話じゃないね」
「でも今は、忍くん以外に素顔を晒すのは……怖い、かも」
「…………!」
俺のその言葉に驚いた表情を浮かべる忍くん。
そして不意に何を思ったのか、俺の目元に手を添えて囁いた。
「ねぇ……せっかくだし、カラコンも取ってみせてよ。真琴の本当の素顔、見てみたい」
「え……っ」
お願い、と両手を合わせて懇願する忍くんを数秒見つめた後、忍くんなら嗤わないと思った俺は鞄からコンタクトケースを取り出す。そしてその場で両眼のコンタクトを外すと、翠色の眼を露わにさせた。
「うちのお祖母ちゃんが外国の人でね。その特徴を俺が多く受け継いだみたい」
苦笑気味に呟く。別にお祖母ちゃんのことは嫌いじゃない。受け継いだこの特徴だって、色々言われたことはあるけれどお祖母ちゃんとの絆だと思って誇りに思っている。
だから、嗤われるのは辛かった。
無理やり隠すことも、仕方のないことだとしても後ろめたい気持ちがあった。お祖母ちゃんに申し訳ないと思う気持ちばかりが募っていた。
友達にこうして素顔を晒すことに、恐怖感がないといえば嘘になる。でも不思議と忍くんなら大丈夫だと、会ったばかりにも関わらず信じさせてくれる何かがあった。
「スッゲー綺麗な色だな、宝石みたいだ! オレは好きだよ、真琴の本当の“色”!」
「…………!」
悪意のない、真っ白な言葉。純粋な言葉。
十六年という人生の中で、初めて身内以外から受け入れられたと思った。
トクン……。
密やかに心臓の鼓動が脈を打つ。
(どうして…………)
言葉にできない、声なき声のまま胸の内で呟く。
どうして忍くんはこんなに優しいのだろうか。
差別的ではないのだろうか。
俺自身、忍くんに何かをしたわけではない。
同級生だけど、今日出逢ったばかりの初対面の人物だ。
なのに、友達になってくれて――俺のことを認めてくれた。受け入れてくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、気付けば熱い雫が、頬を伝い落ちていた。
「ちょ……! どうした真琴、やっぱり髪と眼のことに触れられたくなかったか?」
忍くんは困惑しながらも、紙ナプキンを掴むと丁寧に優しく俺の涙を拭ってくれた。
「ちが……違うんだ。ただ、嬉しくて……。そんなこと、友達から言って貰えたことが、なかったから」
訥々と言葉を紡ぐ。
「…………」
俺のその言葉に、忍くんは閉口しながらも優しく涙を拭うとそっと頭を撫でてくれた。
「今まで辛い目に遭ってきたんだな。素直に同情するよ。……でも、これからはそんな思いなんてさせないから。だってオレ達、もう“友達”なんだからさ」
「……うん」
しばらくの間、止まることのない涙を、忍くんは優しく拭き続けてくれた。
「へぇー、真琴って今一人暮らしなんだ」
「うん。両親揃って海外出張でね。親からは着いてくるか? って聞かれたけど、あまり気乗りしなかったから……だったら一人暮らしするって言ったんだ」
「ふーん、一人暮らしもそれはそれで大変そうなのに、真琴って意外と肝が据わってンのな。……寂しくなったりしねぇの?」
「今のところは、大丈夫……かな」
カフェからの帰り道。
俺達は夕焼けに照らされた茜色の道を、マイペースに歩いていた。たまたま忍くんと帰る方向が同じだったこともあり、俺達は互いの家庭事情について少しずつ話しをした。
「そういう忍くんは?」
「あー、ウチも真琴と似たようなものだよ。使用人が何人かいるけど、両親は基本的にあんま帰ってこないし」
「……お祖父さんとは一緒に住んでないの?」
「うん。別だよ」
「そうなんだ……」
思いがけず似たような境遇に目を丸くする。
もっとも、俺の家には使用人なんていないけれど。
それでも忍くんも一人きりなのだと聞くと、勝手ながら親近感が湧いた。
「そういえば、忍くんって何クラスなの?」
「Aクラス」
「え……、一緒のクラス?」
「フフっ、真琴ってばやっぱり気付いてなかったんだ。入学してからずっと一人で自分の世界にこもってるような感じだったからさ」
「う……」
忍くんの言葉を否定することはできなかった。
確かに俺は目立ちたくなくて、友達を作りたくても作れる気がしなくて、ずっと自分の殻に閉じこもっていた。
だから周りの情報や人間関係なんて、露ほども気に掛けることはなかったのだ。
「なに? オレが一緒のクラスで嬉しい?」
「う、うん……嬉しいよ」
素直に気持ちを吐き出せたら楽なのに、どうしても“友達”との会話と思うとぎこちなく言葉が喉奥に張り付いてしまう。それでも忍くんは気にしたことなく、嬉しそうに微笑んでいた。
「忍くんは初めての友達だから、本当なら……もっと色々話したい」
「オレもそうしたいトコだけど、それはまた今度な」
「うん。――あ、着いちゃった」
そうこう話をしている内に、自宅の前まであっという間に来てしまった。
「此処が真琴ン家?」
「うん」
「ヘぇ~、それなら今度泊まりに来ようかな」
忍くんはそう言うと、ヒラヒラと手を振って笑ってみせた。
「そんじゃ、また明日な。真琴」
「うん。また、明日」
少しだけ寂しく思いながらも、口には出さないまま俺はヒラヒラと手を振り忍くんを見送った。
✿ ✿ ✿
ザアザアと雨のような音が耳元を掠めていく。
けれどそれは自然の雨のような冷たさはなくて、温かく全身を包んでくれる。
「…………ッ」
頭からシャワーをまんべんなく被る。
熱いお湯は雨で濡れて冷え切っていた身体をあっという間に温めてくれた。ワシャワシャとシャンプーを泡立てシャワーのお湯で流すと泡と一緒に黒染めしていた残りの色が抜け落ちていき、金糸のような髪が顕わになる。
「ふぅ……」
細く息を吐き、目の前の鏡を見つめる。
そこには金色の髪に翠色の眼を宿した、日本人離れの容姿をした自分が写っていた。
「……嗤わなかったな……」
今日できたばかりの初めての友達――神岸忍。
彼は明朗快活で、俺とは違う世界に立っているように思えるヒトだった。けれど、雨に濡れて髪色が落ちていても、本当の眼の色を晒しても一切容姿についてからかうことなく――それどころか宝石みたいだと褒めてくれた。今までそんな言葉をかけてくれた“友達”はいない。みんな、気持ち悪いと、変な色だと腫れ物を扱うようにして嫌悪の視線を向けてきた。なのに、
『スッゲー綺麗な色だな、宝石みたいだ! オレは好きだよ、真琴の本当の“色”!』
初めて褒めて貰えた言葉があまりにも直球で、気恥ずかしくも思えるのに、それがとても嬉しかった。
「宝石、か……」
それは遠い昔、同じ眼の色を持つお祖母ちゃんもそう言ってくれた。エメラルドのような魅力的な色だと、褒めてくれた。
「好きだよ、か……」
そう言葉をかけてくれた忍くんのことを思い出すと、今まで感じたことのない言葉にし難い気持ちが胸の内に広がった。
そして同じクラスだと言っていたことを思い出すと、密かに鼻歌を歌う。初めてだった――暗鬱な気持ちなんかじゃなく、少しだけ学校が楽しみだと思えたのは……。
「神岸忍くん、か」
人知れず名前を復唱する。
それがなんだか気恥ずかしくもありながら、魔法の言葉のように思えた。