秘め事は薄闇の中に(前)
初出:エブリスタ
ここマレートにおいて、今もっとも熱い話題といえば「怪盗ノクス」だろう。
いつからか囁かれるようになったそれは、領民にとっては胸がすくような存在だ。横柄な態度で威張っている貴人たちの不正を暴き、虐げられていた者たちを解放する。あるいは、裏取引の証拠を見つけ出して地位を失墜させる。
それだけではなく、貧しい者たちから取り上げた大切な物を取り返してくれたりと庶民の味方ともいえる行いも多く、だからこそ領民らは怪盗の味方だった。
町を守護する警備隊の大半は平民で、そんな彼らにとって怪盗の存在はひそかに歓迎すべきものだったが、表立ってそれを言うわけにもいかない。
警備隊の仕事は領主の直下にある。
領民にとってもっともいけ好かない存在が領主ではあったが、国から定められた主はそう易々とは変えられない。
悪い噂には事を欠かない領主プラエド・アルパガスは、今日も横柄に命令を下し、警備隊はあてもなく町へ散った。
隊員たちの不満の囁きを背中越しに聞きながら、アレスタシオンは夜の町を歩いていた。
雲が流れ、ときおり月を隠す。街灯のあかりがぼんやりと照らす石畳は、昼間降った雨の名残を残している。あちこちにある水たまりが光を反射して白く輝き、町は平素よりも明るく見えた。
「隊長、そろそろ帰りましょうよ」
「たぶん今日は出ないっすよ」
「その理由は? 根拠を示せ」
気だるげな部下の声に小隊長であるアレスタシオンが問うと、「勘です」と声があがる。
立ち止まり、うしろを振り返ると柳眉を寄せて一言で返した。
「却下だ」
「そんな殺生な」
「オレ、今日は非番だったのに……」
「隊長だって、今日は夜勤じゃなかったはずですよね。予定が狂って疲れてません?」
「昨日だって机にかじりついて書類仕事してましたよね。今日はもう帰ってゆっくり休みましょうよ」
ずらりと並んだ四人の部下が口々に告げてくる。
彼らが言うように、たしかに今日アレスタシオンが率いる第五小隊は、夜番の日ではなかった。それが変更になったのは、領主の一声だ。彼が命ずれば、それが絶対となる。
領主付きの第一小隊は貴族階級で占められているが、それ以外の小隊はほぼ平民で形成されており、領主が代替わりしてから扱いが悪くなった。
各小隊を束ねる長には貴族が配されており、アレスタシオンもその一人。
二十五歳にして十名の部下を持つのは、なにも珍しいことではない。王都ならばともかく、地方領の小隊長など吹けば飛ぶような地位の低さである。
無理を強いていることはわかっているアレスタシオンが渋面を作ったとき、遠くから警笛の音が響いた。
応援を呼ぶための笛にはいくつか鳴らし方があり、今のそれは――
「ノクスだ……」
隊員の一人が呆然と呟いたとき、地面に影が差した。
月明りを遮ったのは雲ではなく人影。
貴族街と商業街を隔てる高い壁の上に、誰かが立っている。闇にまぎれ目立たない黒い服、頭部を覆う頭巾は顔を隠して、面立ちは知れない。
それは仰ぎ見るこちらを一瞥すると、興味を失ったように身を翻して細い壁の上を走り始めた。
遠くから響く高い笛の音とともに、バタバタと足音も近づいてくる。
反対側を巡回していた第二小隊の連中だろう。このまま棒立ちになっていたら、賊を見逃したと叱責されかねない。
「追うぞ」
それだけを告げ、アレスタシオンは細い影を追いかけることにした。
高い壁の上にも関わらず、その人物の足取りは軽やかだ。地面の上を駆ける己と遜色ない速さで先へ進み続けるバランス感覚は、驚愕に値する。
夜と呼ばれるとおり、あの怪盗は夜に生きる者なのだ。
顔も声も知れない。いつも高みからこちらを見下ろして、何も告げず去っていく。
判明しているのは身体つきが小さいことだけだが、それだけで正体が知れるなら苦労もない。
右上を睨みながら駆けるアレスタシオンの眼前に、やがて小さな門が現れた。貴族街との境界である。
門を守る衛兵もまた、外壁の上にいる人影には気づいているのだろう。指を差し、けれど対処のしようもなく狼狽えているところに辿り着き、アレスタシオンは左腕に嵌めている腕輪を掲げた。
「通せ」
貴族であることの証明。腕輪に刻まれたフランゼル家の紋章を証として示し、衛兵の傍を走り抜けた。平民である部下たちは手続きを踏まなければならず、待っている時間が惜しい。
貴人らが住む区画へ向かわせるわけにはいかない。
なんとか足止めをと考えたアレスタシオンは立ち止まり、懐から小さなナイフを取り出すと、狙いを定めて相手へ放った。
月光にきらめくナイフはまっすぐに進み、けれど相手に突き刺さることもなく身体をかすめただけだった。
しかしそれは頭部を覆った頭巾を切り裂いたのか、布がほどける。
はらりと夜空に広がったのは、隠れていた長い髪。それはまるで炎のように揺らめいて見えた。
勢いが削がれたか、足を踏み外したノクスの身体が落下する。木がクッションになったのか地へ叩きつけられることはなく、アレスタシオンが追いついたときにはすでに立ち上がり、態勢を整えていた。
近づくにつれ見えてくる相手の立ち姿に目を見張る。
見上げていときには気づかなかったが、その背は思っていたよりも低く、身体つきも細かった。
布の一部から露出した長髪が片側だけ垂れ下がり、肩から胸元へ落ちている。月光に映える白い肌に、黄金色に輝く瞳。アレスタシオンの胸元ほどしかない背丈。
「――女……?」
まさか、と驚きに漏れた声に対し、ノクスは笑う。
「さて、どうかな」
声音は低く、けれど男性ほど太くもない。
女か、あるいは少年か。
見定めようと目をすがめるアレスタシオンに対して、ノクスは鼻を鳴らした。
「性別というのであれば、小隊長殿のほうがよほど知れない。女と見まがうほどの美貌に銀色の美しい長髪。さながら月の女神のようだ」
「…………」
「おや、怒ったのかい? 美人が台無しだよお嬢さん」
相手の傍へ寄ろうとしたアレスタシオンだったが、足を踏み出す前に膝から崩れ落ちた。
うまく力が入らず足が立たない。全力疾走した程度で疲れるほど軟弱な身体ではないはずだが、ついには両膝をつき視界がぶれはじめる。
まるで馬車酔いでもしたかのような酩酊感。これは――
「……なに、を――」
「不用意に風下に立ったのはそちらだろう?」
くすりと笑う声とともに、芳香が強くなった。
ますます頭が重くなり、地面に手をついて身体をなんとか支える。
顔をあげることすら困難になり、ただ地面を見据えるアレスタシオンの視界に、ノクスのものらしい靴の爪先が映った。
「麗しき月の女神たる貴殿に贈り物を」
言葉とともに落とされたのは皮袋。
それがなんなのかはわからないまま手に掴み取り、アレスタシオンの意識はそこで途切れた。
□
貴族街には煌々と街灯がともり、だからこそ光が届かない場所は闇が深い。
誰にも見咎められることもなく忍び寄り、鉄柵を超える。敷き詰められた芝生は音を吸収し、辺りに響くことはない。
砂利の音ひとつしないかわりに、貴族の邸では護衛を雇い、一日中こき使っているのだろう。
まったくお気楽なことだ――と内心で呟きながら、そそくさと裏口へまわる。
夜間この家には誰もいなくなるけれど、簡素な黒い服装のままで庭に立っているのは心もとない。まして今は頭部を覆った布が避け、顔の片方が露出してしまっている状態だ。こんな扮装を見られたら、「通報してください」と言っているようなものだろう。
中へ入って鍵をかけ、自分の部屋へ向かう。
平屋建てのなか、一部分だけ上に突き出したようになっているそこが私室だ。もともとは倉庫として使っていた場所を与えられている。
軋んだ音を立てる階段を上がり、室内へ入って息をつく。引き出しから取り出した手鏡で確認すると、想像以上にひどい状態だった。
頭に巻きつけた布をほどくと、押しこめていた錆色の髪が背中へ流れる。続いて黒いシャツを脱ぐと、胸に巻いていた布を緩める。決して大きくはないけれど、それなりに潰してある胸は息苦しく、ようやっと解放感がやってきた。
椅子の背にかけてあった寝間着を頭からかぶるとズボンを脱ぎ、寝台に腰かける。
「あー、疲れた」
小さく声に出して、シャリーマはシーツの上に転がった。
マレート領を暗躍する「ノクス」と呼ばれる怪盗は、こうして今日の仕事を終えた。
走りまわって疲れた身体をほぐしておきたいところだが、そうもいかない。
深夜に湯を沸かす行為は、主人の命がないかぎり難しい。シャリーマはこの家に仕えるメイドであり、勝手はできない。
今日はもう寝て、明日、どこか火が使える時間帯に身体でも拭こう。
こんなときは、使用人の数が少ない邸宅は便利だと思う。
常駐しているのはシャリーマだけで、あとは通いの者が数名と、昼間であれば自由のきく環境にある。
ノクスに扮するための衣服を簡単に畳むと麻袋に入れて、床板の一部を外して収納する。家の掃除をしているときに見つけた、隠し場所だった。
かつて、この邸は偏屈な資産家が住んでいたらしく、似たような「秘密の場所」がいくつもあるのだ。
金や宝石などを隠していたのだろう。それらは彼が死んだあとに親族によって家探しされ、根こそぎ持っていかれているらしい。
あばら家のようになっていた、いわく付きの邸を買い取って、自身の住む場所とした主人は相当な変わり者だと思う。なにしろ貴族のくせに、身元も定かではない孤児のシャリーマを雇用するぐらいだ。
改めてそこに思考が行き着いて、ひとつ息を吐く。
己がおこなっていること。
怪盗などと称されて、もてはやされるとは想像していなかったけれど、それはそれで都合がいい。真実が闇に葬られてしまう確率が下がる。
明るみに出て、領主が罰せられる糸口になってくれるのならば、自分の存在なんてどうとでもなるのだ。
(……先生は、喜ばないかもしれないけど)
シャリーマが暮らしていたニール孤児院。その院長を務めていたダリオ・ニールは殺された。少なくともシャリーマはそう思っている。
慈善家ぶって子どもたちを引き取り、それを奴隷として外国へ売っていた男。何食わぬ顔をしてこの国に辿り着き、前領主を病に追いやって跡を継いだのが、マレート領主のプラエド・アルパガスだ。
彼が持っているはずの師の形見を探し出すことが、シャリーマの真の目的である。
師を思うとき、常に胸が痛む。焼失した孤児院、共に暮らしたシャリーマにとっての家族はもういない。自分は独りだ。
上掛けをかぶって、瞳を閉じる。
寝よう。寝るにかぎる。どうせ主人は今晩は帰ってこない。
明日の朝、笑顔で出迎えるためにも、シャリーマは無理やりに思考を閉じて、眠りについた。
東側に面した窓から朝日が差し込んだ。重たい頭を振って起き上がると、身支度を整える。
首元までしっかりと覆うシャツワンピースに着替えると、髪を三つ編みに。しっかりきつめに結うことで、赤茶色の髪は色濃く見える。陽に透けると炎のように見える髪を、少しでも誤魔化すための手段だった。汚れ防止のエプロンを身につけて、支度は完了だ。
狭い階段を降りて台所に火を入れる。
湯を沸かしているときに玄関のほうから物音が聞こえ、シャリーマは足早にそちらへ向かい、声をかけた。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
「もう起きていたのか。早いな」
「昨夜はお帰りにならなかったようですので、早朝にご帰宅かと思いまして」
「そうか、すまない」
「いえ」
だってそれ、わたしのせいですしね――
疲れた顔で帰宅した主、アレスタシオン・フランゼルに心のうちで詫びながら、シャリーマは笑みを浮かべた。




