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カスタード

作者: 異邦人

実際の経験をもとに書いた短編です。読んでいただけるありがたいです。


 バン、という鈍い音がした。

 カムデン街のカフェのテラス席で、通りの人並みを眺めながらモカを飲んでいるときだ。

 通りの左から現れた金髪の女が歩きながら突然、食べかけのパンをこちらに投げつけたのだ。

 俺はあっけに取られて、窓ガラスを見つめた。窓ガラスにはカスタードクリームがべっとりこびり付き、重量に負けて垂れ始めている。その下では、ぐしゃぐしゃになったカスタードクリームのパンが、店外の丸テーブルに散乱していた。

 何事かと思い女を目で追ったが、その時既に女の姿は人並み紛れて見えなかった。

 視線を感じた。横を向くと、店内で僕とは反対端に座っていた女性が目を丸くしてこちらを見ていた。女性の瞳には動揺が浮かんでいた。

 僕は肩をすくめて、モカのカップに口を付けた。そうでもしないと間が持たない気がした。 

 隣席の老人は背中を丸めたまま身じろぎもしない。今の出来事などなかったかのように、フリーペーパーに目を落としている。いや、実際、カスタードにも気づいていないのかもしれない。それくらい、老人はカフェの音楽からも、店の雰囲気からも、他の客からも隔絶して見えた。

 そうこうするうち、店の店員が箒とちりとりを持って外に出てきた。店の外のに並んだ丸テーブルをタオルで丁寧に拭き、ゴミを箒でちりとりに集めていく。手早く掃除を終えて店に帰ってきた。ガラスにこびりついたクリームには気が付かなかったようだ。クリームは目の前のガラスにべっとりこびりついたままだ。

 通りにはひっきりなしに人が流れていた。

 僕はクリームをしばらく眺めていた。決して気分のいいものではない。でも、そのクリームからどうしても気を逸らせなかった。

 もう一度、パンを投げた女性のことを思い出そうと目を閉じた。

 金髪で二十代後半くらいで、中肉中背。カーキ色のハーフコートを着ていた。隣に男がいたかもしれない。ベビーカーを押していたような気もするが、或いは大きな袋だったろうか。

 記憶は曖昧だった。何しろ、一瞬の出来事だったし、頭が混乱していた。加えて、女性は背を向けて去っていったので、僕の席の角度からだと見えづらい。

 女が僕を意図的に狙ってパンを投げたのかはわからない。それどころか、僕と女性とは赤の他人だ。彼女には見覚えもない。個人的に恨みを買うようなことをしたとはとても思えなかった。

 では、アジア人だったからだろうか。イギリスで人種差別があるのは知っている。僕自身、あからさまに差別を受けたことはないが、アジア人への偏見を持っている人もきっといるだろう。それなら話は分かり易いが、ロンドンにいるアジア人は何も僕だけではない。何故、通りすがりに僕にパンを投げつけたのかという疑問は以前として残る。

 彼女の個人的な理由という可能性もある。彼女の記憶上の人物と僕がよく似ていて、僕を見て嫌な記憶を思い出したからという可能性も否定はできない。

 或いは、そもそも理由なんてないのかも知れない。パンを投げた先にたまたま僕の席があっただけかもしれなかった。

 僕はこの街にはもともと縁もゆかりもない。訪れたのも初めてだ。仕事帰りにバスの行き先を間違って下車した街で、たまたま通りに面していたカフェに入った。まさか、こんな出来事に巻き込まれるとは思ってもみなかった。

 自分がいる必然性もない場所でいきなり受けた仕打ちにどう対処していいか思いあぐねていた。

 正直に言えば、どうしようもないくらい気落ちしていた。救いようがなかった。もし、目の前に蜘蛛の糸が垂れて来たら、躊躇うことなく鷲掴みしていただろう。

 もちろん、僕はこの世の中に一定数のクレイジーな人間がいることは承知している。ここでいうクレイジーとは、ド派手なファッションや全身ピアスや過激な言動で他の人たちとの違いを際立たせようすることではない。むしろ、外見は一見まともだが、その実、常識の欠片も持ち合わせていない人たちのことだ。もし、脳をスキャンしたら、前頭葉だけすっぽり抜け落ちているような人たちのことだ。

 そういう人たちに世間の常識や道徳、倫理観を当てはめて考えるのは無理だろう。それこそ上空八千メートルで熱帯魚でも探すようなものだ。だから、彼女もそういう人間だと判を押すことで割り切れば良いのかもいれない。

 でも、今日の僕はそれをできずにいた。理由は分からない。

 

 気がつくと、テーブルのモカはすっかり冷めきっていた。カップに口を付け、一気に飲み干す。冷めきったモカは、まずい上に喉にこびり付いて気持ち悪い。

 テラス席の女性は知らぬ間に去っていたようだ。飲み終えたカップがポツンとその場に残されている。

 隣の老人が椅子を引いて立ち上がろうとしている。老人は口をもぐもぐと動かして、なにやら声にならない言葉を発していた。動作は酷く緩慢で、立ち上がっても、背は石膏で固めように曲がったままだ。

 時計を確かめる。そろそろ帰る時間だ。家で片付けなければいけない仕事が二、三ある。今日中というわけではないけれど、期限を延ばしたくない。

 カフェを出ることにした。人並みに倣って通りを歩く。パンを投げつけた女が歩いていた方向だ。このまましばらく歩けば、バス停に辿り着くはずだった。

 カムデンにはレストランやギフトショップの他に、タトゥーショップや服のマーケットも軒を連ねている。パンク・ロックの街としても知られる若者の街らしく、あちこちにド派手な看板が目立つ。

 小川が流れていて、その周りにも出店が並んでいる。川岸の橋を渡ろうとすると、若い黒人の男が「マリワナ、マリワナ」と連呼しながら近づいてきた。非合法とはいえ、結構流通しているのかもしれない。ロンドンでマリワナの匂いを嗅いだのも一度や二度ではない。

 若者を無視して通り過ぎる。スマホの地図をチェックすると、バス停へ続く道を間違えていたことに気がついた。バス停は今来た道と反対方向だ。スマホの電信状態が悪く、歩く方向を示す矢印正確ではなかったのだ。

 やれやれと思い、振り返った瞬間、不意に声を掛けられた。

「すみません」

 振り返ると、建物の壁の窪みに紛れるように、女が立っていた。東欧系の白人で髪はダークグレーをしている。服は汚れてみすぼらしく、ひと目でホームレスだとわかった。

「トラブルに巻き込まれてしまって、食べるためのお金もありません。少しでもいいので、お金を恵んでいただけないでしょうか」

 女はそう言い、両手を揃えて差し出した。

 ロンドンには多くのホームレスたちがいる。市街地を歩けば必ず見かけるので、別に珍しくもない。あまりに多いので、ホームレスたちにいちいち施しを与えていたら、たちまち財布の中身が空になってしまうだろう。そんな自己弁護も手伝って、今まで、歩みを停めたことはなかった。はじめは罪悪感を感じたが、人並みに倣ってやり過ごすうちに、いつの間にかその気持ちも消えてしまっていた。

 だから、女に声を掛けられたとき、当惑を覚えた。視界から消していた筈の場所から声が聞こえたからだけではない。実際、僕は女の言葉にショックを受けていた。

 女の言葉使いは、今までホームレスに抱いていたイメージのそれとは明らかに違った。声の端々に知性と、なにより誠実さを感じた。

 僕はポケット手を突っ込んで弄る。モカを買ったときに貰った釣り銭を女の手のひらに置いた。

「ありがとうございます」

 女は釣り銭を大事そうに受け取る。女の手のひらは汚れて黒ずんでいた。

 陽も暮れかけている。黒い雨雲もちらほら見える。雨が振るかもしれない。僕はいま来た道を戻り、バス停を探す必要があった。人並みに逆らって通りを戻ることにする。

 先ほどの若者がまたもや「マリワナ、マリワナ」と連呼して近づいてきたが、小走りで迂回してやり過ごす。先ほどのカフェを通り過ぎて信号を渡った。

 歩きながら、何故か先ほどのホームレス女のことが頭から離れなかった。知性も教養もあるように思えた女は何故ホームレスにならなければならなかったのか。女はトラブルに巻き込まれたと言っていた。もし本当だとしたら、どんなトラブルに巻き込まれたのだろうか。強盗か詐欺にでも巻き込まれたのだろうか。

 女は酷く痩せ、手は黒く汚れていた。きっと十分に食事も摂れていないに違いない。

 雨雲が空を覆い始めている。今夜は雨が降るかもしれない。

 そうなったらあの女は今夜、空腹のまま一夜を過ごすのだろうか。どこで一夜を過ごすのだろうか。女が羽織ってる衣服だけでは、夜の寒さを凌ぐにはあまりに不十分だ。

 連綿と続く女への気がかりに後ろ髪をひかれるような思いで足を留めた。振り返るべきかどうか一瞬躊躇し、その場に立ち尽くして下を向いた。

 その横を、無数の人並みが過ぎていく。誰かの罵声が聞こえる。クラクションが聞こえる。そのすべてを飲み込むように辺りが暗くなってくる。

 不意に顔をあげると、通りの向かいに明かりが灯っている。パン屋が見えた。店じまいの時間らしい。店内の椅子をテーブルの上にあげている。

 気づくより早く、駆け出していた。渋滞の車の隙間を縫って通りを渡り、店の前までたどり着いた。息が切れていた。年増の女店主が怪訝な顔をしてこちらをみた。

「パンを買いたいんだけど」

 そう言って、尻のポケットから財布を取り出した。

 店主は面倒くさそうな顔した。店仕舞いの時間なのだから無理もない。とはいえ、店を閉めればパンは廃棄することになるかもしれない。そんな算段が働いたのかは分からないが、店主は、カウンターに入った。「でも、早くしておくれよ。もう閉めなきゃいけないから」

「オーケー」 

 僕はガラスケースに目を落とす。売れ残りのパンが並んでいる。揚げパンやクロワッサンなどが残っている。

 先ほどのホームレスの骨ばった指が脳裏に浮かんだ。

「これと、これと」

と指をさす。僕はケースの端に目を向けた。カスタードクリームパンがあった。

「それもくれ」

 財布の中身を確かめて言った。まだ少々ある。女が寒さを凌ぐ場所を見つけられるくらいの額は渡せるかもしれない。

 店主はガラスケースからパンを選び、白の包紙にいれていく。代金と引換に紙袋を受け取ると、僕は今戻ってきた道をまた走り出した。


読んで頂きありがとうございます。僕の他の作品も読んでいただけると嬉しいです。

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