剥落
構成に悩みましたが、今回は彼女の話を。
楽しんでいただけると嬉しいです。
「──ただいま」
自分の声が玄関に響く。
誰に投げかけるわけでもなく、習慣付いた一言と共にドアノブを手放して靴を脱ぐ。
今日はやけに窮屈なローファーを両足から外した時、ドアのスライドする音に顔を上げた。
「あら小百合、お帰りなさい」
そこから出てきた母が、私の姿を認めるなりそう言った。
「お母さん」
「遅かったわね。今日は学校、午前中までじゃなかった?」
「図書館で勉強していたから」
「そう。とにかくお疲れ様」
「うん、ありがと」
いつもなら揃えるローファーをそのままに、母の横を通り過ぎていく。
すると母が背中の向こうから言った。
「今日も優一さんと竜司君が来るから。そのつもりでね」
「……わかった」
最低限の返事。
胸の中を〝早く一人に〟という感情が掻き立てる。煩わしいそれを早く収めたいがため、一直線に自分の部屋へと入った。
扉を閉める。自分で自分を閉じ込めるように。
電気もつけず、制服を脱ぐのすら億劫な気分で。力なく肩から鞄を床へと滑り落とさせ、私はベッドに体を投げ出した。
「──……はぁ」
他の誰もおらず、母の目さえなくなって。ようやく一つのため息がこぼれ落ちる。
それは物の識別さえ曖昧な薄暗い部屋に溶け込み、自分という存在そのものが同化していく気さえした。
「……疲れた、わね」
重く、気怠い体。
布団に沈んで、今にもなくなってしまいそう。いっそこの疲労を全て奪い去ってくれればいいのにと思う。
……いや。たとえそうできても、心がこれでは意味がない。
『沢渡さん達。雑談するのも良いけれど、もう少しだけ協力してくれないかしら』
『はあ?』
口論するつもりはなかった。
彼女達にとって面倒な作業なのは理解していたし、話をしているのも構わない。たとえそこに、自分の陰口が混ざっていようとも。
ただ、後々彼女達が教師に小言を言われる可能性を考慮し、最低限のことはしてもらう為に言葉を交わして。
『てか何、こんなつまんない行事で頑張っちゃって。晴海に男取られて余裕ないからって、私らに偉そうにしないでくれる?』
『──。あなた達が何もしないことと、私の私情は関係ないわ』
『うーわ、マジギレしてやんの。そんなお固いから、高峯にも捨てられたんじゃないの?』
『ええ、そうね。離れて清々しているわ。──これで煩わせることもないもの』
言うつもりのない、心にもないことを、気がつけば口にしていた。
「……悪い癖ね」
昔からずっとそう。隣にいてもいなくても、彼のことになるとつい感情的になる。
今も、普段はやり方を忘れて憎いほどに動いてくれない口元が、気がつけば呆れて笑っているのだから。
滑稽だ。
でもそれは、班員のやる気を促すどころか、完全に仕事を放棄されたことでも、結果的に四人分の作業を一人でこなして疲れ果てていることでもない。
何よりおかしなことは、自分で自分の言葉に傷付いていることだろう。
だから次の独白はゾッとするほど声が低くなった。
「自分で、選んだくせに」
私が傷つけ、私が壊して、私が手放した。
それなのに痛みにも似た欠落に苛まれては、いっそ今も握るこの胸から心を取り出してしまいたくなる。
無くなってさえくれれば、これまでにしたことの全てから逃れられるような気がするからと。
(──許されるはずがない。そんなこと)
それを承知で彼を遠ざけたはずだ。今更間違っていたなんて、いくらなんでも勝手すぎるわ。
もう一度ため息をついて……その時、ベッドのすぐ側にある窓際に目がいった。
小さなスペースに飾ってある、部屋の中で唯一の写真立てには──驚くほど笑顔の自分と、聡人くんが浴衣姿で収まっている。
その傍らには、白百合の花を模った髪飾りを添えて。
引きずりあげるように上半身をもたげ、写真立てを手にする。
「……簡単には捨てられないものね」
痛みも、感情も。それらを上回る後悔も。
後戻りはできないと知っている。
この痛みが陳腐に思えるほど、彼の心をもっと、ずっと深く突き刺したのはこの手だ。
あの人にもこのような茶番に協力してもらっている以上、中途半端にはできない。
「これでいいの……これで」
大丈夫。ちゃんとやれる。
想いを殺しなさい。冷酷に徹しなさい。
間違ったものを間違ったまま、その方がいいなんて都合の良いことは、もう終わりにしなくてはならない。
初恋なんて甘い夢は、捨てなくちゃ。
「私さえ、いなければ」
そうすれば、聡人くんには幸せな世界があるのだから。
(ああ、でも……今日のは少し、堪えた)
もう、十分だと思っていたはず。彼のくれた時間があれば、生きていけると思った。
でも校門ですれ違った時、友人や恋人──晴海さんと屈託のない様子で笑い合う彼を見て、私が感じたものは。
「本当に、笑えない」
少しとはいえ、図星だった、なんて。
それこそ──どうしようもなく、間違いというものだ。
前回の中盤に差し込むこともできた話だったかも。
読んでいただき、ありがとうございます。
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