黄昏古堂(前)
初出:エブリスタ
長きにわたる就職活動を経て、ようやく内定を貰えた。
けれど、後藤寿宏は、重い息を落としている。
目に見えている情報だけを信じて選考が進み、最後の最後になって知った。
志望した会社は俗にいうところのブラック企業で、退職者が続出していることを。
ネットの匿名掲示板は、匿名ゆえに口汚く貶める意見が大半だと思い、見ないようにしていた。
先入観を持たず面接に挑もうと思っていたし、名も知れない人の意見に流されるのは愚かだと思っていたのだ。
(むしろ、愚かなのは僕のほうだ)
昼食のピークを過ぎた食堂。誰かが呼んだらしいOBによる「社会人の暮らし方」とかいう雑談の中で聞こえた会社名。寿宏が志望した会社は、鬱量産マシンだとか社畜部屋だとか呼ばれていて、「あそこだけは無理」と悪評高い企業だというのだ。
耳にうるさい騒ぎ声から逃げるように食堂をあとにして、ドクドク音を立てる心臓を抱えながらスマートフォンで件の会社を検索した。
自由に書き込みができる掲示板。最新らしいスレッドを震える手でタップすると、さきほど耳にしたものと大差ない、あるいはもっと具体的なコメントが並んでいる。
給料はいいよ。一部のヤツだけだけど
あそこはワンマンだから、縁故なら勝利確定。それ以外はタヒ
辞めてやったぜ、ィヤッフーー!!
脱出オメ
社員というよりは、ほとんどが取引会社、あるいは同業他社によるもので嘲笑うような言葉が並ぶ中、最新の書き込みが目に入った。
人事の奴が、来年度の人身御供に案内出してた。
書き込まれた日付は、寿宏が内定の電話を受けた日と一致していて、冷汗が出る。
と、握っていたスマートフォンが震えて悲鳴が漏れた。
画面に表示された名前は愛菜。件の会社からではなかったことに安堵しつつも、この電話に出ることにも躊躇する。
とはいえ出ないわけにもいかないだろう。愛菜は機嫌を損ねると、あとを引くのだ。
『なんですぐ出ないの?』
通話を受けた途端、彼女の声が聞こえた。反射的に謝罪が出る。
「ごめん、食堂で人がたくさんいてうるさかったから」
『結果どうだった?』
「結果って……?」
『面接の結果! あそこ給料高いし、就職できたらいいよねえ』
はしゃいだような声が聞こえ、寿宏は口が乾くのを感じながら言葉を絞り出す。
「まだ、だよ」
『ふーん。わかったらマナにも教えてね、絶対だよ?』
「愛菜のほうは?」
『ぜんぜーん。だからヒロくん頑張ってね。……あ、うんいま行くー。ごめーん、友達待ってるから』
ぷつりと音は遮断され、周囲の声が耳に届き始める。
愛菜との電話はいつだって緊張する。未だに慣れないでいる自分はやっぱり彼氏としておかしいのかもしれない。
出会いも、付き合うようになったのも、流されたといえなくもない。
人数合わせのために、たいして仲良くもない面子に混じり合コンに出席し、案の定すみっこでちびちび酒を飲んでいた寿宏に声をかけてきたのが愛菜だった。
明るい茶色の髪、キラキラした色に塗られた長い爪。彼女いない歴=年齢の寿宏には異人類に見えた女子となぜかアドレスを交換することになり、何度か会うようになった。
出不精の寿宏を外の世界に連れ出してくれたのは愛菜で、そのことについては感謝している。
交友関係の広い彼女に対して引け目を感じることもあるし、どうして自分なんかと付き合ってくれているのか不思議に思うこともある。
ヒロくんはヒロくんだよ、と笑ってくれる彼女のためにも、きちんと社会人になって暮らしていく基盤を作りたい。
(だからっていいのかな。みんなが嫌がっているような会社に就職するとか)
心配性な自分がいらない気をまわしているだけ。
社会に出ることを不安に思うあまり、勝手に重くとらえてしまっているだけなのだと言い聞かせながらも、それでも寿宏は迷っていた。
夕方というのは、店が一番混む時間帯だというけれど、この辺りはそれに当てはまらないらしい。目抜き通りから外れた道では、それも当然か。
喧騒を遠くに聞きながら自宅アパートに向かって歩いているとき、ふとコーヒーの匂いが鼻に届いた。
この道を通るのは随分と久しぶりだったが、コーヒーショップができたのだろうか。
地面に落としていた顔をあげて視線をさまよわせると、数メートル先に灯りが見えた。黄色みがかった光は、LEDの真っ白な光とは違う温かみがあり、足がそちらへ向かう。
蔦が這う赤茶色の煉瓦造りの壁に、レースのカーテンがかかった大きめの窓がひとつ。古めかしい印象の木製の扉には、営業中の札がぶらさがっている。
黄昏古堂
蔦が絡みついたプレートにある文字は、店名だろうか。
窓の向こうは薄暗く、雰囲気を伺い知ることができない。外観と、ほのかに漂うコーヒーの香りからすると、レトロ調の喫茶店といったところだろう。
コーヒーには縁がない。連れがいるならまだしも、ひとりで未知の扉をくぐることには抵抗があり踵を返す。しかし、それを呼び止めるように声がかかった。
「どうぞ、開いてますのでご遠慮なく」
寿宏よりは年上の、三十歳にはなっていないかと思える男性。
目を引いたのは服装だ。洋風の店構えとは対照的に藍色の作務衣を着ており、日本茶が似合いそうな装いである。
男が身を引いて、開け放った扉へ手のひらを向ける。
オレンジ色に光る店内に唾を呑み、寿宏はおそるおそる中へ進んだ。
アンティーク調の店内は、時空を超えて過去へ飛んでしまったような既視感をもたらす。店内を見まわしながらゆっくりと歩いていると、ガランと大きな音が鳴って肩が跳ねた。
どうやら扉の上部に取り付けられたベルの音だったらしい。金属が錆びついてしまったような重い音は、落ち着いた店内の雰囲気に合っているように感じられた。
目隠しの衝立を挟んで小さめのテーブルが並び、入口に背中を向ける形で椅子が一脚ずつ置かれている。
表から見た大きな窓の傍には席はなく、低めのチェストが置かれていた。窓越しにちらりと見えたのは、ここだったらしい。
「窓際には席を設けていないんですよ、すみません」
「いえ、大丈夫です。ひとから見られるのは、得意じゃないので」
曖昧に笑って答えると、男は柔らかな笑みを浮かべて「お好きな席へどうぞ」と告げると、自身はカウンターの奥へ進んだ。
寿宏は壁際のテーブルを選んで座る。
テーブルには紙ナプキンの束とシュガーポット。そして、二つ折りの冊子。紺色とオレンジ色がグラデーションを作った表紙にはなにも書かれていないが、これがおそらくメニューだろう。見開きのページに写真はなく、文字だけが並んでいる。
トーストやサンドウィッチといった軽食に、ケーキが何種類かあるようだが、肝心のコーヒーはといえば、ひとつきり。
ブレンドコーヒー 四一〇円
それだけしか載っていない。
コーヒーには詳しくないけれど、そんな寿宏だって知っている名称が、ひとつも載っていない。
変わってるなと感じつつも、食べ物のほうに目を向ける。晩御飯にはまだ早いけれど、どうせならなにがおなかに入れておこうとメユーを決めて顔をあげると、それだけで男が近づいてきた。
「コーヒーと、たまごサンドを」
「かしこまりました」
「あの、どうして………」
ブレンドしか置いていないのか、そう問いかけようとした寿宏だったが、言葉をすぼめた。そんなことは余計なお世話だろう。
だが男は言葉の先を読み取ったのか、盆に載せた水のコップをテーブルに置きながら、口を開く。
「店は一人でやっているものですから、メニューもシンプルにしてあるんです。単純にブレンドといっても、その配分はいろいろです」
「いろいろ、ですか?」
「ひとの嗜好は、季節や体感温度によって変化します。その都度、味わいたいものも変わってくるでしょう」
細く長い人差し指を立て、男は笑みをつくる。
例えば、アイスクリーム。
寒い時期には濃厚でクリーミーなものが好まれますが、熱くなってくるとシャーベットのようなさっぱりしたものが欲しくなる。
ジュースなんかも同じで、夏場は百パーセントのものよりは濃度の薄いあっさりめのほうが飲み心地がいいものです。
相手を見て、そのひとが欲しているであろうものを提供する。
お客様一人ひとりに合ったブレンドで仕上げるから、メニューはひとつきりでも同じ味にはならないのだと、言葉を結んだ。
「チェーン店のようなところは同じ味を作らなくてはいけませんが、ここはそうではありません。コーヒーの味というよりは、くつろぎ、考える時間を提供するのが、黄昏古堂です。ご覧のとおり席の数も少ないですし、なにより営業時間も短い」
「営業時間?」
「日が傾き始めてから、完全に落ちるまで。それがうちの営業時間です。季節によって変わりますので、具体的に何時、とは言えないんですよね」
「……はあ」
そんなことで営業が成り立つのだろうか。
内心で不思議に思いながら窓の外に目をやると、外は薄暗くなり始めている。
「お客様が、本日の第一号です」
にこりと微笑み、店主は優雅に一礼した。
◇
ガリガリと豆を削る音がする。香り立つ匂いに鼻をくすぐられながら、寿宏は鞄からスマートフォンを取り出した。
件の会社へ返事を入れる期限は明後日、案内メールを見るたびに心が騒ぐ。
内定をもらったのはここだけだったが、今のバイト先からも、それとなく打診を受けているのだ。
個人経営の、スーパーとコンビニの中間のような商店。大学に入学した当初から始めて、随分とよくしてもらっている。
正社員となれば仕事の質も変わるし、責任だって生まれる。接客や品出しだけをしていればよかったバイトとは違ってくるだろうが、人間関係もふくめ、土壌ができあがっているのは気持ちの上で大きなアドバンテージだ。
一方で内定を貰ったのは教育関連の商品を取り扱う会社。
学校や役所、病院などに資料を作成したり講演会を提案したりといったサポート的な業務をしていると会社案内には書いてあった。取り扱うものは違えど、客を相手に販売をする仕事だ。
「お待たせいたしました」
クリーム色をした陶器の丸皿に鎮座するたまごサンドは、ゆでたまごではなく厚焼き玉子。黄色い断面を見せてふたつ並んでいる。
ひとつはスライスしたきゅうりの濃い緑色が見え隠れし、もうひとつはトマトの赤みが鮮やかな彩りが覗く。皿の端には小さく辛子が添えられていて、これは自身の好みに合わせて、という配慮なのだろう。
湯気を立てるコーヒーはねずみ色の陶器に注がれており、洋風の店内に反して和食器で揃えられている。
店主が和装であることから、食器類は彼の趣味なのだろうか。
黒々としたブラックコーヒーに自分の影が映りこむ。
店内の照明を受けてチラチラと瞬き輝くさまは星空のようで、そのまま吸いこまれそうな感覚に陥った。
「迷い事ですか?」
穏やかに問いかけられ、思わず「ブラックなんです」と呟いた。
主語のないそれに店主は頷いて、寿宏に囁く。
「一寸先は闇。投じてみなければわからないのが暗き闇の世界。覗いてみますか?」
「覗く?」
「光と闇、ここはその狭間の世界。昼と夜が交わる黄昏の館。さあ、覗いてごらんなさい、黒き世界、その先を」
カップの水面に映る光がパチパチと音を立て、沸騰するように泡立ちはじめる。
眺めているうちに眩み、ぎゅっと目を閉じた。




