5.星空、そして、雪は降りしきる
雪空の下、彼女の手を引いて駆け出す僕。
…逃げ切れるのだろうか
―――――何でこんなことをしているのか、だんだんよくわからなくなってきたし、どうでもよくなってきた。
わかるのは、今日は吐息がよく見えるな、ということぐらいだ。
「………はっ、はっ、ハッ―――――」
肩車なんて慣れないことをしたから、身体はひどく大変なことになっていた。僕はたぶん、あと三分と走ってられないだろう。
「前見えないよぉ」
「もう少しだから、がんばって」
僕にでさえ、三メートル先がやっと分かる程度にしか前が見えない。…いくら手袋やダボダボのコートを着てるからって、これ以上は限界かもしれない。僕は彼女に降りてもらい、後ろについて歩いてもらうことにした。
「しっかり掴まってて、離さないように」
「うん」
あぜ道を外れ、林に入るといくらか歩きやすくなった。すごく暗くて前が見にくいけれど、木々が傘の代わりになってくれて、吹き付ける雪がずっと少ないからだ。
途中、彼女は何度か転びそうになり、その度に僕の背中が受け止めていた。
「大丈夫?」
「………うん」
さすがにもう疲れたのだろう。今度はおんぶをすることにした。
「寝てていいよ、着いたら起こしてあげるから」
答えの変わりに彼女は、僕の背中に静かに乗ってくれた。
林道に立った少ない灯を頼りに、僕はまたゆっくり歩き始めた。
「ごめんね………僕のせいで、こんなことになってしまって………全部……僕のせいだ………」
ただの独り言だ。彼女は答えもしないし、たぶん、眠っている。僕は自分でも聞こえてるんだかよくわからないぐらい小さな声で、誰かに向けた独り言をつぶやき続けた。
「君のため、君のためって自分に言い聞かせていたはずなのにさ……だんだん自信が、無くなってきちゃったんだよ。
だってそうだろう?君の成長は、今でも止まってない。僕は君を楽しませることはできたかもしれないけれど、結局それだけはどうすることもできなかった。僕には、どうすること
もできない………」
シャリ、ザクリと、深くなっていく雪を踏み散らしながら進んでいると、僕らは広い所へ出た。山はもっと高い所まで続いているのだけれど、僕はもうこれ以上登るつもりはない。
「なら僕は、僕にできる一番のことをしようと思ったんだ。僕にできる、君への一番のことをね……」
―――――
遠くで、水の跳ねる音が聞こえる。それ以外は、本当に遠くの風の音ぐらいしか聞こえなくて、僕らのいる場所がいかに深い場所であるかを教えてくれた。
「ほら……着いたよ」
真っ暗闇の中、僕は彼女を地面にゆっくりと降ろした。手の甲に、冷たい泥の感触がヒンヤリと伝わってきている。
「あれ……まっくら?」
「離れないで………今、明るくなるから、ちょっと待ってね……」
カチッ、という音がこだました。
「わぁ………!!」
ペンライトの明かりは、その道筋がはっきりとわかるほどにまっすぐだった。そしてその光が天井にたどり着くと、まるで進むべき道を知っていたかのようにいくつにも枝分かれし、僕らを囲うようにしながら、ある物を映し出していた。
「本当は本物を見せてあげたかったんだけどね、なかなか夜が晴れなくってさ」
土の中に含まれている、僕にはよくわからない、様々な物質達が、偶然とか、奇跡とか、そういうのを全部ひっくるめて今、僕らの目の前で現れている。
淡く青白く光っているものから、白く力強く輝いているものとか、あるいは黄色くライトと同じ色で瞬いているものもあった。
そう、ここは天然のプラネタリウム
誰にも知られなかった、秘密の場所
誰かに教えたかった、僕だけの宇宙
はしゃぎ回る彼女は、たとえるなら宇宙を巡る流星だろうか。
ぐるぐると光る星に引かれては向きを変えて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりを繰り返していた。
「覚えていて欲しいんだ。この世の中には、こんなにもきれいな物があるということを。そして、君はそんな美しい世界に生まれてきたということを。
こんなにも、君の生まれてきた世界はすばらしいということを。
………僕と離れ離れになってからも、ずっと忘れずにいてほしい………」
しかし流星は、いや、彼女は、不思議そうな顔をして僕に尋ね返した。
「どうしてぇ?
だって、お兄ちゃんはずっといっしょにいてくれるんでしょう? はなればなれにならないもん」
彼女の目に、疑いの曇り色は無い。…あんな話を聞かされてもなお、彼女は 僕のことを信じてくれているんだな………。
「そう………だよね」
離れ離れになる事なんてない。そう信じられる彼女は、強い。
それなのに、僕は…………
「あっ」
ペチャっ、と、ペンライトが落ちる音が響いた。それを拾ったのは、星達が消えたことにがっかりした彼女だった。
「あれ……?」
パッ、と再び星達が現れる気配がした。なのに、彼女はさっきのように星達を追いかけなかったらしい。
「なんで……ないてるの?」
彼女は驚いているらしかったから。でも、僕は顔を上げることができなかった。
「………っ……………ッ…………」
これがきっと最後だ。この子と一緒にいられる、最後の時間だろう。
「…………いかなィで………くれ…………」
奴らがすぐにやってくる。
奴らに彼女が、奪われてしまう。
奴らのせいで、彼女が死んでしまう。
奴らは、彼女を――――――――――
「い か な イ で く れ ぇ ぇ ェ え え え エ ッ ッ ッ ッ ! ! ! ! ! !」
「最初から素直にそう言えば良かったんだよ」
実に気味のいい声が響いたんだ。一音一音が綺麗に耳を通って、さ。
「悪趣味だとは言わないさ。ロリータコンプレックスは病気のようなものだと言ってもいい。これから治そうと思えば、君はいくらでも変わることができる」
口をふさがられるような音…かな、これは。なんて、分かりやすい事をやってるんだろうか。
「だが君の前に治さなくてはならない子が待っている。この子は行かなくてはならないんでね。君もいつまでも泣いているな」
いやらしい吐息が聞こえたのと僕が顔を上げたのは同時だった。
「いい星空じゃないか。涙で濡らすのは実にもったいないぞ」
僕のペンライトで天井を照らす、あの白衣の男、そのもう一方の手には、ぐったりと下を向いた彼女の頭が照らされていた。
「………………!」
「だが、いいかげん暇つぶしにも飽きてこないか?
いつまでも星空ばかり眺めていたってな、浦島太郎みたいになってしまだけだぞ。
別に君まで連れて来いとは言われてはいないんだがな、この辺り一帯には警報が出ている。私も一人の医者として、君を見殺しにするのはどうも後味が悪い。
ま、そうゆうことだ。さあ、立つんだ」
ペンライトは、今度は僕を向いていた。まぶしすぎて奴の顔も彼女の顔も見えない、この宇宙には、まぶしすぎる太陽だった。
「さあ、立て」
あんなでかい太陽は、まぶしすぎる。
「立つんだっ」
暖かくもなんともない。
ただ光りすぎてるだけの、あんなのは太陽じゃない。
「どうした、立たないなら置いていくぞ」
あんな太陽なんて――――――――――
「その代わり、私はこの子を連れていくんだがね!!」
―――――――――― ――――――――――
「いらないんだよおッ!!!!!!」
やっと立ったかと思った瞬間、彼の手は迷いもなく私に伸びてきた。私の顔を掴もうと、まっすぐに――――――――――
「ぐッ―――――!?」
そのまま殴るのか押し倒すつもりだったのか、結局私は彼の不意打ちに負け、左の壁に叩き付けられた。
不覚にも、私の右手は少女を離してしまっていた。
「おまえなんかっ、おまえなんかッ、おまえなんかなああッっ!!!」
ペンライトがあさっての方向を向いてもなお、暗黒の中、容赦ない蹴りが襲いかかる。しかし私とて、やられてばかりいるわけにはいかない。彼が一線を越えてしまった以上、私も実力行使に移るしかない。
「どうなっても知らんぞ!」
迫ってくるのなら、襲い返すのはたやすい。足がいくらでも飛んで来るのだからそれをどうにでもしてしまえばいいのだ。
右ヒザと思われる何かを掴んだ私は、捻るようにして強引に投げ飛ばした。湿った泥が跳ねとばされる音がしたが、すぐ彼はまた立ち上がったらしい。
(まったく……あれだけ言っても立たなかったのにな……!!!)
彼の速い足音だけが所在を知る唯一の手掛かり。
無論彼も、音でしか場所を知ることはできないそれは同じはず。だから私はジッと息を潜め、次の攻撃を待っていた。
泥の跳ねる音が、すぐ近くで―――――
「そこだぁああ!!!!!」
鈍い音と、弾けるようにけたたましい泥が崩れる音が響いた。
それから続く、この静けさ。
その意味を一番よく知っているのは、おそらく私なのだろう。
(私じゃない………?)
私は腕時計のライトをつけた。小さく、限られた範囲だけを照らす光だが、最も恐れていた事態を確かめるには十分すぎるほどだった。
「……本当に、君って奴は……………」
仰向けになり、ちぎられたかのように服は裂け、せつなく閉じられたそのまぶたからは、涙が光っていた。
私はそれに対し笑って叫ぶ以外、することがとうてい思い付きそうになかった。
「どこまで邪魔をしようというのかね!!
思ってもいなかったさ、まさかそこまでして邪魔をしようなどとはなぁ!!!!」
彼にだって見えているはずなのだ。私がライトで照らしているのだから。
私も彼も見たことのない、引きちぎられたようなボロボロの服をまとった、長い、長い髪の『少女』が、彼の足下に倒れていた。
――――――――――
その時、私の脳裏に嫌な予感がよぎりました。カイロと懐中電灯を握り締め、私は洞窟の奥へ奥へと走っていきました。
まず最初に私が照らし出したのは、壁に手をつき、下を向いている先生の姿でした。続いて、呆然と膝をついている少年と、見覚えの無い少女――――――――――
「まさか……先生!」
あぁ、ウカツだったよ。そう答え、壁を叩いた先生。
「あんな微量の睡眠薬を使っただけでこうなるとは……まったくなんて強力な呪いなんだろうなっ」
裸同然の少女の姿が物語っていた物は、あまりも深刻な事態でした。
私が最後に彼女を見たのは、一時間も前のことではありません。
その時の背丈、格好を忘れるほど、私の記憶力は衰えてはいません。だとすれば…これは………
「Cの少女だよ。本来ならば、明日の…いや、もっと先か……今日ではない、成長してしまった彼女の姿だ」
一度眠る度に、一つ歳を取る――――――――――。
言葉の上でしか知らなかった、私達の造った過ちが、今目の前で、その本当の姿を見せていたのです。
「はぁ…はぁ………ぁん…………」
吐息の量が段々と多くなっているように見えるのは、おそらく気のせいではない。肺活量が上がっているということは、つまり肺が成長しているということに他ならない。
肺だけではない。筋肉、骨、髪の毛、爪、成長し、伸び続けるそれは、肉眼で見ていてもわかるほどに、ゆっくり、ゆっくりと、かたつむりが走るような速度で、確かな変化を見せていた。
「目を逸らすなよ少年…今君が見ていることが真実だ。そして、我々と君とがしてきたことの意味が、つまりはこれなのだ」
小さくなって破れた服から見える肌に、まるでボディビルダーのそれのような、波打つ血管が際立って浮き出ていた。
いや、いかに鍛え上げたビルダーでも、あれほどまでに浮き出ているはずが無い。
「彼女は眠っている間だけ…三六五倍の速度で成長を遂げるんだ。
私が睡眠薬を少量使用しただけでも、彼女は眠りに陥り、成長を始める。
そして今、君が彼女を殴ってくれたおかげで、彼女は再び眠りへと堕ちた。
そうだ。君のおかげで、今日彼女は、三つも四つも歳を取ってしまったのだよ。君がおとなしく彼女を渡してくれなかったばっかりにね」
彼女の手を取ろうとして、思わずその手を離しそうになってしまった。
脈が異常に速く、玉のような汗が浮かび、そして熱い。
血管など、強く抑えたりなどしたら噴出してくるんじゃないかと思えるほどに、強い圧力で押し出されているのが分かるほどだ。
「君、車から担架を持ってきたまえ。それから、できれば四人ほど人も連れて来るんだ」
彼女の冷静さには実に感心するね。これほどの物を見てあそこまで素早く動けるのだから。
それとも、逃げるように走ったというのが適切なのかな。ああ、彼女は見栄っ張りだから、そういう冷静な演技をしてるかもしれないな。
「あぁ、もう抵抗するなんて無駄なことはしないでくれよ。もう既に取り返しのつかないことになっているんだ。
これ以上いくと、もう彼女はオリジナルの少女の年齢を超えてしまう。その時こそ、この娘の存在意義は本当の意味で、ゼロになる」
彼は最初こそ立膝をついていたが、疲れたのか、今は正座のような格好をして、下を向いている。
生気が抜け、まるで土に汚れた人形であるかのように、その姿は、あまりにも痛々しかった。
「君は十分に戦った。そしてその主張は確かに正しいものだった。
だがしかし、時には正しいことを翻してでも、貫かなければならない時がある。
社会が後ろ指をさして罵ろうとも、それでも我々には救わなくてはならない、救える命が待っている。
そのことを忘れないでほしい」
聞いているのかな、彼は。放心状態で耳も聞こえなくなっているのかもしれない。
そうだな…担架は二つ頼んでおけばよかったかもしれないな。
「先生、戻りました」
Cの少女は担架に乗せられ、毛布を掛けられた上で慎重に外へと二人がかりで運ばれていった。そのやりとりを音で聞いていたはずの彼は、やはり何の反応も見せず、固まったままだった。
私は残りの二人に彼を強引にでも連れ出すように命令し、彼が無抵抗のまま引きずられていくのを見送りながら、後に続いた。
誰もが疲れきっていた。
静まり返った洞窟を出れば、そこは薄暗くとも、光のある場所。
我々のように裏闇で生きる者も、所詮は人間。
光が無ければ生きることはできない。
報いがあるならば、それは光の中である。
だから誰もが、早く光の中へ戻りたいと思っていたに違いない。
――――――――――
「これはこれは、どういう類の冗談なのかな?」
意識して前を見たのは、その声が合図だった。真っ白になっていた頭に血の気が戻り始めて、むしろ今までに何があったのか思い出せないような、そんな不思議な感覚が残り、僕は現実に戻された。
「冗談はあまり好きではありません。
私が持っているコレも、冗談ではありませんから、ご留意を」
そして最初に目が入ったのが―――――拳銃を持った白衣二人と、担架の上で眠る、美しい顔の少女だった
「………青島巡査部長か、あるいはクラーク記者かな?」
「残念、ジェームズボンドです」
…僕を運んできた白衣達の手が、急に緩くなったのがわかった。両腕が自由になった僕はまず、あの担架で眠っている少女に近づこうとして、すぐに拳銃を持った白衣に止められた。
「君も動かないでくれ。もっとも、君については何も指示されていないんだ。どう扱われたとしても文句は言わないでください」
もう一人の銃を持った男は、担架の傍で立っている二人の白衣達の後ろに立ち、頭に拳銃をつきたてている。たぶん、その二人は奴らの仲間ではないのだろう。
僕を運んできたもう二人の白衣が担架の前後に座り、担架を持ち上げ、二台あるワゴン車の一台に、後ろから乗り込んだ。
「やれやれ。君らにも全身火傷を負った患者様がいるのかい? 彼女を連れて、いったいどこへ行こうと言うんだ」
「どこへも連れてはいきませんよ。我々が受けた命令はただ一つ。その少女を最初から産まれなかったことにせよ、とのこと」
それはつまり――――――――――彼女を、
「何のために? 君らは彼女を殺すことだけを考えているようだが、我々は違う。
彼女は人の命を救う為に産まれてきた。そのたった一つだけの『使命』を、君達は奪おうというのかね」
「その『使命』という言葉は実によい選びです、先生。
我々が問題視しているのは、あなた達がそうやって軽々しく『命を使う』ことに対してなんですよ。
人間はモルモットやマウスじゃない。
いや、それらの実験動物への扱いだって、我々は否定的な考えなんです。
命を軽々しく扱う人間を、我々は許すことはできない」
「ほほう、ではその銃はいったい何のために使うのです。
是非とも教えてもらいたい」
仲間割れ? 一瞬そう思って、しかし、違うような気がした。
この拳銃の男達は、最初から白衣達とは違う考え方を持っている集団なのだろう。
ジェームズボンド…そうか、つまりスパイだ。
「これですか?
ああ、あくまで保険ですよ。
あなた方が強行手段に出た場合のね。
あなた方が一人の命を救うことに必死なように、我々も全ての命の権利を守ることに必死なんですよ。
簡単には諦めるつもりはありません。
でも安心してください、私は一人も殺したことはありませんよ。
あなた達の誰かを殺すつもりもありません。
…ですが、」
ダァアアアアアアン!!!!!
大きな銃声がすぐ脇を通り抜けていくのを、僕は空気の流れで感じた。
見ると、隣にいたの女性が耳を押さえて膝を着いていた。
「大丈夫か?!」
出血こそ無かったものの、そこでおきた変化は僕にもハッキリとわかった。
眼鏡のフレームが、左側だけ綺麗に折れて、無くなっていた。
レンズも割れていないのに、その場所だけを削り取ったみたいに、しかも拳銃から出た一発の銃弾で、正確に弾き飛ばしていたのだ。
「どうです?
どう足掻いたとしても私は正確に撃ちぬきますよ。
あなた方の施設にいたおかげで、どこをどう撃ち抜けば死ぬのか、あるいは死なないのか、よく勉強もさせてもらいましたから、ご安心ください?」
雪を削る音がした。先生と呼ばれていたあの白衣の男が、立ち上がったのだ。
「なるほど。
我々に潜入してきたのは随分前からだったというわけか。
では一つ聞かせてもらおう。
我々は実際、何者からか数々の妨害工作を被ってきた。
その中でもとりわけ強烈だったのが、あの救急車の事故だ」
「あぁ、あれですか」
なんて―――――いやな笑いだ。
待っていましたと言わんばかりの、見ていてすごい腹の立ってくる、悪魔みたいな笑いだ。
「そういえばそんな作戦要綱もあった気がしますねぇ。
もっとも、私が指示したのは斜面の爆破だけでしたが。
救急車のタイヤがパンクしたのは、私の味方が気を回してくれたのかもしれませんねぇ、あー、それともブレーキ故障だったかな?
ひひひ、もうそんなことどちらでもいいじゃないですか。
結局作戦は失敗し、あの子は生き延びてしまった。
だいぶ日程にはズレが生じてしまいましたが、これでリセットです。
あのクローンの少女は生まれてこなかった。
そういう風に、歴史は元に戻るだけのことですよ、せんせぃ?」
エンジンが始動する音がした。助手席のパワーウィンドウが開き、さっきの担架を持っていった男の一人が顔を出した。
「すいません、かなり冷え切ってまして」
「構いません。さて、おしゃべりはこのぐらいにしましょう、出発の時間が来てしまったようです。ところで、そこの君」
僕? 僕に何の用だって言うんだ…?
「君は最後まであの少女を守ろうとしていたそうですね。
実に素晴らしい心がけです。
どうでしょう、我々と共に来ませんか?」
「共にって…どういうことです?」
拳銃を持った白衣は、やれやれと両手を振った。
「彼女の最期を看取る機会を与えよう、ということです。
ここまで来た君には、その権利がある。
私がこれから連絡をする間に決めなさい、すぐに出発しますよ」
そう言うと助手席のドアを開けて、中に置いてあった携帯電話を取ってどこかへと電話を掛け始めていた。
あの女の人が、それを見て一歩動こうとして、あの先生が手で制止していた。
首を横に振り、やめるんだ、とつぶやいて。
「私です。
えぇ、今クローンの少女を確保しました。
後は予定通りに進める予定です………えぇ、指定の場所に」
僕は先生の顔を見た。先生も僕のことを見ていた。ということは、僕が問いたいこともわかっていたはずだ。
「君が決めなさい。私が止める理由は無いし、何より奴は君の意志を求めている」
「………」
あの男は、まだ電話をしていたが、そう長くは続かないだろう。
そして僕も、答えを導き出すまでに、長い時間は必要なかった。
「わかりました。
では、また全てが終わったら連絡します。
………さて、答えは決まった、ようですね」
ざく、ざく、ざく、と僕が雪を踏みしめる音。
背の高い白衣の男の前に、僕は立っていた。
――――――――――時間は、流れる。
「まったく君は災難でしたな。
良心からその子を助けたばっかりに、こんな雪山まで走り回ったりしなければならなかったので
すから」
車の中は本当に静かだった。
後ろから彼女の吐息が少し聞こえてくるけれど、荒々しく雪を踏み潰すタイヤの音の方が、ずっと大きく聞こえていたからだ。
「…僕は、災難だとは思っていません」
「ほう? それはどうしてなのかな?」
そんなの、決まってるじゃないか。
「………彼女と、出会えたからです」
「そうですか。ごちそうさま」
激しく縦揺れする車がどこへ行くのかはわからない。
ただ、あまりいい予感がしないのは、間違いないことだった。
―――――時間は、少し遡る。
去っていくテールライトを、私達は無言で見送りました。残された我々四人は、これからどうすればいいと言うのでしょう。
「先生…」
「まずは、車の中で温まるとしようか」
さっきあの男達も言っていましたが、車のエンジンは冷え切っていて、始動するまでにかなりの時間がかかってしまいました。その間にも、奴らは遠くへと走り去っているというのに。
「よし、動いたぞ。まずは一旦、この山から下りるとしよう」
「奴らは追わないのですか?」
「追った所でなんとかできる状態ではないだろう。まずは体勢を立てなおすんだ」
またふりだしに戻されるのかと、私は憂鬱な気分に陥りました。これから、またどれだけの時間がかかってしまうのか。
「何をそんなに沈んでいるのかね? その眼鏡に何か特別な思い出でもあったのかい」
「そうじゃありませんが………なぜあなたはいつも、そうやって余裕の表情をしていられるんですか。私にはそれが、不愉快でならないです!」
言葉が自然と荒くなっている自分がいる。らしくないな、と言ってから後悔しました。
「慌てる必要が無いからだ、と言えばいいのかな」
そう言うと、先生は自分の胸ポケットから、黒い携帯電話を取り出して、私に投げました。サブディスプレイには『通信中』という文字が出ていて、オレンジ色のLEDが点滅していました。
「いいかい、彼らが持っていった車は、最初に私達が乗ってきた車だった。ということは、あの車には私達が持ってきた荷物の中で、ある物が入っているはずだよ?
さて、それは何だ?」
「これって、まさか………」
答えは携帯電話を開けばすぐに分かりました。見覚えのある画面と、抽象的に描かれた地図。そして、中央に表示された、赤い『→』のマーク………
「GPS発信機………あの子の服…!!」
「こっちは普通のワゴン車にしておいてよかったよ。
担架をそのまま入れるには、こっちの車はあまりに不向きすぎる。
とにかく、まずは向こうにいる仲間達と連絡を取ろう。林を抜けたら、その電話を貸してくれ」
――――――――――時間は、流れる。
「ぅっ……」
どこともわからない、灰色の雪が降りしきる場所。
いつの間にか眠っていた後、急に体が浮いたかと思った瞬間た、僕は白衣の男達に車の外へと投げ出されていた。
すごく深い雪。道路から少し離れただけなのに、寝転がったら埋もれてしまいそうなぐらいの深い雪が、そこは広がっていた。
「君の願いを叶えてやろうと思っているんだけどねぇ。
そぉら、君の愛しのフィアンセだ。たっぷりかわいがってやりな」
車の後部から、担架が投げ出された。毛布がはがれ、彼女の雪より白い肌が露になっていた。
「貴様ら…服は―――――」
「おっと、勘違いしないでください。
後ろの二人によれば、勝手に脱げていたそうです。
もっとも、脱げたというよりかは破れていたという感じだったそうですが。
その毛布はせめてもの慈悲です、さしあげましょう」
後部バンが閉まり、白衣達は戻っていく。そしてあの男も、助手席のドアを開いて、最後に僕達に振り返った。
「運が良ければ誰かが拾ってくれるかもしれないな。
だがこの天気、果たして誰かが気づくだろうか。
しかし君は幸運だった。
仮に誰にも気づかれなくても、君は望み通り彼女の傍で最期を迎えられるのです。
バラバラにされて殺されるなんてより、実に人間らしい死を、彼女に君は与えることができるのだから!」
ワゴン車は、去っていった。チェーンのついたタイヤは速くは走れない、そのテールライトが見えなくなるまでは、この雪の中でもかなり時間がかかった。
僕は彼女の飛ばされそうになった毛布をたぐりよせ、彼女の全身を覆えるように直した。
裸なのは、上だけらしかった。
「担架から少し外れてるんだ………直さないと」
僕は耳当てを彼女につけて、毛布を息ができる程度に頭まで被せ直し、自分は体を丸めて、コートにまで足を突っ込んで横になっていた。
新しく降ってくる雪は冷たいし、服越しとはいえ、下にある雪だって当然冷たい。それに、だんだんと濡れて、染み込んできてるのもわかる。
寒かった。とっても、寒かった。
(奴らめ………何が軽々しく命を扱うことが許せないだ。
結局お前らだって、血も涙も無い殺人鬼じゃないか。
今こうやって、俺達を殺そうとしているじゃないか……!)
聞こえてくるのは、雪と風の音。奴らの車がいなくなった道路からは何の音も飛んでこない。
僕にはもう、遠のく意識を留めようという気力さえ無くなろうとしていた。
「もう………きっと、終わりだ…………』
――――――――――時間は、流れる。
「はい、全ては完了しておりますよ。
我々は途中で車を乗り換えて、直接そちらに戻ります」
『絶命は確かめたのか?
聞く限りでは憶測のようにしか聞こえないが』
町はずれ辺りまで下りて来て、男は公衆電話を使ってどこかに連絡をしていた。残りの3人は、車の中で待っていた。
「…確かに憶測です。ですが、こちらは猛烈に吹雪いております。
人気の無い山中に置いてきましたから、まず助からないかと」
『そこがお前の悪いところだ。生半可な良心が作戦を失敗させている。
先日の搬送車両の件にしてもそうだ』
チッ、と舌をならす音。
あまり思い出したくないことを出され、男は眉間にシワを寄せていらだった。
「………わかりました。
確かに、今回もあの時と同じイレギュラーがいますから。
生死の確認と、もしもどちらかが生きていれば、即刻射殺をしてきます」
──────時間は、更に流れる。
鉄瓶の湯気を遮る障子の向こうでは、和室には不釣り合いな白衣達が集まっていました。
中心では先生がノートパソコンを開いて、さっきの携帯電話と同様な画面を映し出しています。
「動き出したぞ。どうやら、来た道を逆戻りしているらしい」
「私達が先回りして追って来るとでも思ったのでしょうか…?」
先生は腕組みして、うーんと唸っています。
「わからない。
向こうが私の話をどこまで聞いていたかも考慮しなければならないが、この発信器を利用してるとは少し考えにくいな」
デイスプレイにはもう一つウィンドウが開いていて、同時進行で新しい情報が送られて来ていました。
「………罠、かもしれないな」
─────時間は、どこでも等しい。
「ぇ………?」
てっきり風が強くなったのかと思っていた。でもそうじゃない。
「……おきて、おきて」
寒さなど一瞬で忘れてしまった。間隔が消えたとか、そんなんじゃなくて、全然別なことで頭がいっぱいになってしまったからだ。
「君は………?!」
そこにはもう、面影しか残っていない。こんなにも髪の長い、きれいな人を、僕は見たことがあっただろうか─────
「さむくない? へいきぃ?」
雪より白い手が、僕の顔を優しく撫でていた。
とっても白いのに、とっても暖かい手なんだ。
「………あぁ、僕は大丈夫」
たとえば今、そこに天使がいると言われたなら、僕は疑うことなく信じるだろう。
たとえば今、彼女の背中に羽があると言われたら、僕は疑うことなく信じるだろう。
たとえば今、彼女を─────
「行こう。きっとまだ助かる。………その、寒くはない?」
「うん、へいきぃ」
─────時間は、流れる
ビーッ! ビィーッ!!
「!」
「どうしました?!」
先生はマウスを弾き、GPS画面を最小化してもう一つの待機させていたウィンドウを呼び出しました。
「………まずいな」
映し出された画面にも、同じような地図が映っていました。違う所は、同じ地域を移していても、部分部分で黄色や赤色に点滅している箇所があることでした。
「これは…そんな!」
「あの時君をなだめておいてよかったよ。
………でなければ、君まで取り返しのつかないことになっているところだった」
科学が進歩した現代でも、人間には勝てないものがあります。
地震、台風、放射能…………数えてみれば、人間が勝てるものの方が少ないのですが…………そういったものの中でも、今回発生しうる、特に単純で、恐ろしいものが起こると、この画面は伝えようとしているのです。
画面では赤く点滅しながら、このような文字が大きく表示されていました。
《警告! なだれ 警戒度 MAX ! 警告!》
――――――――――時間は、少し遡る。
諦めてはいけない。だって、僕達はまだ生きている。
一瞬でも諦めてしまったことを、僕は恥ずかしく思った。
「あの木の下…うん、あそこなら傘のかわりになるはずだよ」
「うん。いこう」
そんなに離れた場所じゃない。たぶん、五十か、百mぐらい。
それでも深々と降り積もった雪を掻き分けていたら、感覚こそ残っていないけれど何分も掛かってしまった気がする。
何の木かはわからないけれど、ほっそりとした背の高い木だった。こんな雪の中でも、力強く緑色の葉を三角形に持っている。
「あぁ………この木の幹に寝転がる感じで…そう、そんな感じ。 …寒くない? いいよ、これ使って」
雪をなんとか削り出して、幹に背を預けて体育座りし、僕は着てきたコートを脱いで足の方に掛けて、二人で共有した。
「じゃあこれもつかって!」
と、彼女は自分に巻きつけていた毛布を広げ、僕と共有しようとしてきた。確かに毛布は大きくて、暖かいけれど―――――僕は慌てて一番上のシャツを脱いで彼女に着させた。
彼女は上半身裸なんだ。パツンパツンのズボンしか穿いていないのだから、これ以上薄着にさせるわけにはいかない。
「…毛布の方を内側にしよう。それから、手や足が冷たくなったり、変だなって感じたら、時々動かすんだよ」
自然と、腕を組んでいた。互いの体温がまだあったかいとわかることができるから、僕らはまだ大丈夫。まだ、生きられる。
彼女の方が暖かい感じがしたのは、ちょっと情けない話だけど。
(…お腹減ったなぁ)
動かなければ、そんなに体力を使うこともないだろう。
…だけど、最低限生き延びるには栄養も必要だ。
眠って節約するという手もあるけれど、それはとんでもない賭けだし、何より彼女がまた成長してしまう。
僕は口元が寂しくて、つい無意識の内に足元の雪をつまんでいた。
何度かつまんでいく内に、碁石ぐらいの大きさになった雪玉が人差し指と親指の間に挟まれていて、それがいつの間にか、僕の口の中へ――――――
「ぇほッ! げほっ!!」
「どうしたの? おにいちゃん、だいじょうぶ?」
土が混じっていた。何の栄養も手に入らなかったし、せきこんで毛布が少しずれ、冷たい風が入ってきてしまった。
「ごめん…………ちょっと、お腹すいちゃってさ」
「おなかすいたの……? あ、ちょっとまって!」
そう言うと彼女は、毛布の中でゴソゴソと何やら動き出していた。何だろう、食料になるような物なんて無かったと思ったけど。
僕が雪玉か泥団子が出てきても胃袋に収めようと覚悟を決めていたら、彼女は「あった!」と言って、毛布の中から手をにょきっと出し、僕の眼前にそれを差し出した。
「あ…それって、」
ラムネ菓子だった。お店のおばちゃんが出てきて彼女にあげた、黄色い半透明の包み紙にくるまれた、一円玉大のラムネ菓子。
彼女はもらった二個の内、一個を食べないままでおいて、それをズボンのポケットか何かに入れてとっておいていたのだ。
「あとでたべよっかなってもってたんだけど、おにいちゃんにあげるね。おなか、すいたんでしょ?」
僕は、彼女の顔を見た。その表情を言葉で言い表せという問題があったなら、僕はきっと〇点しか取れない。
こんなにも、僕の心を、胸を、締め付けて、涙に濡らしてしまう顔を、いったい他の誰が表現できるって言うんだ 。
「………そっか、大切にとっておいてたんだね」
言葉では返さず、彼女は小さくコクリとうなずいていた。
僕は両手を毛布から出して、その小さな包み紙を受け取った。
「ありがとう……でも本当は、君も食べたいでしょ?」
「……うん。でも、あげる」
なら、決まってる。いや、どう答えたとしても、僕は最初からすることを決めていたけれど。
黄色い包み紙をクルりと開けて、僕はその白い円盤の両端を持って力を込めた。かじかんだ手でやった割には、ラムネ菓子は綺麗な半円に分かれてくれた。
「………はんぶんこっつだけど、いいかな?」
彼女はちょっと驚いたような顔をして、僕の右手と左手のラムネ菓子を見比べた後、おもむろに顔を近づけてきて、僕の右手に持っていたラムネ菓子を指ごと口に含んで舐めていた。
「………くすぐったいよ」
「えへへ」
はんぶんこっつにしたラムネは、ほのかにすっぱいレモンの味がした気がした。彼女の方も、たぶんそうだったのかな。
それを確かめようと彼女の顔を見て、僕は不自然に赤くなっているのを見つけた。そして、それが何だったのかを思い出して、少し憂鬱な気分になってしまった。
「洞窟の中で……」
「え?」
不意に声を掛けられて、彼女は驚いていた。
「殴って、ごめん………」
彼女は少し考えた後、小さく首を横に振っていた。
「ぶたれてなんかないよ」
たぶんそれが彼女の、生まれて初めてついた『ウソ』だったんだと思う。
それからどれぐらい時間が経ったのだろう。僕らはしばらく無言で座り続けていた。時々どちらかが手をすり合わせたり、足を組みなおしたりしている以外は、ほとんど動いたりもしていない。
「おにいちゃあん………」
「なに…? どうしたの?」
「だれかがあるいてくるよ」
「え?」
気のせい? こんな雪風吹くなか、いったい誰が――――――――――
「………聞こえる」
ザクり。ザクリ…。ザクリ――――――――――
不気味な雪を踏みしめる音が、確かに聞こえてくる。
ざくり。ザクリ…。ザ――――――――――
「伏せろっ!!!」
銃声。 そして、何かが飛び散ったエフェクト。
しかしそれは木の皮だった。ほっとするのもつかの間、もう分かりきった足音の正体が、僕らの前に現れた。
「おやおや、下手に動かないほうがいいですよ。
苦しまずに死ぬには、私が適切な位置を撃ちぬきます。
そうやって変な方向に動かれる方が、よっぽど苦しんで死ぬことになりますからねぇ。
おとなしく、死んでください?」
あの拳銃の白衣だ。後ろには誰もいない、一人で来たらしい。
「………どうして戻ってきたんだ」
「いえいえ、単純なことです。
ボスに死んでなかったら殺せと命令されたのでね、一応確かめに来たのです。
なるほど、君は本当に厄介なイレギュラーです。
そのゴキブリ級の生命力、実に惜しいとは思いますが…………結局のところ、私達にとっては邪魔でしかありません。
覚悟を決めなさい」
僕らに拳銃を向ける男の背後から、強い風が吹き付けてきた。
まるでこの山すらも男の味方をしてしまったのかと思えて、僕らにはそれがとても怖かった。
でも、
「あんたは命を大切にする考えの持ち主じゃなかったのか。
あんたがやろうとしていることだって、ただの殺人行為だ!」
「えぇ、そうですが、何か?
この際だから教えましょう、冥土のみやげです。
確かに私達は、その子を造った機関とは相反する考えを唱えていました、表向きは、ですけどね」
表向き…? それって、どういうことだろう。
「しかし、それは所詮建て前です。
本当はかなり似たり寄ったりな、同じ考えを持っているんですよ、我々も?
クローン人間の医療活用にしろ、マウスの実験活用に関しても。
ただ、利益はできれば自分の所にたくさん来てほしいですよね?」
クク、と嫌な笑いをこぼしたあいつは、更に風を味方につけて
いる。
「……じゃあ、あんたらはただ利益のために………」
「そうですよ。
発見や実験を、我々より先に成功・実現させたと堂々と言える人達がいては困るんですよ。
発見は一番になった人が一番得をしますし、信頼も頂けるでしょう?
邪魔をしてきたのはそういうことです。
単に我々の利益に不利な状況を作ろうとするモノの排除。
それ以外の理由は、全て建前でしかありません。
驚きましたか?
なら、おしゃべりはここまでにしましょう。
あなた達は知りすぎてしまったし、元々我々の邪魔でしかなかった。
死ぬ運命に置かれていたのです」
バァアアァァアアァアア――――――――――
「そうですね、ひとおもいに殺してもつまらない。
何より、貴方達がしぶとく生きることを好んでいる以上、私もその趣旨に合わせることにしましょう。
ジワジワといきますよ」
灰色の雪に、長細い朱が描かれていた。
みみずが出てきた?
そんなのん気なことを言っていられる余裕があったら、どんなに心強いことだろう。
あいつの背中からの風が、ますます強くなっただけだ。
「次はあなたです、クローン。
その綺麗な肌に傷をつけるのは惜しいですが、どうせ死ぬのです。
最後にいい経験をさせてあげますよ。
『死ぬほど痛い』という、初めての気分を、ね」
バァアアァァアアァウア――――――――――
本当に奴は銃の扱いがうまいのだろう。でなければ、こんなにも細い朱線を作ることなど、とうていできない。
だからといって、許せるわけがない。
彼女が、悲鳴を上げた。
「~~~~~~~~!!!!!!!」
ますます強くなる前からの風が、僕らの糸のように細い傷へ冷たく襲い掛かってくる。
雪の冷たさが、急に現実味を帯びて全身を包装しようとしてきているみたいだった。
バァアアァァアゥァゥア――――――――――
そしてまた、銃声。僕の肩に、縄のような傷と、剣山が落っこちてきたみたいな痛みが走った。
「―――――ッ!」
「ハッハッハッハッハ!
どうしたんだい、ゴキブリ級の生命力はどこへいった!
もう一度彼女を背負って逃げてみたらどうだい?
それとももしかして、君にはもうその子を背負うだけの体力は無いのかな?
そりゃあそうだろう、いったい彼女は何歳の体になったんだ?
体重は何キロだ?
君といったいいくつ歳が違うのかね!
ハッハッハッハッハ!!!!」
バァアアァァバァアアァバァアアァァアゥァゥア――――――――――
楽しんでいるとしか思えない。
僕と彼女の体を交互に撃ち抜いて、だのに舐めるみたいに小さな傷しか作っていかない。
それでも右を撃ったら、次は左、今度は下の方と、まんべんなく違う所を撃っているから、痛みはとても言葉に表現できないぐらいに広がっていた。
僕がこんなだから、彼女はきっと、もっとひどい――――――――――
バァアアァバァバァアアバァバァアバゥァゥア――――――――――
「~~~~~~~~ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
銃声、悲鳴、そして笑い声。
その全ては誰かに届けたくても、この灰色の雪が全て飲み込んでしまって、誰にも届くことは無かった―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――かに、思えた。
「…………? なんだ、この音は………?」
さっきとは比べられ物にならないぐらいの、とてつもない風が、いや、そんな物よりも地響きと揺れが、段々と近づいてきている気配がした。
空気の流れでわかる、それは間違いなく山の上の方からやってきているんだ。
ごごごごごごごごごゴゴゴゴゴゴゴ…………………
「し、しまった………まさか、そんな………!?」
風は…山は、奴の味方をしていたわけじゃなかったんだ。
目に見えて青ざめていく男とは対称的に、僕は、すっ、と腕を包んできた身体のおかげで、努めて冷静になることができた。
「……幹の下側の方に回って。さっきと同じようにするんだ」
音なんか気にしない。どうせ奴には聞こえない。
ザクリ、ザクリと雪を踏み潰し、僕らは木の坂に対して下側へ回り、毛布と、ジャンパーをかぶりなおした。
―――――地響きは、すぐそこまで迫ってきている。
「こわい……………」
「大丈夫。僕達は絶対に助かる。生き延びるんだ。
だから安心して。僕が君のことを守るんだから」
彼女の目にはまだ、涙が浮かんでいた。
傷の痛みによるものなのか、不安と恐怖の色が濁々にじんでいて、あまりにも痛々しい。
「…………本当に?」
なぜ彼女は、そんな疑うような目をしているのだろう。
信じたいけれど、信じられない。そんな、迷いのある目をしている。
「…大丈夫。僕を信じて」
僕は毛布の中で彼女の腕をさぐり、そして引き寄せた。
彼女の身体は―――――さっきよりもずっと、冷たくなっているような気がしてならなかった。
「だったら………」
「だったら……なんだい?」
地響きが、大きくなってきている。
あと何秒、僕は彼女と話していられるのだろうか。
「おねがい………わらって」
「…!!」
言われて、あぁ、僕はやっぱりダメなおにいちゃんだな、と、思った。
そうだよ………。僕はとっても大切なことを、また忘れてしまうところだった。
「………そうだったね」
僕は誓った。
あの時誓ったようなものとは比べ物にならない、堅い約束を。
「僕は……君を守る」
この子が安心していられるよう、
笑っていよう――――――――――
「さぁ……君も笑って」
ずっと彼女が安心して、
笑っていられるように――――――――――
「約束しよう、君と僕は」
彼女のために生きていこう――――――――――
「ぜったいに離れない――――――――――」
ずっと彼女が安心して、
笑っていられるように――――――――――
彼女は笑った。
あったかい、生きてるっていう喜びが満ち満ちている笑顔だ。
僕達は、どちらからともなく、唇を重ねた
長い、長いくちづけを交わした
それが契りであると、神に示すかのように――――――――――
ごごごごごごごごごごごゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!!!!
………ザクザクザクザクザク!!!!!!!!!!!!
「死ねぇぇぇぇぇぇぇえええええええっ!!!!!!!!! 死 ん で し ま え ぇ え え え え え え ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! 」
何発の銃声が飛んだだろう。何度も、何度も鳴っていたから、もう僕にはわからないや。
血も飛んでいたのかな? 誰の? どっちの?
あはは、もうそれを確かめることはできないよ。
全部、灰色に飲み込まれちゃったから――――――――――ね。
ボクハ シンダノカナ
二〇XX年 一一月 ○日 (金)
△△県多恵高原山中にて、大規模ななだれが発生した。
このなだれにより、県道の通行規制を無視して進行した乗用車一台が巻き込まれ、乗っていた三人が車の中から遺体で発見された。
車内の様子からは少なくとももう一人乗っていたと見られるが、未だに行方不明であり、捜索が続いている。
現場付近は近年の異常気象の影響により、温暖な空気と寒冷な空気が短期間に交互に通過していて、大雪と雨が交互に降り、非常になだれが起きやすい状態ができていたと考えられ、気象庁の発表によると当日は…………)
(△△新聞 朝刊より抜粋)
………灰色だった。見える物は全て灰色で、頭の中も全部灰色だった。
その中を、水の上に浮かぶ油みたいに、白いモヤみたいな何かが、音もなく漂っている。
いったい、どこへ行こうって言うんだろう。
(永遠にさまようのだろうか………僕は)
白は行ったり来たりを繰り返し、やがてだんだんとその中心で止まったのだと思う。
灰色の中に入り込んでくる、白。
僕は、いつの間にか白の世界にいた。
つづく…
次回、最終回『6.人造人間のオルガニズム』