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ナトリウムランプ

 美しさであったり壮大さであったり、自分が感動したとおりに、自分の心で捉えた姿に少しでも近づくようにその対象のその瞬間をフィルム上に映し取る。それが写真を撮るということである。そしてそのために光量や構図の組み合わせを練り上げ、切り取るべき最高の機会を忍耐強く待ち、逃さない。良い写真を撮ることに欠かせないのはたった一枚の写真に対するそういった撮影者の真摯な注力でありそれをやり遂げる執念である。父からカメラを貰った十歳の頃から写真を撮り続ける中で康太が貫いている写真に対する姿勢で、良い写真を撮るうえで最も必要なことだと思っている。けれども先ほどから話している田崎はそうではないようで、康太の思いを受け入れようとしない。

「今頃のデジタルだったらちょっとくらいヘタでも良い写真は作れるって。撮った後で色味やら構図やらいじれるから、とりあえず色んな条件、設定でいっぱい撮って、後は加工が勝負だろ」田崎は体を後方へ反らせながら言った。

それは写真ではない。後から修正できてしまうものなどイラストではないか。そう思ったけれど康太は反論できなかった。現在の主流がデジタルカメラであることは事実であり、プロの写真家の写真集が加工されていない作品だけでできているかというとそうではなく、田崎の言うことは現在一般的に認知されている手法だからだ。そして何より、講釈を垂れながら見せる田崎の作品は、主題の美しい桜に目を引き寄せられる構図と儚さを上手く表現した水彩画のような紛れもなく良い写真だったからだ。

「お前の写真はまあ良いと思うけど、デジタルの方がもっと楽よ。それでもってもっと良いのを撮れるようになる。保証するって」

「そうだね。色々考えてみるよ」と言ったものの、写真への姿勢を認めていない田崎から助言を受けることに対して釈然としなかった。けれども何も言えない康太はいつものように視線を外して小さく頷くことしかできなかった。

 自分が思っていることの半分も言えない。相手からの反駁に対して自分の意見を押し通す自信がないのだ。相手にぶつける前に自分で自分の意見を否定してしまう。例えそれが自分にとってどんなに確固たるものであったとしてもだ。結局のところ自分の意見は正しいものではないのだろう。康太はそう自分に言い聞かせるしかなかった。

 

あれだけ春を印象付けた桜が散って、街の風景は瑞々しい緑が幅をきかせている。その生命力に目を奪われると同時につい構図を考えてしまう。美しいと感じたものはフィルムに残したくなる。康太の目はいつもファインダー越しに世界を見ていた。

 「大学は産業大にするのよね。今後の頑張り次第だけどあなたの成績だったら無理ではないと思うわ」康太の担任である永井先生は康太の成績が書かれているであろう資料をざっと見た後、相手越しに窓の外を見ていた康太に向かって言った。

 「はあ」

 康太はそれしか言わず、机に目を落として首から小さく頷いた。

 「はあってなくらいじゃ入れる学校も入れないからさ、頑張りなさいよ。あなた少しエネルギーに欠けるけど、努力家だし根性あるんだから必ず合格できるわよ」いつものように歯に衣着せぬ言い様だけれど、優しい目で康太を見ながら永井先生はそうはっぱをかけてくれた。

 家に帰ると、待ちきれないとばかりに尋ねてきたので、康太は面談の内容を母に話した。

 「やっぱり産業大ね。頑張んなきゃじゃない。あなたなら絶対できると思ってたのよ」

 母は少し興奮気味だった。それもそのはずで産業大は国立の狭き門であり、子女が合格すれば親はそれなりに鼻が高い。

 「うん」そう言う康太だったが、本当は先生や母親が望む産業大へ行くことは本意ではなかった。行きたくないわけではないが、他に行きたい学校、望む将来があった。

父に教えられ子供の頃から康太は写真を撮ってきた。美しい、大きい、怖い、楽しい、そういった自分の心が揺さぶられた瞬間を自分の心に映った姿で写真にする。自分の感動を表現し形にする。その作業が堪らなく好きだった。そしてその形になったもの、写真を見た他人が、写真を撮った時の自分と同じような感動を疑似体験して感嘆の声を上げてくれることが嬉しかった。その写真を撮り他人に顕示するプロカメラマンという職業があると知った時、これこそが自分の進みたい道だと強く思ったのだった。

そのプロのカメラマンになるために専門学校へ行って本格的に写真を学びたい。それが康太の本心だったが、産業大に息子が行くことを喜ぶ母や、国立大合格の実績が嫌なはずのない先生の前では現実感が薄く地に足のついていないように聞こえるであろう自分の希望はとても口にすることができなかった。

「お父さんも、産業大、悪くないわよね」母は新聞を読んでいて顔の見えない父に同意を求めた。

「俺が選ぶわけじゃないでしょ」父は新聞で母の視線を遮りながら横目で康太を見た。

「康太が行きたいんだったら、それなりに頑張って行きゃいいさ。お前その学校に行きたいんだろ」

促すように言う父を横目でチラリと見返した後テレビの方を見ながら康太は「そうだね」と一人ごちた。


部屋に戻った康太は机に座り窓の外を見ていた。静かな住宅街の夜には街灯や家々の電灯がポツリポツリと浮かんでいて、漠然と眺めるのに丁度良い寂しい美しさを持っていた。

自分のやりたいことや、こうあるべきだと思うことをどうしてもっと主張できないのか。自分の中では確固たるものなのに、他人という外界から少し揺さぶられるだけで不安になる。自分の考えに自信がないわけではない。少なくとも、こと写真に関しては少年時代から積み重ねてきた自分なりの経験と思いがあり、それは簡単には譲ることのできないものであるはずだ。それなのにいざ他人の意見にさらされるとそれは急にトーンダウンしてしまい、いつも康太は下唇を噛むことになる。自分には相手を言い負かしてでも自らの思いを貫こうという気持ちがない。相手を怒らせたり傷つけたり、期待を裏切ったりすることが忍びないと思ってしまうのだ。自分の思いは正しいものだけれど相手のため、周囲との関係のため、事情の分かる自分が負けてあげるしかない。そう思いながら、康太は窓に反射する噛みしめた自分の下唇を見た。


日曜日に、康太はカメラを肩に掛けブラリと街を歩いた。良く晴れた日だったので街の至るところに観光客や休日を楽しむ人が溢れていた。

康太はこの街が好きだった。港を中心としたすり鉢状の地に作られたこの街は、その中心部が海に面しているうえに外縁に向かって人々の住む斜面が広がっている。そのため外縁の高台から市街地を見下ろすと、視界いっぱいに家並が広がりその先に群青色の海が続いて見える。更にはその景色の中に白い教会がポツンと目を引くように建っている。斜面、海、そして教会を一同に見ることのできるこの独特の美しさが康太は好きだった。

この風景の持つ物語性を何とか一枚の写真に切り取りたい。常々康太はそう思っている。街の歴史、信仰心、人々の生活、自然が作る地形の妙、そういったものが不思議なバランスで作り上げるこの街の雰囲気を一枚の写真に封じ込めたい。そしてそれを多くの人に見て、知ってもらいたいのだ。この素晴らしい題材の近くに居ながら未だにそれができないでいる。そんな自分が情けないとすら思っていた。写真に携わるものであれば、何に代えてもこの作業だけはやり遂げなければならない。そんな事を考えながら歩いていると、また今日もその高台の公園に着いていた。街を一瞥すると、家並、海、教会の白壁が夕日で茜色に照らされ寂寥の表情を浮かべていた。それからは何も考えず、歩き回り視点を変え、目に映るその景色を、その美しさそのままに写真にしようとただ夢中でシャッターを切り続けた。

気が付けばもう日が暮れかけていた。この場所に来て二時間が経とうとしていた。今日も納得のいく写真を撮れなかったけれど、写真のことだけを考えた時間を過ごして康太の心は充足感で満たされていた。ずっとこうやって写真を撮り続けたい。水平線に最後の朱色を投げる夕日を見つめながら康太は思った。

 例年にない猛暑に陰りが見え始めた九月はじめ、写真部は打合せをしていた。十一月に行われる文化祭での展示のテーマについてである。文化祭といえば学校内外の人に自分達の作品を見てもらい、文化部ということで日頃あまり話題にならない自分達の活動を強く認識してもらうため、そして写真を通して部員個々人の隠れた才能を学内の生徒達に提示することで尊敬を集めるため重要な場である。そのためには自分達の力を余すことなく発揮できるテーマを選定することが極めて重要となる。

「去年の〔欲望〕が意外と好評だったからなあ。みんな自分の好きなものをジャンジャン撮影できたからいいものが出来とおもうのよ。だから同じ感じがいいんじゃないか?」

いきなり田崎が言った。

確かに昨年の〔欲望〕については皆良い写真を数多く撮っていた。自分の気持ちをストレートに表現することができるテーマで悩むことなく撮影することができたのだろう。

「欲望と似た物と言ったら、人に渡したくないもの…大切なものとかかな?」

康太のすぐ隣に座っていた、数少ない女子部員の一人である日野綾音が言った。

大切なものという言葉を聞いて康太は少し戸惑った。すぐに浮かんでこなかったからだ。自分にとって大切なものとは何か。家族、数少ない友達、確かに大切だが何かしっくりこない。父から貰ったカメラ、これも大切なのだが何か違う。自分にとって大切なものとは何なのか。考え出すと余計に迷いが深まった。

「じゃ〔大切なもの〕ということで」

テーマの決定を知らせる部長の声がした。気が付けば打合せは終わっていた。

 「思いつきで口走っちゃったんだけど、よくよく考えてみると何だか妙に難しいテーマよね」

 打合せが終わると日野綾音が困った顔で話かけてきた。

 「そうだね。でも日野が言ってくれなかったら、田崎案のもっと微妙なテーマになるところだったよ」

 「確かに。じゃあ卑屈になることはないわね。で、裏部長は何を撮ろうと思ってるの」

 存在感はないけれど何度か賞を取り写真の実力を持った康太のことを部員達は裏部長と茶化す。

 「裏部長とか止めてよ。それにまだ何にもアイディアなんてないよ。そういう日野こそどうするつもり」

 康太はそう言うと日野に視線を投げた。

 日野綾音は康太と同じクラスの女子だ。特別親しいというわけではないが、同じ写真部ということで他の女子よりも比較的話す機会は多い。特に写真の技術や題材などについては相談を受けることが多かった。特別に美人というわけではないが、色白で奥二重の古風な顔立ちを男子の多くは悪からず思っていた。

 「当然、私もまだ全然。また悩ましい日々が続くのね」

 「最後の文化祭だから頑張らないとね」

 日野との会話に康太は少し心が弾むような気がした。


 光が横滑りに窓を通り抜け部屋の壁をオレンジに染める。その光の通り道を舞い散るホコリが浮かび上がらせる。自分以外誰もいない部室で窓の外を眺めながら康太は考えていた。康太は写真の構想を練ったり現像をしたりするためにミーティング以外あまり部員が寄り付かない部室をちょくちょく訪れる。

文化祭展示のテーマである自分にとって大切なものとは何か。この数週間ふとした時に考えてみるけれども今一つピンとこない。好きなものではなく大切なものだ。写真、カメラ、友人、家族。身の回りにあるありふれたものを思い浮かべてみても、どれも納得感がないのだ。テーマにピントが合わなければ良い写真を撮れるわけはなく、康太は小さくため息をついた。

 その時、カラカラと音を立て部室のドアが開いた。その方向に目をやると日野綾音が入ってきていた。

「何やってるの、一人で。怖いんだけど」

 少し驚きの表情を見せた後、日野綾音はスタスタと康太のそばの椅子に来てストンと座って言った。

「テーマについて一人で考えてたんだよ…部室に部員がいるのは普通だろ。怖いとか言うかな」

「それは失礼。でも、まだテーマを考え中だなんて裏部長にしては珍しく悠長に構えているのね。」

「裏部長はやめてって。…何だか難しくてさ。大切なものって。」

 そう言うと康太は綾音から視線を外した。


「日野は何しに来たのさ。今日はミーティングもないし、現像も自分じゃやんないのに珍しいんじゃない。」作り出した沈黙を破るように康太は言った。

「私だって部室で構想を練ったり、真面目に写真に取り組むことがあるんですよ」

 少しふざけた表情で綾音は答えた。

「でも確かに今回のテーマって決めにくいわよね。これかなって頭に浮かんだ次の瞬間には何か違うよなってなっちゃう。大切って少し重い感じがするから軽々しく決められないわ。」

「うん、そうなんだよね。」

そう短い会話を交わすと、康太も綾音も考え込んでしまった。

「そうだ」

綾音が思い出したように声を上げた。

「何も思いつかないもの同士、テーマ探しでもしない?カメラ片手に街でもブラブラしてみたら何か見つかるかもしれないでしょ。一人で思い悩むより二人で相談した方がアイディアは出てきそうじゃない?それに実力№1の裏部長に写真の極意を教わりながらテーマを探せるなら一石二鳥てなもんだわ」

 思いもよらない申し出に康太は少し戸惑ったけれどテーマについて煮詰まった自分の頭で悩み続けるよりも、鋭く思える綾音の感性に頼ることも悪くない策だと思った。

「そうだね。たまには他人の感覚に触れることもいいことかな。でも僕の授業料は安くないよ」

「あら、頼られるのは私でしょ。それじゃあ、早速今週の土曜日でもどうかしら?」

「うん、いいよ。」

「時間はまた連絡するから。せっかくだから何か案くらい考えててね。」

 そう言うと綾音は部室から出ていった。

 小さくなっていく綾音の足音を聞きながらふと康太は思った。綾音と一緒にテーマを探す約束をした自分のことを。いつもであれば他人と一緒に行動を共にするなど考えられない。他人に意見できない康太は行動を合わせてしまい自分のしたいことをできず無用に時間を費やすからだ。それなのに何故今日は綾音とテーマ探しをしてもいいと思ったのか。それはきっと、珍しく被写体探しが行き詰っていて、気分を変えてみたいと思ったからだろう。それと多分、明るく誰にでも分け隔てなく接する綾音に思いがけず誘われたからだろう。そんなことを考えながら、康太はぼんやりとホワイトボード見つめていた。


テーマ探しの日、康太は時間十分前には待ち合わせ場所である駅前に着いていて、通行人を観察していた。同級生と年齢、背格好の似た若者を見る度にふと顔を背けてしまう。康太は人通りの多いこの場所を待ち合わせ場所に指定した綾音のことを少し恨めしく思った。

やがて通行人の中から綾音が近づいてきた。十一時丁度だった。

 「遅刻しないで来るあたり、流石よね」綾音は少し嬉しそうに言った。

 「どこに行くか考えてきた?」綾音は続けて言った。

 「美術館あたりはどう?港も近いし稲佐山も見えるし、この街らしい風景じゃないかな」

 「そうね、歩いて行けば、道すがら何か見つかるかも知れないし」

 そう話した後、康太と綾音は美術館へ向かって歩き出した。

 綾音は辺りを見渡しながら康太の少し前を歩いて行く。少し跳ねるように歩く綾音の後ろ姿を見て康太は少し吹き出しそうになった。キョロキョロと周りを観察しながら歩く綾音は真剣に被写体のヒントを探しているようだった。空は青く晴れて高い。風は少し冷たいが、歩いて行動するには丁度心地よい。写真の撮影にとっては陰影がつきにくく少し晴れ過ぎというところだが街を歩いて回るのには良い日よりだ。康太は一人で撮影して回る時よりも高揚している自分を感じていた。

 美術館につくと康太は綾音とテーマ探しを始めた。テーマ探しと言ってもカメラを片手に周辺をうろうろとするだけだ。

街のシンボル稲佐山や青い海に高く白く聳える女神大橋、ヨットハーバー。それらがテーマと結びつかないかを考えながら康太は歩いていた。

「私ね、長崎っていう街が好きなんだ」不意に綾音が言った。

「港があって、海があって、雰囲気のある坂道とか教会もあるじゃない。街を歩くだけで美しい風景に出会うことができるわ。散歩するのがこんなに楽しい街って他にあるのかしら」

それを聞いて康太は少し驚いた。長崎に対して自分と同じような思いを綾音が抱いていたからだ。そして何故だか少し嬉しくなった。

「あの…僕も前からずっとそう思ってたんだ。この街の風景でしか感じることのできない空気って確かにあって、それを完璧にフィルムに落とし込めないかってずっと思ってて…」そこまで矢継ぎ早に言うと康太は口をつぐんだ。そして申し訳ない心持ちで綾音を見て言った。

「ごめん。熱っぽく僕ばっかり喋っちゃって」康太はガラにもなく夢中になって喋ってしまった自分を恥ずかしく思った。

「ううん。実は写真だけには熱い裏部長の性格、私見抜いちゃってたから。さ、続けて」

綾音は時折見せるイタズラっぽい笑顔で言った。

「なんだよ、それ。あの、まあ、僕も長崎の街が大好きで、いつか納得のいく写真を撮りたいと思ってるってことだよ」康太は苦笑いをしながら答えた。

「ふふふ。照れない、照れない。裏部長と似た考えを持ってるんだから、私の感性も捨てたもんじゃないって事が分かったわ」そこまで話して康太は綾音と声を上げて笑った。

それから康太は綾音と取りあえず写真を撮って回ることにした。たとえテーマに合致していなくとも美しい風景を写真に収めることは、自らの実力向上に役立つと考えたからだ。けれども康太は写真の撮影に今一つ集中できなかった。綾音のことが気になったからだ。

綾音は本当に一生懸命にそして楽しそうに写真を撮る。被写体を決めると、どう撮るかを深く考える。光量、シャッタースピードをどうするか、画角つまり一枚の写真に収める範囲をどうするか、自分が見ている景色の美しさが写真になった時にも同じように現れるか時間をかけて考える。また、視点を変えるために歩き回ることを惜しまなかった。

康太は、写真というものに対して、こんなにも情熱を傾け一所懸命に向き合う人間が自分以外にいることが嬉しく、そして少し焦れったかった。

帰り道はもうすっかり暗かった。オレンジ色の街灯の中を康太と綾音は少し離れて横並びに歩いた。意外に長い時間撮影をして疲れたからなのか綾音は黙って歩いていた。康太も話す言葉が特に出てこなかった。二人で暫く黙ったまま歩いたけれど、気詰まりのようなものも感じず康太にとにとっては苦ではなかった。ただ何となく、もう少し一緒に歩いていたいと思っていた。結局互いにテーマを見つけることが出来なかったし、綾音に対して良いアドバイスをすることも出来なかった。何の成果も無かったものの、想像していたよりも心地良かった時間がこれで終わるのかと思うと、何だか寂しくなって康太は小さく息を吐いた。

すると突然綾音が康太の方を向いた。

暗がりでも、康太の方を射るように見るその真っすぐな瞳は良く分かった。

「そろそろお別れだわ。さて、次はいつが都合いい?だって、まだテーマも決まってないし、これで止めるわけにもいかないものねえ」と、自分の言ったことに頷きながら綾音は言った。

康太は言葉がすぐに出てこなかった。自分が言えず、そして情けないことに聞きたかった内容の言葉を投げられて、驚き、少し戸惑った。

「じゃ、次の土曜日ね」

そう言って綾音はチロッと舌を出して小さく笑った後、プイと振り返って点滅の横断歩道を渡ってしまった。それきり振り返りもせず、電停に並ぶと康太の方へ顔を向けることはなかった。

 置き去りにされた康太は呆気にとられ、電停に並ぶ綾音をボーっと見つめていた。電停の灯りで頬をオレンジ色に染める綾音はまるでスポットライトを浴びているかのように周囲から浮き上がって見えた。康太は思わずカメラのフィルムを巻き上げ、綾音のオレンジ色の横顔に向けて一回だけ優しくシャッターを切っていた。

 体育祭も終わり秋が一層深まってきた十月の土曜日に、康太は綾音とまた撮影に来ていた。この日は康太が気に入っている高台の公園で撮影することにしていた。季節が良いからか公園にはそれなりに多くの人がいた。特に子供連れの家族が多かったが、若い恋人同士も少なからず居た。仲良さそうに寄り添って歩く恋人達を見ながら、自分と綾音は周囲にどう見えているのだろうかと、ふと康太は考えた。初めて二人で撮影に行ってから今日で五回目である。最初は取り分けて綾音のことを意識していた訳ではなかったけれど、撮影の回数を重ねるごとに気になり出した。テーマに合致した被写体を探す事と綾音に撮影の手ほどきをする事が本来の目的だったはずなのだが、今ではそれらは方便となり、ただ綾音と会うために撮影に来ている気がする。ただ嬉しいことに、最適な被写体が見つからないとか、撮影技術を盗みきれていないとかの理由をつけて撮影に誘ってくるのは毎回綾音からだった。

十月の陽射しは柔らかく、樹々や建物に適度な陰影を付ける。公園から見下ろす長崎の風景は水彩画のように澄明だった。

「綺麗な街。いい場所知ってるのね」絢音が言った。

「僕は長崎が好きなんだけど、この場所は中でも気に入っている。教会、海、坂って、街の美しさを作る要素が全部、それもいい形で見られるんだよね」

多分、康太の言うことを真摯に、でも少し冷やかすように聞いている絢音の方を見ずに康太は答えた。

「そっかそっか」

それから二人で暫く街を眺めていた。時折小さく肩が触れては、お互い相手の方を向いたけれど何故だか視線は合わなかった。


太陽の光が橙色になり街がその表情を変えても、まだ康太は絢音と撮影を続けていた。康太は勿論のこと、絢音もこの場所を気に入ったようで、至る処を歩き回っては数多くシャッターを切っていた。ポニーテールに結った髪をヒラヒラと揺らしながらあちらこちらへ動き回ってはカメラを構える。康太も写真を撮る時には集中して周りが見えなくなる方だが、絢音を見ていると少し自信が揺らぐようだった。何にでも真摯に一生懸命向き合う、絢音のそんなところが羨ましく好ましかった。

 撮影を終え、康太は絢音と再び街を眺めていた。日が暮れて、街はその美しい表情を夜景へと変え、斜面まで広がる家々の灯りが視界いっぱいに広がっていた。

 「ありがとう。今日はいいとこを教えてくれて。いい写真がいっぱい撮れた気がします」絢音が言った。

 「どう致しまして。しかし日野はホントに一生懸命写真を撮るよね。何だか俺、負けそう」

 「そりゃ、先生の指導がいいからです。重ね重ねありがとうございます」

 「何だよ、それ。教えるって言っときながら何にもしなかったことへの嫌味?」

「ううん。ホントに裏部長との撮影は有意義で、楽しくて。だから一度ちゃんとお礼言っとこうと思ったの」少し間を置いて、絢音は真っすぐに康太を見て言った。

少し低い位置からジッと絢音の瞳に射すくめられて康太はたじろいだ。絢音の礼に対して何か応えよう と思ったけれど、胸が高鳴ってよく考えられなかった。

「そう言えば、裏部長は進路どうするの?」康太が何も答えられないでいると、絢音が急に話題を変えた。

「あ、うん。俺は産業大受けることになりそう」突然の質問にまた面食らったけれど、今度はきちんと答えた。

「え…。あ、そうなんだ。」絢音は目を大きく見開いて、驚きを顔に広げた。

「俺だって行きたいわけじゃないんだけどね。しかもちょっと背伸びしてまでさ」投げやりな感じで康太は言った。康太は絢音から無理をしてまでいい大学に行こうとしていると思われることが嫌だと思った。

「そうじゃなくて」康太が言い終わる前に絢音が言った。

「私、裏部長はてっきり写真の道に進むとばかり思ってたのね。だって、部員の誰もが思ってるけど、写真の腕前はピカイチだし、賞も何度も獲ってる。それこそ田崎君なんかより全然上よね。放課後は部室で現像してるか、その辺で写真ばっかり撮ってるし。普段はあんまり喋らないけど写真のことになると熱っぽくなったり理屈っぽくなったり。ホントに写真が好きで、写真に向いてるって思ってたから。これからもっと写真に打ち込んでくんだと思ってたから」

絢音にそう言われ、康太は瞬間何も考えられなかった。絢音が康太の写真に対する姿勢や思いを意識してくれていたこと、そしてその才能を賞賛してくれたことが嬉しかったからだ。けれどもその喜びを感じたのもほんの一瞬で、すぐに強い空しさが康太の胸を満たした。

自分は写真を強く愛している。できることなら写真で生きて行きたいとさえ思う。そのために今よりも深く写真に没入して更に実力を磨きたい。だから、そこへと繋がる進路を選びたかった。けれども、それは許されないはずなのである。何故なら、手が届きそうな産業大への進路を学校の先生も、親も自分に強く望み、期待を掛けていて、その期待を裏切ることになる産業大以外の進路を執ることは、自分には不可能に思えるからだ。

「そんなの、周りが許さないよ」俯いていた顔を上げて康太はサラリと言った。

「周りが?」

「親も、先生も僕が産業大に行くことに期待してるし、応援してくれてるんだ。それ、無視することなんて出来るわけないでしょ」達観したような素振りを見せたもの、の内心康太は少しイラ立っていた。あまり他人に触れられたくない話題だった。

「裏部長、私はあなたの進路について話をしているのに、どうしてあなたは周りの人がどうとかって話をするの?」絢音はジッと康太を見据えたまま語気を強めた。

「写真、好きなんでしょ。あなたの人生なんでしょ。どうしてもっと自分の望みを叶えようとしないの?」

そう絢音に言われて康太はカッときた。自分でもずっと心に引っ掛かっていたものの努めて無視し続けていた、抑え込んでいたことを論われ、感情が昂った。

「しょうがないだろ。面倒見てくれる親がそう言うんだから。それ以外にどうすることが出来るんだよ。それに、写真が上手いったって、所詮うちの校内くらいのもんじゃ、たかが知れてるじゃないか」

康太にしては珍しく強い口調で反駁した。けれども絢音も食い下がった。

「裏部長にとっての写真ってそんなものなの?親がどうとか、成功しないかもとか。どうして自分で自分を抑えてしまうのよ。どうしてその熱意とか才能とかを信頼しないの。使ってあげないの。あなたが使ってあげないとそれは世の中に出ていくことすらできないのに」

 「分かったようなことを言うなよ。自分はどうなのさ。日野だって写真好きならしかるべき進路に進めばいいじゃないか。自分の希望を他人に押し付けるなよ。」

 康太がそう言うと、絢音は少し息を呑んだ後、やっと康太から視線を外した。

 「そんなに怒れるんだから、仕方ないなんて言葉で片づけんなよ」

 そうポツリと言った後、絢音は踵を返し早足で帰ってしまった。振り返る時に少しだけ見えた瞳には涙が滲んでいるように見えた。

 少しずつ離れていく絢音の後ろ姿から街並みへと視線を移し、康太は少し歩いた。心の中は相変わらず憤りで溢れていた。ただしそれは絢音に向けられたものではなく、自分自身に向けられたものだった。

 自分は本当は写真の道に進みたいのに、親や教師が進める進路へ進もうとしている。その事に対し自分は写真への熱意がないとか実力がないとか適当な理由を付けて仕方のないことにし、写真を諦めようとしている。しかし何のことはない。本当は抗うことを避けているだけだ。戦うことを恐れているだけだ。自分に自信を持てず、失敗した時にそら見たことかと責められることを恐れ、そのあげく他人の言う通りにしただけ。責任を放棄しただけのことだ。自分が最も情熱を注ぎ、大切にしているものを守るためにさえ立ち向かえない気弱で軟弱な臆病者。しかもそんな自分に頑張れとはっぱをかけ、期待してくれた絢音に対して、自分の弱さを見透かされた恥ずかしさからか、無意味で幼稚な反駁を行い、あまつさえ攻撃までしてしまった。そんな自分が情けなく、歯痒く、許せなかった。

 そういった思いに苛まれながら、康太もまた公園を後にした。

 家に帰り夕飯を食べた後、康太は早々と自室へ引っ込んだ。リビングを出る際に母親から勉強に力を入れるように言われたけれども返事をしなかった。そんな康太に対して両親は訝し気な視線を投げてきたが、それも煩わしかった。

 暗くした部屋で机に座り康太は絢音に言われたことを思い出していた。自分の写真への情熱とはどんなものか、自分の才能とはどの程度ものか。写真のことは勿論好きだし、出来ることならば写真の世界で生きていきたいし、そのための進路も選びたい。それは自分の底流にあって変わることはない。けれども果たして自分にはその資格はあるのだろうかと考えてしまう。確かに、十才から写真を撮ってきてそれなりに自信も実力も付いた。その証拠に小さな賞も受けたことがある。しかしそれは本当の写真の世界ではどの程度のものなのだろうか。本気でプロの写真家を目指す人間にとっては自分程度の腕は当たり前、下手をすると自分は平均以下で、他の人間は自分よりもっと質の高い写真を撮ることができるのではないだろうか。そういったことを考えると急に諦め心が沸いてしまい、親や教師の期待を裏切ってまで写真の道を選ぶことができなくなるのだ。絢音の言う通り、康太は自分の熱意や才能を信じられずにいた。

その日横になった後も絢音に言われたことが頭をよぎり、康太は暗い部屋の布団の中でモゾモゾと体の向きを変えてばかりいた。

公園で喧嘩別れをした日から、康太は絢音と上手く話せなくなった。学校の廊下でたまに会ったりはしたけれど、軽く挨拶を交わすくらいしかできなかった。康太の文化祭用の写真は未だに決まっていなかった。あれから一人でも撮影をして回ったけれど、納得のいく写真を撮影できなかった。

 昼休みに康太が屋上でぼんやりとグランドを見ていると、田崎が現れ話掛けてきた。

「写真できたか?何か珍しく悩んでるみたいじゃん」

「テーマが何か合わないよ」

「お前は考え過ぎるからな。しかもフィルムだから、パッと写真見れないもんだから、意外にいい写真撮れてたりすることに気づけないんだろ。悩むくらいならとっとと現像して、一番いいと思ったもんに決めたらどうよ」

 田崎は写真に対して相変わらずの軽薄な意見を述べたが、この時だけは康太は一理あると思った。確かにこれまで随分と枚数を撮ったのだからその中にまともなものが一枚くらいはあるだろう。その写真に何とか題や説明を付けることも考えなければならないかも知れない。高校最後の文化祭に作品なしは空しすぎる。

「そうだな。さすが田崎部長。助かるよ」

少し笑いながら康太は言った。

「当たり前のことを言っただけよ。気にすんな」

田崎は目を細め満足そうに康太の方を見返しながらいった。

 放課後康太は部室で残ったフィルムの現像と、これまでとった写真の整理をした。赤色灯の光の中、現像液の独特の匂いに包まれてするこの作業は康太の心を落ち着かせた。自分の撮影という行為が形を成し姿を見せるこの時間が康太はたまらなく好きだった。つい時間を忘れて夜中まで続けてしまい、親や教師から怒られたこともしばしばあったほどだ。

 現像は最近撮影したものから始めた。絢音と距離を置き、一人で撮影した写真が少しずつできあがった。康太が三年間の学校生活で最も落ち着けた場所であるだろう人知れないベンチ、部室、昼寝にはもってこいだった屋上などの写真が現像されていく。楽しくて仕方なかったというわけではないが、写真部に入ったことで少ないながらも友達ができ、写真に真剣に取り組むことができた。そして過ごす日々の中で進路について思い悩み自分を疑い続けた時間を重ねた場所であるこの学校の様々な場所である。

次に大好きなこの街の風景が浮かび上がってきた。教会、坂道、斜面に立つ家々、そして街と繋がる海。幼い頃から過ごし、こよなく愛する街。今回だけでなくこれまでも何度も撮影してきては納得のいくものを生み出せずにいる。康太が写真をするうえでいつかは自分のイメージ通りに撮影したい被写体で、モチベーションの拠り所の一つである。

そして絢音と一緒に撮影したフィルムも現像した。これもやはりそれまでと同じ街の風景写真ではあるけれども、一人で撮影した時のものとは感じが違っていた。風景の中様々な人が多く映っていた。家族や恋人同士、友人であろう学生や、ペットと散歩をする高齢者など。単なる風景だけではなく、そこで過ごす人たちの感情、その場所が人々にとってどういった思いを抱かせるのかも表現しょうとしているような写真であった。それ以前はまるで求道者のように自分の心に描く景色と撮影した写真の一致、もしくは超越を追い求め意地になっていたようにも思う。そのせいか撮影はほぼ全て一人でやってきた。問いかけ、反射させるのは自分の内面だけ、自分が思った景色が、どうやったら自分が納得のいくように写真に現れるか。そればかりを追い求めていた。

現像し横並びで見て初めて分かった。絢音と一緒に撮影することで自分の気持ちに変化があり、そういった写真を撮ることができたのだろう。複雑ではあったが、康太は自分の写真の別な一面を見ることができた。

そんなこともあり康太は夢中で現像を続けていた。気が付けば現像するフィルムも残り一本になっていた。この残りのフィルムに映された写真を含めて文化祭で展示する写真を決めなければならない。今まで現像した写真を反芻し、どの写真が良いか考えながら康太は現像を進めた。揺れる現像液の中で印画紙に様々な像が浮かび上がる。先ほどまで現像した写真とさほど大きく変わらないものが一枚、二枚と現像される。軽く溜息をつき残りの現像を手早く終わらせようとした時、これまでと雰囲気の違う像がボンヤリと浮かんできた。

 それは夜の電停の灯りの下で前方をジッと見つめる日野絢音の横顔だった。モノクロ写真でも良く分かる、白磁のような頬。意思の強さを感じさせるキュッと閉じた唇は小さく光を反射させ瑞々しさを放っている。そして瞳は、いつも康太に向けられていた真っすぐな力のある視線を前方に送っていた。電停の灯りで夜に浮かび上がった絢音の横顔は、凛としたところと、美しいところと、そして何事にも真っ直ぐな彼女の姿が集約してあるように見えた。

 それは初めて絢音と撮影に行った日の帰りに康太が思わず撮ったものだった。電車を待つ絢音の顔があまりに綺麗で、無意識と言ってよいほどの間隔でシャッターを切ったのだ。

 思いがけず現像された絢音の写真に康太は思わず見入ってしまった。頭の中には絢音と撮影した時のことが浮かんでいた。絢音のシャッターを切るまでの時間の長さ。技術的な質問をする時の真っ直ぐな眼差し。跳ねるように歩く癖。一緒に眺めた教会や海、街の風景。そして康太に写真への姿勢を質した時の涙を一杯にためた眼。

不意に腕時計のチャイムが鳴った。八時になっていた。はたと我に返って作業を続けようと試みたけれど、絢音の写真を見た後では残りのフィルムを現像する気が起こらず、康太は帰ることにした。

 暗くなった帰路を康太は空を見ながら歩いた。羽虫が街灯の周りを不規則に飛んでいるのが見えた。昼間は冬用の制服では熱いくらいなのに、夜は少し肌寒く、康太は軽く身震いをした。歩きながら康太はさっきの写真のことを考えていた。

 写真は自分では良く撮れていると思った。絢音の顔の造形的な美しさだけではなく、精神の強さ、清廉さが、その硬直な眼差しと小さく結んだ唇に良く現れていると感じたからだ。また電停の光が絢音の横顔を温かい橙色に染めることで幻想性、柔らかさを施し強さだけではなくやさしさも表現されていた。そして何より写真の技術的なことよりも、撮影者の、つまり康太のその写真の被写体に対する熱量が感じられるものになっていた。それは康太が絢音に対して強い思いを持っていたということである。詰まるところ康太にとって絢音は大切な存在であったということが色濃く写真に映し出されていたのである。気付いていたようなそうでないような自分の思いを写真という形として自らに突き付けられ、居たたまれない気持ちになった康太は夜の道を走り出していた。額からは汗が吹き出し、口の中はカラカラになった。普段運動をしない足はすぐにパンパンで動きが鈍り痛みすら感じたけれど、康太は走るのを止められなかった。良い写真が撮れた嬉しさからか、絢音への気持ちにどう対処していいか分からなかったからか、康太にも判然としなかった。ただ酸素が足りず白濁する脳裏にはカバンの中で揺れているであろう絢音の写真だけが鮮やかに浮かんでいた。

 「随分と遅かったわね。こんなに遅くまで学校に居て、先生から怒られないの?」

家に帰ると台所で洗い物をしていた母が尋ねてきた。

 「文化祭の準備とかがあるからね」

康太はそう答えた後、リビングを覗いた。父がテーブルで足を組み新聞を読んでいるのが見えた。

 「あのさ。進路のことで話があるんだ」

康太はそう大きくはない声で、けれど二人に聞こえるようにはっきりと言った。

 「何よ、変にあらたまって。どうしたのよ。」

嫌な予感でもしたのだろう。母は洗い物の途中でエプロンを濡らしたまま台所から出てきた。

康太が居間のテーブルに座ると、父は新聞を適当に折り畳んだ後、康太の方へ向き直った。

 「どうしたんだ。何か悩んでることでもあるのか」

 素っ気ない物言いだったが、話を聞こうという温かみのある声だった。

 「産業大って言ってたけど、俺、写真の学校に行きたいんだ」

 康太は母親の顔は見ずに、父親の方を向いて言った。目の端に映る母親の息を呑む音が聞こえたような気がした。

 「どうして急に。産業大に行くということでだいぶ準備もしてたじゃないか。気が変わったとかそんな話じゃないだろう」

 表情一つ変えずに父は康太を見て言った。

 「気は変わってないよ。俺、本当は写真がやりたかった。でも自分の写真にそこまで自信がなかったから、本気で写真家を目指せると考えられなかった。だから産業大に行くべきだと思った。でもこのまま産業大に行ったら、一生後悔するし、その後悔を他人のせいにしそうな気がするんだ。だって今でもやっぱり写真がやりたいんだ。それに最高の一枚を撮ることができた。誰にも負けないって思える写真を自分も撮れるって思えたんだ。この気持ちを無視して生きたら俺、俺じゃなくてもよくなってしまうよ」

 「大学に通いながらでも写真はできるんじゃないの」

 黙っていた母親が不意に言った。怒ったような、呆れたような顔をしていた。

 「ほかのことと一緒じゃなく、写真だけに没頭したいんだ。自分の好きなこと、自信を持てることに全部を注ぎたいんだ。ほかの誰のものでもない俺の人生だから、俺の全部を思う通りに使い切りたいんだ」

 父親も母親も、康太も黙り込んだ。康太は自分の思いをはっきりと伝えられことに少し満足していた。自分というものの輪郭を今ははっきりと感じ取ることができると思った。

 口を開いたのは父だった。

 「お前が本気なら、父さんは何も言うことはないよ。お前の言うとおり。お前の人生のだからね。それに、写真は俺が教えちゃったものだからな。父さんにはそんな熱意も才能も無かったのに、なんでだろうな」そう言うと父は小さく笑い、母の方へ目をやった。母は目伏せて黙っていたが、やがてポツリとつぶやいた。

 「初めてね。康太のそんな言葉聞くの。」

 そして母は濡れたエプロンで顔を覆った。

 ベッドの中で康太は真っ暗な天井をぼんやりと見ていた。頭の芯が火照りとても眠れなかった。初めて他人に自分というものをぶつけた。今までは他人にぶつけられる程の自分を持たなかった。ぶつけられるものが無かったのだ。それがたった一枚の写真の現像によって変わった。自分の写真というものに対する思いが、スタンスが明確に、鮮やかに浮かび上がったのだ。あの綾音の写真の出来によって、それを撮った時の自分の気持ちの熱量によってボンヤリとしていたものが骨格を得たのである。今は誰にでもはっきりと言える。写真が大好きで誰にも負けたくない。写真で生きて行くのだと。

 そしてこんな考えを持てるきっかけを与えてくれた綾音のことを思った。綾音のイタズラっぽい目を思い、言い争った時の射貫くような真っ直ぐな黒い瞳を思った。写真の道を進むように決めたこと、そしてそのきっかけを与えてくれたことに対する感謝の気持ちをすぐにでも伝えたかった。けれども、言い争ってしまってからというものどんな顔で話しかけてよいかも分からないし、何より、言葉にしてしまうと少し安っぽくなり真意が伝わらないような気がした。一番手っ取り早く自分の気持ちが伝わる方法はあの綾音の写真見てもらうことだと思った。だから文化祭の展示作品はあの綾音の写真にしようと思った。「大切なもの」というテーマにも十分合ったものだとも思った。

 あの写真を見たら綾音は嫌な思いをするだろうか。級友や部員達はどんな顔をするだろうか。考えると動悸が起こり苦しくなったりもしたが、自分の今現在最も自信のある写真を皆に、何より綾音に見てもらえると考えると、少なからずワクワクした。不安と期待、喜びと迷い、さまざまな感情が湧き上がるのを感じながら、康太はいつしか眠りについていた。

 

 文化祭前日の放課後、康太は自分の作品を部室に展示しに来ていた。同じ学校の女子生徒が「大切なもの」というテーマで映っているという作品の性質上、やはり事前に多くの人間の目に触れることは恥ずかしく、康太は一番最後に作品を展示することにした。

窓の外はもう暗くなってきていて、廊下は少し薄気味悪かった。康太が抱えた白い布をかぶせたボードがフラフラと揺れるところを他人が見たら、さぞ気持ち悪いことだろう。

部室はシンとしていた。写真が印刷されたボードが、イーゼルや展示用の棚に立てかけられるなどしているのが見えた。康太は携帯電話のライトを点けて自分の展示場所を探した。展示場所は事前にくじ引きで決めてあった。

「三十七番」

苦労して見つけた康太の展示場所は窓際で、入り口からだと他の作品が邪魔ですぐには見えない位置だった。

「ラッキー・・・」

思わず呟いてしまった。自信のある作品ではあるけれども、大勢の人の目に触れ、好奇の目に晒されることが嫌だった。

しかしその嫌な思いに耐えてでも、綾音には見て欲しいと思っていた。自分自身の写真への思いを気づかせてくれた綾音には言葉の代わりにこの写真を、康太がこの写真を展示しているということを見て、知って欲しかった。

写真をイーゼルに立て掛けた後、誰もいない窓から差し込む月明かりだけの部室で、康太は大写しになった綾音の顔を見ていた。身じろぎもせず、ただまっすぐに見つめていた。

暫くして、康太は写真に小さく、本当に小さく頭を下げて部室を後にした。


文化祭の日は良く晴れた。秋らしい高い空が心地良かった。康太はいつも通りに起きていつも通りに通学した。

文化祭が始まると康太は屋上へ向かう階段をすぐに昇り始めた。走りこそしなかったが、他人が話しかけ辛いと感じるスピードで屋上へ向かった。屋上につくと高く青い秋空が目に飛び込んできた。康太はそこで大きく息を吸った。

康太は屋上から、生徒がパラパラと歩いている校庭をぼんやりと眺めていた。

綾音はあの写真を見て迷惑がるだろうか。部員から冷やかされたりしていないだろうか。思い切って展示したもののあの写真がどんな印象を他人に投げ掛けるのか康太には図りかねた。自分が自信を持って伝えたいメッセージを表現できたと思う作品でさえ、他人が受け取る印象については予想できない。改めて写真という表現媒体の曖昧さ、難解さを感じていた。

そんなことを康太が考えていると、階下からのドアが勢いよく開いた。康太はビクッとして振り返った。そこには田崎がいて、ニヤ付きながらこっちを見ていた。田崎はそれからフラフラとわざと視線を康太から外しつつ近づいてきた。康太は鼻から深く息を吐き出した。康太が綾音の写真を展示したことを知ったら、最も面倒くさくなる奴が目の前にいる。何故あの写真を展示したのか。二人はどんな関係か。いつからそんな事になったのか。作品に対する感想ではなく、考え得る限りの面倒くさく下世話な質問がこれから自分に投げ掛けられ、それらについていちいち否定したり説明したりしなければならないのかと思うと気が重くなるのを通り越し怒りすらこみ上げてきた。

「いや、びっくりしたね」

気持ち良いくらいに康太の予想の範疇に収まる一言目を田崎が吐いた。

「いつから日野とそんなことになってたんだよ。親友の俺にも隠してさ」

いっそのこと完全に黙殺してやりたいところだったが、黙ることによって綾音によけいな迷惑が掛かることは避けたい。そう思った康太は否定の言葉を吐こうとした。しかしそれを田崎の言葉が遮った。

「後ろ姿だけど、背格好とかカメラとか、あれお前の写真だろ」

思わず康太は言葉を呑んだ。田崎の言っている言葉の意味が分かりかね、康太は鼻白み、田崎の次の言葉を待った。

「大切なものってテーマでお前の写真って。いったいどういう意味よ。恥ずかしくないのかね」

「俺の写真・・・日野が?」

康太はやっと話の内容が分かってきていた。そしてそれと同時に心臓が凄い速さで鼓動を打ちだすのを感じた。

「それにお前もお前で日野のどアップなんて。でもまあ、あれは中々いい写真で・・・」

田崎が何か言っているということは分かった。けれども内容まではもう頭に入ってこなかった。

瞳の奥がジンジン暑くなる。息が苦しくなる。音は何も聞こえない。ただ康太の頭の中で、オレンジ色に頬を染めた綾音が、あの眼差しを康太に向けていた。

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