坩堝
お待たせしました。
今回は予告通り、小百合のお話です。
楽しんでいただけると嬉しいです。
この感覚を味わうのは、何度目だろう。
「そうなんですよ。在宅ワークだとどうしても体が凝ってしまって……」
「わかります。僕も事務作業をしていると長くなりがちで、特に腰がね」
母の声を聞きながら、夕食を口に運ぶ。
四人分の料理が並べられた食卓はいつになく賑やかで、それなのに箸先は鉛のように重く、舌の感覚も鈍い。
まるで、自分だけが薄布一枚隔てた場所にいるみたい。
「そうだ。今度うちの道場に来てみませんか? 女性の方向けのヨガコースがあるんです」
「あら、本当ですか? 確かに最近、買い出し以外は出不精でしたし……そういうのも悪くないかも」
「是非いらしてください。息子共々歓迎します」
そこから逃れるため、あるいは団欒の様相に取り込まれるのを疎うように手を動かす。
早くしなくちゃ。今日はもう、あまり保ちそうにない。
「じゃあ、お邪魔してみようかしら。竜司くんも大丈夫?」
「ん、はい。勿論です」
「ふふっ、ちゃんと動くのは久しぶりだから準備しなくっちゃ。せっかくなら夜は外食にして、四人で……」
「──ご馳走様」
「あら。もう良いの?」
「うん。期末テストの勉強があるから」
当たり障りのない理由を口実に席を立つ。
まとめた食器をキッチンカウンターに置き、男性と気遣わしげな眼差しのあの人に頭を下げる。
「失礼します。お二人ともごゆっくりなさってください」
「……ああ」
「ありがとう。勉強、頑張ってね」
「小百合、あまり根を詰めすぎないようにね」
この場を離れる許しとも言える言葉に頷き、ダイニングを後にした。
いつかのように、真っ直ぐ部屋へ向かう。
やけに長い廊下を抜けて何とか辿り着き、強張った手でドアを開ける。
そうして室内に体を押し込むと、後ろ手に鍵を閉めた。
「──っふ……」
ようやく、まともに息ができる。
張りつめていたものが一気に溢れて、扉に背中を押しつけながら座り込んだ。
「……危なかった」
本当に、ギリギリだった。あと少し遅ければ、自分の頬を張り飛ばしていた。
あの光景を壊すつもりは、ない。母には幸せになってほしいから。
あの人と一緒になることでそれが叶うのであれば、心から祝福したいと思っている。
ただその幸せの中に、自分がいるのがどうしても受け入れられないだけで。
「……幼稚だな」
今日も、お母さんの顔を見られなかった。
あまつさえ、永遠に消えたとばかり思っていた熱が部屋に満ちていくのに耐えられず、こうして逃げ出す始末。
あの温かさを許容した瞬間、私の半生が無意味になる気がしたから。
分かっている。こんな感情は間違いだ。
なのに、消さなくてはと思うほど強くなるのは何故だろう。二ヶ月前のあの日から、私の中にあった強さは失われるばかりだというのに。
ああ、私は本当に……
「弱くて、どうしようもない……」
堪えきれず、そんな言葉を漏らした時だった。
突然、扉がノックされる。
背中越しに伝わった振動に目を見開き、ゆっくりと振り向いた。
「小百合、俺だ」
……先輩? どうしてここに。
「顔色が良くなかったから様子を見に来た。大丈夫か?」
「っ!」
気取られていたなんて。隠し通せたつもりにばかりなっていた。
また頬を打ちたくなる衝動に駆られるが、ギリギリで堰き止める。
わざわざ抜け出してきてくれたのに、応えないのは恥の上塗りだ。
かろうじて残っている気力をかき集め、立ち上がる。
扉を開くと、そこにいた声の主は顔を驚かせ、ほっとした様子で口端を緩めた。
「……竜司先輩」
「やあ。顔を見せてくれてよかった」
「いえ……先ほどは、中座してすみません」
「気にするな。調子はどうだ?」
「お気遣いありがとうございます。問題ないので、もう戻ってくださって大丈夫です」
そう捲し立てれば、先輩は心配と優しさを綯い交ぜにしたような顔をする。
今日はもう誰にも自分を見られたくない。最も忌むべき部分を曝け出した、この人が相手であろうと。
「そう、か。君がそう言うなら、俺は行こう」
「はい。ご迷惑をおかけします」
血の気が引いた顔を隠すように頭を下げ、部屋の中に戻る。
一歩後ろに引いて──ふっと、その足が力を失う。
「っ──!」
「小百合っ!」
崩折れそうになったのを、先輩に支えられる。
片手で掴んだままだったドアノブと彼の腕で、どうにか転ぶのを避けられた。
「ありがとう、ございます」
「……胃もたれや胸やけ、というわけではなさそうだな」
少し、硬質になった声に奥歯を噛む。
どこまで無様を晒せば気が済むのだろう。人間とはここまで醜態を見せられる生き物だったのか。
「ひとまず座ろう。手伝うから」
「ですが……」
「悪いが、ここまで見て引き下がるほど俺はお人好しじゃないぞ」
……本気の顔だ。
人好きのする微笑みを取り払い、定められた瞳には不退転の意志が垣間見える。
そんな人間を拒むほどの力も、理屈も。今の私には残っていなかった。
「わかり……ました」
「よし。それじゃ、邪魔するぞ」
先輩が、部屋の中に踏み込んでくる。
力強く安定した手を借り、ベッドまで移動した。
「……お手数をおかけしました」
「いいんだ。横にならなくて平気か?」
「これで十分です」
改めて座ったことで、気付く。自分の足が小刻みに震えていることに。
今さっきなのか、夕食の時からなのか。どちらだとしても、自嘲を覚えることには変わりない。
「何か飲み物は? 取ってこよう」
「今は、喉を通らないので」
普段に比べればずっと少ない量を摂るのさえやっとだった。あの場から離れて少し落ち着いたとはいえ、今日はもう無理だ。
「やっぱり、俺達が来るのは辛いか?」
驚いて顔を上げる。
まさか、そんな質問をしてくるなんて思いもしなかった。今まではこちらの意思を尊重して、遠慮してくれていたから。
目の前にいる先輩からは、これまでにない決意のようなものを感じた。
「いえ。もう慣れましたから」
「じゃあ、例の彼と何かあったのか?」
「……何も、ありません」
何かなんてあるはずが無い。それこそが正解なんだから。
晴海さんに寄り添われ、友人に賞賛されて、笑顔で囲まれる。
本来、ずっと前からあるべきだった光景を見て満足した。同時に、途方もない虚無感を得ていたとしても。
「だが、君の苦しみはより深くなっているように見える。それは、俺の勘違いか?」
「やけに……気にするんですね」
「君にとって大事なことだ。勿論、仮とはいえ彼氏の俺にもな」
相変わらず、器の大きな人。
けど、その優しさが今は辛い。受け取っても胸の穴の中に消えていくばかりだ。
まるで全てが空虚に思えた、聡人くんに出会う前はずっと感じていたもののよう。
……ああ、そうか。
「戻っているんです」
「戻っている?」
「本当の私……ありのままの、宮内小百合になっている。それだけなんです」
「どうして、そう思うんだ?」
「──あの人は、私にとって幸せな夢そのものだったから」
夢が終われば、そこには現実がある。ごくごく普通の、当たり前のことだ。
積み上げた努力も、重ねてきた時間も、たった一つ譲りたくなかった父の言葉さえ、脆く儚い幻想にすぎなかった。
本当は気付いていた。この選択をした時点で、自分には何一つとして残らないと。
その事実から目を背けたかった。確かに実在するものはあると信じていたかった。
だって、そうしないと聡人くんから何もかも奪った意味すらなくなってしまう。それだけは許せなかったから。
「半端で、臆病で、自己中。私はそういう最低の人間です」
「違う。絶対に違うと、俺は思う」
案の定、と言うべきか。先輩はすぐに私の言葉を否定した。
「君は一番大事な人のために、最も辛い選択ができる強い人間だ」
「……いいえ、そうじゃありません」
「何故だ?」
「だって──私が持ってたものは、全て彼といるためだったんですから」
彼が憧れ、好意を持ってくれた宮内小百合。
理想を胸に、弛まぬ努力を実行し続ける気高い少女の幻を抱いていられたのは──そうである限り、彼と一緒にいられるから。
こんな矛盾があってたまるものか。
散々彼の人生を縛っておいて、浅ましいにも程がある。
だから、やっぱり私は……この世で一番、宮内小百合という人間が大嫌いだ。
「小百合………」
「大丈夫です、先輩。ちゃんと呑み込めます。いずれ、何も感じなくなりますから」
それまで、どうか。こんな私を見逃してほしい。
現実とは折り合いをつけるもの。この微睡みがきちんと終わった暁には、自分の醜さにも諦めがつくはず。
「心配しないでください。次は、逃げません」
「……なら、せめて気分が落ち着くまでここに居よう」
私の正体を知ってなお、寄り添ってくれる先輩に顔が綻びそうになる。
いつか、こんな自分を受け入れられたのなら……この献身に報いる方法もわかるのだろうか?
(……俺じゃ、駄目か。きっかけを作ることくらいはできても、自分を肯定する理由にはなってやれない)
そうして、自分のことばかり考えていた私は。
(心苦しいが、いざとなればお前を頼らざるをえないかもしれないぞ……高峯)
先輩が、窓際の写真立てに目を向けていたことにも気が付かなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
評価の方、していただけると嬉しいです。




