#3
……
暗い、病棟。
随分と使われなくなったこの場所は、もはや廃墟と言っていいだろう。
あちこちに散らばる液体、崩れた天井の下敷きになったベッド。
軋む関節部を引きずるように、私はゆっくりと歩を進める。
首元のランプが、赤く点滅していた。
ここは、かつて「君」が居た場所。
たしか階段から落ちたんだったか。
あの時の、何も知らないような無邪気な笑顔が、今でも鮮明に思い出せる。
「君」の名前は知らない。「最期」も、知らない。
傍らには、コードの千切れた受話器が転がっていた。
……いや、正確には──私が千切った受話器だ。
「君」が言っていた。「コードの切れた電話は、冥界と繋がるんだよ」って。
それを信じて、私は……いや。あの言葉に縋りたかっただけなのかもしれない。
初めは、「君」の言うことが理解できなかった。
私は「私は人じゃない」と、冷たく突き放した。
それでも「君」は構わないと言った。
鬱陶しいほどに、何度でも。
その頃の私は、自分の中に引っかかる“違和感”の正体がわからなかった。
私が距離を取ると、「胸が痛んだ」。
「君」の悲しそうな顔を見ると、「辛かった」。
あれはきっと──それが“感情”というものだった。
あの瞬間に気づけていれば。
いや、何があっても、あの時の私は気づけなかったのだろう。
「星」が、落ちた。
初めは、ただの大きな爆発かと思った。
病院の明かりが一斉に消え、人々が叫びながら走り出す。
窓の外が光ったその瞬間、窓際にいた誰かが……溶けた。
私は目を疑った。
患者を助けるという「義務」すら忘れて立ち尽くすほどの衝撃。
それでも一番に思い浮かんだのは──「君」だった。
その時、私はもう“違和感”の正体に気づいていたのかもしれない。
けれど、もう「君」はいなかった。
そこに残っていたのは、「溶けた」痕跡だけ。
視界が反転する。
足元が崩れ、平衡感覚が消える。
波のように押し寄せる後悔。
この機械の身体ですら、吐き気を催すほどの感情が込み上げた。
顔を上げたその瞬間、二度目の爆発が病棟を揺らした。
……
意識を取り戻した時、私は病院の反対側にいた。
吹き飛ばされた壁にぽっかりと空いた穴。
私は立ち上がり、壊れた身体から破片がこぼれるのも構わず、走った。
幸いにも、病院はかろうじて形を保っていた。
風が吹き抜ける窓際に辿り着き、私は受話器のコードを千切った。
耳に当てる。
……聞こえるのは、風の音だけだった。
もっと、「君」に触れたかった。
もっと、「君」を愛したかった。
もっと、「君」と話したかった。
せめて──「君」を、看取りたかった。
……あぁ。
思い出すたびに、胸が軋む。
もう「君」はいないのに。
私だけが、まだこの「場所」に縛られている。
夜空が、不意に光る。
あの時と同じ──いや、それ以上の光が、空を焦がしている。
「星」が、再び落ちてくる。
手から、受話器がこぼれた。
乾いたプラスチックの音が、虚ろに響く。
「君」がよく聴いていた音楽を、私は無意識に口ずさむ。
目から、「液」が零れた。
病院の壁が、光の中に消えていく。
白い
きれい
熱い
痛い
最期に、「君」と同じ痛みを感じられて。
それが──ただ、ひたすらに幸せだった。
(「絶滅によろしく」という曲からインスピレーションを受けました。いい曲なので皆さんも是非聞いてください。)