2話
異国のご婦人に与えられるミルクを飲んで、世話をして貰いながら幾日か過ぎた頃。
漸く少しだけ状況というものが見えてきました。
小生を抱き上げたご婦人と共に鏡に映っていたのは人間の赤子。
美しい死神が言っていた言葉「別の世界で」…というのは異国で、ということでしたか。しかし、人間の赤子とは…。
八回の転生を繰り返して随分と長く生きてきましたが、全て猫のままでしたので人間として生きるのは困難でしょうね…。
身体は猫ではないのに、意識は小生のまま…というのも気にはなりますが、確かめる術などありません。なかなかに厄介な状況、という事は理解出来ましたが赤子のままでは何も出来ませんから今は世話になるしかないのでしょう。
つまり、このご婦人は小生の母ということになる…人間が母というのも妙な話ですね。
可愛らしいイメージのご婦人ではありますが、表情はいつ見てもお疲れのご様子。
慰めたくとも手を伸ばすしか出来ませんが、それでも笑ってくれるとほんの少し救われた気がします。
「ミリアさん!ミリアさんっ!?」
「あ、お母様っ。ただいま支度致しますっ」
廊下から声が聞こえるとご婦人…否、母上は小生を寝かせて慌てた様子で離れようとしましたがノックもなく入って来た年配のご婦人に詰め寄られてしまいました。
何か立腹している様子なのは分かりますが、如何せん言葉が理解出来ない。
赤子一人を置いておくには豪奢な部屋。母上と思しき女性は別の部屋で休んでいる様子。小生を覗きに来るのは母上だけ。
母上ではなく乳母なのでしょうか?では小生の両親は何処に…と、考えたところで猫ではない事を思い知るだけでしょう。
「折角こうして勇者候補の転生者を迎えたというのに…、家の嫁はとんだ愚図だよ。」
「すみません…。」
「ヒロトは我が家の将来を決める子でもあるんだ、怪我一つさせるんじゃないよっ。それと食事の支度はもっと早く済ませとくれっ」
「……すみません…。」
言葉は分かりませんが、主従の関係か姑と嫁の関係だろうと察する事は出来ます。未だに何だかんだと話を続ける年配女性、ただ頭を垂れて合間合間に何か呟いている母上。恐らくネチネチと小言を言っているだろう年配女性に只管謝る母上…といったところだろうか。
「あー…、う、うーっ、あー。」
「あ、ヒロト様。すみません、お母様。直ぐに支度しますので…。」
「急いで頂戴よっ。」
やはり発声は出来ませんか。仲裁をしようと思ったのですが、呻き声のようなものしか出ませんでした。小生の声帯は人間のそれのようですね。猫とは違うと改めて感じました。
まぁ、これでこの場だけでも収束してくれるのなら御の字…としましょうか。
母上は小生を抱き上げて微笑んでくれました。意図が伝わったのならば良いのですが…。
子守歌を歌ってくれる母上の声は澄んでいて、眠るには最適です。心地良いまま眠りに落ちていくのを感じ、遠くで扉が閉まる音を聞いた気がします。
ミルクを与えて貰って眠って、と毎日変わらない時間を過ごしています。
時折母上を年配女性が叱責している様子なのを聞きますが、特別な事は無く日々は過ぎていきます。ぼんやりとしていた視界も徐々にはっきりとしてきました。母上はやはり可愛らしいお顔をしていましたよ。…といっても小生の主観であって、人間の中でどれ程の容姿なのかは理解出来ませんがね。
今日は少々騒がしく感じましたが、まさかお出掛けとは…。
小生も伊達に年を食っている訳ではなかったようです。…否、この世界に生まれた赤子の身体だからかも知れませんが、最近では少々言葉が分かるようになってきました。
小生が1歳になった記念に教会に行く…と言っていたような気がします。長文になると未だ把握出来ませんので恐らく、ですが。
母上に抱かれて訪れた教会は空気が澄んでいて心が洗われるようでした。
何やらキラキラと光が降り注いでいるように見えたのでつい手を伸ばしました。しかし触れる事は叶わず、母上にあやされてしまいました。…動く物を見るとどうにも…、癖が抜けなくていけませんねぇ。
「あれから一年、何事もありませんでしたか?」
教会の奥へと続く扉。他の参拝者を通り過ぎた先に荘厳な雰囲気の広間がありました。
少し息苦しくも感じるそこに、多くの人間が立ち並びその中央、広間の奥に立っていた初老の男性が母上に声を掛けると母は跪きました。
「お蔭様で、怪我も病気もなく健やかに。」
「それは良かった。ヒロト様はこの世界を救う大切なお方、勇者様なのですから。」
やはり小生は「ヒロト」という名のようです。美しき死神が間違えた青年が佐藤大翔…、やはり彼だと思われているのでしょう。
そして、年配女性もこの初老の男性も小生を「勇者」と形容するのです。勇者とは、勇気のある人、勇敢である人の事だと思ったのですが…。小生は生まれたての赤子であって勇気があるかどうかなど判別出来ないと思うのです。何を基準にしているのやら…。
「神官長様、ヒロト様は本当に勇者なのでしょうか…?」
「…女神様の意向を理解出来ない、という事ですか?」
「滅相もございませんっ!…ただ、子供らしく泣く事も無くずっと眠っているのです…。子供らしくないといいますか…。」
猫ですからねぇ。人間の身体ではありますが、睡眠は猫の時と同じようでして。
深く眠れる時間は少なく、浅い眠りが殆どなので落ち着かないのですよ。小さな音でも目が覚めてしまいますのでね。
「それこそ勇者らしいではありませんか。凡人とは違う、そういう事なのでしょう。」
「…あっ!」
母上、その腑に落ちたという表情は止めて頂きたい。違いますから。勇者ではなく猫なのです。…弁明出来ないのがもどかしいですね…。
「ステータスを確認したところ、新しいスキルは増えていませんでした。成長すれば使い方も覚える事でしょう。《女神の加護》は変わりありませんので、ヒロト様が勇者であることは現状揺るぎありません。」
「ありがとうございます。」
揺らいで頂きたいんですがねぇ。勇者とは後世の方々に認められたり、その実績から称される人の事だと思うんですよ。それをまだ赤子の小生に形容するのはどうかと…。
【すてーたす】だとか、【すきる】だとか…その辺りは小生の認識不足なのでしょうが、未だに理解は難しいです。
神官長と呼ばれた初老の男性が手を翳して何やら呟くと目の前にテレビのような四角いものが見えますが、何が書いてあるのかさっぱりでして。数字は分かりますが、何を意味する数字なのかは分かりません。
深く考えると疲れるんで、早く帰りたいものです。