小さな願いを胸に秘め
心のどこかで、いつも考えていた。
果たして俺は、小百合の隣にいていい人間なんだろうか?と。
少なくとも、俺にとって小百合は誰より一緒にいたい相手だった。
尊敬する友人で、初恋の女の子で……ならば小百合からすれば、俺という存在は必要だったのか?
七年も一緒にいて、たった一言「俺のことをどう思ってる?」と聞くだけの覚悟が、俺にはなかった。
だって、怖いじゃないか。
もし自分との時間が、相手からすれば何の意味も──。
「──高峯?」
「っ!」
名前を呼ばれて我に返る。
すると、引いた波が寄せて返るように空白のようだった意識へ、周囲の喧騒が流れ込んできた。
人で賑わう、休日のショッピングモール。
フードコートの一席に座る俺の前には、心配そうにこちらを見る少女が一人。
「ぼーっとしてたけど、大丈夫?」
「……あ、ああ。すまん、ちょっと考え事してた」
「そう?」
晴海がテーブルの向こうから身を乗り出して、俺の額に手を当ててくる。
やや露出多めの私服姿が間近に迫ってドギマギした。
「ん、本当に体調不良とかじゃなさそうだね」
「悪い、デート中なのに考え込んじまって」
「それは別にいいけど」
俺としたことが、せっかく一緒にいるのにデリカシーに欠けていた。
「それで、映画の話だったっけ」
「そうそう。あたし的にはすっごくよきだった。もう超感動しちゃったの」
「ああ、俺もすごく面白かったよ。完成度の高い作品だったと思う」
今日観てきたのは、いわゆる恋愛映画だ。
少し気弱な少年と、孤独を抱える少女が織りなす青春ラブストーリー。
緻密なストーリー構成とキャラクターの掘り下げが上手く、引き込まれる一作だった。
「特に主人公がヒロインの抱えてる苦悩を知って、友達として自分が支えになれるよう強くなるって覚悟したところはグッと来たな」
「そこ、すごく良かったよね! 思わず頑張れって心の中で応援しちゃった!」
「晴海はどのシーンが一番良かった?」
「特にキュンとしたのは告白のシーンでかな〜。主人公が最初にヒロインと仲良くなったきっかけの小説に、しおりをラブレターにして挟んで渡したやつ。もう、エモ〜!ってなったよね」
「あそこも良かったなぁ」
随所に散りばめられた恋愛描写が特に秀逸だったのが印象に残っている。
誰にも頼らず一人で頑張り続けていたヒロインの気丈さに魅了され、彼女に寄り添いたいと奮起した主人公に心動かされた。
「それに、晴海のちょっと珍しい顔も見れたし」
「珍しい顔? あたしそんな変な顔してたっけ?」
「映画の中盤頃で主人公とヒロインの関係がこじれたあたりだっけ。確かあそこらへんで……」
「ちょ、待って待って。それ、もしかして……」
「晴海、涙ぐんでたな」
先程ドキドキさせられた仕返しに、意地悪げな顔で言う。
すると瞬く間に白い頬を朱に染めた。
「わーっ、やっぱ見てた! あれは忘れて! ガチ泣きしてたから超恥ずい!」
「なんでだよ。本気で感情移入してて、心から楽しんでるんだなって思ったけど」
「あたし的にあの顔を彼氏に見せるのはアウトなの! うー、絶対メイク崩れてたし……」
手で顔を覆う姿が可愛らしく、少し笑ってしまった。
……そう。本当に良い映画だった。
晴海ほどじゃないけど、二人の恋模様に感動して、ハラハラして。
気がつけば二時間が経過していて、終わった後には心地良い余韻が全身を満たしていた。
文句なしのハッピーエンドだったと、心からそう思う。
(思わず、羨ましくなってしまうくらいに)
「……ねえ、高峯」
「ん? なんだ?」
「何か、悩んでる?」
一瞬前の赤面はどこへ行ったのか、真剣なその眼差しに小さく息を呑む。
「……どうしてそう思ったんだ?」
「だって、なんか寂しそうな笑い方してるから」
その言葉は、完全に意表を突いてきた。
少しの間固まった俺は、やや硬い口調で聞く。
「俺、そんな顔してたか?」
「ちょっとね。深刻そうなら相談乗るよ? ほら、人に話すと解決策が見つかることもあるし」
「っ……」
心の中で自分を叱咤する。
さっき反省したばかりなのに、またやらかした。どうやら俺は内心を隠すのがとことん上手くないらしい。
「大丈夫。そこまで大袈裟なことじゃないから」
「そう?」
「ああ。ただ少し思ったんだよ、あの二人みたいになりたいなって」
下手に全てを隠すと心配を残してしまいそうなので、そう口にしてみる。
「あの映画の主人公とヒロインのこと?」
「そうそう。二人はいろんな出来事の中で、一緒にいてお互いがいい影響を与え合ってただろ?」
「あー、確かにね。相手の足りないものを補い合ってたって感じ」
個人的な見所の一つとして、主役二人の関係性の構築に目を惹かれた。
絆を深める中で、優柔不断だった少年は自分にとって一番大事なものを選ぶ勇気を少女にもらった。
そうして応援してくれた彼の存在を支えに、少女は小さい頃からの自分の夢を貫いていく。
対等な二人の姿が、とても眩しく感じたのだ。
「自分の行動が、あるいは存在そのものが相手の支えになる。それは人間関係の一つとして、きっと理想的だ」
「もしそうなれたら、すごく嬉しいんだろうね」
「ああ。本当に」
そんな関係性を実現することができたなら、どれだけ素晴らしいだろう。
焦がれるようなこの気持ちは……自分が届かなかった関係性への嫉妬からくるものだった。
「本当に……どうやったら、なれるんだろうな」
「……高峯?」
ハッと沈みかけた顔を上げる。
怪訝な顔をしている晴海に向け、できるだけ明るい笑顔を取り繕った。
「なんでもない。とにかくそれだけで……」
少々強引に話を断ち切ろうとして。
俺を見る彼女の瞳の色に、紡ごうとした言葉がどこかに消えた。
「本当に、それだけ?」
「……本当に、って……何がだよ」
胸の内まで直視されるような雰囲気にたじろぐと、晴海は静かな声で言う。
「あたしの勘違いならいいよ。でも、高峯は今、無理矢理何かを飲み込もうとしてない?」
「っ」
図星だった。
心の奥底に沸いた醜い感情。
ずっと前からあって、けれど考えないようにすることで芽吹かせずにいたもの。それを晴海に知られたくなくて、俺は誤魔化そうとしている。
「どうしても嫌なら、言わなくてもいいよ。だけど」
「……だけど?」
「できればあたしは、高峯の苦しんでるものを知りたいな」
寄り添うような言葉だった。
柔らかい表情で、慈愛に満ちた眼差しで、ただ受け入れようとしてくれるかのような。
俺は、何を言えばいいのか分からなくて。
この秘め事を全て打ち明ける勇気もなく、しかし彼女の好意を無為にすることもできずに。
「……分からないんだ。どうやったら、誰かと対等になれるのか」
結局、中途半端な答えを示してしまった。
「ずっと、人に何かをしてあげられる人間になりたかった。そういう姿に憧れて、追いかけて……いつか自分も、って」
「うん」
幼心に憧れた勇姿に追い付きたくて、努力して、努力して。
どれほど望んだだろう。小百合の隣にいても胸を張れる完璧な自分を。
あいつが俺にくれた目標や、時間に釣り合うものを、ずっと返せるようになりたかったのに。
「全部なんて言わない。一つだけでいい。そいつの支えになることができたら……でも、そうなれなかったから」
だから分からない。
何をすれば、どんな自分になればあの関係を作ることができるのか。
大切だった人はいつも一歩先にいた。いくら追いつこうとしてもその距離が縮まることはなかったのだ。
「これからもそうだ。俺は……あの主人公みたいに、隣にいる人を笑わせてあげられるのかな」
「……そっか」
ぎゅっとテーブルの上に置いた拳を握る。
何を言ってるんだ、俺は。よりによってデート中にこんなことを話すなんて。
「んー、確かにそれってすごく難しいことかも。誰かの支えになるって言っても人によって求めてるものって違うし、ちゃんと応えられるかも分からない。相手が一つも欠点が見当たらないような人なら、なおさらだよね」
「……かもな」
端的な内容だったが、察しのいい晴海のことだ。何の話か理解してくれたのだろう。
一つ一つ言い聞かせるように重ねられる言葉を、否定される恐怖に怯えながら聞き届ける。
「でもね。高峯が一つも何かを返せなかった、なんてことはないと思うよ。だって、あたしがそうだったから」
「え?」
思わず顔を振り上げる。
目を丸くして晴海を見ると、「やっと目が合った」と笑って俺の手を自分の手で包み込んだ。
「ね。覚えてる? カラオケの時、あたしの手を握ってくれたこと」
「そりゃ、覚えてるけど。でもそれが?」
「あの時、すごく安心したの。耐えられないくらい辛くて、苦しくても、それを自分の中に閉じ込めとかなくていいんだって」
まるで、凍えきった心を溶かすように。
晴海の声は、周囲の騒がしさをくぐり抜けて俺の耳へ直接届いた。
「高峯の手を握る度に、あの時のことを思い出して心があったかくなるんだ。今のあたしは一人じゃない、この手が隣にあるって」
「……俺の、手が」
そんなふうに思ってくれてたなんて。予想外の話に呆気にとられてしまう。
「それとね。実はあたし、自分の写ってる写真撮るの好きじゃないんだ」
「えっ、そうだったのか?」
「うん。昔、鏡の前で無理やり笑う練習してたの思い出しちゃうからさ」
眉尻を僅かに下げて語られたそれは、きっと大門先輩と出会う前の話だろう。
しかし、すぐに違和感を感じた。
「でも前に、プリクラを……」
「そ。高峯と一緒ならいいかなって。一番悲しいことを打ち明けたあんたの前なら、なんにも気にせず普通に笑えるかも。そんな風に思ったら不思議と怖くなかったの」
本当に嬉しそうな表情は、それが気休めの言葉ではないと思わせる。
俺が、晴海に影響を……いや、そんな大それたことできるはずが……
「少なくとも、あたしはそういうものをもらったよ」
「っ!」
「知り合ったばっかのあたしには、あんたがどんなに悩んで、苦しんできたのか、全部は理解できないけど。それでもね……」
困惑する俺の手をしっかり掴んでくる。
曇りのないその目にすっかり魅入られていると、この後悔ごと包み込むように言うのだ。
「あたしにとってのあんたは、そういう人間。これだけは絶対に本当なの」
新鮮な言葉だった。
力強く、疑う余地などないほどに真っ直ぐで。だからこそ心に直接響いてきた。
「だからさ。できなかったことを悔やむより、できることを探していかない? その方がずっと楽しいと思うんだけど」
「……そう、か。そうかもな」
「うん。絶対そうだ」
いつの間にか、気持ちが軽くなっていた。
ふっと暗澹たる気持ちを吐き出すようにため息をついて、笑顔を返す。
「ありがとう。こんな話に付き合ってくれて。それに、俺のことをそう思ってくれてたことも」
「ふふっ、別に本当のことを言っただけだし?」
からかうように、でも優しげに笑う晴海。
そんな彼女の手を、固めていた手を開いてしっかり握った。
「だったら、これからもそうあれるように頑張るよ」
「ん。でも無理はしないこと! いい?」
「ああ、わかった」
ああ。なんて強い女の子なんだろう。
この子の隣にいてもいいと、思えるようになりたいな。




