格下男爵に裏切られましたが充実した日々を過ごしております
謀反の咎で斬首された父の家臣オルソンは私の育ての親とも言える人だった。仕事で忙しい父、早くに母を亡くしてしまった私にとってオルソンは私の慰めであり、心の助けになってくれた。オルソンとの思い出は温かなものばかりだ。
物語が大好きだった私に御伽話や古い英雄物語を眠るまで語ってくれたオルソン。私が欲しいと一言ねだれば城下町でどれくらい人気のあるお菓子だろうとすぐに買ってきてくれたのもオルソンだった。
そんなオルソンが敵対するマルティーニ公爵に通じていることを父は見抜き、斬首刑を命じた時、私は初めて父に物言いをつけた。間違いは誰しもある。オルソンを殺さないで欲しいと。もちろん、どれだけ私が泣きついても無意味なことだった。父は涙を流す私に言った。
「一つの裏切りを許せば、新たに百の裏切りが生まれる。愚者はどこまでも愚かになれるものなのだ。マリー、人を見抜く力を養いなさい」
思えば、あの頃からだろう。策略と権謀の網が無数に張られた世界を生きる父、大宰相マーシャル・ロレーヌのような人ではなく、平凡でも穏やかな生活を送る人と添い遂げたい、そんな夢を抱き始めたのは。
だからロレーヌ公爵の一人娘である私、マリー・ロレーヌがサイモン男爵と結婚した時は誰もが驚いた。
サイモン男爵が治めるのはロレーヌ領とは真逆のハーバードという長閑な農村地帯。何よりサイモン男爵の爵位はロレーヌ家の娘と婚姻するにはあまりにも不相応なものだったのだから。
私が父にサイモン男爵との婚姻を仄めかした時のことはよく覚えている。日頃から結婚は私の意思を尊重すると言っていた父だったがさすがにこの不平等婚には狼狽えてしまった。
父の説得、妨害工作、様々な謀略の後、ようやく一つの条件を突き付けられた上でサイモンとの結婚が認められた。条件は単純明快だ。
「自分で決めたことだ。もう二度とロレーヌ家の敷居を跨げると思うな。出戻りは許さん」
こうして、私の穏やかな結婚生活が始まった。サイモンが治めるハーバードという土地は父の領土とは比べもなく貧しい場所ではあったけれど、農村で取れる野菜は美味しく、空気は澄んでいて、美しい場所だ。
領地経営の帳簿をざっとみたところ、贅沢はできなくとも生活に困ることはない。りんご農園を営むサイモン男爵は柔和な性格で、まさに私が夢見た通りの人。野心家なところは多少あるようだけど、それほど頭が切れる人ではないので、父のような大権力者なんかには生涯決してなるまい。
私は子供を産み、育て、この穏やかな地で静かに一生を閉じよう。幼少の頃から夢見たままの生活に心の底から幸福を感じていた。
「病身で、余命いくばくもないので娘の顔が見たい」
そんな父からの手紙が届いたのは結婚して半年経った頃だった。
もちろん私としても亡くなる前に父の顔が見たい。ただし手紙にはやはり父らしく、夫のサイモンは連れてくるなとのこと。新婚だと言うのに一人で帰省するのはどうかと思い、サイモンにお伺いを立ててみると呆気ない言葉が返ってきた。
「僕のことはいいから、お義父さんのもとにすぐに帰りなさい。君が連れてきた三人の使用人も同行させるといい。彼女らも故郷が恋しいだろうからね」
帰省の話をしている間、結婚する以前からこの屋敷で働く使用人のベティが不思議な目つきでサイモンを見つめたのは少し気になったけど、私は夫の好意に甘えることにした。
こうして忙しなく故郷に旅立った私だが、突如帰省は取りやめになった。それは旅の途中でふと目にした新聞が原因だった。
泊まった宿で何気なく見た新聞の一面には、遠く離れた異国の国王と貿易の調停を取り決める父の姿があったのだ。鷹揚な態度で国王と手を握る父は健康そのもの。余命半年の人物にはとても見えない。そして父の手紙の意図を理解した。
要するに、結婚して家を離れてからまだ半年しか経っていないというのに、娘のいない寂しさに耐えられなくなったのだろう。そもそもあの頑健でしかなかった父がわずか半年で体調が急に悪化するなんてそうありそうなことではない。
父の都合で何度も呼び出されてはたまったものじゃない。
一緒に帰る予定だった使用人たちは故郷である首都ロレーヌに帰るのを楽しみにしていたから、彼女らには暇を出し、私は再びのどかなハーバードを目指したのだった。
戻り路の旅は天候に恵まれたこともあり順調に過ぎた。その甲斐あってか、すでに愛着を持ち始めたハーバード村に到着したのは予定よりも一日早い夕刻時だった。
私はサイモンを驚かせたくて、浮きたつ心を抑えながら足早に屋敷に向かった。屋敷に残っているサイモンやベティには土産も用意してある。きっと二人は喜んでくれるに違いない。
でもどうしてだろう。屋敷の扉を開け放った時、私は微妙な違和感を覚えた。いつも迎え入れてくれるはずのベティの姿がなく、屋敷内は不自然に静かなのだ。それに夕暮れ時だというのに灯りはついておらず、部屋は薄暗い。
私はサイモンの名を呼びながら、二階へと向かった。そして階段を登るたびに、違和感が強くなっていく。心臓は早鐘を打ち、背中にじんわりと汗が滲む。
二階まで来ると、私はゆっくりと夫婦で使う寝室へと足を向けた。どうか間違いであって欲しい、祈るような気持ちで扉のノブに触れた。
扉をわずかに開け、中を覗き込んだ時、そんな最後の希望は潰えた。ベッドの上にいるのは使用人のベティと私の夫であるサイモンだ。彼らは私がのぞいていることも気づかないほど一心不乱に男女の交わりに耽っていた。
将来生まれてくる子供用のベッドと合わせて作らせた、キングサイズのベッドはギシギシと音を立てている。二人の間で交わされるのは「好き」「愛している」などという言葉。ベティはこんなことも口にする。
「世間知らずで何もできないマリー奥様より私の方がサイモン様を幸せにできますのに」
サイモンからも信じられないような言葉が吐かれる。
「マリーにはがっかりさせられたよ。ロレーヌ公爵の娘が来ればこの地域も豊かに発展すると思っていたのに。素直にベティと結婚すればよかったと後悔しているよ」
さすがに耐えられなくなった私は静かに扉を閉めた。しばし扉の前で立ち尽くし、放心状態のまま廊下をゆらゆらと歩く。そして、長閑な農村が見渡せる大窓の前にきた時、足を止めた。
視界には仕事を終えた農夫たちが農具を片付け、男の子がカゴいっぱいの林檎を運ぶ、そんないつもの農村の風景が広がる。山に沈んでいく太陽が辺り一面をオレンジ色に染め上げ、まるで一枚の風景画のように美しい光景だった。
でも私がずっと望んできたこの穏やかな風景を以前と同じようには見れなかった。
ああ、そうだ。私は世間知らずだった。何も裏切りは父の世界だけに存在するわけじゃない。こんな美しい農村にだって裏切りもあれば謀略もある。美しいだけの世界など存在しないのだ。
そのとき、不意に窓ガラスに反射する自分の顔が目に映る。私は驚きながら自分の顔をしばし見つめた。
窓ガラスに映る私の表情、それはオルソンを斬首せよと命じたときに父が見せた、冷徹無比としか言えないものだ。そこには悲しみや怒りもない。
事実、これだけの仕打ちを受けたというのに、私は至って冷静に物事を考えていた。すでに私の中に怒りや悲しみの感情はない。ただ一つ、やるべきことがあるだけだった。
それから一週間、私は何食わぬ顔でサイモンやベティと接していた。夫のサイモンは上機嫌そのものだ。
「マリー、本当にありがとう。この農村に街道が通れば発展間違いなしだよ」
私の父から届いた街道建設許可の通知を受け取ったサイモンは半ば涙ぐみながら言った。
この街道の件はかねてから夫に要望されていたことだ。国で一番の商業都市である首都ロレーヌとハーバードを街道で繋げば、交易量が大幅に上がる。
しかし街道を繫ぐとなると、この長閑な農村は大きく変わってしまう。穏やかな農村の風景を壊したくなかった私は、夫の要望をずっと聞き入れなかったのだ。
それなのに一週間前、私は父に街道建設の要望書を送った。父の回答は私の要望通りのものだった。
私は言った。
「父は街道の治安維持のために騎士団を常駐させることを条件にしておりますが、それはよろしいの?」
「もちろん! ロレーヌの騎士たちがここに来てくれたら、領主である僕にとって実に名誉なことだ。マリー、君と結婚できた僕は幸せ者だよ!」
一体どの口が私と結婚できて幸せなどとおっしゃっているのかしら?そんな言葉が喉まででかけたが、私はただただ微笑むばかりだ。
ロレーヌ騎士団がこの地に着任する話は瞬く間に農村を巡っていった。特に村の女性たちはまるで夢心地のよう。それもそのはず。この田舎にもロレーヌの騎士たちの名声は轟いている。まるで自分たちがおとぎ話の中に紛れ込んでしまったような気持ちでいるらしい。
特にベティなどはメイド服を新調したいなどとサイモンにねだる始末だ。困り顔のサイモンに私が「この機会に首都ロレーヌで評判の仕立て屋でベティさんのメイド服を新調いたしましょう」と口を挟むと、ベティからは涙ながらに感謝された。
それから程なくして街道の建築を担う職人達と共に、ロレーヌ騎士団がハーバードにやってきた。
貧しいハーバードなりに贅を尽くした歓迎の式典が執り行われ、夜になると野外では賑やかな宴が開かれた。その間中、ベティをはじめ、村の女性達はチラチラと騎士たちに視線を送る。中でも、アルベルト・ローズという騎士に注目が集まっているのは明らかだった。
アルベルトはそのファミリーネームから薔薇の騎士とも呼ばれる、国で一番の美麗な顔立ちをした騎士。幾人もの令嬢に求愛されているアルベルトがこんな農村に着任するなど普通はあり得ないのだから、村の女性たちが色めき立つのは仕方がないこと。
そんなアルベルトは時折私に視線を送ってくる。
故郷から連れてきた使用人の一人が私にこっそり耳打ちをした。
「きっと首都では噂になってますね。本当にアルベルト様がマリー様を追いかけて行ってしまったと」
噂好きの社交界のことだ。令嬢たちの間ではどんな噂が流れていることかは容易に想像がつく。
昔と変わらぬ視線を送ってくれるアルベルトを見ると嬉しいと思うものの、申し訳なさだけが募る。せめて彼に後悔させないくらい上手く立ち振る舞わなければいけない。月明かりに照らされるアルベルトに微笑み返しながら私はそう決意するのだった。
それから二年が過ぎると、ハーバードの風景は様変わりしていた。公爵領首都ロレーヌと繋がる大街道沿いには真新しい宿屋が連なり、ひっきりなしに馬車が往来している。
つい先日もりんご農園の一部が切り倒され、新たに商店ができたばかりだ。遠くの山々の姿だけは以前と変わらず雄大に聳え立っているにせよ、長閑な農村地帯の面影は少しずつ消えつつあった。
私はそんな街の変化を赤子を抱きながら日々眺めていた。私の腕の中にいるのはシャルロッテという名の一年前に出産した女の子だ。金糸のような美しい髪、エメラルドグリーンの輝く目は確かに二人の血を引き継いでいることを意味している。
私は娘の成長を見守りながら、日々自分の部屋で読書をしたり、書き物をしたりする日々を送っていた。
私がそんな生活をする一方で、夫のサイモンは私に対する態度を一変させていた。今日もこんなことを言われた。
「君は実に幸せ者だね。僕のような仕事ができる夫を持てたのだから」
サイモンは街が発展したことで自信を持ちはじめ、私に向けていかに仕事ができるのかやたらと口にするようになっていた。
「正直、ロレーヌ領の跡取りは僕が適任なのではないかな? お義父さんにもう少し人を見る目があったらなぁ。きっと僕を選ぶのだろうけど」
私が黙ったまま話を聞いていると、サイモンは上機嫌のまま屋敷を出て行こうとする。一応儀礼として今日は何時に帰るのかと尋ねるとぶっきらぼうにサイモンは答えた。
「そんなの分かるわけないだろ。こっちは仕事で忙しいんだ。君みたいに家で本を読んだり、くだらないことを書いたりして暮らせるご身分じゃないんでね」
仕事などしてないくせに、そんな言葉を胸に収めながらサイモンを見送った。この二年でサイモンは性格ばかりか、生活も変えてしまった。以前のサイモンは領主としての才覚はないにせよ、りんご農園の仕事に精を出す働き者だった。しかし今では新しく街にできた酒場か賭場に入り浸るばかりで、仕事はおざなりになっている。
田舎領主だったサイモンは商会との取引や法律に疎く、契約書ひとつまともに読むことができない。それでいて勝手に税収が入ってくるのでいつの間にか自堕落な生活を送り始めてしまったのだ。
見かねた私は商取引や領主の仕事に明るい人物を秘書として雇い入れるようサイモンに勧めた。初めは渋ったが、仕事が楽になると話すと私の提案を聞き入れてくれた。しかしサイモンは秘書を雇うだけで領主としての仕事に向き合おうとはしなかった。
私は自分の書斎に入るなり、羽ペンを手に取りささっと手紙に文章を書きつけた。そして二年前に雇い入れた秘書に渡す。
「これをマティス商会の頭取に送ってください。新たにできる取引所の運営は彼に任せます」
その後も私は次々と商人や政治家宛の手紙を書き連ねていく。この二年間、経験ある秘書の話に耳を傾け、経営に関する専門書を取り寄せ、仕事をしないサイモンに代わって街の政策を決めてきた。
サイモンは読書や書き物をして気楽に生活をしていると馬鹿にするけれど、毎日の仕事は膨大だ。そして彼は私がその仕事を担っていることを露ほども知らない。
今日も数十通の書簡を書き綴るとようやく私は朝の仕事から解放された。
外気に当たりながら紅茶でも飲もうと庭に向かうと、今度は別の厄介ごとが待ち受けていた。ちょうど私服姿のベティと出会してしまったのだ。ベティの格好を見て心の中でため息をついた。
(また衣服を取り寄せたみたいね)
二年前にメイド服を新調してやってからというもの、ベティはその後も度々服や靴、装飾品を首都ロレーヌから取り寄せるようになった。どれも高価な品ばかりで、今だってまるで貴族の娘のような格好をしている。
賃金はそれなりに払っているものの、とても使用人が捻出できるような品々ではない。渋々、私はベティに言った。
「ベティ、カトラリーセットが一式無くなったと報告を受けたの。あれは亡くなった母から受け継いだ大事な品。どこにあるかご存知ない?」
ベティはあからさまにむすっとした顔つきになった。
「奥様、それはなんですか? 私が盗んだとでも言いたいのでしょうか?」
「いえ、そんなつもりはないわ。ただ、この屋敷で一番長く働くあなたには私に説明する責任があると思うのだけど」
ベティは私を露骨に睨みつけた。
「一々大騒ぎせずに、サイモン様に新しいセットをおねだりしたらいいではありませんか。それで要件はそれだけですか? 私、アルベルト様とお会いする約束があるのです」
ベティは早口でそう捲し立てるといそいそと庭を歩いて行った。私を世間知らずの娘扱いをするベティの態度は日々悪化していき、最近では今日のように露骨に口答えすることも増えてきた。
他の使用人たちはベティが盗みを働いていることは知っているし、不相応な服装を買い求めていることも白い目で見ている。でも今のベティはそんなこと気にも留めてないらしい。頭の中はアルベルトでいっぱいなのだ。
家の物を盗み、服装に凝っているのもアルベルトを振り向かせるため。当のアルベルトはベティという娘に付き纏われて困っていると相談してきたが、本人は迷惑をかけている意識はさらさらないらしい。
公然と私に悪意のある態度を取るのも、アルベルトと結婚すれば貴族の妻として私と対等になれると思い込んでいるからだ。貴族出の騎士と庶民の娘が結婚するなんて物語の中だけしか起きないことなのに、アルベルトというお伽話にしかいないような存在は一人の娘を狂わせるのに十分だったわけだ。
私は紅茶を飲みながら再びペンを手に取った。手紙に書き付けるのは、シャルロッテの成長の様子や二人のこれからのこと。ベティに盗まれたカトラリーセットがどこかの古物商で売られていないか探して欲しいとも今回の手紙には付け加えた。宛先はアルベルト・ローズ。私の古くからの幼馴染だ。
そしてまた一年、時が過ぎた。シャルロッテはすくすくと育ち、話す言葉も増えてきた。お母さん子に育ち、屋敷のどこに行くときもちょこんと付いてくるが、人見知りなところがあり、サイモンが近づいただけで泣き出してしまう。
そんなシャルロッテなのに、たまにアルベルトが屋敷を訪れると、目を輝かせて彼にちょっかいをだすから不思議なものだ。間違ってシャルロッテがアルベルトをパパと呼んだ時は、さすがに焦ったけれども。
裏切られた時にはまさかこんな幸福が待っているとは思ってもいなかった。街の執政をこなしながら、子供の成長を見守り、さらに幼馴染のアルベルトが寄り添ってくれている生活に私は人生で一番の充実感を覚えていた。
愛人のような立場になってしまっているアルベルトには悪い気はしたが、彼は私のそばにいられるならそれで構わないと言ってくれている。
アルベルトもいつかはどこかの令嬢と結ばれるだろうけど、しばらくはこの幸せに浸っていたかった。
しかし幸せな生活はある日崩れ去っていくこととなる。
それはサイモンが理解不能とも言える話を私に告げたのが始まりだった。唖然としつつ私は言った。
「つまりサイモン、あなたはロレーヌ家が敵対するマルティーニ公爵と直接商取引をしたいと?」
「そうだ。我が領地ハーバードにマルティーニ公爵領からの街道を通す。そうすればこれまで以上に街が発展することは間違いがないからね」
「その決定にロレーヌ家はどう思うでしょう?」
サイモンは苛立たしげに鼻を鳴らした。
「いいかいマリー。君はロレーヌ公爵の娘ではあるが、今は僕の妻なんだ。僕の決定に異を唱える権利は君にはないよ。それに君は商取引のことなど何も分かっていないだろ?」
ハーバードが発展した最大の理由は領主の妻である私がロレーヌ家出身だからだ。商人たちは、宰相の娘である私が住むこの街の発展を見込んで出資しているのだ。そんなことも分かっていないサイモンに私は愕然とするしかない。サイモンは続けて言った。
「マルティーニ公爵は僕の能力を買ってくれている。君の父親のように才覚のある僕を無視するような愚かな人じゃないのだよ」
「でもサイモン、流石にそれは考え直した方がいい……父の怒りを買ったら下手したら殺されるわよ」
サイモンは私を馬鹿にするかのような笑い声を上げる。
「殺される? マルティーニ公爵と取引するだけでなんで僕が殺されなければならないんだい?」
そうだった。サイモンは父がどういう人かを知らないのだ。裏切りと判断すれば殺しだって厭わないのが私の父、マーシャル・ロレーヌだということに。
私がサイモンに父の性格を伝えようとすると、「いい加減にしてください、奥様」と横槍が入る。振り向くとそこにはベティが立っている。少なくともこんな大事な話に立ち入っていい人物ではないのに何を考えているのだろう。
ベティは言った。
「奥様、あなたは何かにつけては父親の名前を出して節操がなさすぎです。分をわきまえて、これ以上サイモン様を困らせないでください。それからサイモン様、これを」ベティはそう言って、書簡をサイモンに手渡した。「これは奥様の書斎で見つけたものです」
サイモンは書簡を広げた。「ルドルフ頭取宛の書簡……マリー、これはなんだ? なぜこんなものが君の部屋にあった?」
私が答える代わりにベティが勝ち誇った笑みを浮かべながら言った。
「奥様は旦那様の名を騙り、商人の方々に手紙を送っていたのです。送っていた書簡はそれだけじゃありません。この方はまるで領主気取りで旦那様に黙って訳のわからない取引すらしていたのですよ」
サイモンは顔を真っ赤にして声を上げた。
「マリー! なぜこんな勝手なことをした! 僕は秘書に仕事を任せてきたが、君にこんなことをしろとは言っていない! 君は僕が築き上げてきたこの街をぶち壊す気なのか!」
顔を真っ赤にして怒るサイモンと、勝ち誇るベティを前にして言葉もない。黙ったまま私はこの二人が姦通している現場を目撃した日のことを思い返していた。
あの日、同衾する二人に衝撃を受けたものの、冷静になった私が考えたのは復讐することではなかった。むしろ私は二人の命を本気で心配したのだった。
もし出戻りなどすれば父はその原因を遅かれ早かれ知ることになる。そうなれば二人の行く末は見えている。確かに二人は愚かな裏切りをしたが、死んでまでは欲しくなかった。
その一方、これまで通りサイモンと普通の夫婦として暮らすことはできそうにない。特に一緒に夜を共にすることだけはあの光景を見た後では不可能だ。そこで、私は一か八かの選択をしたのだ。
苦渋の決断だったけど、かつて私に終生の愛を誓ってくれたアルベルトをこの地に呼び、彼の子供を孕み、生まれてくる子供をサイモンの子として育てる。サイモンとベティの命を守りつつ、私の心を殺さずに生きる方法はこれ一つしかなかった。
私は夫婦関係を拒否することの代償としてサイモンの要求通り街を発展させた。ベティには借りはなかったけど、盗みを許してきたのは単なる温情だった。
私は私なりにずっと二人の命を守ってきたつもりだ。
けれども今の二人に本来ならあなた方は死んでいたのですと伝えても、理解はしてもらえないだろう。
半ば諦めた私はサイモンとベティに言った。
「それでは、いったいこの後で何が起こるのか私は静観することに致します」
そしてサイモンとマルティーニ公爵が商取引の取り決めをする日がやってきた。この取引に関しての噂はすでに街中の商人に知れ渡っており、全員が全員、マルティーニ公爵と取引することの危険性をサイモンに伝えてきていた。
当のサイモンはどこ吹く風で、「領主として決断したのだ」とまるで大領主気取りで商人たちの意見を跳ね除けた。
商人の中にはこれから起こることを恐れて、すでに店を畳んだものもいるが、サイモンは少しも気にもかけていないようだ。
マルティーニ公爵との取引はこの屋敷で執り行うため、使用人総出でその準備にあたっていたが、唯一ベティだけはその仕事に関わっていない。
ベティは一層上等な服を着て、落ち着かない様子で屋敷をうろうろしていた。何でもアルベルトからベティに「会って話がしたい」と連絡が来たらしい。アルベルトが商人から高価な指輪を購入してたと言う噂が街には流れていて、ベティはプロポーズされるのかもしれないと有頂天になっているのだ。
そんな賑やかな屋敷にあって、私はシャルロッテの手を握って大窓から街の風景を眺めていた。私の目には今の騒々しい街ではなく、この地に訪れた時に目にした穏やかな風景が映っている。
豊かな木々と綿々と続くりんご畑。清らかな川が流れ、大きな白鷺が嘴で水面を突く。とうに消えてしまったあの風景。
あの頃は平穏な暮らしを夢見ていた。なのに、今の私ときたら父と同じような人生を歩んでいる。
外を眺めていると、シャルロッテが手を引いて不思議そうに言った。
「お母様、どうして笑っているの?」
こんな時に私は笑っていたのかと驚きつつ言葉を返す。
「シャルロッテ、それはねあなたと一緒にいれて幸せだから笑っているのよ」
シャルロッテも笑顔を向けた。「お母様、私も幸せ!」
シャルロッテの頭を撫でていると、通りの向こうから馬車の列がけたたましい音を上げながらやってきた。
いつになく緊張した様子のサイモンは「マリー! こっちへ来なさい! 公爵を出迎えるぞ!」そう大声を上げながら彼らを迎えに屋敷の外へと出る。
私はシャルロッテの手を引きながら階段を下り、サイモンに続いて外に出た。車列が近づくにつれ、隣に立つサイモンから血の気が引いて行ったのがはっきりとわかった。全ての馬車には黄金色の家紋が記されている。
馬車の列は屋敷の前で止まった。護衛をする何十人もの騎士が整列する中、鷹揚に馬車から降りてきたのは私の父、マーシャル・ロレーヌだった。
そこからは全てが電撃的だった。父は街道建設をはじめとして、これまで様々な支援をハーバードのためにしてきたのにも関わらず、なぜマルティーニ公爵と商取引を結ぼうとしているのかと冷静に尋ねた。
サイモンが上手く答えることができずにいると、父は静かに言った。
「この街で商取引する商人のほぼ全てがロレーヌ家と関係のある人々。勝算はあるのかね?」
仕事を放り出していたサイモンはそんなことすら知識として持っていない。サイモンが要領を得ない説明を繰り返すと、父は諦めたかのように首を振った。
「もういい、お前の頭は私の想像以上のようだ。ところで、そんなお前が私のことを人の能力を見抜けない愚かな老人だと繰り返し言っていたそうじゃないか」
鋭い眼光で見つめる大権力者を前にしてサイモンは震える声で「そんな無礼な言葉を私めが……」としどろもどろに話すしかなかった。
当然、父の元にはサイモンに関する様々な情報が集まっていたのだろう。酒浸りで賭場に出入りしているなんていう生活態度を父はあげ連ね、搾り上げるように叱責する。サイモンは今にも倒れそうなくらい青ざめてしまっていた。
その張り詰めた空気は屋敷にアルベルトが訪れた時、カオスへと変わった。
「アルベルト様!」
場違いな声をあげてアルベルトに駆け寄るのはベティだ。ベティはこんな状況でもずっとアルベルトの到着を待ち侘びていたのだ。
アルベルトは屋敷内の人々と空気感に戸惑った様子。それでもアルベルトは意を決したかのように言った。
「あなたに見て欲しい指輪があるのです」
ベティは夢心地で答える。「アルベルト様から頂けるのなら、どんな指輪でも構いませんわ」
そんなベティの表情はアルベルトが指輪を取り出した時一変した。
「ベティさん、この指輪に見覚えがありますね」
アルベルトが取り出した指輪は私が一番最初に盗まれた品だ。まさか屋敷内で盗みが起こるとは思わず、鍵をかけずに宝石箱に収納していたその指輪をベティに盗まれてしまったのだ。
何よりも大事な品だったから方々に当たって探していたのだが、先日ついにアルベルトが見つけ出してくれた。
ベティはサイモンに負けず劣らず真っ青になってしまった。「し、知りませんわ、そんな指輪」
「古物商の方は確かにベティさん、あなたが売りにきたと証言しておりますよ」
「そうですの? では、それは私が母から頂いたものです。きっとそうね、そういうことね」
その時、その様子を横目で見ていた父が口を開いた。
「それは違う。その指輪はかつて私が妻に渡したものだ。そして今は娘であるマリーに引き継がせた指輪だよ」
もちろん父の言葉を疑い、ベティの言い分を信じるような人物はこの部屋に誰一人いなかった。続いてアルベルトがベティに掲示したのは婚姻届ではなく、窃盗容疑での逮捕状だった。
その夜、父の裁定が下った。
サイモンは領主としての肩書を残したまま、これまでの経験を生かしてりんご農園の管理に専念すること。ベティは窃盗を犯したのだからこのまま法の下で裁かれるべきだと父は告げた。
父はサイモンの代わりに私がハーバードの執政を行っていることを知っていて、引き続き街を託してくれた。
「マリーが賢くこの街を切り盛りしていることは私の耳にも触れておる」
私は父の判断にほっと胸を撫で下ろした。街の執政を任せてくれたこともそうだけど、父が怒りに任せて二人を斬首するような事態になることを私はずっと危惧していたのだ。
ただ、結局のところそれは私の見誤りで、やはり父親は絶対に裏切りを許すことのない性格のままだった。
思えば、父がシャルロッテを涙ながらに抱き上げた時に気付くべきだった。父は見たこともないくらい優しい表情で孫娘の顔をじっと見つめ、繰り返し言った。
「マリー、もう大丈夫だ。あとのことは私に任せなさい。私はこの子に恥をかかせたりはしない」
その時は父がどんなことを考えているのか私にはよく分からなかった。真意を理解したのは父がこの地を訪れてから半年後のこと。
それは突然起きた。相変わらず酒浸りの生活をしていたサイモンが心臓発作で亡くなったのだ。その後あまりに段取り良く、父主催で葬儀が執り行われた。
喪が明けた丁度一年後、私はアルベルトに改めて求婚された。それはまるで誰かの書いた筋書きのような展開だった。もちろん断る理由などあるわけもない。
二人目の孫が生まれるのを見届けてから父は亡くなったが、結局サイモンに何をしたのかは聞けずじまいだった。
一つ言えることは今でも父の教えは首都ロレーヌ初の女領主として執政をする上で役に立っているということ。特に思い出すのはオルソンを斬首するよう命じた時、父が私に言った言葉だ。
「一つの裏切りを許せば、新たに百の裏切りが生まれる。愚者はどこまでも愚かになれるものなのだ。マリー、人を見抜く力を養いなさい」
そういえば最近、ずっと行方知らずだったベティからもう一度雇い入れてほしいという旨の手紙が届いた。私へ向けた暴言、盗みを働いたことを謝罪したいとも手紙には書かれていた。調べさせるとベティは今、貧民街で洗濯婦として働いているようだ。
調査を担当した騎士によれば、こんなしおらしい手紙を送ってきたにも関わらず、今でもベティはアルベルトを奪った性悪女と私のことを口汚く罵倒しているらしい。