桜の雨が降る頃に 「忘れられない」
初出:自サイト
「ファンタジースキーさんに100のお題」を使用
時が経てば風化していくものだから、
無理に忘れる必要なんてどこにもない。
記憶はいずれ、消えるのだから。
*
社会人になってからの一年は、月日を重ねるごとに密度の薄いものになっていく。
子供の頃の一年と、大人になってからの一年がまるで違ってみえるのは、それだけ新しいことを知り吸収し、違う自分になっていくからなんだろう。
目新しいことがなくなってしまうと、ただ流れていく「当たり前」の「変わり映えのしない」日常になり、そこに「新しい発見」は見出せない。
だから、つまらなくも思えるのだろう。
なんとなく過ぎていくだけの、怠惰なる日々に。
諦めちゃダメなんだよ。れっつちゃれんじ!
能天気な顔と声でそう言った幼なじみの顔を思い出す。
昔からとにかく前向き、ポジティブシンキングの彼女は、イラストレーターの卵。
昔から絵は上手かったうえに、その独創的な着眼点から生み出す世界は、他に類を見ない。ただの風景画も彼女の手にかかれば、日常から一歩どこかへ踏み出した異世界へと変貌を遂げる
青い空は、この世のどこかにありそうで、それでいてどこにもない色に。
見たこともないはずなのに、どこかで見たような気を思い起こさせる「蒼」を作り出す。
萌ゆる緑も、煌めく光も。
どこかにありそうで、それでいて届かない世界を表現していて、なんとも不可思議な空気を醸し出している。
これには好き嫌いが分かれるのであろうが、もとより他人の評価を気にして絵筆を握るタイプでもない。ただ思い描いた色を、思い描いた場所に落とす。「それだけだよ」と簡単そうに彼女は笑うが、その簡単なことが案外と難しいのだということを、きっと彼女は知らない。──理解させようとも思わないけれど。
余計な感情の色は必要ない。
そこにあるのは、彼女の──桜井未知の心そのものであるべきだと、俺はそう思うから。
他人が介入してはいけない世界なのだ。
俺と未知との間に、男だとか女だとかという感情はない。
ない、というか。そこに付随する余計な恋情が存在しないというのが正しい言い方だ。
二人の間にあるものは、男女間のそれではなく、どちらかといえば家族間の情愛に等しい。
兄と妹。もしくは同い年のいとこ。
血のつながりはないけれど、物心つく頃から隣にいたのだから、家族といっても差し支えないと思う。遠縁のいとこより、よっぽど近しい存在だ。
そう捕えているのは俺だけではなく、それは未知自身も同じであると思う。
外面だけは良かった俺に近寄ってくる女はそれなりにいて、だから俺もそれなりに断りつづけていた。その度に、「どうして断るのよ!」と膨れた顔をして怒ったのは、告白した本人でもその友達でもなく、桜井未知だったから。
彼女は彼女なりに、俺を心配していたようである。
我ながら呆れるぐらいの優等生だった俺は、周囲にかなりウケがよかった。「麻生君なら大丈夫よね」と任されるぐらいに信頼もあったし、俺もその信頼を裏切らない程度には節度を保った応対をしていたから。
実は内心、常に冷ややかな視線を送っていたことに気づいていたのは、未知だけだったに違いない。
だからといって彼女に対してだけ冷徹だったわけではない。
生物学上は女の子だし、それ以前に彼女はどこからみても「女の子」といった風貌の持ち主だったから、他の女の子に対する態度ほど「偽善的」ではなかったにしろ、男友達に対する態度とは違った柔らかさを持って接していたと、今でも思う。
決して心の隙を、表に出すようなことはしていなかったはず。
だけど未知は、それを察していて。
だからといって責めるわけでも非難するわけでもなく。どうにか更生させようと画策していたようだった。
ようだった、というのは、後々本人がそう告げたからだ。
だけど零ちゃんってば、ちーっとも直らないんだもん。心の病気だよ。
心配しているというよりは、怒りながらそう言って。
そのすぐ後で笑う。
でも、仕方ないよね。っていうか、それが零ちゃんなんだから、それでいいんだよね。
だから諦めたんだよね──と言ったのは、大学を卒業するかという年の頃だっただろうか。
行きつけの喫茶店で、ティラミスパフェを食べながら、そんなことを真面目にいう未知は、一番近しい親族外の人間だったはず。
少なくともその頃は、まだ。
時は流れていくけれど、変わらない物もある。
移ろいゆく時の中で、それでも離れていかない物はある。
何度目かの季節を越えても、また次の春が巡る頃にも、ふと視線を動かせば、そこに変わらずに未知の姿はあって。そうしてまたこうして一緒に向かい合って、軽口と共にお茶を飲む。
変わらない関係と、変わらない距離。
それはずっと揺るがない事実なのだと、何の確証もなく信じていた。
何に対しても、──きっと、この世界そのものに対しても、たいした執着を持っていなかった俺が、初めて「この世界に生きる」ということの大事さに気づいた時。
何かを失うことが、とても大きな闇を心に生むことを知った時には、後戻りなんて出来なくて。
立つ鳥跡を濁さず。
哀しいかな冷静に思って、「平気だよ」とそう告げたこと。
時は記憶を風化させる、
今、こうして泣いたことだっていずれ消えていくから。
だから、哀しむことはなにもない。
無理に忘れることなんてしなくていい。
それは欠片となって、時の狭間に埋もれていくのだから。
精一杯、笑って告げたこと。
それまで過ごした、二十七年の歳月。
忘れようったって忘れられない。
「──ずるいよ、零ちゃんは」
そう言って涙を落とした未知が、その時初めて「女」に見えたことを。
今のところ、これが最後に書いたエピソード。
彼が別世界に行ってしまった後、イラストレーターになった未知は、零二をずっと待って過ごします。
行方不明とされている男が、別の世界へ行ってしまったことを、彼女だけが知っていて、
だからこそ、誰がなんと言おうとも、「零ちゃんは帰ってくるよー」と、ゆずりません。
正確には「恋人」ではない、けれど、他の誰よりもお互いが一番大事な二人。
そんな、微妙であやふやな関係性が書きたかったんだけど、はっきりラブラブじゃないカップルは、今も昔も、きっとウケないでしょう。
物語の最後。
日本に戻ってきて、会いに行った際。
「おかえりなさい」と笑った彼女が流す涙。
桜の雨は、「桜井未知の涙」のつもりでした。