寄り添うように約束を
何ヶ月もかけて右往左往しましたが、第一章エピローグ前、最後の大トリです。
楽しんでいただけると嬉しいです。
驟雨の中をひた走る。
奴らと対面した時間から逃げるよう、なるべく遠くに。
無心でエスカー乗り場の横を抜け、その先の階段を駆け上がって開けた場所に出た。
「あっちで雨宿りしよう!」
「うん!」
左のほうに見えた建物に向かって、突き出した屋根の下へと逃げ込む。
そうして壁に背中を預けると、荒く息をした。
「はぁ、はぁ……あー、めっちゃ走った」
「あははっ。ぐっちゃぐちゃだね」
脇腹がジンジンと痛む。ずぶ濡れた全身に服が張り付いて気持ち悪い。
しばらく、互いの息遣いだけが聞こえる。
数分もして落ち着いてくると、音を立てて降りしきる雨を恨みがましげに見た。
「覚悟はしてたけど、本当に降るとは」
「しばらく動けそうにないねー」
「このままだと体が冷えそうだな……」
っと、そうだ。
ふと思い立って紙袋の中を探り、えのすいで買ったフェイスタオルを取り出す。
幸い包装のおかげで中身は無事だった。
これならばとビニールを破って取り出し、ちょうどキャップを脱いでいる晴海の頭にそっと被せる。
「わっ。なになに?」
驚いた彼女はタオルの存在に気がつくと、俺を見て目を瞬かせた。
「さっき買ったやつ。早速役に立ってよかった」
「っ……う、うん」
本当にいいタイミングだった。ただでさえ気分の悪いことが起こったのに、濡れたままじゃ気も滅入るだろう。
(…… こういうのずるいって。走ってる最中も、あたしになるべく雨が当たんないようにしてたくせに)
ゆっくり髪を吹き始めた晴海に目線を前へ戻すと、雨足はその激しさを強めたり弱めたりと忙しない。
どれくらいで止むのやら。通り雨だといいんだが。
「ね、高峯」
「ん? どうかしんぶっ」
振り向いた途端、柔らかいものが視界を覆った。
あ、若干良い匂いがする──などと考えていると、タオルと思しきそれが頭に移動してわしゃわしゃと動かされる。
「うごごご」
「うーわ、すごい水吸ってんじゃん。てかこの前も思ったけど、あんた髪質いいよねー」
「ちょ、ストップストップ」
真っ暗な世界の中で手探りに晴海の手首を掴めば、パッとタオルが離れる。
「へへ。仕返ししちゃった」
「……お、おお」
その向こうにあった優しい微笑みに、俺は言おうとしていた言葉を忘れてしまった。
再びタオルが頭に被せられて視界が暗くなる。
まあ、うん。悪い気はしないし、こいつが満足するまではやってもらうことにしようかな。
「……ごめんね」
しばらくして。不意に薄暗闇の向こうから小さな謝罪が告げられた。
「なんのことだ?」
「色々と。せっかくのデートなのに、あたしのゴタゴタに巻き込んで。嫌な思いさせたっしょ」
弱々しく震えるその声に、なんとなく今は顔を見られたくないんだろうなと思った。
だからタオル越しに答える。
「嫌な思いも何も、言うべきことを言っただけだ。むしろ余計なことをしたか?」
「そんなはずないじゃんっ。さっきは本当に助かったんだから」
「そうか。かなり攻撃的な態度取ったし、要らぬ火種を増やしてたらごめん」
俺のせいで晴海に迷惑がかからないといいんだけど。
それにしても、かなりアレな連中だった。
久しぶりに強気な自分を最大限装ってみたが、やはり強い敵意は向けるのも向けられるのもかなり疲れる。
「……何も聞かないわけ? あの二人が言ってたことについてとか」
「知られて傷つく部分まで触れようとは、思ってないから」
誰だって他人に踏み込まれたくないと感じる部分があるだろう。
時にそれは心の一番脆い部分でもあって、本人が打ち明けていいと思うまではいたずらに触れるべきじゃない。
「そもそも、あいつらの言い分めちゃくちゃだったし。はなから鵜呑みにする気なんてないよ」
「でも……」
「それにほら、別に聞いたってここにいるお前が変わるわけじゃないだろ」
怯えるように言葉を重ねていた晴海が、タオルを動かす手が止まった。
「……ほんっとに……そういうことばっか言ってさぁ………」
「えーと。それはそうと晴海さん? ずっと周りが見えないの、結構怖いんですけど……」
「うっさい。いま絶対見せらんない顔してるからダメ」
「えぇ……」
そんな引くほどクサいこと言ったかな? 言ったかもな、うん。
(この天然男、今ほっぺにチューでもしてやったらどんな反応するんだろう?)
自問自答していると、ため息が聞こえてまた手が動く。
うわ、絶妙な力加減で気持ちいい。これも妹さんにやってるから慣れてるんだろうか。
「──ありがと」
その中で、雨音に紛れさせるよう告げられた感謝は何に向けてのものだったのか。
答えは薄布一枚の向こう側に隠れてわかりはしなかった。
◆◇◆
幸いにわか雨だったようで、三十分ほどすると天気は回復した。
そうあれと思ったのが通じたのかはわからないが、ともあれ動けそうならデートを再開だ。
それから色々なところに行った。
様々な花や植物が咲き誇る庭園を見たり、シーキャンドルの展望台から相模湾を一望したり。
他のお宮も巡ったし、また道すがら買い食いもした。
永遠の愛を象徴するらしい龍恋の鐘を一緒に鳴らした時は、あまりに照れ臭くて互いの顔を見られなかったが。
俺なりに精一杯考えたプランでエスコートをしたつもりだ。
少しでも晴海が嫌な気持ちを忘れ、今日という一日を楽しい思い出にできるようにと、かすかに願いながら。
そして午後五時を過ぎ、夕暮れに差し掛かった頃。
「うわぁ……この景色、めっちゃエモいんですけど」
「ああ、すごく神秘的だ……」
稚児ケ淵に横たわる岩屋橋の上。茜色に染まりかけた空の中、燦然と煌めく海へゆっくりと沈んでいく太陽を俺達は見ていた。
美しい以外の言葉が見つからない。
日常では決して味わえることのない大きさの感動が胸を満たす。これこそ観光地に来た醍醐味だろう。
「頑張って歩いてきてよかった〜。おかげで最っ高の景色を見られたもん」
「代わりに明日の登校はキツそうだが、まあこれの見物料なら軽いもんだ」
「足パンッパンだもんね。ん〜っ」
一日酷使した体をほぐすように、晴海が空に大きく腕を伸ばす。
やがて、満足げな吐息とともに手すりへ戻すと笑顔を浮かべた。
「すっごく楽しかった。今日は連れてきてくれてありがと。それと、わがまま聞いてくれたこともね」
「なら、頑張って計画を立てた甲斐があったな」
よかった。この様子ならもう最悪の気分ではなさそうだ。
「高峯は、ちゃんと楽しめた?」
「もちろんだ」
財布は軽く、対してスマホには写真が増えた。
その中のいくつかには、今日初めて見られた晴海の表情も収まっている。俺としても納得できるデートだった。
「本当に? 心の底からそうだって言える?」
けれど、繰り返された晴海の言葉は不安を帯びていた。
ああ……残念ながら、完全に彼女の憂いを断ち切ることはできなかったらしい。
「本当に本当だ。晴海と一緒にいられて、すごく楽しかった」
「あんなことがあったのに?」
「もしかして、岩屋探索の時に音が怖くてがっちり腕を掴んできたやつか?」
「ちがっ、それじゃないから! そうじゃなくって……ああもう!」
苛立たしげに声を上げるとそっぽを向かれてしまう。しまった、やらかした。
「悪い。ちょっとでも空気を軽くしようと思って」
「……なんで高峯は、怒ったり呆れたりしないわけ」
ややあって投げかけられたのは、どこか曖昧な問い。
「いつもお前がそうしてくれたから」
そう答えたら、晴海の肩が僅かに動いた。
初めて互いのことを深く知ったあの日から、こいつはずっと俺を受け入れてくれた。
いいかっこしいなところも、人から見れば情けない部分も、その優しさで包み込むようにして。
俺もできる限り同じものを返そうと決めている。
「晴海に対して何かをぶつける理由は、俺にはないよ」
「……そっか。だったらさ、もう一つだけわがまま言ってもいい?」
「なんだ?」
ゆっくりと、反対を見ていた顔をこちらに向ける晴海。
「あたしの話を、聞いてほしいの」
その顔は、何かを決意したものだった。
◆◇◆
思い詰めたような表情に、何を言わんとしているのか薄々察した。
いいのか、と言いそうになって……いや、ここはすぐに頷いておくべきだ。
「俺でいいなら、いくらでも聞くよ」
「……ありがとう」
ふっ、と安心したような吐息が風に乗って聞こえ、海の方に顔を戻した彼女はおもむろに話し始めた。
「あの二人はね。中学の時に入ってたグループのメンバーなんだ。男女が何人かのクラスの一軍的なグループで、奈々美と亮介がその中心だった」
「ちょうど、今日見たような感じか」
「そそ。でまあ、最初はそこそこ上手くやってたんだけどさ。ある時、亮介があたしに告白してきたの」
「そういえばそんなことを言っていたっけ」
「あたし的には友達って認識だったし、グループの中で付き合い始めると波風立つから断ったのね。その時は亮介も不満そうだったけど、大人しく引き下がってくれた」
「……その時〝は〟?」
引っかかる言い方に思わず反応すると、苦笑いで頷かれる。
「次の日、あいつはあたしとヤッたって言い回ってた。頼めば彼氏じゃなくてもヤらせてくれる軽い女、ってさ」
「なっ……!」
「ほんとさー、フラれた腹いせにしても酷いよね? そこまでするとは思わないじゃん?」
瞬間的に蘇った怒りを、両手を握ることでどうにか抑え込んだ。
俺は話を聞くと答えたのだ。最後まで耳を傾けなくちゃならない。
「そういう噂って広まるの早いからさ。あっという間に学年中に知れ渡ったんだよね」
「……わかるよ。俺も経験がある」
本当に不思議だ。
誰かを不幸にするための噂というのは、どうしてああも素早く、まるで這い回るヘビのように浸透していってしまうのだろう?
「いろんな男子に〝噂は本当なのか、だったら俺も〟って言い寄られるし、流した本人に誤解を解くよう頼んでも躱される上、〝むしろ本当に付き合っちゃう?〟とか言われるし。あの頃は一番キツかったかも」
「あいつ、そこまで性根曲がってんのか?」
「あたしん中でも亮介はダントツだよ。もちろん、思いっきり断ってやったけどね」
妙にスカッとした、けれど乾いたような笑い方にずきりと胸が痛んだ。
「でも、もっと最悪だったのは、言い寄ってきた男子の中に奈々美が好きだった相手がいたこと。そしたらあの子の地雷踏んで……さ」
……後のことは想像に難くない。
女子社会というのは一度敵と思われると、相当陰湿な真似をされるからな。
陰口や悪評流しは当たり前、酷い時には実害を与えてくる場合もある。ストレートに感情をぶつける男子より厄介だ。
小百合といた頃、それで一度とんでもない大事に……いや、それについては今はどうでもいい。
「そのあとは、あんたも知ってる通り。いろんな意味でどん底に落ちちゃった」
「……大変だったな」
「もうちょっと上手く立ち回れてると思ってたんだけどね。思ったよりあたし、元々嫌われてたみたい」
仕方がないように笑う晴海だが、一番の問題はこいつじゃなくて噂を流したあの男や、それを簡単に信じた周りの人間だろう。
「晴海、お前は──」
「でもね。奈々美達の言うことも少しは本当なんだ」
間違ってなんかない──その一言が、ひどく重い声音に押しつぶされる。
「結局、みんなと仲良くしようとして失敗したのは自分のせい。誰の前でも笑顔でいればいいなんて……貰えるものが必ずいいものじゃないなんて、少し考えればわかるのに」
「晴、海……?」
重ねる言葉の冷たさに困惑した。
その横顔に浮かんだ自嘲げな表情を斜陽によって生まれた影が助長しているかのようで、無意識に喉が引き攣る。
「でも、楽しくても辛くても、ずっと笑ってることしかできなかった。そうすることでしか、人と繋がれないと思ってたから」
そこで彼女はかぶりを振る。
「ううん、きっと今もそう。もう無理に自分を作るのはやめたはずなのに、いつもどこかで不安がってる。誰かと一緒にいることが、幸せなのと同じくらいに怖いんだ、あたし」
どんどん自分で自分を戒めるように言い続け、ついに俺を見た晴海は──
「ねえ。あんたの見るあたしは、ちゃんと心から笑ってる?」
「っ──!」
──とても痛々しく笑いかけてきた。
求めるようなその眼差しに、決して答えを間違えてはいけないと思った。
まだ晴海のことをほとんど知らない自分が、その答えを決めていいのか──そんな迷いを呑み込み、口を開く。
「……少なくとも、俺が見てきたお前の笑顔も、想いも。本気のものだって感じてた」
「そう、かな。だったらいいんだけど」
「けど、ごめん。正直、全部の晴海がそうだって言えるほどの自信はない」
「……そっか」
包み隠さず、弱音の部分もさらけ出す。きっと肯定だけしても、彼女は気づいてしまう気がしたから。
少し残念そうに眉尻を下げる仕草が、深く心に突き刺さった。
「うん、そうだよね。いきなり変なこと聞いてごめん。今のは忘れて──」
「でも! だからこそ分かるようになりたいとも感じてる!」
必死に止まりそうになる思考を回す。
やめろとブレーキをかける羞恥心を押し込め、勇気を振り絞って話し続けた。
「だから、それまで隣にいさせてくれないか? 晴海の笑顔が、見せかけじゃないって断言できるようになりたい」
「高嶺……」
今はただ、晴海を見ていたい。
もう知っている顔も、まだ知らない顔も、いろんなお前を知るチャンスが欲しい。
せめて、いつか失恋の傷が塞がって、俺なんてもう要らないと思うまででいいから。
そう思い見つめると、固まっていた晴海がほんのりと赤く染まった頬をかいた。
「あ、ははー。まさか、そう返してくるとは……ね」
「言っておくが、勢いだけじゃなくて本気だから」
「……また今日みたいなことがあるかもだよ?」
「その時はまた、精一杯カッコつけてみる」
「いつか、一緒にいるのに嫌気が差したら?」
「あいにく、粘り強さだけには自信があるんだ」
その手の経験だけは豊富だから、そう易々と根負けはしない。晴海を守るためなら何度だって同じことをする。
それくらいできなきゃ、今までこいつがくれたものに釣り合わない……いや違う、そうじゃない。
単純に、お前の側にいたいんだ。
ゴテゴテした理由付けなんて、今更煩わしい。
「晴海は、見せたい自分を見せてくれればいいから。それがどんなものだって、ちゃんと見てる」
「……もう。本当にずるいなぁ」
呆れたように、あるいは根負けしたように、彼女は言って。
次の瞬間だ。
無理やり作っていたような笑顔を消して、いっそ突き刺すほどに真剣な目をしたのは。
「──信じちゃうよ。あんたの言葉」
「──信じてもらえるよう、頑張るよ」
一切の迷いなく頷いてみせる。
確証なんて一つもない、言葉だけの約束事。
だけど少しでも寄り添えるようにと、そう自分を奮い立たせて。
視線が絡まり合う。その一瞬をずっと繰り返すように、長い、長い間。
やがて。
先に目を伏せた晴海が夕日に振り向き、静かに言う。
「あーあ。本当に────今日を、ずっとずっと切り取ってられたらいいのに」
その時浮かべた笑顔は、少しだけ影が薄くなったように思えた。
読んでいただき、ありがとうございます。
評価,ブックマークなどよろしくお願いします。




