072.17F②
その空間の境目をこえると、足の先から順番に体が闇の中へと潜っていく。
そして頭まで入ると、本当に全く何も見えなくなった。
思わず後ろを振り向くユーリだが、先ほどまで普通に見えていたはずの歩いてきた通路の先も、この中からは見ることができない。
夜の暗闇とも違うこの奇妙な現象は、通路を覆う特殊な鉱石とダークエレメンタル、闇の精霊の合わせ技で実現されている。
当然、比較的経験が豊富な冒険者であってもそれは未知の感覚だ。
更に明かりをつけても視界を確保できないという点では、暗闇以上の危険度である。
「なあヨル、一回戻ってもいいか?」
「戻っても結果は変わりませんよ。怖いのはわかりましたから諦めて進んでください」
「別に怖くはないが?」
そんな会話をしながら右側を進むヨルには歩みに安定感がある。
魔力探知ができる彼女だが、少なくとも察知できる範囲内の魔力の気配はないので目印もなく暗闇の中を歩いているのと同じ状況である。
それでも歩みがしっかりしているのは単純に自信をもって進んでいるだけだろう。
一方ユーリは目をつぶったまま道を歩いているようなこの状況で支えを求めて、剣を握ったままの左手を壁に添えていた。
流石にそのままでも転ぶようなことはないが、視界が皆無の中で歩くというのは安定感に欠けるものなのでそうするのも仕方がない。
「罠にはかからないでくださいね、兄さん」
「かかるなと言われてもな」
ここまでのダンジョンでは壁に触れると発動する罠というのもあった。
しかしそれを言うなら床を踏んだら発動する罠も同じようにあり、避けろと言われてもこの暗闇では不可能である。
「それを言うならお前こそ、罠を踏むなよ」
「私には暗闇の中でも罠の場所がわかるので問題ありませんよ」
「嘘だろ、どうやって」
というか本当に避けられるなら俺の目の前に罠があるときも教えてくれてもいいだろという心情のユーリに、ヨルが付け加える。
「まあ嘘ですが」
「嘘かよ! 普通に信じたわ!」
通路に勢いのいいツッコミが響く。
通常であれば音も警戒する要素の一つではあるのだが、今のような状況ではそこまで気を回す気にならないというのがユーリの現状であった。
「この状況で完全に罠を回避できるわけがないじゃないですか。兄さんは馬鹿なんですか?」
「お前の言葉を信じた俺が馬鹿だったよ」
「まあ兄さんは馬鹿なりに身体は頑丈なんですから、頑張って罠を受けてください」
「もしなにか踏んでも絶対避けてやるからな」
まあこの回避困難な状況であれば、逆説的に致命傷に至るような罠は仕掛けられていないだろうという読みがヨルの中ではあるのだが、当の本人は隣を歩く兄にそれを教える気はないようだ。
「兄さんは肉壁なんですから、もっとちゃんとしてくれないと困りますよ」
「お前今、実の兄のことを肉壁って言った?」
「さて、なんのことですかね」
ヨルが誤魔化す気もないような言葉と同時に足を止める。
繋いだ手の感覚からそれを把握したユーリは、疑問の声を上げた。
「どうした、急に立ち止ま……、いてっ!」
「正面に壁がありますから気を付けてくださいね兄さん」
「そういうことは先に言えよ!」
普段から強靭な魔物と戦っている前衛冒険者の肉体は、素の人体の強度よりもずっと頑強なのだが、それでも不意に壁にぶつかるようなことがあれば全くのノーダメージとはいかない。
「言う前に兄さんがぶつかって行ったんじゃないですか。さながら坂道を転げ落ちる猪のようでしたよ、兄さん」
「はあ、それでどうしてお前は壁があるってわかったんだ?」
「それは簡単ですよ。音の反響を意識していれば正面の壁くらいは見えていなくても察知できます」
「ほんとかよ」
若干疑いの混じった声を出したユーリは、試しに靴でわざとカツンと足音を鳴らしてみる。
「あー、いやわかんねえわ」
「集中力が足りないのでは?」
「集中力は全力だが?」
「なら単純に本体の性能が足りてないんでしょうね」
そっちの方がある意味残酷な訳なのだが、実際にわからないのだからユーリに出来ることはなにもない。
「それで、次はどっちだ?」
「兄さんが左手を壁に当てたまま正面にぶつかったのですから、進める方向は一つだけですよ。行き止まりなら別ですが、そうではないようですし」
実際に壁をなぞるユーリの片手が横から正面へとスライドし、そのままヨルの方へと繋がっていく。
その先もやはり暗闇の空間は続いており、いつまで続くのだろうかとユーリが思い始めたタイミングで急に隣に繋がれた手が強く握られた。
「兄さんっ」
正面通路の先に、魔物の気配を感じ取ったヨルの声が響く。
おそらく曲がり角の先から現れたのだろう。
このダンジョンの壁はそれ自体が結界の性質を持ち、透視や魔力探知といった能力はその多くが阻害されてしまう。
そのせいで魔術の射程よりもずっと近くに現れたその敵へ、ヨルは一瞬の間も惜しんで魔術を放った。
『氷槍!』
その術の発動と同時に、隣のユーリにも肌で感じられる魔法の冷気が放たれる。
空中に生成された腕ほどの長さの氷の槍が、前方の魔物へと確かに命中した。
駆け寄っていた石犬の二匹を氷槍が砕き甲高い音が響く。
しかしその背後からもう一匹が跳ねるように飛び出す。
おそらく、視界が万全であればヨルの魔術は三匹とも仕留められていたであろう。
更には物理と魔法両方の効果がある氷槍を選んだことも、選択としては正解だった。
しかし選択肢を間違えずとも身の危険に晒されるという場面が冒険者にはある。
駆ける石犬の一匹に、それを探知できるヨルの魔術は間に合わない。
そしてその石犬が飛び掛かろうと二人の頭上に迫るほどの高さで大きく跳ねた。
その魔物の飛び掛かりを受けても即死することはないだろう。
だがこの階層での魔物は対応を誤れば重傷を負う危険性を秘めている。
特に後衛の魔術師にとっては、前衛が剣や盾で当たり前のように受けている一撃ですら大怪我に繋がるかもしれない。
既にここは、過剰に安全に配慮された浅い階層ではないのだ。
その事実に覚悟を決め、しかし迫る危険へとヨルが身を強張らせる。
「ヨル!」
名を呼ばれた彼女の腕が引かれ、そのまま強く抱き寄せられる。
魔力を探知している妹の気配で察したのか、もしくは別の理由があるのか、身をかばう様にヨルを抱いたユーリがそのまま正面へと剣を振り下ろす。
ガンッ、と鈍い音と共に衝撃が生まれた。
ユーリの剣は石犬を両断する所まではいかず、しかし大きく弾き返した所にヨルの追撃が放たれる。
『火炎流』
兄を巻き込まないように身を捻って前に伸ばした杖の先から発した火炎は的確に石犬の姿を焼き尽くす。
ユーリにとっては闇の中で不可視の炎だが、やはり肌で感じるその感触と妹の気配で魔物が全て沈黙したことを知った。
「無事か、ヨル」
「ええ、私は」
答えると同時に、危険が去ったことを実感してヨルが身体から力を抜く。
「しかしよく三匹目がわかりましたね」
「それはまあ、勘だな」
「そんな非論理的な」
「でも助かっただろ」
「それはそうですが」
事実ユーリの助けがなければ、ヨルは傷を負っていただろう。
「ありがとうございます、兄さん」
「前衛の仕事は壁になることだからな、気にするな」
その台詞は若干当て擦りのように聞こえなくもないが、そういう意図がないことをヨルは理解していた。
「それで、いつまでこうしてるんですか」
こうして、というのは腰に強く回された腕のこと。
当然互いの身体はその体温を感じ取れるほど密着をしていた。
「別にもう安全だろうから離れてもいいぞ?」
「兄さんから抱いてきたのですから、兄さんから離れるのが筋では?」
「どんな理屈だ。そもそもお前が抱き着いてきたんだろ?」
「何を言っているのか理解できませんが、兄さんが無理やり私を抱いたんですよ」
「いやいや」
「いやいやいやいや」
最終的に互いに一歩ずつ引き、そのまま互いの手を握り合った。




