水に沈む
初出:自サイト
「ファンタジースキーさんに100のお題」を使用。
水の中というのはとても静かなものだと知った時、私はもう死んでいたのだと思う。
あれは、そう。
いつだったのだろうか。
ぼんやりとして、曖昧で、思い出せない。
けれど確かなことは、ひとつある。
それはつまり、私は誰かとともに湖へやって来たということ。
それだけは、頭のほんの片隅で、まるで存在を忘れてはならない証であるかのように、記憶している。
その時、人はあまりいなかった。
朝の早い時間帯だから……?
そう。だから、誰もいない湖を散歩しようと誘われて、そうして私は宿を出た。
霧というものを、はじめて見た。
前がよく見えなくて、私は隣の誰かの腕をつかみ、寄りそうようにして歩をすすめた。
足元の草には露が溜まり、薄いサテンのワンピースの裾を濡らして、染みになったらどうしようかと、少し頭を悩ませた。
ぬかるんだ泥に汚れるサンダルの値段を思い出しては、やはり頭を悩ませた。
足が遅れたことに訝しんだのか、隣の誰かが問いかけて、対して私は、なんでもないのと首を振る。
困らせたくはなかったから。
楽しい時間を、引き延ばそうと思ったから。
今、この時だけは、彼は私のものであり、あの女のものではないのだから。
そうして再び私は、彼のあたたかい腕に、己の腕をからませる。
ぬくもりは、朝の湿気を含んだひんやりとした空気を緩和し、私の冷えた心もまた、あたためていく。
あの女は邪魔者だ。
どうして、彼と私の邪魔をするのだろう。
女が泣き、同情を引くかのように泣き崩れ、私はそれを戒める教官のように、さらに手を振りあげる。
彼は、なぜか女のほうへ走り寄り、肩を抱く。
血に塗れた女の腕を、優しく撫ぜていた。
その光景に、ひどく苛立ったことを覚えている。
けれど今、私の心は、この湖のように穏やかだ。
彼がいて、私がいる。
それが一番正しい姿であり、今までのことがあやまち。
女のことを思い出した自分を恥じる。
恥じて、私は笑った。
なにを悩むことがあるだろう。
これから続いていく未来に対して。
目の前に開けた湖には、低く朝日が広がっている。
霧が、光で白く染まる。
湖はまるで、底が見えない海のように深い濃紺で、ふと、ここが自殺の名所であるという噂話を思い出した。
決して上がることのない死体。
だから誰も立ち寄らないよう、付近には鎖が張り巡らされていて、その厳重さに躊躇した私を、大丈夫だからと彼は笑って促した。
そうして、手を伸ばした。
同じあたたかさを持った彼の掌が背を押したような気がした時には、私の身体はもう冷たい水に包まれていた。
冷たい。
それまで感じていた霧の冷ややかさよりも、もっとずっと深いところにある冷たさ。
凍るような温度。
深遠の、気の遠くなるような、突き刺すような、どこまでもどこまでも果てがないほどに続いていくような。一グラムたりともあたたかみが生まれない冷たさ。
それは「死」の温度だ。
耳許で鳴る音はなんだろう。
目の前を上がっていく水泡はなんだろう。
もがいても、まるで掴みどころのないこの水の膜は、一体どうすれば破ることができるのだろう。
頭が爆発しそうになる。
空気を求めて口を開き、そうして口の中から空気を吐き出す。
がぶりと飲み込んだ水がどれだけ冷たいのか、なにもかもが冷えきった身体ではもう、判断がつかない。
無理であるとわかっているのに身体は酸素を求め、そうして肺の中にわずかに残っていた最後の空気と引き換えに、水が逆流した。
苦しい苦しい苦しい苦しい。
白濁する飽和する侵食する破壊する。
そうして手放したはずの意識を、私は一体いつ取り戻したのだろう。
たくさんの記憶とともに、私の身体は浮かび上がる。
見上げた湖面は白い。
あの時と同じだ。
あの時──助けを求めて、そこにいる彼に向けて手を伸ばしたあの時と、同じ色。
そうして、同じように湖面にうつろう彼の姿を、私は見る。
隣に寄りそうように映りこんでいるのは、あの女だ。
またそうやって、私と彼の邪魔をしようとするのか。
どこまで私と彼の間に割り込めば気がすむのだろう。
ふやけた足で水を蹴る。
崩れる肉体は水の抵抗を受け、頬が、髪が、流れていく。
けれど行かなければならない。
彼が、そこにいるから。
私を迎えに来てくれたから。
あの時と同じ霧の中、肌寒い朝靄の中、私がこの湖に身を投じたあの日と同じように、彼は私の元へと戻ってきたのだ。
霧の中はとても寒いけれど、大丈夫。
水の中は、外とは比べものにならないくらいにあたたかいことを、今の私はとてもよく知っている。
だからねえ、あなたも一緒にいきましょう。
ここはとてもあたたかい場所だから。
だから、ねえ、いらっしゃい──
私はあの朝と同じように、あの人の腕をつかみ。
寄りそうようにして、再び水に沈んだ。
エブリスタの超・妄想コンテスト第106回「ひんやり」に参加。
そういえばこれを書いた頃はまだ、ヤンデレという概念がありませんでした。




