サイン(2/2)
更新です。
「お気に召したなら何よりだよ」
「えへへ。あっ、ていうか名前! また名字になってるんですけど!」
「さ、さっきだけじゃないのか?」
「だって、ずっと呼びたかったんでしょ?」
鈴を転がすように楽しげな声で言う陽奈の、悪戯げな表情ときたら。
それさえも可愛いと思うのだから、いよいよ俺の頭は連日の悶々とした気持ちで本格的にバグりつつあると見える。
「わかった。陽奈って呼ばせてもらう」
「ん、約束ね。あ、それと」
キュッと、手の力が強まる。
「繋ぎ方も、こうだから」
「……頑張ります」
満足げに頷いた陽奈が指を解こうとする。
その前に俺の方から離れかけた手の平を引き寄せ、もう一度触れ合わせた。
「へ? な、何?」
「その。お前からは、下の名前で呼んでくれないのか?」
「え」
思い切って言ってみれば、陽奈は固まってしまった。
「あ、あたしからも?」
「できたら、互いに名前呼びがいいんだが」
「それは……と、とりま手ぇ離さない? これだと話しづらいっていうか、キャパ超えそうなんだけど」
「キャパ……? いや、繋いだままがいい。それに、これが普通になるんだろ?」
「う……痛いとこ突くじゃん」
さっきまでの態度はどこへやら、明らかに余裕をなくしてる。多分、あっちとしては恋人繋ぎまでが目標だったんじゃないだろうか。
正直俺だって恥ずかしい。
でもここで離してしまうと、またこいつのことを上手く掴めなくなってしまう気がしたから。
「い、いいの? 呼んでも」
「別にそこまで大仰なことじゃないけど。あ、気が乗らないなら……」
「違う違う、嫌とかじゃないから! ただ……」
また、手に力が入る。
一度目と違い、どことなくおっかなびっくりで、繊細にも思える手つき。
「あたしで、いいのかなって」
驚いた。あの陽奈が不安げなことを言うなんて。
そこにはこれまでの思わせぶりな言動での意思表示とは違い、生の感情が込められているように感じた。
「お前に呼んでほしい。今は、陽奈だけに」
「っ」
だから俺も、はっきりと断言する。
俺が近づきたいのは、目の前にいるお前だけだと分かってほしかった。
しっかり手を掴み、その心ごとそうするくらいの気持ちで見つめると、徐々に陽奈の顔から弱々しさが消えた。
「わかった。あたしもあんたを名前で呼ぶ」
「ほっ、本当か?」
「でも、ちょっと呼び方は考えさせて」
「わかった。好きにしてくれ」
「あと……マジで手は離して。これじゃ、上手く頭回んない」
「お、おう」
流石に恋人繋ぎはそこまでだった。
体の中の熱を追い出すように一つ深く息を吐き、陽奈はすぐにぶつぶつと呟きはじめる。
「アキだと城島と被るな……あっくん? や、いくらなんでもバカップルっぽくない? じゃあアッキー……もなんか別のなんかが混じってそうだし」
「あの、本当になんとなくでいいんだぞ?」
「いや、彼氏の名前テキトーに呼ぶとかありえないから。待ってて」
「お、おう」
なんだろう、ここまで真剣に考えてくれると申し訳ないような、でも嬉しいような。
「──聡人くん」
「っ」
一瞬、体が反応する。
真剣味を帯びた声が、小百合のものとどこか似ていたからだろうか。
「んー。これも駄目かな」
没になったようだ。
……近しい同世代の女子からそう呼ばれるのは、まだちょっと複雑だからよかった。
(──もしも、宮内さんが気持ちを込めてまた高峯をそう呼んだら。多分、今のあたしは嫉妬しちゃうんだろうな。だから、駄目)
うーん、と何度か声を漏らしていたが、しばらくすると納得がいったように頷いた。
「やっぱシンプルに呼び捨て、かな」
「決まったのか?」
「うん」
難しくしていた顔をこちらに向けた陽奈は、いつもの……本当に見慣れた笑顔を見せてくれる。
「聡人。そう呼ぶことにするね!」
「お、おお。よろしく?」
やべえ、頬が緩みそう。
呼び方一つ変わっただけなのに、何か特別感が増したようだ。
「ありがとな。わがまま聞いてくれて」
「こんなのわがままのうちに入らないって。むしろあんたはもうちょっと積極的になっていいんじゃない?」
「積極的に、ね」
自分から人に何かを求めるのがあまり得意じゃない自覚はある。
小百合に振られてからはより顕著になってる気もするけど、しかしそれでこいつを不安がらせないのであれば。
「じゃあ、一つあるんだけど。この肉巻き、もう少しもらっていいか?」
「ぷっ、まだ謙虚だなー。でもいいよ、好きなだけどーぞ?」
「よっしゃ」
許可をもらえたので、もう一つ口に運ぶ。
うん。さっきまでは色々といっぱいいっぱいだったから存分に味わえなかったけど、やっぱり美味い。
「聡人っておいしそーに食べるよねえ」
「ん、おかげで水曜は普段より放課後まで頑張れる」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。あ、放課後で思い出した。あんた、クラスマッチはどっちにしたの?」
「あー、あれか」
六月上旬に行われるクラスマッチ。
競技は選択式で、男子はドッジボールかソフトボール、女子はバスケとバレーのどっちかを選んで参加する。
今朝方に参加希望の用紙が回収され、加えてクラス対抗の男女混合リレーの選手を放課後にHRで決めることになっていた。
「俺はドッジボールにしたよ。そっちは?」
「あたしはバレー選んだ。中学の時も体育でやってて一番楽しかったし」
「バレーな。わかった、時間が被らなかったら観に行くよ」
「あたしも応援しに、って、まずいかな?」
「あー……怪我はしないよう気をつける」
もし応援に来てくれたら、空気が荒れることは想像に難くない。
一応、いくつか生存戦略は考えておこう……俺だけクラスマッチ殺伐としすぎじゃね……。
「あとはリレーだね。くじで決めるんだっけ?」
「先生は公平に選ぶためって言ってたな。やり直しとか他の人に代わってもらうのもなしだって」
「一発勝負だ。もし当たっちゃったらどうする? 自信ある?」
「……ほどほどに?」
「うわー、なさげな返事だ」
「昔から駆けっこで一位になったことがなくてな」
残念ながら足の速さは子供の頃から十人並み。
笑い者にこそならないが目立った活躍もできない、くらいの塩梅だ。
「そう言うお前は?」
「ふふん。小学校から中三まで、運動会の徒競走で三着より下になったことはないけど?」
「凄い……のか?」
なんとも判断に迷うところだが、まあ陽奈のドヤ顔が可愛いので凄いというとこにしておこう。
「まっ、選ばれたら頑張るくらいでいいんじゃない? こういう行事って楽しんだもの勝ちみたいなとこあるじゃん」
「楽しもうとすればいい思い出になる、だっけ」
「そう、それそれ。覚えてたんだ」
「なかなか印象的でな」
何事も積極的なそのスタンスは見習いたいと思っている。
「クラスマッチ、楽しみだね」
「おう」
既に今からやる気を見せている陽奈に感化されたか、俺も少しワクワクしてきた。
願わくば、この前のようなハプニングが起きずにいてほしいものだ。
読んでいただき、ありがとうございます。




