ゆらゆら
朝日が昇る前のまだ薄暗い冷えた朝の事を今もまだ覚えている。吐き出す息と、凍えた身体。何も言えずに見送った彼女の後姿と遠くで昇る綺麗なオレンジ。僕にあと少し、何かを伝えれる勇気があったのなら。
あの日彼女が言った言葉のはっきりとした答えも気にならないまま時間だけが経ってしまったけど、ふとした時にそれは僕の記憶から蘇る。
あれはまだ僕が中学生の頃の話で、まだ、幼すぎた僕はあの時の感情が愛情だったのか友情だったのかそれともただの同情だったのか、それすら説明できなくて、ただ過ぎていく毎日に溜め息をつくだけだったんだ。
僕の隣の席の子の耳たぶに穴が開いたのは昨日のことだった。
僕は黒板を眺めていたのだ。前の授業で書かれていた黒板の文字をクラスの代表委員が慌しく消していた。僕の右手に持っているシャープペンは机の上のノートの上で動かないままだった。「まだ書き終えてない」と言う事も出来ないまま僕はそれをただ眺めていた。僕の他にもまだノートを書き終えていないやつはいただろう。だけど、代表委員を止めようとするやつは僕を含めて誰もいない。代表委員が制服についたチョークの粉を、ぱっぱっと掃うのを見て僕は次の授業へと気持ちを切り替えた。
チャイムが鳴ると同時に隣の席の吉井しおりが教室に戻ってきた。
彼女は季節はずれの転入生だった。雪が降る少し前、木の枝にもう葉は残っていなく道路の脇にも枯れ葉はなくなり、ただ冷たい風が体に当たって通り過ぎていく、そんな季節だった。担任の先生の後に入ってきた彼女は一気に生徒の注目を浴びたが、それに応える様な愛想を持ち合わせてはいなかった。
「吉井しおりです。あー、よろしくおねがいします」
ワックスで仕上げたボブの髪がゆらゆらと揺れた。少し重みのある前髪の隙間から覗いた瞳は斜め下を退屈そうに見て、決してクラスの人たちと早々に打ち解けようと思っているようには見えないものだった。特別美人なわけでも可愛いわけでもない彼女はどこにでもいるはずなのに、一瞬目が合ったその瞳は僕の全てを見透かしているようで、まるで皆を馬鹿にしたようなその態度が良くも悪くも話題になったのだ。
あれから二週間が経って僕は彼女の行動パターンが大体読めるようになっていた。
社会と理科の時間は大人しく座っている様に見えたが、右耳にイヤホンが入ってる。どうやら音楽を聴いているらしく、ノートは取る振りだけで中は綺麗なままだった。国語の時間は全く顔を上げずに机を枕にして顔を伏せて寝ている。最初はよく注意されていたが今では何も言われなくなっているのを見ると先生ももう諦めているのだろう。授業の妨害にさえならなければいいと言う様に先生はこちらを見る事すら無くなった。
そんな彼女も数学と英語の時間に関しては、担当教師と仲の良いせいか挙手をして答えているのだ。きっと数学と英語だけならば、僕よりも点数が良いのだろうと僕は密かに思っている。機嫌の良い時なんかは、たまに僕に話しかけてきたりもした。だけど僕じゃ彼女の話し相手にはなれず、会話は弾むことなくいつも一言二言で終わってしまい何だか申し訳なく思っていた。
そして5教科以外の授業はその日の気分で決めるらしく、ひどい時は授業に出席すらしない。高校受験までもう半年を切っているというのに、彼女にとって受験なんてどうでもいいのだろうか? 僕なんて応えれもしない家族の期待の為に、好きなテレビを見る時間すらも削って勉強しているというのに。
教室に入ってきた彼女は席に戻ってくるなり右耳にイヤホンをはめて顔を伏せてしまった。そう、次は国語なのだ。寝るだけではなく耳にイヤホンまで入れてしまった彼女を見ると、完全にこちらの世界を遮断したかのように僕には見えた。
机の上で組んでいた腕の隙間から彼女の横顔が少し見えた時に僕は気付いたのだ。彼女の左耳の耳たぶには安全ピンが刺さっていることを。安全ピンもこんな風に使われてしまった日にはもう安全でも何でもない。赤く腫れ上がった耳たぶはまだ刺して間もないことを示していた。
教室に先生が入ってくると代表委員は先生が教壇の前に立ったことを確認して声を上げる。
「起立」
クラスの全員が立ち上がっているのにも関わらず、彼女はやはり伏せたまま起きようとはしない。いつもならそれに構うことなく「礼」と言ってそのまま着席で授業が始まるのに、「礼」と言おうとした代表委員を先生はすっと掌を差し出して止め、僕の席の方に目をやった。
「菅原、菅原淳」
「はい?」
菅原淳とは僕のことで、何故に僕を呼んだのか理解が出来ず、クラスの人達の視線に戸惑いながら返事をした。
「吉井を起こしてくれ」
「はぁ」
周りの皆の冷たい視線を痛い程感じながら、隣で何も知らずに呑気に伏せている彼女に声をかける。
「吉井、吉井?」
声をかけたはいいものの、彼女は全く反応しない。まさかこんな短時間に寝るはずもない。片耳にイヤホンが入っているが、左耳は安全ピン以外何もついていない。聞こえていないはずなどないのに。そんなに国語が嫌なのか?
「吉井。授業だから起きろよ」
「授業だから」と起こすのも可笑しな話だ。何も言わなくても起きているのが普通だろう。声をかけたのと同時に彼女の肩を叩こうとして触れた瞬間、彼女はビックリした様に起き上がり僕を見た。寝ぼけていたのだろうか? どうして起こされたのかがわからない彼女は、周りのさっきまで僕に向けられていた冷たい視線を感じて状況を把握した。それを見ていた先生が口を開く。
「吉井、お前一人のせいでこれだけの人が時間を無駄にしてるんだぞ。わかってんのか?」
嫌味を込めて吐かれた言葉に彼女は眉間に一瞬シワを寄せたが、一言「すみませんでした」と言って立ち上がった。少しごもったように聞こえた吉井の声とは逆に彼女はしっかりと先生の顔を見ていた。
「あまり調子に乗ってんじゃないぞ。じゃあ、代表委員挨拶して」
吉井のセーターの袖から覗いていた手はぐっと握りこぶしを作ったのを僕は見逃さなかった。その後、彼女は決して机に伏せることなく黙って黒板を見ていた。耳にイヤホンもせずに、ノートを書くこともしない彼女は、時間が過ぎるのをただ黙って待っているように僕には見えていた。
下校時間、友達と歩いている僕の横を彼女が早足で通り過ぎた。そして、しばらく前を歩いていると思い出したかのように足を止め僕の見た。
「菅原」
「あ、何?」
小心者の僕は少し焦っていたが、友達の手前何も思ってないような反応をする。
「今日、ごめんね。何か」
彼女は僕の顔を見てそう言ったが、決して笑顔ではなかった。怒っているとか、そうゆうような感情ではなく傷心しているような、そんな気がした。
「あ、あぁ。気にしてないから」
僕に謝るくらいなら最初からしなきゃいいのにと思ったがそれを口にするのは止めた。彼女のつけているフェンディのマフラーの上からから安全ピンがキラリと光る。彼女の耳は冷たいせいもあるのだろう、真っ赤になっていた。
「じゃあ、それだけだから」
「あぁ」
彼女の短い制服のスカートがひらりとめくれた時に彼女はまた僕に背を向けて歩きはじめた。僕と友達は決して歩くスピードが遅くないはずなのに彼女の姿はすぐに小さくなり見えなくなってしまった。
「なぁなぁ、今吉井の耳アンピン入ってたよな」
噂好きな友達は僕に確認するように聞いてきた。きっと明日にでも皆の話のネタにするつもりなのだろう。肩に乗せた手はやけに力が入っている。その好奇心が少し不愉快になる。
「さぁ? どうだろ。俺には見えなかったけど」
「絶対ついてたよ。淳、吉井の隣の席なのに見えなかったのかよ」
「そんなところまで見てねぇよ。ストーカーか、俺は」
「つまんね。話になんねぇな」
絶好のチャンスを逃したかのように彼は悔しそうな顔をして口を尖らせた。そして僕の肩に置いていた手で僕を突き飛ばすように押して自分のポケットに戻す。
「吉井ってさ、友達一人もいねぇよな」
反対側の道路にいた女子のかたまりを見ながら彼は言った。その言葉に大した意味などないのだろう。でも僕には何だか少し寂しく思えた。
「まぁ、そればっかりは俺らがどうこう言う事ではないだろう」
僕は彼と目線を合わせずに答えた。結局、僕も彼女に救いの手を差し伸ばせる程お人よしではないんだ。それをする事によってクラスの人たちに何を言われるかもわかっている。極力関わらないことが一番なのだ。
「確かに。あいつと一緒にいたら自分まで悪く言われるよ」
クククと笑いながら言う彼を見て一瞬腹立たしかったが、僕もそれとなんら変わらないと思ったらそれ以上の言葉は言えずに話題を変えてしまった。僕はいつもこうなのだ。自分の意見を言うことも出来ずに、後になって文句を言う。今日だって「まだ書いてない」と言えれば家でノートを写すこともせずに、その分テレビを見れるのに。
情けないのは十分承知している。だけど、それが僕なのだ。
夜になると風は凄さを増して、ビシビシと僕の部屋の窓ガラスを叩く。雪はまだ降らなくとももう十分に冬を感じさせてくれる。布団一枚をかけるくらいじゃ、朝方の寒さに耐えることなどできないのだ。僕は、顔の半分まで布団をかけて目を瞑る。
(吉井、耳消毒したのかな)
明日学校に来たら聞いてみよう。でも普段話さないのにいきなりそんな事を聞いたら変に思われるだろう。それに、どうせ僕は思っていても聞くことはないに決まってる。僕も高校に入学したらピアスの一つや二つ開けてみよう。そんな事を考えながら僕はいつの間にか眠りに着いた。
そして、今日。僕の隣に彼女の姿はない。
どんなに授業に出ることはなくとも、必ず毎日学校には登校してきたはずなのに。彼女が転入してくる前の少し孤独な一人の席を思い出していた。
彼女がいてもいなくても、誰一人としてそれを口に出す人はいなかった。受験の前で不真面目な彼女がいないことによって、逆に皆都合がいいのだろう。最初から彼女などいなかったかのように錯覚までしてしまう程だ。あれだけ気にしていた僕も午後になればそんなことすら忘れて、必死にノートを取って楽しく友達と下校した。家に着いて自分の耳がジンジンと赤くなっているのを見て漸く彼女の事を思い出したのだ。都合の良すぎる自分に何だか少し幻滅した。
昨日ほどの風ではなかったが外の気温はかなり下がっていた。パート帰りの母は買い物袋を重そうに持ちながら居間に入ってくると「明日には雪降りそうね」と僕に言った。母はストーブの電源を入れてストーブの前に手をかざしながら、雪はねのスコップの事や冬靴の事を一人ぶつぶつと言っていた。
「淳、暖かくして寝ないと風邪引くからね」
「はいはい、わかってるから」
風呂上りの僕に「もう一枚着なさい」と母はトレーナーを差し出す。僕は不満そうな顔をしながらもそれを断ることなく受け取ってしぶしぶ袖を通す。たしかに今日は昨日より気温が低い。僕は部屋に戻るとまた教科書とノートを開きながら問題集にも目を通す。下の部屋から聞こえてくる笑い声に少し苛立ちを感じていた。苛立ちを抑えられないまま集中力が持続するわけはなく疲れてウトウトとしてきたので諦めて布団に入った。
朝方、それは僕の見ていた夢の中にまで聞こえてくる程の音だった。
「……ん?」
変な鳴き声がグワァグァグァグワァと何重にも重なり、僕は目を覚ます。部屋に掛かっている時計を見るとまだ4時15分だった。今日は土曜日で学校はない。もう一度寝ようと思っていたが未だに聞こえる変な鳴き声が気になって僕は椅子にかけていたトレーナーを羽織り寝ぼけなまこでベランダの方へ向かう。
「なんだろ、この声」
その変な鳴き声はだんだんだんだんと近づいてくる。僕は猫が朝から盛っているんではないかと思い窓を開けてベランダに顔を出す。ところが外には猫の姿はなく霧がかかって冷えこんでいるだけだった。吐いた息が白くなってるのを見て我に返る。
「寒い」
僕は何もいないのを確認して部屋にまた戻ろうとした。部屋の中へ入ろうとするとまたその鳴き声がより近くで聞こえてきた。
グワァグァー、グワァグワッ、グワァーグワァと気味の悪いくらいに響き渡るその声は頭上から聞こえてくるのだ。その音に釣られながら頭上を見上げる。すると、眠気も吹っ飛ぶくらいの光景がそこにはあった。
「……うわっ。すげぇ」
驚いた。何と渡り鳥がV字飛行をしていたのだ。テレビや新聞で見たことはあったものの、リアルにそれも朝方に見れるなんて思ってもいなかった。僕は寒さも忘れ、渡り鳥が見えなくなるまで黙って空を見上げていた。朝方の渡り鳥なんて、誰か信じてくれるだろうか。僕はその姿をカメラに写す事も忘れ、ただ呆然と立ち尽くしながら見ていた。渡り鳥の群れはすぐに姿が見えなくなってしまったけど、僕はベランダから離れたくなかった。もう一度見れるんじゃないかと淡い期待を抱きながら、ただ、空を眺めていたのだ。
結局10分くらいその場にいたが渡り鳥は現れることなく、寒さに限界を感じた僕は部屋に戻ろうと再びベランダの窓に手をかけたその時、近くで自転車の音が聞こえた。一軒、一軒、止まってはまた自転車に乗ってと繰り返す音はきっと新聞配達の人だ。寒い中大変だなと新聞配達の人の顔を見た瞬間に僕は自分の目を疑った。そう、紛れもなくそこにいたのは彼女だったのだ。
「吉井?」
僕は2階の部屋のベランダから彼女に向かって声をかけた。これだけ静かな朝なのだから僕の声は聞こえているはずなのに彼女はまた返事をしないし、僕の方を見ようともしない。一昨日もそうだったが、僕の事をわざと避けているのだろうか?
ガチャっと自転車を重そうに止めると、タッタッタッと小走りに僕の家へ向かってくる。彼女は寒そうに身を縮めながら僕の家のポストにシュッと新聞を入れた。そしてそのまま隣の家へと移動していく。僕はそれを見て何だか彼女と話をしたくなり、家に置いてあったカイロを一つ持ってパジャマの上にコートを着て外へ出た。外はまだ太陽が昇ることも無く薄暗くて少し不気味だった。街灯の明かりだけが唯一街の中を照らしていた。彼女はもう六軒先の家に行っていて僕は彼女を追いかけた。彼女はまた新聞を持ってポストに向かう。やっと追いついた僕は肩で息をしながら彼女の自転車の前に立っていた。
「うわっ、何?」
彼女はポストに新聞を入れて自転車に戻ってくると自転車の前に立っている僕を見て驚いた。彼女の声は町内に響くかのように大きかった。自分の声の大きさに慌てた彼女は口元に手をやったまましばらく動かなかった。
「あ、菅原、です」
彼女の反応を見て急に恥ずかしくなった僕は敬語を使って軽く頭を下げた。彼女は右耳にイヤホンを入れていたらしくそれを外して僕に近づいた。
「菅原? 隣の席の?」
髪をかきあげながら彼女は戸惑うように僕の顔を覗いた。そして自転車の前にいるのが僕だと気付くと少しホッとしたように自転車にまたがった。
「こんな朝から何しているの?」
彼女はゆっくりと自転車を動かし始める。僕はそれに付き添うように隣を歩いた。そしてポケットで温めていたカイロを差し出した。
「これ、やるよ」
「は?」
彼女は怪しむように僕を見る。当たり前だ。こんな早朝に隣の席のべつに仲も良くない男に自転車の前で待ち伏せされて挙句の果てに意味もわからずカイロを差し出されているのだから。彼女は自転車の足を止める。
「何のつもりなの?」
彼女の声は低く僕に響いた。何とかこの場の空気を和ませようと、さっきの渡り鳥の話をした。
「さっきまで寝てたんだけどさ。グァグワァって変な鳴き声が聞こえて起きたんだ、俺。で、ベランダに出たら渡り鳥がV字飛行してて……」
余計変に思われるんじゃないだろうか? 僕は随分と早口で喋っていたと思う。誰かに何かを言い訳しているようなそんな気分だった。
「あぁ、さっきの? 菅原も見てたの?」
彼女は空を指差し僕に言った。さっきの低い声とは違い少し楽しんでいるような声だった。僕はそのまま話を続ける。
「そうそう。それ見てもう一回くらい渡り鳥来ないかなぁってベランダにいたら、吉井が新聞配達してて。寒そうだったからカイロあげようと思って」
黙って僕を見ている彼女の目がまっすぐ見れない。普段僕がこんな大胆な行動に出ることなんてないのだから。
「なんだ、そうなんだ。ストーカーかと思っちゃったじゃん」
僕の前で彼女が初めて笑った。教室でも見たことのない彼女の笑顔は可愛いとは言えないけれど、ちゃんと笑ったりするんだと思ったら何だか安心した。
「吉井の名前呼んだけど気付いてなかったみたいで」
「……あぁ。あたし、難聴で左耳聞こえないの。たまに喋り方ごもったように聞こえるでしょ」
「え?」
彼女は手に持っていた新聞をポストに入れに行ってしまった。僕はその短い時間で頭をフルに回転させて彼女の言った言葉を考えた。そして彼女が戻ってきた時に僕は尋ねる。
「難聴って海女さんとかがなる?」
「アマ? あぁ、そうそう。海女さんとかのなる病気。右耳はまだ聞こえるんだけどほとんど音楽聞いているから。ホントはイヤホンしたりしたらダメなんだけど。どうせ聞こえなくなるし。それにたまに周りの音が小さい音でも大きく聞こえてきて気がまいるんだ」
呆然と立っている僕を置いて、彼女は自転車にまたがり仕事を進める。彼女がどうしてあの国語の時間僕の声を無視したのか漸く理解できた。あの左耳では周りの音を聞き取らないのだ。彼女は僕の事など構わずに淡々と仕事をこなしていく。僕は彼女を追いかけた。
「菅原、風邪引くから家に帰りなよ」
追いかけて来た僕に彼女は言う。突き放されたような気分だ。それでも何とか話を引き伸ばそうと僕は必死になって話しかけた。
「左耳のピアス大丈夫なの?」
「え? あぁ、気付いてたんだ。大丈夫だよ」
「受験の時は?」
「あたし、高校行かないから。中学卒業したら親戚の叔母さんの所で働くの」
「そうなんだ。学校来ないの?」
「うん、卒業式までもう行かない。もう出席日数はちゃんと取ったから。別に楽しみもないし」
「そうなんだ」
「じゃ、新聞間に合わなくなるから」
「あ、……あぁ」
僕は病気を告げられた事によって何だか急に気もちが重くなってしまい、彼女が話を終えたことによってそれ以上何も言えなくなり、彼女が進む方角とは反対にある自宅に向かって歩き始める。僕は結局中途半端に彼女に関わってしまい彼女の力になることなんて出来なかった。むしろそんな僕を見透かしていたかの様な彼女のあっさりとした態度は、自分の無力を更に実感させてしまうものだった。
僕は彼女と話してどうしたかったのだろうか? 少しは彼女を理解して彼女の味方にでもなるつもりだったのだろうか?
(恥ずかしいなぁ)
背中はうなだれ寂しく歩く僕を彼女は自転車で追いかけて来た。
「菅原」
今度は僕がビックリして身を構えてしまった。彼女はそんな僕を見てクスリと笑う。
「どうせだから、カイロちょうだいよ」
彼女が差し出した冷たい手に僕は救われた。彼女のか細い小さな手は乾燥して皸になりボロボロだった。僕は鼻をすすりながらポケットからカイロを出して彼女に渡す。彼女の鼻は真っ赤になっていてもう長時間外に居ることを僕に知らせた。
「はい」
「ありがと。てか菅原さぁこんな早朝に外出てきてあたしに話しかけるくらいなら、黒板の文字消される前に書いてないって言えるんじゃないの?」
意地悪く僕を見て言う彼女の顔は笑っていた。どうやらいつも隣で黙ったまま黒板を見ている僕に気付いていたらしい。やっぱりどこか見透かされているような気がした。
「うっ、うるさいな。ちゃんと言うよ」
「どうだか。それじゃあね、ばいばい」
彼女が自転車を反転させた姿を僕は黙って見ていた。何か声をかけるべきなのか、正直どうすればいいかわからなくなり僕は空を見上げる。
「あ」
「え? 何か言った?」
僕の声に彼女が振り返る。頭上を見上げている僕を見て彼女もそのまま目線を上にする。
「雪」
「初めて見た」
転入してきた彼女は初めて見る生の雪に目を輝かせた。そして手を空にかざして雪が乗るのを待っている。ゆらゆらと落ちたその雪が手の体温に溶けているのを見て嬉しそうに言った。
「温かいんだね、雪」
「冷たいだろ?」
「温かいだよ、温かい」
僕を見ずに雪を見つめて言う彼女の姿は何だか愛らしく見えて、僕はもう少し寒さに我慢しながら彼女と話していたいと思った。些細な事でいい。どうにか引き止める事は出来ないのだろうか。
「それじゃあ」
だけどそんな風に都合がいいはずはなくすぐに彼女は思い出したように僕を見た。そんな彼女を僕はもう一度だけ引き止めた。
「あぁ。吉井」
「何」
「……うん。元気で」
「何それ、菅原って変わってるよね。まぁいいや。じゃね」
彼女が動き出す姿を見て僕は家に入った。まだ寝ている家族を起こさぬように静かにそれでもすばやく階段を駆け上り、部屋に入ると急いで窓を開けて彼女の姿を探した。だけどそこには彼女の姿はもうなく時計はすでに5時10分を指していた。
「まだ、話したかったなぁ」
ようやく遠くで朝日が昇りはじめ、綺麗なオレンジが僕を照らし始める。その切なさを誘うようなオレンジを見ながら、僕はそのまま寝込んでしまった。
彼女はそれから本当に学校に来ることはなく、卒業式まで会う事はなかった。少し伸びた髪の毛とうっすらしている化粧が何だか大人びて見えていた。式を終えた後に何か少し話したんだけどそれが何だったかまでは記憶に無い。僕といえば卒業した後に違うクラスの子に告白されて高校1年の夏まで付き合った。分かれた原因はお互いに高校で違う人を好きになってしまったからだ。どちらかがという訳ではなくて本当にただの友達に戻ってしまった。何度かの恋愛を経験して、僕は今日に至る。
「淳。雪降ったんだよ、雪」
「知ってるよ。雪って温かい?」
「はぁ? 冷たいに決まってんじゃん。寒くて頭おかしくなった?」
「だよな」
今でもたまに考えるけど答えは見つからない。彼女がどうしてあの時雪を温かいと言ったのか。小さな頃の記憶はどんどん頭の隅のほうに押し込んで曖昧になっていくのに、彼女の色は鮮明に覚えている。それはきっと僕は彼女と友達になりたかったのだ。あの時、新聞配達をしていた彼女の姿とあの日の朝日のオレンジは僕はこれからも忘れないのだと思う。
もし、もう一度会えるのなら今度こそ、僕は自分の気持ちをきちんと伝えるだろう。そして、雪の温かさの意味を教えてもらうに違いないだろう。




