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黄昏古堂(後)



「おい、大丈夫か?」

「――はい。あれ、僕なにをして」

「寝ぼけてるのか? まあ、気持ちはわかる。俺も意識が飛ぶことはしょっちゅうだ。そんなおまえにほいプレゼント。先輩からの心づくしだ」


 手渡されたエナジードリンクをぼんやりと見つめ、寿宏は今の状況を思い出した。

 机上にある紙コップの中のコーヒーは、すっかり冷めている。


 夕方に社内の自販機で買って、飲みながら仕事をしていた。

 定時が過ぎ、夕飯を取りに行く人がいるなか、寿宏は買ってきたサンドウィッチを自分の机で食べていた。

 手に持っている厚焼き玉子が挟まれたサンドウィッチは、歯形が付いた状態で止まっている。


(食べてる途中で、寝オチした……?)


 気づいた途端、どっと疲れが襲ってきたが、周囲がそろそろ騒がしくなってきた。早く食べ終わって仕事に戻らなければ、難癖をつける先輩に睨まれる。

 急いで口に入れると、冷めたコーヒーで流し込む。

 ほろ苦いブラックコーヒーにもすっかり慣れた。むしろ、濃くなければ味気ないほどだ。

 コーヒーに、たまごサンド。

 その組み合わせが、あの白昼夢を見せたのだろう。

 幻のような過去を頭の隅に追いやって、寿宏は仕事に戻った。



 悪評を知りながら就職した会社は、表向きはとてもクリーンで、やる気に満ちた明るい社風だったが、実情はかけ離れている。

 自分のやる気次第で給料が上がるというのはたしかで。資格を取れば手当が付くし、関係した仕事に従事できるためステップアップも可能となる。


 しかし、あくまでも「自己研鑽」だ。

 ゆえに、それらにまつわるものは会社から保障されず、自分で手続きをして受験しなければならなかった。

 合格に向けては勉強をしなければならないが、日々の業務が忙しくそんな時間はなかなか取れない。

 試験の多くは休日に開催されるため、疲れきった身体で試験に挑み、翌日からはまた一週間ノンストップで仕事。残業はデフォルトだ。

 おかげで、三年目になった今でも入社当時とたいして変わらない給料のまま過ごしており、コネ入社だという同期にはおそらく負けているだろう。

 ゴマすりの上手い後輩はお偉方に気に入られたのか、寿宏よりもいい仕事を任され出世街道に乗っている。


 要領の悪い寿宏は、結局ここでも落ちこぼれた。社会人になったところで、何が変わったというわけではない。

 やりようはあったと思う。

 相手が苦手なタイプの人であったとしても、表面上はうまくやりすごし、裏で愚痴を言うなんて誰もがやっていることなのだから、自分もそうすればよかった。

 自分を殺して、周囲に合わせて違う自分を演じることができなかった己がすべて悪いのだ。


 スマートフォンが震えた。届いたメッセージは愛菜からのもので、胃がキリリと痛む。

 就職せずにバイトでつないでいる彼女の選択を責めるつもりはないけれど、残業中にメッセージを送ってきて反応が遅いと不機嫌になるところだけはいただけない。

 ブラック企業だと就職に躊躇した寿宏を後押ししたくせに、忙しいと「私をないがしろにしている」と怒るなんて理不尽だ。

 黒いものが噴出してきて、時折叫び出したくなってしまう。


 知っているから。

 知ってしまったから。

 愛菜が浮気をしていることを。

 いや、そもそも愛菜にとっては自分が浮気相手であり、本命は他にいるのだろう。


 ヒロくん


 愛菜がたまたま放置したスマートフォンに表示された名前。

 自分はここにいて、電話なんてかけていないのにかかってきた「ヒロくん」という人物。

 不在着信を見て、慌ててこちらを向いた愛菜の顔色から、それらはあきらかで。

 それでいて彼女に別れを切り出すことができない優柔不断な自分が、寿宏は一番嫌いだった。




 夜もとっぷり暮れた町の中を歩く。

 今日は頂点を超えるかと思っていたが、なんとかキリのいいところまで終わらせた。今から愛菜の部屋へ顔を出しておけば、面目も立つだろう。

 メッセージアプリに届いていた「待ってる」という言葉を無視すれば、面倒なことになるに違いないのだから。


 小綺麗なマンション、下から見上げると愛菜の部屋には電気が灯っている。

 エレベーターを使って上がり、部屋の前へ辿り着く。インターホンを鳴らして名を呼ぶと、扉の向こうで慌ただしい音が聞こえてきた。小さく響く愛菜の声に、他の声が混じっている。

 返事を待たず、扉を開けた。

 不用心にも鍵のかかっていないそれは苦もなく開き、入口からまっすぐ伸びた短い廊下の先には、愛菜と金髪の男がいた。


「なんだおまえ」

「や、待って、違うのヒロくん。あの人は大学時代の同級生で」

「付きまとわれてるのか」


 語気の荒い金髪男が愛菜につめより、対して彼女はあわあわと狼狽えている。

 それを見て寿宏は、脱力した。

 ああ、つまり、あのメッセージは誤送信だったのだ。寿宏ではない「ヒロくん」に送ったつもりだった。

 もういいや。自棄になって口を開く。


「ヒロくんですか? どうも、僕もヒロくんです」

「んあ?」

「たぶん、もう一人いますよ、ヒロくん。それが本命かな」

 最近忙しくて相手をできないから、新しく作った「ヒロくん」がこの金髪くんだろうと踏んで、寿宏は口の端を吊り上げる。


 どういうことだ。

 違う知らない。

 騒ぐふたりを放置して、部屋を後にする。

 エレベーターは上階にあって降りてくるのに時間がかかりそうだったので、階段を使うことにした。背中越しに聞こえる喧嘩の声に反応する気はない。

 廊下の端にある階段に足をかけたところで、ドンとなにかが背中を押した。


「あんたのせいで!」


 悲鳴のような声が響きわたり、寿宏は体勢を整えようと身体をひねる。

 視界の隅に、髪を振り乱した般若の形相の愛菜が見えた。廊下を照らす光が、流星のように視界を走る。そして夜空。


 目が眩んだ。

 寝不足の身体はやや貧血気味で、うまく動かない。

 衝撃に備えて目を閉じる。

 訪れた暗闇。

 まぶたの裏にチカチカと光が舞った。





 コーヒーの香りが鼻をついて、寿宏は目を開ける。

 落とした視線の先には、湯気を立てるブラックコーヒー。まだ手をつけていないたまごサンドが黄色い断面を見せている。


「……え?」

 慌てて己の身体を確認する。

 ジーンズに安物のパーカー。指にはマジックインキの汚れがあり、大学時代のバイト帰りのような姿に混乱する。

 つい今しがた愛菜が背中を押して、そうして僕は――


「お客様?」

 柔らかい問いかけに顔をあげると、和装の店主が微笑んでいる。

「ブラックコーヒーが苦手であれば、ミルクを足しましょう。混ざり合い、緩和され、暗闇も薄くなります」


 ミルクポットを傾けると、とろりとした液体が流れ落ちてくる。

 真っ黒なコーヒーは、穏やかな色合いに変じていき、ふわりと香りが変化した。


「無理をする必要はありません。どうぞ、後悔のない選択を」


 一礼した店主がカウンターへ戻っていく。

 その背中を目で追いかけていると、テーブルに置いてあったスマートフォンが震えた。愛菜だ。


 あんたのせいで!


 甲高い声が脳裏に響く。

 違う。あれはただの夢だ。


 いや、どっちが、夢?



 口の中に苦い味が広がる。

 濃いめにいれたブラックコーヒー。

 飲んだ記憶もないのに、どうして自分は知っているのか。

 誤魔化すように、ミルクを投じたコーヒーを口に含んだ。

 まろやかな舌触り。

 ついでたまごサンドをかじる。しっとり柔らかいパン生地は、ついさっき食べた気がするパサついたサンドウィッチとはまるで違っていて、出汁が広がる厚焼き玉子が味わい深い。


 夢で終わるか現実にするかは、寿宏の選択次第なのだ。

 貪るようにたいらげて、店を出る。

 外はすっかり暗くなっていて、日没で閉店だという店主の言葉を思い出して振り返ると、出てきたばかりの店は消えていた。

 錆ついた灰色のシャッターに、はげかけたペンキでなにか文字が書かれている。


 また、夢?

 だけど口の中には、食べて飲んだ味がこんなにも残っている。

 握りしめていたスマートフォンが着信し、店内では無視したけれど、通話を受ける。


『もう、なんで出ないの!』

「あのさ、愛菜。ヒロくんのスペア、もうやめるよ」

『はあ? なにそれ』

「経済学部だっけ。イケメンだよね、ヒロユキくん」

『な、なんであんたがヒロくんのこ――、あっ』


 やっぱりそうなのか。

 顔はいいけど金遣いが荒くて生活力に欠けるともっぱら噂の男の名前に愛菜が動揺し、寿宏はすっきりした気分になった。

 無理をすることはない。

 僕は僕に合ったやり方で生きて、それで少し失敗したっていいじゃないか。


 あれこれ言い訳をしている愛菜の声を聞かずに通話を切って、寿宏は決めた。

 明日はあの会社を断って、そしてバイト先の店長にお願いしてみよう、と。






エブリスタの超・妄想コンテスト第135回「昼と夜の間」に参加。


難産でしたが、おかげで自分の欠点がわかりました。(改善できてないけど)

これは、「不思議な喫茶店を舞台にしたオムニバス短編」みたいなことがやりたくて、作った物語です。

軽食のメニューや店主の設定も無駄にあるんですが、それがお目見えする日は来るんでしょうかねえ。

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