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免罪符(後編)

作者: Ln_Metal

15.海上生活

 船を住処にしたのだから、家にいながらどこにだって行ける。船窓を通せば旅行でさえ

自由自在なのだ。船の中はとても快適だった。働きに出て人と交流し物を作る事は、自分

の創作物が出来た分だけ有意義ではあるけれど、僕の目の前にいる人間が必ずしも、その

交流の成果を、ましてや目の前の人間を、あるいは僕を見ているとは限らないのだから、

彼らの意識が留守の時は、こうして僕は船に閉じこもり、船窓から世界を覗いていたって、

大した差ではないのである。

 船の家で魚釣りをしてみる。

 一日中糸を垂らせば、経験のない僕でも多少は釣れる。しかし一日分の食糧にも満たな

い数であった。最初は竿が一本しかなかったので、二本に増やして、固定台を作った。釣

果は二倍とまではいかないが、一本だけの時よりは増えたので、何日か続けてみた。やは

り釣れる魚は一日分の食糧にも満たない数であった。足りない食糧は陸に上がって買うし

かない。魚だけで生活できる訳でも無い。

船の家を動かして、別の場所で釣りをしてみる。今度は種類の違う魚が釣れた。違う魚が

釣れたとは言え、その量はやはり一日に必要な分には満たなかった。

 今度は網を仕掛けてみる。色々な種類の魚を期待していたが、捕れたのは海藻や小魚、

小さな蟹などであり、一日に必要な分には満たなかった。

 次々に場所と手法を変えながら漁った。けれども収穫は僅かであった。この近辺では漁

だけで生活をする事は出来そうにない。

 今度は農産物を育てようとした。唐辛子やトマトは出来たが、いずれも小さな実だった。

栄養の少なそうな土地であり、日照もすくない。主食になりそうなものはうまく育たな

かった。

 何も生産する気がなくなったので、船の家で周囲の海を探索してみた。陸を左手に見な

がら進んでみると、一日で一周してしまった。洋上から見渡すと、ここが存外小さな島だと

今さら知るのだった。仕事を辞めるきっかけとなった、あの一週間の航海と比べても、さ

らにスケールの小さな周回。

 どこにでも行けるが、どこにも行けない僕の船の家。希望であったはずのその家は、

途端に大きく燃料を消費するだけの、図体のでかいお荷物に感ぜられるのだった。

 お荷物とはいえ、財産価値のある家だ。壊して沈めるわけにはいかない。手放せば身軽

になるけれど、元の値段では売れそうにもない。確定的な損失が出れば僕は破産する。

 そうこう思案しているうちに僕の下に借り手が現れた。借り手は「向こうの島から来た」

とだけ言って、契約書と借り賃を僕の持っている端末に転送してきた。

 とりあえず、家を買うための借金を相殺して、別の場所でも生活できる程度の貸し賃は

得られそうだ。僕は迷ったが、結局その人に貸すことにした。

 

16.暗い雪

 船の家はもうここに泊めたままにしよう。借り手も見つかったことだ。

 僕が波止場のビットに太いロープを巻き船の家を係留すると、家はそのまま岸に接合して

一体となってしまった。さようなら僕の家。

 真っ暗な海辺を歩くと、小さな祠があった。波の侵食で洞窟になっている。引き潮の今、

足もとの岩場が露出している。僕はその中に歩き入った。僕の自我に空いた穴の様だ。

 祠の中には白い衣を頭から被った女性が立っていた。手持ちの燭台を僕の方に向けている。

「この先に希望の大陸があると言います。行けば戻れませんがよろしいですか。」

 白い衣を纏った燭台の女は、僕には戻る道がないのを知っているのだろうか。

「奥の扉の向こうに、舟があります。」

 何も聞かぬ前から、そう言った。

 舟を使っても良いか、僕は白い衣の女性に尋ねようとした。

「お気持ちだけ、いただければ、どうぞお使いください...」

 またも僕が尋ねる前に答えた。

 だけどれも、せっかくの申し出なのに困った。僕には、何も持ち合わせがないのだ。

 ...いや、ひとつだけある。福引で当てた温泉宿泊券2枚の片割れの1枚が、まだ鞄の

中に。果たしてこんなもので良いのだろうか。

 券を差し出すと白い衣の女は、代わりに読めない字で書いた紙きれを1枚、僕にくれた。

旅の途中で、最初に月が見えたとき、海に浮かべてくださいと

 舟は自由に使って良いとの事、また、舟はここから出ていくためのものであって、

帰るためのものではないという事も言いながら...。

 

 すでに選択肢が一つしかない状態での決断にどう言った呼び名があるのか分からない。

戻る術がないのに、決断と言えるのかも分からない。

 だけど...。

 行こう。

 祠の奥の扉をくぐると、小さな、そこだけの小さな波止場に小さな舟が放置されていた。

 船の家の様に食料保管庫なんて付いていない。

 嵐にでも会えばひとたまりもない小さな舟。

 だけどこれに乗ろう。船の家はもう洋上移動の機能を失った。人に貸すことにもした。

 定住の場所はもうここにはない。

 小さな舟を押すと、自分の意思で動くかの様に、木の葉よりも軽く水を掻き分け

 前進した。

 

 ―この舟は、お前が乗るために造られたものだ―

 直感以上の声が聞こえてきた。カモメにぶら下がり、青い風に揺られて聞いたときの、

 あの声だろうか。

 

 いざ舟出せと

 波はまてり

 うつつに見ゆる 甍雲の

 迷いの御子は 衣果てて

 月見に沈む 空にも言えど

 

 詩に合わせ、西洋音楽の様な旋律が聞こえてきた。野ばらを持った美しい少年の声で、

晴れた閑静な庭に、少年の姿はあちこちに現れては消える。

 苦いけれども甘美な旋律。氷に舌を這わす時の様な麻痺した味覚。雲越しのおぼろげな

月の光。

 気が付くと雲はすっかりなくなり、細い下弦の月が海から上がってきた。

 僕は祠にいた白い衣の女からもらった紙切れを海にそっと浮かべた。舟が青い光で包まれた。

何が起こったのかは分からない。けれども、月を照らす様な神秘的な光だった。


 鳥の足の様なオールを動かし、消波ブロックの外に出て振り返る。港町の景色に

船の家はもうすっかり溶け込んで、見分けが付かなくなっていた。

 未明の世界を航海する。

 冷たい月の光が細く筋を引いて、空に裂け目を作っていた。月は夜の無限性を主張して

いるかの様でもあり、そうでありながらも、夜の終わりを告げるために上ってきた運命を

免れ得ない、定まることのない居場所を語っているかの様であった。

 僕は月を追いかける。冷たい夜の風が、耳に、目に突き刺さる。暗がりの庭に積もった

夜明け前の雪を、肺に吸い込んだ様な気分。死の冷気が胸を突き抜ける。雪は僕の外から

やってきたものでありながら、肺の中で主観的な恐怖を凍りつかせる。 恐怖は確実に僕の

背骨の周りに、圧縮された感情として固着しているけれど、それは流動を失った結晶である

ため、僕の手足を奪い、引き返そうとためらう事はしないのだった。仮に、僕の一生が

雪の様に堆積する無知だったとしても、溶けない雪なんてないのだ。ただ、それが僕の

生きているうちかどうかは分からないけれど。

 「自分をしっかり保ち、決して見失わないで下さい。」祠にいた女は出帆の際に

そう言っていた。僕はただその言葉を反芻しながらたい風に耐えていた。

 この先何が待ち受けているのだろう。

 

 航海が続いた。

 ある朝、美しい朝、明るく透き通る風の朝、小さな舟の上で子供が生まれた。

 妻は僕の子供を身ごもっていた。船の家に住んでいた束の間にできた子供だ。

 ゆりかごになるはずだった動く家はもうない。今はこの心もとない舟がその代わりと

なったのだ。悲しく濡れた雲も今は乾いて、心地よい祝福として僕と妻を、なによりも

この子をこそ包んでいるけれど、今の、僕に感じられるのはそこまでだった。いやそれで

十分であるのだろう。

 生まれたての赤ん坊を抱きかかえて妻が言った。

 「この子は体が透き通っているわ。宇宙の暗闇の様に黒く透明で、心臓の部分で銀河が

渦を巻いている。暗闇の部分には無すらないのかもしれない。」

 もう次の世界どころか、その次の世界も見えているのが、この渦なのだろうか。航海の

疲れが襲ってくる。僕は次第に眠くなっていった。もう目を開けられない。瞼の裏には

遠くに渦が見えて、僕は次第にそこに近づいていく、とても強い重力。魂のふるさとなんて

あるのだとすれば、それは旅の末に星となった、ひとつのサンダルの望郷の念が、自ら動く

こともできないほどに老いてから、小さな仲間を求めて、ありとあらゆるものを呼び集める

遊びの招集なのかもしれない。

 僕の意識は遠のいていった。

 あとは子供たちの世界だ。


17.果ての島(1)

 石ころだらけの海岸で、僕は目を覚ました。波に合わせて洗濯される様に丸い石が音を立てて

寄せては崩れていく。石のなかには黒水晶や石英が混ざっており、漆黒に美しく濡れていた。

 体が動かない。僕はようやく首を動かすと、小さな舟が大きな石ころの上に乗り上げて

おり、舟の中で眠る妻に抱きかかえられたまま赤ん坊が泣いていた。

 僕は、妻を舟からおろし、赤ん坊を抱き上げると、すっかり壊れて直すこともできなく

なった舟を燃やし、暖をとった。煙が立ちのぼり青い光が僕と妻と赤ん坊とを包んだ。

 その場所で再び寝て皆で朝を待った。

 朝が来た。海を背に見上げると小高い山が見えた。この島には誰かいるのだろうか。探してみよう。

 山頂に上ると、油の出る実がなっていた。人はいない。僕と妻はその実を食べた。疲弊

した体には甘く感じた。妻はそのあと赤ん坊に乳をのませた。

 ふもとを見渡すとあちらこちらから光が立ち上っていた。僕らは山をくだり、湧きいづる

その一つのひかり溜まりに足を浸した。温泉の様に暖かい。周りには誰もいない

ので、三人で裸になり、久しぶりに体を洗った。

 服も千切れてボロボロだったが、ほかに着るものもないので、体を洗いながら光の中で

洗濯をした。すると、背中に明いた穴や袖の汚れがなくなった。今しつらえたばかりの

様な、白くはためく、大草原に無数に干されたシーツの様な、いつまでも風を数えるだけの

物言わぬ抱擁であった。ただ衣服がそこにあるというだけで、大きな安堵があった。

 旗に包まれる様に服を着て、小高い岩に立ちあたりを見たわすと、遠くに橋げたの道が見えた。

きっと人が住んでいるのだろう、きっと。

 道の方を目指して歩いた。途中で渡れないほどの断崖があり、大きく迂回しなければならなかった。

僕と妻は交代で赤ん坊を背負いながら歩いた。途中で妻が疲れを訴えたので、野宿をした。

草むらに寝転がると、光で洗った服がテントの形になり、そのまま眠れるのだった。妻は

赤ん坊を抱きかかえたままテントの中で寝た。光溜まりから届いた光が月を照らしている様だった。

 あくる朝起きると、皆の服はきれいなままであった。草の汁すらついていなかった。

 僕は自分の体が重さを失っていることを認識した。妻にも、同様のことが起こっていないかを

聞いてみたが彼女は困惑した顔をしたまま、答えなかった。質問の意味が通じていない様だった。

 僕は足になにも履いていなかった。妻もまた同じであった。草の上で足を動かすと、思っただけで

前に進んでいった。交互に動かす必要すらなく、見えないスケートが僕を運んでくれた。馬が一生の間に

駆ける距離だって、目を閉じて深呼吸をする間に進むことができそうだ。だけど僕は、ゆっくり

着実に歩く速度で、草の上を滑空していくのだった。

 橋げたの道を目指して歩いた。欄干にもたれかかる様に人が立っている。その人は半分透明で、

動くと姿を現し、止まると完全に消えるのだった。

 島の人「おや、完全な姿の人だ。久しぶりに見るな。あなたはここにきて間もないのでしょうね。」

僕はうなづいた。変なことを言うなとは思うけど、それ以上に状況が凌駕していて、気にしても

仕方がなさそうだ。

 僕「ここについてまだ三日目だよ。この島では温泉が沸くんですね。昨日三人で入ってきました。」

 島の人「温泉。あの、光る池のことですか。よく生きていましたね。」

 僕「暖かくて、気持ちよかったよ。」

 島の人「体に何か変化はありませんでしたか。」

 僕「宙に浮くぐらい軽くなった。重さがないみたいだ。」

 島の人「これはこれは!あなた、僕たちの仲間ですね。この島では、初めてやってきた

人には、島人になるため、あの温泉に入ってもらうのが習わしなんですよ。それをあなた

方は、自ら進んで入ってくださったのだから、なんと申し上げてよいのやら...いえ、お礼

というわけではないのですが、なんだかうれしいな。」

 何のことか分からないが、嬉しいと言っているから、そうなのだろう。

 「それじゃ、急いでいるので。」と僕は立ち去ろうとした。急いでなんかいないのだけれど

もうすこしこの島のことを探索して見たい。

 島の人「まってください、せっかちだな。」

 僕「何の用ですか。」

 島の人「もう一度、その温泉に行ってきて欲しいのです。以前、あの中に、僕の身体を

落としてしまったのだけれど、僕はもう身体を無くしてしまって、取ることができないんだ。

あなた、取ってきていただけませんか。」

 僕「もどるのもおっくうだ。」

 妻が言った「まあ、いいでしょう。行ってあげたら。」

 島の地理も分からない僕は、反復学習もかねて、もう一度温泉に行くことにした。

 サンダルを履き、浮かび上がり、低空飛行を始めた。昨日入った温泉に戻る。まっすぐ目指すと途中で断崖があった。

また迂回しようとする僕を妻が止めた。

 「こんな断崖、越えられないよ。」僕の言葉に妻は首を横に振った「できるわ。もうその崖の

ことは知っているでしょ。」

 僕が助走をつけて断崖に飛び込むと、サンダルは空を飛び体は落ちなかった。妻もあとから

続いた。やはり体は落ちなかった。妻が抱えた赤ん坊も落ちなかった。

 橋げたの道までかかった時間の半分もかからずに、光り溜まりの「温泉」に戻ることができた。

 「温泉」の中を覗くと、深さ十メートルはあるだろうか。底の方に男の身体が沈んでいた。

死んでいる様に見える。

 

18.果ての島(2)

 僕は男の身体を引き上げるために、ロープを探した。無い。

 僕は、皆の着ている服を脱ぎ、切り割いたものを結ぶことを提案した。妻が拒否した。

死体を持ち上げるために服を使われるなんて、嫌だとのこと。

 ならば、石ころをたくさん放り込めば、光のお湯があふれて、代わりに男の身体が浮かんで

くるかも知れない。思いついた通りやってみたが、途中でやめた。労力がかかりすぎてやって

いられない。そういえばコインで埋めつくされた噴水なんてみたことがない。

 どうにも男の身体を引き上げる術がない。僕はその場に座り込み、サンダルを脱いで

足の裏についた砂を洗い落とした。サンダルも洗おうとしたところ、温泉の中に両足とも

落としてしまった。軽いから浮かぶだろうと思っていたが、サンダルは温泉の中に沈んでいった。

 この温泉の光には重さがないのだろうか。あらためて光を手に取り掬い上げてみると

何の重さも感じなかった。ただ、大きな水たまに手を浸した時の様な、粘性に手を引き込まれる

濡れた感触があるだけだった。

 サンダル温泉の底まで到達すると、男の両足に収まった。無色の光り溜まりが青に変わり

男をの身体を包んだ。ほどなくサンダルとともに男の身体は浮かび上がってきた。

 僕はサンダルを回収すると、自分の足に装着した。男の身体を背負って、サンダルで滑空

した。少し重いのか、サンダルは大きく上下を繰り返しながら、何とか宙に浮かんだまま

前に進んで行った。

 

 男の身体の依頼主である、果ての島の人の所に戻った。温泉で拾った彼自身を渡す。

 島の人「やあ、ぼくの身体だ、ひさしぶりだな。こんな顔だっけ?もう忘れてしったよ。」

 僕「真新しい感じがする。死んでいるとは思えない。」

 島の人「え、死ってなんですか、それ。聞いたことない言葉だな。」

 僕「死ぬと、人間は動かなくなるんだ、放置しておけば身体が腐敗してなくなってしまうよ。」

 島の人「じゃあ、どうやって身体を取っておくんですか」

 僕「死んだ身体をとっておく人なんて、ほとんどいやしないよ。ミイラにでもしないかぎり

普通は、焼くか、土に埋めるかだね。鳥に食べさせる事もあるらしいけど。」

 島の人「不便な世界もあるもんですね...いや、そんなことよりどうですか、あなた、僕になりませんか?」

 僕「なにそれ、いやだな。」

 島の人「遠慮せずに。この身体はいずれ、何かの役に立ちますよ。」

 僕「いやだってば。」

 島の人「いいえ、あなたに差しあげます。元は僕のものだけれど、もう僕には戻る事が出来ない

ものだ。それに使い勝手だって悪くはないんですよ。」

 僕「持ち運びが大変だ。ここまで持ってくるのも大変だった。」

 島の人「じゃあ、この袋に入れてください。」

 島の人は、ビニール袋を取り出すと、僕に手渡した。ゴミ袋みたいだ。

 島の人「もし要らなくなったら、それを村の広場にある火の井戸にでも放り込んでください。」

 僕「欲しいなんて言ってない。」

 島の人「お願いしますよ。後生だ。」

 僕はしかたなくその人の身体を受け取った。生きてもいないが、死んでもいない身体。

人形というよりは人間そのものの身体。だけどこんな物体は僕じゃないし、もちろん

この身体を使う気なんてない。第一どうやって、身体を取り替えて彼になれるんだろうか。

 島の人「僕になる方法?簡単ですよ。僕の身体の写真を撮って、写真の中の僕にとび込めば

いいんです。」

 僕「さっぱり意味が分からないね。」

 島の人「やってみることですよ。そうそう、僕の身体は色々な人を経由して使われて

いるから、この島ではちょっとした有名人なんだ。」

 僕「写真を撮って、その身体に飛び込むって?それができたとして、この温泉から

拾ってきた実物の身体はどうするんだい。」

 島の人「どこかにかざっておいてください。食卓の上でも、廊下の壁でも、まあトイレでも良い。

とにかく大事に扱ってくださいよ。釘で柱に打ち付けたりしない様にね。」

 僕「気持ち悪いな」

 島の人「慣れですよ。」

 僕はあきれてものも言えなかった。

 妻「行きましょう。せっかくだから、もっていけば。」

 妻に説得されて、僕はそのゴミ袋を担いで、サンダルを履き、滑りだす様に出発した。

 

 (出発の際に、島の人「火の井戸は、輝く街の中央にある高い山の頂にありますよ。」)

 

 サンダルで低空飛行すると、目の前に二つの坂が現れた。

 看板には、「↑上に行く坂」「↓下に降りる坂」

 妻は言った「もう下に行く必要はないでしょ。」

 僕は今や、文字通り身軽になったのだ。こんな体で沈んでいく世界なんて見当たらない。

 上に行く坂を選ぶ。サンダルは上り坂でも、僕の意思に答えて、軽やかに上昇を始めた。

 

 坂の途中に看板があった。「この先↑ §輝く街§ 」

 

19.果ての島(3)

 坂の中腹で休憩する。木の柵で囲まれた小さな集落があった。

 外訪者が珍しいのか、村の人たちが寄ってきた。

 村の人「やあ、僕だ。」 村の人「やあ、僕だ。」 村の人「やあ、僕だ。」

 みんな、その男の身体だった人たちらしい。皆、同じ声、色、形、背の高さをしており、

僕には全く見分けがつかない。

 村長らしき人がやってきた。履いている靴が少しだけほかの人と違い、背が数センチ高く

見えるが、大した差ではない。

 村長「あなた、我々の代表者になってきれませんか?ここでは外訪者が長を務めるのが

しきたりなんです。いえ、代表ではなくて、王様でも、皇帝でもいいですけど。好きな名前

を付けていただければ結構。」

 僕「僕はこの村の人間なんかじゃないよ、大体、なんの筋合いがあってさ」

 村長「あなたは、光る温泉に入られたではありませんか。その身体は我々を経由した

共通の身体だから。我々のものでもあるし、象徴でもあるんです。なにしろその身体を

お持ちであることが、我々の仲間である何よりの証拠。」

 僕「このゴミ袋の中身の事ですか?」

 村長「その通り、我々に認められた証拠です。私でもある。」

 突然の無理難題に、僕は断ろうとした。しかし、たくさんの同じ姿をした彼らに取り囲まれて

しまい、一斉同口にせがまれるのだった。そこで懐柔策として、僕は男の身体を村の広場に飾る

事にした。しばらくこの村に慣れ親しんだら、皆さんの代表になりましょうと説明を添えて...。

 変な状況になってしまったが、僕はしばらくこの村に滞在することにした。村人に聞くと

輝く村はここからはとても遠いらしい。旅の支度もしないといけない。着ているものだって

布一枚だけだ。

 村の空き家を借りて数日過ごした。水道やベッドはあるけど、生活するためには、衣食に

加えて、電灯ぐらいは欲しい。村を歩いて店を探した。

 しかし、店は一軒も見当たらなかった。皆どうやって生活しているのだろう。村の人に

聞いてみたところ、ここでは、何でも考えるだけで充分だという答えだった。良く分からない

のでもう少し聞いてみたところ、やってみてくださいとの返事。

 この村では思った事がすぐ形になるのだ。

 僕は試しに、以前よく着ていた衣服と、妻とよく食べていた食べもの姿を想像してみた。

すると目の前にそれらが現れた。着ることができたし、食べることもできた。ちゃんと

それらを得ることによる満足感もあった。

 借家に戻り、部屋の内装を想像すると、カーテンやじゅうたん、電灯が現れた。質素だが

生活動線を邪魔しない、使いやすいものだ。妻も満足した。赤ん坊用のベッドも想像して

作る事ができたのだった。

 衣食住の心配がなくなった僕は、村人との約束を果たすことにした。男の身体を村の広場に

飾るのだ。僕は玄関に置いておいた男の身体をゴミ袋から出し、広場まで台車に乗せて運んだ。

台車ももちろん僕が想像したものだ。

 広場についた。さてどうやって飾ろうか。飾るといっても、ある程度ポーズをつけないと

見栄えがしない。動かない身体だけに、座っていたり、寝転んでいたりしたら、それこそ

死んでいる様にしか見えない。では立たせようか。

 僕はとりあえず、垂直な棒を想像した。棒が現れた。今度はロープを想像し、そこに男の

身体を結わえ付けた。男の身体は首と腕が垂れ下がったまま立っている。

 せめて立っている人間と同じになる様に、腕と首を結ぶ場所が必要だ。僕は、先に現れた

棒と直角に、両腕を固定するための水平方向の棒を想像し、作った。二つの棒は、ほぞで嵌合

しており、動かない。僕は男の両腕をその水平な棒に、首を垂直な棒に、ゆるく結び付けた。

首が完全にしまっていると、生き返った時にまた死んでしまうかもしれない。

 村人が何人かやってきた。僕が棒に飾り付けた男の身体を見ると、皆、ため息をついた。

立派ではあるが、残酷だというのた。全員同じ事を言うのだった。

 では、男の身体のロープを解き放てば良いのか。僕が皆に問いかけると、今度は、せっかく

持ってきた男の身体が、またどこかに行ってしまっては大変だ、と皆が言った。

 これではどうにもしようがないので、僕はそのまま男の身体を棒に結び付けたままにした。

男の身体は夜の霧に濡れた。

 あくる朝、起きてみると騒がしい。

 どうやら、旧村長と、新村長の候補である僕への交代めぐって、村が二つのグループに

分かれて争いを始めたらしいのだ。しかし、皆、同じ声、色、形、背の高さをしており、

僕には見分けがつかなかった。

 皆が僕に問い詰めた。「継ぐ気はあるんだろ?」「いやないよな?」

 二つのグループとは、「言うだけ」の人たちと「やるだけ」の人たちである。

僕がその二種類の人間しかいない群衆をかき分けて進むと、皆、ファスナーの様に僕の前で

二手に分かれて行った。

 「言うだけ」の人とは、とにかく、継承の儀式を重視して、村の外からやってきたものが

たとえ木や石ころであっても、村長という名前が何かにつけられてさえいれば、良しとする

立場の人達。昔は本当に井戸や果樹の事を村長と読んでいた時期もあるらしい。もっとも彼らは

井戸から水を汲まないし、果樹になる果実をもいだこともない。ただ見ているだけである。

 「やるだけ」の人とは、とにかく、儀式の是非はともかく。村を唯々存続させる事のみを是とする

グループだ。今の自分たちや、これからの村のありようは度外視して、とにかく存続のみが必要である

とする立場の人達。彼らは、井戸が村長であった時期には、井戸から水を汲み、果樹が村長で

あった時期には、果樹から果実をもいだ。しかし、彼らは水を汲んだ直後に井戸のことを忘れ、

果実をもいだ後にはもう、果樹の事を忘れていた。井戸の水がどこからやってくるとか、果樹が

水を吸い上げていつごろまた果実が成るだろうとは、考えたこともなかった。

 どちらのグループの話を聞いても、「村」のイメージを維持することに熱心ではあるが、

その体現である、肝心の自分というものがどう在りたいのか、という事がさっぱり伝わってこない。

 例えれば、紙についた染みを表側からどう見えるのか、裏側からどう見えるのかというだけの違いを

諾々と述べるだけであり、紙そのものの存在を見ても考えてもいないという事だ、紙のない所に

染みはつかないのに。

 最も、彼らのその認識も理由のないことではない。

 この村では、光る雨粒が特産である。雨粒といっても、水ではなく、水晶の様に透明な塊であり、

触れるとその場で跡形もなく消えてしまうものだ。だから、その光る雨粒がどれだけ空から降ってきても、

村中が雨粒で満たされることは決してない。

 雨粒が消える瞬間は誰もみた事がない。消える瞬間だけ時間が存在しなかったかの様に止揚し、

その雨粒があったことすら忘れてしまうからだ。だからその村の地面はいつまでも乾いたままである。

雨に濡れるという意味も単語もないから、雨に濡れた地面という言い方も、この村にはない。

雨が降った記憶はあれども、その結果として濡れた状態はだれも見たことがないのだ。

 だから全員、井戸には水があるものだと信じているし、果実にはたくさんの水分が含まれている

ものだと信じている。

 

 「村の継承について、あなたはどう思うのですか。」

 ファスナーの様に別れた群衆が、皆同じ事を言いながら僕に詰め寄る。

 もちろん僕は村を継ぐ気など全くない。だから棒に結び付けてある男の身体へ、おもむろに

手をあてて、目を閉じ、しばらく黙とうを行った。村の人たちも僕の様子を見て、

一緒に黙とうを行った。

 その隙に僕は広場を抜け出し、この村で借りている家に戻って扉に鍵をかけた。

 雨戸も閉め、家のなかは真っ暗になった。窓に黒い髪を貼って灯りもつけず、一切光が

漏れない様にした。ぼくの脱走にしばらく外は騒がしかったが、昼になる頃にはうその様に収まった。

壁に耳をあてながら聞いた足音や会話から判断するに、昼飯を食いに皆、めいめいの家に

戻った様だ。そのまま広場は静まり帰り。男の身体を結んだ棒が風で揺れる音と、井戸の底に

小石の当たる音が聞こえた。

 

20.果ての島(4)

 次の明け方、誰も起きていない時間を見計らって、僕は男の身体を持ち出し、その村を

抜け出した。昨日よりも一層大きな騒ぎとなるか分からない。あるいは収まるかもしれない。

根拠もあいまいなまま小事を大事と拡大する人ほど、従順であるがゆえに状況に対する順応も

又早く、何か事が起こる前の、何も知らなかった状態以上に忘れてしまうからだ。

 村を去るとき、僕を追いかけてくる少年がいた。昨日の争いにはいなかった少年だ。

好奇心だろうか。彼は乾いた果実を実らすだけの村長にはなりたくないのかもしれない。

 でも僕は少年を追い払った。今は逃げるんだ、と。少年は視界から消えた。

 サンダルで浮上し最高速度で飛ばす。急げ!捕まるな!がむしゃらに走った。

赤ん坊を抱きかかえる妻の手を引いて、景色が千切れるぐらい走った。

 輝く街をめざして発ったた。そこにたどり着いても、僕はまた同じことを繰り返すかもしれないけれど、

でも行ってみよう。自分の行くところなんていくら放棄してもファスナー駒の前後の様に

現れては消え、同じ比率を保ったまま次々と現れてくるものだ。

 妻は黙って僕についてきた。どこまで行けば、落ち着くのでしょうかと僕に質問してきた

けれど、僕も自分で分からないから、ただ次の街だと答えた。妻はきょとんとした目のまま、

うなづきはしないけど首を横にも振らなかった。すでに村から遠く離れてしまい、見渡しても土埃以外

何もないからだ。

 

 (少年「輝く町ですか、とにかくこの先の道を上っていけば良いですよ」)

 先の村で争いに加わらなかった例外的な少年から聞いたのは、なんとも分かりやすい一言だけ

であった。少なくともこの村より下にはありませんよ、と。間違いではないのだろうが

その検証は結局僕がするしかない。

 輝く街はとても遠かった。山をどこまでも果てしなく登らなければならなかった。

 僕はサンダルを脱いで裸足になり、赤茶けた大地を踏みしめた。柔かく細かな粘土が足の指に

入り込んだ。なぜサンダルを脱いだのかといえば、サンダルがそうしろと言ってきた気が

したからだ。あなたが地を歩くのはこれが最後でしょう、と。

 それにしても、ここはどこなのだろうか。この島に来てからずっと体が軽いと言うこと

だけは分かるのだが。見上げるともう夜だ。葡萄の粒の様な星が大きな衛星を従えて、


 輝く街はもうすこしで向こうに見えてくるのだろうか。目を凝らすと先の方には、瞬く

ことのない、六等星ほどのごく淡い光が目指す先に、地上に見えた。理由もなく、目指さねば

ならないと僕はそう思った。標があるのならば、あとは進むだけだ。捕虫灯におびき寄せられる

虫の様に僕は進んだ。

 

銀色の光

冷たい炎が

身を焼き尽くす


凍えて

立てば

冬の空


泊まる先も

ただひととき

次から次へと

移り生き


止まれば焦げる

この身には

いずれの灯りも

束の間の里


ましてや

人に

罪などの

あろうはずもなし

 

 罪とは何だろうか。

 村の人たちは、自分を忘れてすべて一体となってしまっていた。そのこと自体には何の罪も

ないのだろうか。

 同質である集団は栄養繁殖で群生した多肉植物の様なものだ。そういった群れは、突然の

環境変化がやってきた時にすべての個体が同じ原因で死ぬことにより、跡形もなく消えてしまう

可能性を絶えず持ち続ける。急激な変化でありながら緩慢な自殺と変わらない点で罪があると言える。

 ならば絶えず変化し続けることは罪なのだろうか。濁流の中にいつも身を投じて、自身の

姿が作られることを拒否し続ければ、罪を背負う事もまたない。しかし、罪を背負う事がない

代わりに、罪を贖うこともまたかなわない。これは、むしろ自分が罪そのものになる事になる

事ではないのだろうか。

 罪を贖う事が物質的に可能なのであれば、今や罪そのものと化した僕の身体を捨ててしまう事が

贖罪の手段となる。だけど、これは僕以外のすべての者にとっては正しいが、僕にとっては全く

容認できない事だ。なぜ僕が僕のために死ななければならないのか?

 サンダルが話しかける様に僕の前で踊り始めた。サンダルの底が剥がれて、鼻緒のついた

上半分の側だけが躍り続けた。しばらくすると、サンダルのそこが剥がれて再生し始めた。

すると今度は、鼻緒が取れて、上半分が砂の様に崩れおちた。今度は残された側である、

再生された底側から上半分が再生されて鼻緒が生えてきた。

 その様子を見て、僕は色々と思索するのを中断した。サンダルは僕をここまで導いてきた

のだから、きっと僕にはまだ知らないことがあるのだろう。再びサンダルを履いた。素足の

まま歩いたところで、いくら経っても目的地(輝く町!)にはたどり着けない。やはり僕はこの

不思議な推進力なしにはどこにも行けないのだ。

 サンダルが浮かび上がる。あっという間に地面から数十メートルの高さに上昇した。前よりも

遥かに強い浮力を感じる。僕は輝く町を想像しながら前進を始める。サンダルはロケットの様な

加速を始める。今までと桁違いの速度に達した。

 遠く先の星が五等星、四等星と明るくなる。三等、二等、一等...みるみるうちに明るくなる。

零等星、マイナス一等星...シリウスぐらい...マイナス八等星...あれは星じゃない、町だ。

 星の光点だと思っていたものが、都市の強い光明だと分かった途端、みるみるその姿は広がり、

目の前を圧倒的な色彩で埋め尽くした。まるで海底に林立する全ての昆布が海流の下の弱く

薄白い光を吸い込み、自らを虹に変えているかの様である。

 サンダルは着陸体制に入る。長い滑走路が見えてきた。足の形をしたマークが路面に見える。

徐々に高度を下げて行く。サンダルの左足が路面のマークに触る、僕は足を蹴って、巨大な球体を回す。

数十メートルの歩幅で今度は右足で球体を回す。繰り返し行い、ようやく球体の回転が止まった。

今僕は二本の足で地面に立っている。

 妻と子供を見ると、外観の変化があった。妻はあまりかわらないが、子供は既に歩く様に

なっており、言葉になる前段階の不完全な音素を口から発するのであった。

 虹色に光る昆布の林を歩くと、ひとつだけ青く光るドアの付いた昆布があった。近づくと

それはひとりでに開いて僕たち家族を誘い込んだ。ドアが喋るわけではないが、ここに住む

ことを僕は「確信」した。

 僕はこれまでずっと背負って来た男の身体を肩から下ろすと、早速、何か大きな犬でも入って

そうな袋を担いだ人がやってきた。新しい入居者への挨拶らしい。

 袋の中にはSerNo.0001が入っていた。温泉宿泊券を口に咥えている。ここでは、各自が

ロボット越しにコミュニケーションを取るのだそうだ。少なくとも一戸に一台はそういった

端末としてのロボットが必要だと言うことである。

 僕はSerNo.0001を受け取るとしっぽを引っ張り電源を入れた。それは起動すると僕の名前を

呼んだ。そして(そんなに高機能ではないはずなのだが)流暢に言葉を話し始めた。

 SerNo.0001の言うに、ここは僕が以前住んでいた、船の家や、そのもっと以前にひとりで

住んでいた部屋のある世界とは違うらしい。場所と時間、色と形、音階とリズム、音色と光、

匂いと食べ物、様々な要素がお互いに入れ替わった所なのだそうだ。

 僕は今、音の中に住んでいる。

 家である虹色の昆布は音の色彩だ。青い昆布の柱を弾くと、虹色に揺れ、暫くしたからまた

元の青色に近い色に戻った。それは弾くたびにまた元の青色に戻るけれども、それらはいつも

少しずつ違う色であり、同じ色は二つとないのであった。

 今度は色絵の具を使って、壁に音符を書いてみた。赤い絵の具で描くと大きなサイレンの音が

出た。青い絵の具で描くと静かな雨の音がした。黄色い絵の具で描くと遠くまでよく届きそうな

女の人達のおしゃべり声が聞こえてきた。輝く街の人たちが、次第に自分の思い通りに動き始める。

お祭りの炎の様な色彩で亡霊の様に舞曲を踊りだす。

 SerNo.0001にこの一帯の地理を教えてもらった。

 この一帯は円錐形に渦をまいてねじれた地形で、渦の中心が火口になっており、そこからまた

空の火山に繋がっている。―火口の湖に映る水色の星に飛び込めば、少し狂った、とても美しく、

気楽だけれでも物悲しさもある広い世界に旅立てる。そこに飛び込んで戻っきた者はいない―

 ここから火口までは、枝分かれの道はないらしい。あとは登るだけの一本道という訳だ。

 SerNo.0001に火口までの路面を聞こうと思ったが、聞くまでもないことだった。無数の火山岩

が堆積しただけの道が続くのみである。地図の画像や紙があるわけではなく、目を見るだけで、

その情報以上に詳細な地形映像が―石ころ一つひとつの全ての形状に至るまで―頭に浮かぶのだった。

 SerNo.0001の目には僕の顔が映っていた。

 

21.小国

 山頂への道を登るにつれ、僕は自分の体の張りが減っていくのを感じた。登ることで鍛え

られる身体を、加齢が相殺していく感覚である。意識は明瞭なまま、足腰が水たまりに沈んで

いく感じだ。

 子供もみるみるうちに大きくなっていった。ようやく歩く様になったばかりのはずが、もう

自分や妻、僕の名前を言える様になっている。山頂までの直線距離はもう少しだけれど、

らせん状に上る道のせいか、やたらと長い距離に感じる。時間の経過は加速するけれど、

足が進まない。ここに来るまでの時間と同じ時間を、一歩一歩が浪費しているかの様、胸突き

八丁という奴だろうか。上るほどに体が石英の結晶の様に硬くなる。

 しかし、こうも思った。僕の結晶化と同時に何かが生まれようとしているのではない

だろうか?腐葉土が養分になり新芽を育てる様に、結晶化から逃げ出した時間がどこかに

集結して、新しい構造を作ろうとしているのかもしれない。状況から脱出するまでは、

その結論が出せない事なんて沢山あるし、その過程においては矛盾に感じることすらある

けれど、あとからその仕組みが分かれば矛盾でもなんでもなかった、という事はよくある。

そうであれば、これは必然の停滞なのだ。だけど殆どの人はその検証ができる時点がいよいよ

きた時には、そんな疑問があったことすら忘れてしまう。忘却に抗うためには、せめて

図形や文字にしたためるしかない。その記録はどれかの結晶に残り、その拘束から免れる事の

できた時間たちが運んでいく。

 だけど、時間を擬人的するのは淡い希望でしかないから、僕は上る足を止めなかった。

絶望を拒絶するという事をもって、元の希望を維持するのだから、結局希望にすがる事に

変わりはない。回りくどい事だけれど、こうするしかない理由は、僕が単に山頂まで直線で

登る道を知らないからである。最も、足元の石ころの方がその答えをよく知っているの

だろう。直接その答えが分からずとも、答えにたどり着くことを否定しないからこそ、

石ころはそこにある。もし答えが全くないのであれば、無尽蔵の石が今こうして僕を

支えているはずがない。

 

 <断片メモ>(いつか山頂にたどり着いたときのために、と副題が書かれたノート。主題は単に<メモ>)

 らせん状の登山道を登ろうとした時のことだ、僕は登山道の入り口横にくぼみがある

のを見つけた。くぼみは太陽の出る側にあり、雲よりも標高が高いのにも関わらず、決して

日が当たることのない場所である。

 くぼみの中に入ると、そこは空気が淀んでおり、廃墟の町で、縄張り争いの戦闘を映し出す

ゲーム画面のみが光っている。三人の少年たちが同じ仮想の街の中で、各自の角度から見た

映像を見ながら、物陰に素早く身をかくしたり、銃を撃ちながらタイミングを見計って飛び

出し、仮想の敵を倒す事に我を忘れて夢中になっていた。

 戦闘ゲームに没頭する少年たち。

 彼らは、今、彼らだけの間に存在する共通体験を通じて結び付けられ、共通の仮想敵と戦って

いる。戦闘は勝利と敗北を何度となく繰り返す。それは彼らにとって美しい光景であるに

違いないが、傍目の僕にとっては、何一つ見えることのない、存在しない現実であった。

彼らは、自分たちの世界を作りあげているつもりではあろうけど、外界から自分たちを

遮断することによってはじめて、不完全な外界の姿と戦うこと事を遠ざけ、そのこと

によって、反対に自分たちの危うげな国家を、小さな真空の中に見出そうとするのだ。

 彼らはそこにはいるけれどもまだ産まれていない子どもの様であった。

 少年の一人が無言でゲーム中断し、画面の電源を消して、無言で空気の淀んだくぼみの

外へ出ていった。するともう一人の少年が同様にゲームを中断し、画面の電源を消して

退出していった。最後に残った少年も、しばらくすると飽きたのか、無言でゲームをの

画面を開いたまま、空気の淀んだくぼみから退出していった。彼は退出の際、無言で

あったが、それが無為の無言か、話す相手がなくそうせざるを得なかったのか、それは

分からなかった。

 最後に退出した少年の使っていた筐体のゲーム画面は映像を、廃墟での戦闘を映し続け

ていた。戦闘は終わっていない。こことは離れた別の場所で、廃墟と戦闘を共有する

別の少年たちがいるのだろうか。見えない彼らは、いま退出した少年たちと同じ国家では

なく、敵対する側の国家かもしれない。しかし「向こう側」に、本当に少年たちがいるか

どうかは分からない。コンピュータが映像の水面に存在しない国家を映しているのだろうか。

 

 <断片メモ>の内容を思い出しながら山頂までの道を登る。足元にある無数の石ころは、

その少年たちの中にあった国家を外から見た時の姿に思えた。僕には石ころにしか見えない

けれど、彼らにとっては一つの拠り所だったのである。石を国家と見做すなんてもちろん

想像だけれど、人間が何もない空間に立つことなんてできない。それに、僕は石ころの外側の

表面の上に立っているけれど、彼らは表面の内側に立っていたのだ。元素の詰まった石ころ

の内側!その内側しか知らなければ、外側の世界なんてきっと何も見えない空白の様に

見えることだろう。僕がそこに足を掛けてのしかかっているとも知らずに...。

 

 さらに道を登る。山を二周したのころには、赤ん坊もすっかり大きくなっていた。僕は

社会生活を学ばせるため、子供を道端のくぼみにある幼稚園に入れることにした。

 

 <断片メモ>

 幼稚園での生活が始まって数日たった。

 今朝、山頂を見るとおびただしい量の煙が立ち上っている。有毒の火山性ガスだ。

 僕は子供を避難させるために、幼稚園に向かった。

 僕が幼稚園に飛び込むと園長のボス猿がでてきた。

 しかし驚いたことに、こうだ!猿はガスに無関心なうえ、避難はできないと言い始めたのだ!

 僕は危険が迫っていることを主張したが、園長はあいまいな答えを繰り返すばかりである。

 煙がせまってきている。いつ幼稚園にガスがおそいかかるか分からない。

 言葉の通じない園長を相手に、僕は説得をあきらめた。

 猿と格闘したのだ。

 僕が猿に足元の石をぶつけると、猿はしっぽを巻いて逃げ出した。

 僕はすぐに幼稚園から子供を連れ出して逃げる。

 ガスが幼稚園に襲い掛かったが、僕は振り返らなかった。

 

 <断片メモ>

 連れ帰った子供の歩調に合わせ、ゆっくりと、再び山道を一周登った。

 そこにまた別のくぼみがあり、別の園があった。

 園の正面には門があり、扉は閉じていた。

 門の前に立つと泣けてくる。

 閉じた扉の向こうには光がさしていた。

 扉が開いた。

 

 この二つのメモはどちらも僕の身に起こった出来事だ。石の内側と外側の様な話だけれど、

僕はそのいずれをもメモに保存して、今こうして読み返している。メモに書かれた出来事は

現実であり、保存されたメモの内容は既に物語である。その両者には僅かな隙間があるが、

それを繋ぐのは僕だけである。メモの内容は僕にとっては現実であり、また残した物語であり、

その両方ともが真実なのだ。最も僕以外の人にとっては物語でしかないから、僕はその確認の

ためにも、その物語をメモとして書き、読んでみなければならないだろう。最初から一人称視点で

書きたいところだけど、そうしてしまうと、真実を物語として受け止められるのは僕だけに

なってしまう。僕はいつまで経っても石の内側だ。真実を物語として保存する事は、結晶に

時間を閉じ込める様なもので、ただの草花ですら永遠の氷柱花に仕立て上げ様とする淡い

期待である。真実が美意識を通してのみ伝わるという仮説を僕は試してみたい。

 真実を美化することは残酷な行為であり、自分に嘘をつくことにもなる。しかし伝わった真実を

媒介したものが何かと言えば、それを個装する美しい箱や説明書きであったと言うことは、

多くの詩人の言葉がなぜ保存されているのかという事実が証明している。では真実とは

虚構でしか伝えることが出来ないのだろうか。いや、虚構を書き上げて、自らその反証を示す方法

だってある。だけれども、その反証は決して物語とはなり得ないのだ。

 僕が真に味わえるのは、僕の物語だけという事になる。ここに自由意思がある。

 

22.小国

 信仰を持つとは何をする事なのだろうか。

 自由意思を放棄して、神の存在を無心になって信じる事なのだろうか。あるいは、それこそが

自由意思を獲得するという事なのだろうか。

 僕は今まで想像力においては神の存在を否定できなかった。いや否定する術を論じて

神を殺す装置を発明したとしても、その先に待つのは、頂点となった自分の孤独である。

そうであれば自分の首を絞めるだけである。

 また、神が人間社会の階級の様に頂点をなすものではなく、地面の様に万物を支え続ける

存在を超えた状態なのであっただとしても、神を殺せば、結局僕は奈落の底に落ちて行って

しまうことになるのだ。空にも地の底にも、孤独はある。

 僕はむしろ神を肯定する方に心が傾いていた。想像力において神の存在がイエスだと

しても、人間であり続ける僕としては、無心になって信仰に溺れ、自分自身の機能停止を

行う事は、必ずしも幸福な事なのだろうか?

 この答えは2つある。自分がより神に近づくか、平坦な思考だけを繰り返し心のない

機械装置に近づくか。どちらもありうるのだ。

 急いでもすぐに全てを満足する答えはなさそうだ。ただ、僕は園の正面で見た、満たされた

光を遠い記憶であるかの様に現実として、半現実として、いやその両方を同時に見たのだから

少なくとも全てが機械ではないと信じたい。もし、現実側の僕が機械であったとしても、依然

そうではない部分の僕が必ず在る。

 機械ではない部分の僕が、別個のものとして、識別できる様になったのだ。

 僕は機械の部分の僕に向けて、あれこれを想像を巡らせている。

 今や、機械としてしか自分を認識できなかった僕は、そうではない僕に導かれている。

 機械の僕が過去のものであれば、そこから分離して俯瞰する僕は未来だ。

 二つの僕がいまここに同時に在りながらも、一方は未来、一方は過去である。では僕はいつ(傍点)

に存在しているのだろうか?いや、僕が時間の上にあるのではない、未来と過去の僕同士が

時間をパスしあい、双方の間で回転しているのだ。時間が直線から円運動へと変わる。

 僕が時間を作り、保っている姿が見えた。

 

 未来の自分が過去の自分を変える。

 その地下通路があまねく光で満たされた時

 人間は世界そのものとなる。

 

 色々な場所をめぐっても、それ自体は僕の全認識に対する確認作業でしかない。僕が機械

ではなく神に近づいて行くためには、自らを想像の光で満たすしかない。古いものを捨て、

新しくなる。

 

23.消失

 男の身体を担いだまま、さらに山頂への道を登る。いつのまにか僕はこの男の身体が

自分自身の様に感じられていた。担いでいる事もわすれてしまうほどだ。そういえば、

男の身体は、顔や背格好もこの僕と似ている。いや、僕自身にしか見えない。なぜこんな

ことに気が付かなかったのだろうか?いつからそうだったのだろうのか?思い出せない。

 歩を進める。小休止に立ち止まり、背中に担いだ男の身体を見ると、驚くことに、それは

妻の顔をしていた。もういちど振り返り、男の身体を見ると、今度は子供の顔をしていた。

さらに振り返り、男の身体を見ると、今度は僕の顔をしていた。

 もう一つ僕が驚いた事がある。いつの間にか妻と子供がいない。存在は感じるのだが、

どちらを向いても二人の姿が見当たらない。どこへ行ったのだろう...。

 二人は僕の創造の産物でしかなかったのだろうか。存在しない祭りの幽幻な炎でしか

なかったのだろうか。僕は妻と子供を愛していた。だけど今は視界から消えてしまった。

 僕は、存在しない祭りの事について、あれこれ考えを巡らせていたことを思い出した。

 存在しない祭りに行かないことを、ぼくは何にも干渉せずに単に無為に過ごすことだと

思っていたけれど、改めて思うのは、それがただ、ひたすら全てに形を与えるだけの存在を

目指すという、途方もない旅行にほかならないという事である。苦しい様でありながら、

最も美しい女に姿を変えるときの様に、慈しみに満ちた気持ちで世界を見渡し、あるべき

世界の姿についての種々の言葉を放ち続ける事である。

 永遠に続く楽園などというものは存在しない。何故かと言えば、永続の楽園は新しい

世界の到来によって、古い夢へと追いやられ、ついにはその価値を否定される事によって

のみ維持されうるからだ。古い神が悪魔に化けて、今度は人間を襲い始めるのは、人間の

都合ではなく、むしろ神自身の更新作業が必要だからである。

 その更新作業が愛する者の消失であるならば、神であろうとすることは、なんと孤独な

ことなのだろう!


24.検証

 僕が神であろうとするならば、一つ大事な前提がある。それは僕が神自身であるという事

だ。人間は神ではない。しかし、神は神であり続ける。ならば僕は最初から神であったの

だろうか?

 僕は人間であり、又、神でありつづける。この命題が真であり続けるためには、僕が神の

全てもしくはその一部でなければならないのだ。神は神自身を包含し、また僕を包含する...。

 ここで分からない事がある。

 僕は神を包含するのだろうか?

 疑問をもってはならない。僕がその事を否定さえしなければ、僕は人間で居続けるよりも

より神であり続けようとするのだ。なぜなら、僕が完全なる神の一部であり、等比数列の

中項をなすのであれば、僕自身がどこまで変容しても、神と比例か合同でなければならない

のだ。無尽蔵に繰り返す比例がどうして丸く作られた神と合同でないと言えるのであろうか?

 僕は思い立った。僕自身の似姿を火口に投げ込んでみよう、と。火口の中で似姿が焼かれて

再び僕自身として、そこから現れる事があるのならば、僕はいよいよもって、その似姿を

僕自身として、僕自身が似姿を包含した神へとなる事が出来るだろう。

 

25.火口

 火口にたどり着いた。円環状に街が広がっており、赤い光を放っている。

これまでに見たいくつかの小さな国家をすべて模型として包含するかの様な光景であった。

 僕は温泉宿泊券であった紙の残骸を握りしめ、男の身体をかかえ、湖面に浮かぶ水色の星を

めがけてとびこんだ。ただそのためだけにここまでやってきたのである。

 そのとき。

 ―サンダルの大群が空からやってきた。おびただしい数のサンダル。

 すべてのサンダルが火口へ突入すると、火口から光の柱が立ち上がり、空を青く貫いた。

僕は落ちることもなくどこかへと弾き飛ばされ、気を失った―


 気がつくとひとり、僕は秋の海原に浮かぶ小舟に乗っていた。目の前にイルカの群れが飛び跳ねて、

僕の行く先を教えてくれた。

 僕はイルカの導く先を探してまた行こう。今までどこまで進んで行っても免罪符の使いみちなど

見あたらなかったのだ。だからこれからも又、きっと見つからない事だろう。それこそが幸福なのである。

何故なら人の子の原罪など、あろうはずもないのだから。

 

 徐々に薄れていくこれまでの景色を雲に写し取り、それらを全て吸い込むと、

後には淡い恋心の様な感情が残った。

 <メモ>

 思想の高まりによる恍惚に対して、流転する愛欲の情念が漂着した場所で生存を喜ぶために、

慈しむために貪る交歓は全く異なる。前者は物語の朗読で、後者は詩の創造。私は言葉のない

世界が欲しい。またそれを言葉にしたい。死んだ魚が水を掛けられて生き返った時に見える

瑞々しい世界のさまを。

 想像の世界で、カモメの足にぶら下がり、荒涼と広がる海が生まれ変わり続ける姿を

見たときの様に、灼熱の火口から飛び出して青い風に吹かれた時の様に、聖霊の作る壮麗な

世界の美しさを、僕はただ喜びたい。

 彼女は実在であり、かつ私の願望が実体化した虚像でもある。そうであれば、彼女と魂の

庭で踊る行為は、芸術を追い求めることよりも遙かに圧倒的な虚無、もしくは無上の

幸福である。だが、虚無と至福との間で迷っているうちは、彼女はまだ未完成の愛の姿だ。

彼女に実体を与えるのは私にしか出来ない事だから。

 虚無の中から老いた青年を救うには、現実化を伴った理想像としての女性の再認識と構築が

どうしても必要である。免罪符というものがあるのだとすれば、それはまさしく、完全な理想が

現実と合致することで変容を停止し、保管のためにガラス箱に収納された世界に貼る説明札の

事なのである。

 彼女は箱の中の人形にならざるを得ない。だけど、私は冷たい人形など欲しくないのだから、

説明札など永久に貼ることは出来ない。追求のために魂が焼かれ熱せられた足跡として、

星雲の様に淡い痕跡を残していくだけなのだ。


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