112.お返し
庭の真ん中でバイオリンを再び構え、聖女様と視線を合わせてから弓を引くと、再び彼女の歌声が響く。
おそらくその歌声は、バイオリンの音色に乗って庭の外まで届いているだろう。
音響を調整したコンサートホールなんかを作れば、十分にソロで会場を満たせる歌声なんじゃないかな。
なんてことを考えていると、演奏を続ける身体に違和感を覚えた。
あー、こんな感じなんだ。
それは聖女様の歌の力で、身体が軽くなるような感覚。
怪我とかしてなくても有用なんだなと思うと同時に、これから身体にガタが来てる偉い人たちには引っ張りだこだろうなと実感してしまう。
実際にそういう仕事が彼女の予定には多いらしいしね。
彼女の歌声は教会で聞いた聖歌隊のものと比べても遜色がないのでもったいない。
そして演奏が終わり、聖女様が深く息を吐く。
丸々一曲歌ったあとって結構疲れるしね。
まあ聖女様の表情はカラオケで熱唱した後みたいに気持ちよさそうだけど。
ともあれ歌声にも変化はなかったしバイオリンの音色に追加の調整は必要ないかなと思案していると庭の外から声が聞こえてきた。
「なにかあったのでしょうか」
視線を向ける聖女様に声をかける。
「見に行ってみましょうか。なにかトラブルかもしれませんし」
「ええ、それでは」
席を立った彼女に続いて声のする庭の入口へと向かう。
そこには聖女様邸宅の警備を勤める教会の人間と、地面へと膝をついた女性の姿があった。
その女性は齢六十ほどだろうか。
この世界の平均寿命が現代日本のそれよりかなり短いことを鑑みれば、老齢と言って差し支えない年齢だろう。
王都の中でも老人って感じの人はたまにしか見かけないしね。
ついでに言えばその女性の身なりはかなり良く、どこかの裕福な家庭の人間であることがわかる。
流石に貴族様ではないだろうけど、そもそもこの一角は貧しい人間が偶然通りかかるような立地でもない。
そんな人間がなぜ道へと跪いているのかといえば、原因は聖女様のようだ。
「イングリッド様の歌声が聞こえると、脚の痛みが嘘のように消えてなくなったのです。本当に、どう感謝の言葉を述べても良いかわかりません」
とのこと。
神に祈りを捧げる姿勢でそんなことを言うので、聖女様の力の凄さがよくわかる。
ちなみに当の本人は困惑しているんだけど。
聖女様の力の対象は本来なら対面する相手だけだからね。
少なくとも庭の外を通りかかった相手に効果があるようなものじゃない。
「迷宮主様……?」
「とりあえず、感謝の言葉も受け取りましたし中に戻りましょうか」
いつまでも女性を道に放置しておく訳にもいかないので、聖女様が笑顔で対応して帰ってもらう。
そして庭へと戻ってきた俺と聖女様は再びテーブルを挟んで腰を下ろした。
「それでは、説明していただけますか?」
「ええ、もちろん。と言ってもおおよそは予想がついているかと思いますが」
彼女の疑問の答えは、当然このバイオリンだ。
「この楽器、バイオリンにはこちらで一つ術を付与しています。その効果はイングリッド様の力の広域化、となりますね」
「それは……、可能なのですか?」
「簡単ではなかったですが、音によって能力を広げるという技術自体は広く知られているものですから」
冒険者の吟遊詩人はその曲によって能力の強化などの術効果を発揮するし、王城の楽団は複数の楽器を併せることで更に広域に強力な効果を伝えることができる。
一番難しいところは魔術と同じように神の力へと作用する所だったけど、そこはハイセリン女史に理論を構築してもらって解決した。
あとギルドで素材の採集を依頼したり実際に楽器職人の所へ出向いて音の調整をしてもらったり王女様に王城の楽器を見せてもらったりとかなーり面倒くさかったけど、そのおかげでこうして完成品が目の前にあるという次第だ。
ある意味では前例のない技術ではある。
まあ教会的には神の力を広く使えるようになると都合が悪いからわざと開発しなかったんじゃないかって気がするけど。
聖女様の癒しの力も多用できないからこそ、それを受けられることの価値が高まる部分もある。
流石にこれまでの教会の歴史で本当に研究されても実現出来なかったものをハイセリンが簡単に作れるとは考えづらいしね。
ともあれ、別に教義に反しているわけではないのでそこは問題はない。
今日まで何回かの聖典の講義とそれに伴い聖女様の講釈で、これを作っても大丈夫なことは確認したし。
それでも一般人が教会に都合の悪いものを作ってしまえば闇に消される可能性もあったけど、もうすでにこれは聖女様の手の中だ。今更握り潰すことはできないだろう。
「実際には正しく効果を発揮するか確証が無かったので後回しにする予定でしたが、今回のことでその手間は省けましたね。広域化した分の有効範囲という懸念もありましたが、あの距離でも十分効果があるようですので」
ここから庭の外まで20歩以上。
王都にある教会で使っても十分に効果を発揮できる範囲だ。
それに室内ならより遠くまで音が届くだろう。
一応検証する手段は別に用意していたんだけど、その必要もなくなったので理由をつけて一度持ち帰る手間も不要になったのはありがたかった。
「ですが、本当によろしいのですか……?」
そんな彼女の言葉は、これを無償で提供するという先程の提案に対するもの。
原価はともかく、このバイオリンに存在する付加価値は計り知れない。
もはや金貨何枚という計算をするのも難しいレベルの代物だ。
とはいえ、それは最初からわかってたことなので今更撤回するつもりもないけど。
「むしろこの技術をイングリッド様に渡す以外の選択肢はありませんので」
もし他所に流した場合、教会に都合が悪いから「お前異端な、ぶっ殺すわ」なんて言われる可能性も無くはないしね。
「それにイングリッド様に使っていただいた方が多くの人の為になるでしょうから」
少なくとも、このバイオリンを一番有効活用できるのが彼女なのは間違いない。
「……、わかりました。このバイオリンは有り難く受け取らせていただきます、迷宮主様」
「そうしていただけると、こちらとしてもありがたいですから」
ということで話はまとまったので本日の目的は達成。
バイオリンをケースにしまい聖女様に手渡すと、それを少し重そうに受け取った彼女が改めてこちらに視線を向けた。
「迷宮主様、もう一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「私にこの、バイオリンの弾き方を教えてくださいませんか?」
そんな彼女の提案に俺は笑顔で答える。
「もちろん、喜んで」




