消し去れない傷
三章開始となります。
楽しんでいただけると嬉しいです。
自分の一言が、誰かの人生を歪めてしまった。
そう思うことが、生きているうちに何度あるだろう。
きっかけは些細な言葉。
なのに、たった一度で相手の考えを、感情を……未来をも変えてしまう、そんな経験。
本来ありえたかもしれないその人の在り方を奪う行為。許されるはずもない、暴挙。
断言する。あんなのは、一回だけでも有り余るほど間違いだ。
まして、時を経るほど歪んでいき、取り返しがつかなくなるのを分かっていながら。
それでも間違っていたい、なんて……あまりに恐ろしくて罪深い。
『間違ったことを、間違ったままにしない人間になりなさい』。
幼い頃、父は私によくそう言った。
人によって正しさは違うけれど、目の前でこれだけは見過ごしてはいけないということから目を逸らさないようになりなさい、と。
その言葉を人生の指標とし、生きようと思った。
何が間違っているのかを判断するため、勉学に励み。何時も冷静かつ正常に考えられるよう健常に努め。それを訴えても受け入れられるよう、道徳を忘れずに。
そして彼と出会ったのは……私がその信念の根底を失い、迷っている時だった。
「では、失礼します」
「うん。お手伝いありがとうね、宮内さん」
柔和に微笑む先生へ一礼し、職員室を後にする。
いつも通りの一日だった。
真面目に授業に取り組み、ご飯を食べて、困っているのを見かけた新任の女教員の手助けをする放課後。
そんな私を気に入らないと言う同級生もいる。良い子ぶってるだけって。
特にこの前注意したクラスのリーダー格の男子とその友人からは、目をつけられたと言っていい。
事実そうだ。ただ父の言葉が格好良くて、そうなりたいと憧れただけ。
でもお父さんがいない今、自分の生き方が正しいのか分からなくなっていた。
「……これで、いいのかな」
誰もいない廊下へ吸い込ませるように呟きながら、自分のクラスの前に着く。
今日はもう、ランドセルを取って帰ろう。ぐっすり寝て明日になれば、やる気も少し戻ってくる。
「えっと、この問題は……あれ? こっちのやり方だっけ?」
扉を開くと、一人の男の子が教室にいた。
みんな帰ったとばかり思っていた私は驚いて、その場で目を瞬かせる。
あれは確か……高峯くん? こんな時間なのにすごく集中した様子で、うんうんと唸っている。
「あーもー、わっかんねえ。算数難しすぎ……」
「……何してるの?」
「うわっ!? えっ、誰!?」
思わず話しかけたら、飛び上がるように驚かれた。
こちらを向いた彼は私がいるとわかると更に目を大きくして、顔を赤くする。恥ずかしいところを見てしまったみたいだ。
「ごめんなさい。すごく悩んでたみたいだから」
「み、宮内!? あ、いやこれは、さっきの授業でわかんないことあって! 復習してただけなんだ!」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。教室はみんなのものだから」
「だ、だよな! なに騒いでんだろ、あはは……」
純粋そうな人だ。
そういえば、クラスの女子達が噂してたっけ。最近高峯くんが勉強も運動も頑張ってるって。
小テストの時に先生が彼を点数が伸びてきたと褒めることもある。この姿を見る限り、本当みたい。
「と、ともかく。宮内はどうしてここに?」
「荷物を取りに来たの。邪魔しちゃったね」
「いいよ別に。なるほどな、それなら俺のことは気にしないでくれ」
「わかったわ」
頷くと、高峯くんは勉強に戻った。
私も荷物入れの中に入れてあったランドセルを回収して、そのまま出て行こうとする。
扉に手をかけて……ふと、後ろを振り返った。
机に向かう背中は、まだ悩ましげ。
問題が解けるまで、ずっとああしているつもりなのだろうか。もう日も暮れてるのに。
「………」
少し考えた後、取っ手から指を離して彼に近づいていった。
「どこが分からないの?」
「おおっ!? 宮内、まだいたのか?」
「うん。詰まってるとこってここ?」
「そうだけど……」
「なら、多分これ。数字があべこべになってる」
「え? ……あっ、ほんとだ」
私の指で示した場所を見返して、高峯くんは計算をし直す。
変になっていた数式は修正され、正しい回答を出すのに成功した。
「合ってるわ」
「っしゃ! やっとスッキリした、こうすればよかったんだな」
「ここは間違えやすいから、仕方ないよ」
「ありがとな宮内。おかげで解けた」
「他は大丈夫?」
「うん」
「よかった。じゃあ、私は帰るね」
これ以上の口出しは要らないだろう。
……ありがとうと言われたけど、本当は余計だったかもしれないし。
翳った心を隠しながら、彼から離れていく。
「な、なあ、宮内っ!」
「……どうしたの?」
あまりに大きな声だったから、少し声が上擦った。
もう一度振り向いた私に、高峯くんはさっき以上に赤い顔でしばらく口籠っていたけど。
やがて、思い切ったように言った。
「この前のお前、かっこよかった!」
「……この前?」
「ほら、先月だよ。あいつらにキッパリとダメだって言ってさ。体も大きいのにビビらないで助けてて、めっちゃすごいと思ったんだ」
ああ、あのことか。
昼休みでクラスみんながいたんだもの。彼だって見てたよね。
「その、変な聞き方だけど……なんであんなことできたんだ?」
「だって、困ってたから。あんなよってたかってからかうなんて、どんな理由があってもおかしいわ」
「だとしても、ちゃんと口に出せるのはすげえよ。俺は無理だったもん」
落ち込んだように高峯くんは苦笑いする。別におかしくないのに。
ただ、私が見過ごせなかっただけ。わがままなだけ。
そういうことをするのは間違ってるって、彼らに分かってもらえなかったのだって……私のやり方が未熟なだけだもの。
だからもっと成長して………しても、いいのかな。
また、あの疑問が浮かぶ。
このままお父さんの言葉を追いかけるべきなのか。本当はそっちの方が、間違ってるんじゃ──
「うん。やっぱり俺、宮内のこと尊敬してるよ」
「尊、敬?」
「ダメなことをちゃんとダメだって言えるのって、多分簡単じゃないだろ? 沢山勇気がなくちゃできないことだ」
「私は、ただ……」
「俺、いつかお前みたいになりたい。宮内くらい、強くてかっこいい人間にさ」
高峯くんの言葉に、大きく心を揺さぶられた。
それはまるで、私の悩みを言い当てたみたいにぴったりの言葉。
いくつも聞いた、クラスメイトや同級生の悪口を頭の中から押し流すくらい力強くて、小さく息を呑んだ。
「でも難しいな。勉強も運動も得意じゃないから、追いつくまで時間かかりそうだ」
「……もしかして、そのためにこんなに遅くまで?」
「家だと妹がいて遊んじゃうからさ。まさか、本人に見つかるとは思わなかったけど」
照れくさそうに言う彼から目が離せない。
高峯くんは、私を目標にしてくれたんだ。
ずっと一人で頑張ってきた。それは私のためだから当たり前で、誰かに褒めてもらおうと思ったことはない。
でも……この子はそんなふうに、私の努力を認めてくれるんだね。
「まあ、頑張ってみるよ。いつか絶対、お前に並んでみせるからな!」
やりたいことがよくわからなくなってたその頃の私にとって、彼の言葉はとても心強くて。
初めて感じた喜びと胸に滲んだ甘さに溺れるには、容易くて。
誰かと本当に親しくなる方法を知らずに理想だけを見ていた幼い子供が誤るには、十分だった。
「……ねえ、高峯くん」
「ん? なんだ?」
そして、宮内小百合は。
「もしまた勉強が難しかったら聞いて。私にわかることなら、教えるよ」
「え? いいのか? でも……」
「うん。その方が私も頑張れるから」
「そ、そうか? なら……よろしくお願いします」
「よろしくね。高峯くん」
考えうる限り、最悪の間違いに高峯聡人を引き摺り込んだ。
──甲高いアラーム音が耳元で響く。
「………」
瞼を開き、枕元にあるスマートフォンの振動を止めた。
そうすると気だるい体を起こして、昨晩寝る前よりも重い気がする頭に手を当てる。
「ああ……なんて」
なんて幸せで、ひどい夢。
これで何度目と数えるのも億劫。反吐が出るほど未練がましくて嫌になる。
クラスマッチで終わったと思ったのに……いや、あるいは踏ん切りがついたからこそ、なのだろうか。
「……進めないわね」
当然、なのかもしれない。
だって私が私でいられたのは、ずっと進んでこられたのは──
「小百合、起きたのー? 朝ごはんできるわよー」
止め処ない思考を、母の呼び声が中断した。
頃合いだ。繰り返さなくてはいけないものは自問自答だけじゃない。学校に行く準備をしないと。
「……よし」
深呼吸して、心を整える。それからベッドを後にした。
昨日と同じ朝をこなす。シャワーを浴び、朝食を食べて、制服に袖を通すと身だしなみを整える。
鞄を手に玄関へ向かうと、最後の確認に靴入れの隣にある鏡を見た。
「相変わらずね」
色のない顔。強固なようでいて空虚な眼差し。昔と同じだ。
原動力を失った……自分から断ち切った志の名残で取り繕った自分が映っている。
違うのは、迷いがないことだけ。あの選択だけは、私ができた唯一の正解だから。
「──いってきます」
「行ってらっしゃい。学校頑張ってね」
鏡から目線を外し、玄関の扉を開けながらより厚く自分を纏い、そして。
──今日も、一日を始める。
読んでいただき、ありがとうございます。




