実り
後編です。
この辺からほぼ時代・舞台関係なくなります。
あと龍一郎の振り幅凄いですが人生のターニングポイントだと思ってヌルい目で見てください。
なんでも大丈夫という方は、よろしければお楽しみください。
6
十年以上慣れ親しんだ自宅である筈なのに、なぜかみちるは鍵を開けるのに緊張した。父親に売られたも同然で黒田の家に行ったのだから、帰ってくるのは気が向かなかったが、それ以上に今日だけはあちらに居たくなくて、嘘をついたのだ。
しかし実際、近所の人から話を聞くと、最近父の様子はおかしいらしい。確かに今まででも酒びたりになったりしていたが、それでも仕事はきちんとこなして生計を立てていた。それが今では一日中家に閉じこもっているらしい。
もしかすると、一人になったから気が緩んだのだろうか。
みちるはドアを開けると、普段から父が使っている仕事部屋を覗いた。
居ない。
「お父さーん、どこに居るの?」
部屋中探し回っても、どこにも居なかった。あとは、母の部屋だけだ。
みちるは、母が亡くなってからこの部屋に入ったことがない。箪笥も机もミシンも何もかもが生前のままで残されていて、思い出が生生しい。
「ねぇ……ここに、居るの?」
おそるおそるドアを開けると、父が仰向けになって倒れていた。
「大丈夫?どうしたの!気分が悪いの?」
みちるは驚き、父に寄り添った。ここで倒れていたとしたら、誰も気づかなかっただろう。最悪の場合、みちるが来なければ…。
「沙羅…?」
呉川が目覚めると、そこには出会った頃と変わらない妻の姿があった。
「沙羅!戻ってきたのか?沙羅!!」
「お父さん!違う!私よ、みちる!」
思わず手を差し伸べ抱きしめようとするのを娘は押さえつけた。しかし、酔っているのか夢の中なのか呉川は理解しようとしない。
「何故だ?何故拒む、やはり俺のことが嫌いなのか?」
この返答にあきれ返ったみちるは父を突き飛ばした。
「だから、お母さんじゃなくて、私はみちるなのー!」
「やはり、あの男のことがまだ…」
呉川の表情を見る限り、拗ねているわけでもおどけているわけでもなく、深い悲しみがあった。みちるには信じがたかったが、母には父のほかにも恋人が居たのだろうか。
「あの……男って、誰のこと?」
さっきから鼓動の音が邪魔して耳がよく聞こえない。何故だろうか、嫌な予感はみちるの脳裏を纏わりついて最悪の結果を導き出し続ける。
だとしたら、昨夜感じた違和感にも納得がいく。しかし、それを認めてしまうと今度は歓迎できない部分にまで余波が襲ってくるのだ。
そんなこと全てを考慮しているわけではない。ただ、本能的にこの質問の解答を聞いてしまえば恐ろしいことになるというだけだ。
それでもみちるは繰り返した。
「あの……男って、誰!」
呉川はこの世で最も憎く、最も深い謝罪が必要な人間の名を口にした。
「黒田……誠二郎」
大きな衝撃と吐き気に襲われた。
やはり母は黒田誠二郎を愛していたのだ。
呉川昇は憂鬱な気持ちで黒田の門を叩いた。写真の師匠に頼まれたとはいえ、こんな古そうな家での写真撮影はロクでもない。誰か爺さんが遺書を書き始めたり、いらん事言いが「真ん中で写ると魂抜かれるぞ」とか言い始めたりする。
今回、この家だって古くて格式高そうな、しかも代々続く医者の名門だそうだ。
これから起こる騒動を予想し、呉川は深くため息をついた。こんな爺ども相手の仕事なんて、したくない。もっと撮りたい被写体は自分が心から美しいと思えるもの。
故郷の秋田の穂より輝く美しい女性が撮りたかった。
こんな昔の消毒薬くさい家では見つけられそうにないが。
「あなたが、写真の人?」
しかし、そこで出迎えてくれたのは栗色の長い髪の美少女だった。
頭上を雷鳴が打ち砕くような衝撃とともに、呉川は激しく恋に落ちた。後に聞いた彼女の名は黒田沙羅。アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、名門の黒田では異端児扱いを受けていた。たったひとり以外からは。
「沙羅、写真家の先生がいらしたのか?」
母屋からすぐに青年が現れた。美丈夫な容姿に素晴らしい体躯。呉川の心は打ち砕かれた。これほどの美少女が一人でいるはずはない。
しかし沙羅は青年の言葉に応じるわけでもなく、明らかに顔を背けると向こうへ行ってしまった。彼女のこの態度は呉川を勇気付けた。
どうやら彼女はこの美しい青年、今は呉川の雇い主である黒田誠二郎が好きではないらしい。
誠二郎のほうの気持ちは誰の目にも明らかだった。誰よりも深い愛情を、そして慈しむ気持ちを彼女だけに向けている。そして彼は絶えず周囲を警戒していた。自分以外の誰にも沙羅を傷つけさせることのないよう、また沙羅を誰にも連れ去られないように、呉川にも鋭い一瞥を向けた。
本当のところ、真綿でくるんで誰にも見せないように自分の中だけに閉じ込めておきたい。顔にそう書いてある。呉川は言葉も無く嘆息した。
これではどうしようもない。早く帰ったほうが身のためだろう。
しかし、この日に米寿を迎えた大叔父の為の写真を撮ることはできなかった。その大叔父が「今日は仏滅で日が悪い」と言い出したためだと呉川には伝えられた。
後に沙羅から聞かされた話では、この日に黒田家を震撼させる事態が起こっていたのだ。
大叔父の米寿を迎える祝いの為に、本家に呼び出された多くの親戚の大老らに、黒田誠二郎が沙羅を婚約者として迎え入れることを発表した。
写真を撮ってしかるべき佳き日まで黒田家に滞在し、写真を撮影する為だけに家に置かれている呉川には全く気付かれることなく黒田の家は大きく揺らいだ。
口々に沙羅を罵り、そこまで欲しいなら妾にすればよいと云う翁共に誠二郎は決意を称えた目でこう応えた。
「私か、黒田の沽券か、どちらをお選びになるのか?」
翁らは黙り込み、黒田の将来と世間体を秤にかけた。この場に沙羅は当事者であるにもかかわらず、出席していなかった。彼女には夕食前に、誠二郎本人から次第を聞かされると、声にならない叫び声を上げたらしい。思わずその場から逃げる沙羅を追いかけた誠二郎の剣道着姿を、呉川はちらりと見かけた。
呉川が次に沙羅と会ったのは、夕食後のことだった。離れまで散歩していた呉川の前を、沙羅が死人のような顔で通り過ぎた。殆ど色のない顔とは対照的に、暗闇でも向日葵色のサンドレスがぼんやりと光を放っている。
「ちょっと、君、……沙羅ちゃん、大丈夫?」
沙羅は何も云わずに振り返った。呉川は息を飲み、何も言えなくなってしまった。
この世に、これほど美しい人があろうか。その容姿、だけではない。彼女は内面の美しさまでもが衣を通して表れる。こんな人間があってもいいものか。
その美しさに、人ではないような、夭折の儚さまで表れているようだった。事実、彼女の美しさは喪失の危険と紙一重で存在していた。そんなことは、当時の呉川には瑣末なことだった。
「ありがとう、平気よ」
「な、なにか悩んでいるんじゃないのか?」
呉川は苦し紛れに話を切り出した。悩み相談ならきっと、少しでも話が長くなるのではないか、じっと彼女の目を見つめていても不自然でなくなるのではないか、と心の中で逡巡していた。
沙羅は糸が切れたように口を開くとつらつらと喋りだした。大人しい印象を受けていた呉川にとっては軽い驚きとともに、台詞を全て理解するのに時間を要した。
「だから何だって言うの?人間誰しも必ず悩み事の一つや二つくらいあるんじゃないかしら?私は確かにこの事態を歓迎してはいなかったけど、でも誰かに何とかして欲しいだなんて今迄一言も云ったことないわ。誰も居なかったから、誰も迎えてくれなかったから、一人でもがいてきたのに……何でも叶うとしても、誰かに頼ったりなんてしたくなかった。心を動かすことなんて、誰にも命じることなんて出来ない筈よ。私の心は私だけのものなのに。今ではこれが私の持つたった一つのものなのに。」
「君は今まで一人で戦ってきたの?」
「別に、そんな訳ないわよね。誰しも誰かに生かされているんだから、もし本当にたった一人だったなら生きてはいないわ」
「君は誰に生かされてきたの?」
その時、藪の中から沙羅を呼ぶ誠二郎の声が響いた。よほど探し回ったと見え、声が疲労に掠れている。いや、緊張かもしれない。何しろこのときの彼は、求婚した相手に返答も貰えずに逃げ出されてしまっていたのだから。
彼女は目を閉じ、黙ってその言葉を聴いていた。
職業柄か、呉川は人間の表情や仕草から感情の仔細を読み取れることがままあった。一瞬、羞恥に頬を染めたかと思えば、彼女は瞳を伏せた。沙羅の苦悩、そして戸惑いを見て取るといつの間にか彼女の手を取ってこう言っていた。
「何か僕に出来ることはないだろうか?……君のために」
沙羅は今ようやく呉川に手を掴まれていたことに気がついたようだった。そこには嫌悪も動揺もなく、ただ呉川の目をしっかり見据えてこう云った。
あぁ、この時確かに彼女はこう言ったのだ!
「私を連れて逃げてくれる?」
「それで、どうしてお母さんが黒田誠二郎を好きだと知ったの?」
自分の瞳を覗き込むみちるに、呉川は今は亡き沙羅の姿を重ねた。まるで彼女に詰問されているようだ。
『それで、どうして私が誠二郎さんを愛していると知ったの?』
私はまだ自分を切り裂かれるより深い苦しみの中に居る。愛しても愛しても感謝しか与えられず、決して自分を愛しては呉れなかった沙羅を思うと、愛情と云う真っ白な敷布の中一点の染みが滲んだ。失望だった。
「まだ、続きがあるんだ。君にも言っていないことが…」
やっと撮影の許可が下りた。
沙羅との婚約を強引に周囲に認めさせた誠二郎の表情は晴れやかで、これからは自分の思いを隠さずとも良い至福に酔いしれていた。
沙羅の表情は対照的で、深い悲しみと絶望に感情を閉ざしていた。
こんな状況では、誰でも彼女の気持ちを疑うものなど居なかっただろう。呉川も意に沿わぬ婚約を突きつけられた彼女が、とっさにああ言ったのだろうと思っていた。二晩考え込んだ結果、呉川は今夜、彼女を連れ出す覚悟をしていた。
「では集合写真を撮りますので、背の高い方は後ろに…、あ、御隠居は前の椅子に、ハイ、それで結構です。では皆様、合図の後はしばらく瞬きなさらないように!半目になっても構わないなら結構ですけどね」
沙羅は誠二郎の隣で身じろぎもしなかった。レンズ越しに見ると、改めて似合いの二人だった。沙羅の儚い美しさは力強い誠二郎の姿に、現実味を帯びさせる。少し近寄りがたいほどの誠二郎の研ぎ澄まされた雰囲気は、沙羅と居ることで柔和になる。
お互いがお互いを支えあっているように見える。今まではそうだったのかも知れない。
しかし、これからは…。
そのとき、急に呉川に恐ろしい不安が形となって襲ってきた。まさか、かぶりを振って不安を打ち砕こうとしたが、そう簡単に消えるものではなかった。
「写真師、遅いのぉ」
真ん中の御隠居が痺れを切らして呟いた。
われに返った呉川は、しばらくこの不安をよそにやることにした。
「はい、3・2・1・チーズ!」
集合写真のあと、誠二郎が呉川に声をかけた。何も気付いていないその自信に呉川は嫌悪を覚えたが、難なく応対することが出来たのは、沙羅がいたからだろう。
「二人の写真も撮ってもらえないだろうか?」
「ええ、構いませんよ」
その返答に沙羅があからさまに嫌な顔をした。
その顔をまともに見た誠二郎が急に咳き込んだので、呉川は驚いた。こんなに頑強そうに見えるのに、まさか病でも持っているのか。
「……笑うの、やめてよ」
沙羅が呟いた。この発作の正体がただの笑いすぎだと知ったとき、衝撃と嘘だろという呟きがこぼれた。
「いや、やはり記念だからな、しゃ、写真を」
「だから、記念になるようなことなんて無いわ」
苛立たしげに言葉を放つ沙羅は、何かを隠しているようにも見えた。それが何かは分からないが、彼女は頑な精神でそれをしっかり守っている。
「沙羅がやっと俺のものになるんだ。記念だろう?」
「私は今までもこれからも、私だけのものです!」
「……精神はそうか知らんが、女性は何かに属さないと生きてはいけない。沙羅が俺に属すようになる記念だ」
「貴方って人は!どうしてそんな独善的で男尊女卑の考え方しか出来ないんですか?」
「それが、昔からのやり方だからだ。新しい婦人だ、ジェンダーだといくら論じても、世界は根底から変わっちゃいないだろう?」
「それはきっと貴方みたいな男性ばかりだからだわ」
一触即発の雰囲気だった。
喧嘩が、ではない。
「写真を。」
じっと黙っていた目前の男が言葉を発したことで、二人はしばし忘れていた呉川の存在を思い出した。
少しずつ離れていく沙羅の腕を引くと、二人は仏頂面でフィルムに納まった。
シャッターを切ったあと、まだレンズ越しに沙羅を見つめていた呉川は胸を切り裂かれるような痛みを感じた。
ふと、隣の樹木に目を奪われた誠二郎の横顔を見つめていた沙羅の視線は、深く澱みない愛情を称えていたからだ。見られていることに気付かれず、あの嫌味に歪む口元が無ければ沙羅は惜しみなく誠二郎に慈しみの眼差しを向けることができたようだ。
その目が全てを物語っている。
自尊心や、自分の心を守るために、たとえ抵抗しても、最初から抗えない何かがある。
凡て赦している、この世で黒田誠二郎だけは特別な位置に居る。
だが、しかし、何故?
もし沙羅が誠二郎を愛していたのなら、素直に婚約すれば何もかも解決したのではないのだろうか?愛する人に愛され幸せな生涯を送ることができたのではないだろうか?
何か言いたげだった沙羅の言葉は誠二郎にかき消された。
「誠二郎さん、私は…」
「行くぞ、沙羅。まだこれから挨拶回りをしていかなくてはならん」
とっさに呉川は沙羅の心の声が聞こえた気がした。彼女が結婚を拒む理由は、ただ一つ、この黒田だろう。沙羅が黒田でさえなければ、誠二郎が黒田でさえなければ、彼女は真っ直ぐ彼の胸に飛び込んだだろう。
でなければ今この場で舌を噛み切って命果てているはずだ。
だから彼女の次の言葉は容易に想像がついた。
「あんな人たちに挨拶するなんて嫌です、それに、私、貴方と結婚はしません。」
誠二郎はこの言葉を笑い飛ばし、一人で挨拶回りに赴いた。
その晩、深夜も過ぎた頃に呉川は沙羅の部屋の前に居た。彼女を連れ出し自分の師匠の所にひとまず逃げるつもりだった。すでに連絡はついていて、国鉄の切符も二人分買っていた。
「沙羅ちゃん?僕だ、呉川だよ…。」
彼女は部屋に居ないようだった。夕食前に渡された手紙ではこの時間で合っていたはずだ。不安が手っ取り早く胃痛になって表れた。
「呉川さん?こっちよ」
沙羅が廊下の影から現れた。必要なものだけを小さな鞄にまとめ、既に出る支度を整えていた彼女の姿が呉川の一縷の望みをつないだ。
後に気付いた。彼女は誠二郎の部屋のある方向からやってきた。旅立つ前に一目だけ見てきたのだろう。勝ち誇るでもなく、嫌味に歪むわけでない、安らかな寝顔を。
一通り見ておいた庭の小道から裏口までを彼女に先に行かせた。既に門は閉められているので、裏口のすぐ横の木から塀を越えることにした。沙羅は呉川の肩に乗り、難なく越えることが出来たが、呉川はなかなか塀まで登ることが出来なかった。
時間にして数分。そのときだった。
「動くな」
黒田誠二郎が、自分の背中に木刀を突きつけていた。
背筋が凍る感覚と、外で待っている沙羅に気付かれまいとの焦燥で、呉川は口を開くことすら適わなかった。
「ここで死ぬか、沙羅を諦め生きるか?」
有無を言わさぬ二者択一に僅かな反駁が目覚めた。
「彼女はここでは生きられない、僕は死ぬわけにいかない」
誠二郎の言葉はなぜかひどく冷静で、終始これが予想できた事態だと言わんばかりの態度だった。
「沙羅は、おそらくお前を愛していない」
「知っている」
「お前も相当の阿呆だな、自分を愛してない女の為に命を懸けるのか?沙羅はああ見えて古風な女だ。心変わりすることは無いだろう」
誠二郎は過信から言っているわけではない。今ははっきり分かる。
沙羅は黒田誠二郎を愛している。だからこそ黒田の家を出るのだろう。
なんて残酷で、自己憐憫に浸り、男のことを思い遣らない、ひどく美しい女なんだろう。この世で二人の男をどん底に突き落とし、自らも生きながらの不幸に身を投じ、しかしそれでも諦めなかったのは自分のささやかな夢。
自分が夢見た幸せな家庭を作ること。
平凡で、それでいて一般的で、ひどく騒がしい家庭。子供をもうけ、誰よりも慈しみ両親二人で愛情を注ぎ、真っ直ぐな人間を育てること。
大成功を収めたと感じた彼女は、まるでもとよりこの世の住人ではなかったように、静かに息を引き取った。
病に倒れた彼女が最後に残した言葉は、思い出したくも無い。
「あなた、ごめんなさいね。今度は、幸せになれる人を探して?」
最後まで自分のエゴに付き合わせて「ごめんなさいね」?
最後まで呉川昇という男を愛することができなくて「ごめんなさいね」?
まさか、今でも黒田誠二郎だけを愛しているので「ごめんなさいね」?
ふざけるな。君以外の女にどれほど愛されたとしても僕は幸せになんてなれっこない。
かくも人生は上手くいかないものだろうか。
「お父さん?」
自分を覗き込むみちるの美しい顔。沙羅の顔。
どうしてもみちるを見ていると沙羅を思い出さずにはいられない。それが苦しい。誰よりも自分の傍に居ながら、決して愛しては呉れなかった女。
愛していると同時にひどく憎く思える女。
黒田に嫁がせたかったわけではない。彼女をこのままこの狭い世界の中に閉じ込めてしまえば、二度と表には出せなくなってしまうのが怖かった。
沙羅への思いをみちるに継ぎそうになるのが恐ろしかったからだ。
それでも沙羅を、そして二人の間に生れたみちるを愛しているからだ。
「沙羅を、あの時連れ出さなければよかったかな?しかし、それじゃあ、みちるには会えなかったな」
その台詞にみちるはぎょっとした。父の台詞と似ているようで、全く別のことが頭に浮んだからだ。
もし父が母を連れ出さなかったら、私は黒田龍一郎には会えなかった?
そんなことが、どうしてこんなに悲しいのだろう。
7
「そうか、みちるのお母さんも大変だったんだね」
「それよりもお父さんが可哀想で…」
みちるは言葉を詰まらせた。約束の木曜日、今でもエリオはみちるに会い、助言をしてくれる。しかし、最初からそう設定されているのか、故意に話題を避けているのか、黒田龍一郎についての話は出なかった。
そして、とても気になる右頬と両腕のアザの理由を問いただしても、やはり言葉を濁すのみだった。どうやらエリオは自分に何か隠しているらしい、みちるはそう感じると複雑な気分になった。
以前のことがあってから、気まずい雰囲気にならずに話せたのは嬉しい事なのだが、やはり前とは違う、踏み込めない域が見えるようになってしまったのが悲しい。ただ、そこを敢えて踏み込んでしまう勇気をもう持っていないことにも口惜しさがこみ上げる。
これが大人になるということかしら。みちるは胸中で一人ごちた。
父から母の話を聞いた、あの日の翌日から、黒田龍一郎とは顔を合わせていなかった。もともと剣道の朝練、学外活動の家庭教師など、朝早く外出し夜遅くまで帰らないことが多いらしいが、全く姿も影も見当たらないのは初めてだった。さらに、彼はまた二日ほど謎の外泊を重ねた後、今朝早く食事も取らずに外出していた。
どういう顔をしていいのか分からないみちるは、少しの間は喜んでいたが、今ではこの意図しているともとれる不在に重苦しい憂鬱を抱えていた。
それと、黒田龍一郎を思うと心が何かを拒否するように重苦しく感じる。
母が黒田誠二郎を愛していたと父に聞いてから、みちるの中で信じていたものが崩れ、精神は不安定になっていた。この状況をひどく疎ましく感じた。
飲み込めない塊がずっと喉の奥にあるようで、何をするにも落ち着かない。周囲の風景でさえ、今までとは違う。世界は輝きを失われたようだった。
俯いて黙り込むみちるには、真剣に見つめるエリオの目は見れなかった。
彼はみちるの内面が一夜にして凄まじいほどの変化を遂げたことを、彼女も知らないうちに感じ取っていた。もはや、立ち居振る舞いでさえ、別人のようだ。
それでいて姿は変わらず、以前のみちるのままだったのだが。
「違うでしょ?」
「え、何が?」
「その話でお父さんが可哀想だとか、そういう客観的な感想を述べるんじゃなくて、みちるはその話を聞いて何か感じなかったの、気持ちの変化とか」
「気持ちの、変化…?」
「ああもう、他人から与えられる命題じゃなくて自分で導き出せる問題があるはずでしょう!それかわざと避けてるとしか思えない!」
「エリオ、意味が分からないわ。それに…あなた今日ヘンよ?」
みちるの指摘にエリオは苦虫を噛み潰した顔をした。そんな表情でさえ見るのは初めてだったので、ますますその不機嫌に興味が傾いた。
「時間がないんだ」
「え?」
「いや、朝に嫌な知らせが届いただけだよ。大したことはない」
その知らせは祖国からの手紙と、友人の噂と二つあったこと、後者は避けている話題の張本人であることも黙っていた。
「大したことないなんて!何の話だったの?」
エリオは手を振って何でもない仕草をした。話題のシャットアウトだった。
そんな風に隠されると余計に知りたくなるが人の性であり、みちるはそれに素直に従うのを常としていた。
「ねぇ?何の話だったの…」
エリオのごつごつした大きい手を取ると、みちるは甲を撫でた。昔、母がみちるの癇癪を宥めるためにそうやっていたのを思い出したのだが、エリオには別の作用が生まれたようだ。それが何なのかはみちるには計りかねたが。
エリオは自分の傍に居る美しい人と握られた手を交互に見つめ、いっそのことここで全てを暴露してしまい、みちるを祖国に連れ去りたい衝動と闘っていた。
もう一度、みちるを見つめる。
彼女は全くエリオの意図には気づかずに可愛らしく微笑んだ。
瞬間、硝子で出来ていたようだった良心が砕けた。
「みちる…驚かないで聞いて欲しいんだ、実は…」
「ヴェッキオー、黒田見なかったか?」
エリオがみちるの手を取り、自分の中で抱えていたものを口にしようとしたその時、白衣の教授がエリオを呼んだ。タブーの話題の名とともに。
「し、知りません…」
「そうか、南棟のほうだと聞いたんだがな。見かけたらレジュメを送れと伝えておいてくれ」
「分かりました」
一連の会話を黙って聞いていたみちるは、もしかすると自分が伝えたほうがいいのではないかと考えた。しかし、どこでその話を聞いたのかと問い詰められるわけにはいかないので、やはり自分では不足だと気づき、がっかりした。
やっと黒田龍一郎とまともに話す機会が巡ってきたのに。
そしてそう思った自分をひどく嫌悪した。
「……らしいね」
「え?」
思索にふけり、エリオの言葉を聞いていなかったみちるは驚き顔を上げた。エリオは気にしていない様子でもう一度繰り返した。
「研究室にも出ていないし、家にも帰ってないらしいね?君の婚約者は」
みちるは言葉を詰まらせた。婚約者とはいえ名ばかりで、自分は黒田龍一郎がどこに行ったのかさえ知らない。知る由もないことが何故こんなに腹立たしく、胸を痛めるのだろうか。
「どこに行ってるのか、知りたい?」
エリオが知っているはずがない。その自信が虚勢を張る要因になった。
「別に、どうだっていいわ」
「みちる…あのね……」
「待って!黒田くん!」
エリオがみちるの頬に手を差し伸べて、もう一度告白を試みたときに、今度は女性の声が背後から響いた。
二人はベンチから振り返り、茂みの奥を見つめると、小さな人影が二つ見えた。一つは黒田龍一郎だった。みちるはベンチを離れて茂みに隠れるようにしゃがみ込むと、エリオにもそうするよう促した。
「みちる!良くない!これは良くないよ!」
「しーっ!黙って!」
二人が座っていたベンチのすぐ先では、木々の間に二人の男女が立っていた。
女は長袖のブラウスにセーターをひっかけて、雑誌から出てきたような流行のスタイルに身を包んでいたが、似合ってはいなかった。みちるはそう判断した後、自分の中の黒い感情に気付き、急いで訂正した。育ちのよさを感じさせる、着物のほうが似合いそうな顔立ちだった。艶やかな黒髪をそのまま下ろしている。唇が、口紅のせいだろう、やたら紅く色付いていた。美人だった。
男のほうは黒田龍一郎だった。薄い青のシャツと生成りのスラックスを着た姿は良家の子息にしか見えない。小脇に抱えた医学書でさえ、見映えさせる為の小道具のようだ。どうして、この男はいつでも自信に満ち溢れているのだろうか。その目を伏せるまでの、少しの動きでさえ計算されたような怜悧さを醸し出すのか。
いったい自分が何をしているのか、思い出せないほどに顔が動かない。身じろぎもせずにみちるは龍一郎を見つめていた。
エリオは彼女の様子をため息まじりに観察した。
たった一つの動作で男を知らずのうちに殺せる女がそこにいた。
「待って!まだ話は終わってないのよ!黒田くん?」
「何だ溝谷、まだ何かあるのか?」
黒田龍一郎の態度はいつもと変わりない。少し疲れていることが、みちるにだけは分かった。最近になって気付いたのだが、彼は疲れていると必ず手を強く握っては、開く。
溝谷と呼ばれた女性が微笑みながら黒田に近づいた。
「嫌だわ、どうして紗枝子と呼んでくれないの?昨夜みたいに」
その台詞を聞いた瞬間、みちるの時間が止まった。
隣でエリオがしまったと呟く声も届かなかった。
みちるの脳裏は至極緩慢な速度で先ほどの状況と台詞を処理していた。
家に帰って来なかった黒田龍一郎。彼に会っている溝谷という女性、彼女の台詞は黒田龍一郎が昨夜は彼女のところに居たということだ。それは、つまり…。
「君らしくない軽率な発言だな、溝谷。」
「分かっていてよ。悪いのは黒田くんだわ」
「大学内で親しい雰囲気を出されては困る。そういう契約だったはずだ」
「契約を先に破ったのは貴方よ?私、諦めないから」
みちるはまだ考えていて、後の台詞が聞こえてこない。しかしエリオは恋人同士と呼ぶには険悪でひどく不可解なこのやりとりに興味を持った。もしかすると、黒田龍一郎は興味深い試みをしているのかもしれない。
みちるの推測は更に続く。黒田龍一郎ほどの無骨で無神経な男が女性の名前を呼び捨てるなんて、それは、やはり…。
「……みちる?」
大きな手に頬を包まれて、初めて自分が泣いていることに気付いた。そのまま、ごつごつした指に涙を拭われた。エリオだった。
気がつくと黒田龍一郎は視界から消えていた。
喪失を感じた。
行かないでほしい。自分の傍で、あの嫌味な笑顔でいい、傍にいてほしい。他の誰にも感じている本音を言ってほしくない。あの人のところに行ってほしくない。自分にだけは、抱えている深い精神を、目標を分かち合ってほしい。
瞬間、怒涛のような感情の洪水がみちるの中を支配して、体を動かすことすら叶わなくなった。この目は、指は、足は何のためにあるのだろう。
どうして黒田龍一郎の一挙一動が、こんなに喜憂をもたらすのか。
どうして彼がくつろいでいると感じただけで途方も無い幸せを感じるのか。
どうして彼が少し触れただけで恐れとも嫌悪とも似つかぬ反応が呼び覚まされるのか。
私は黒田龍一郎に恋をしている。
いま、はっきりと分かった。この女性に感じている黒く澱んだ感情が何なのか。
嫉妬だった。
「エリオ…」
「みちる?」
次の瞬間、みちるはすっくと立ち上がった。失くしたのは、悟りに至った釈迦のようにすでに見るもの凡ての意味が分かるような、美しい世界だった。
それは虚構であり、みちるは今まで欺瞞の世界に生きていたことを恥じた。
今までの私は目立たないよう、この容姿のせいで人に疎まれることが無いよう、母のことを悪く言われないように生きてきた。家族以外、一生誰も愛することは無いだろう、と。なぜなら、こんな容姿の私を受け入れてくれる人など居る筈が無いから。必要以上に執着したり、嫌悪する人間は山ほどいたけれど、全くこの容姿抜きで接してくれる人など居なかった。
黒田龍一郎以外は。
彼と居るとひどく自分が醜悪で取り柄の無い十把ひとからげの小娘に思える。彼は微塵も自分の容姿を美しいとは感じていない。どころか、私を能面かのように個性のないものだと言わんばかりに扱っていた。
なんて高圧的で独善家で最悪な男だろうと思った。
けれど黒田龍一郎の前ではいつでも心が動かされていた。
「あなたが黒田龍一郎の恋人?」
みちるは我知らず、少し離れた女性に問いかけた。溝谷と呼ばれていたその女性はゆっくりこちらに向き直ると、制服姿のみちるをしげしげとみつめた。
「あなた、みちるちゃんでしょう?」
ひどく不思議な気がしたのは、名前を呼ばれたことなのか、それとも女性の声がやけに優しげだったことについてなのか、判らなかった。みちるは無言で頷いた。
「やっぱり、噂になっているもの。とびきり綺麗な子が黒田の嫁に入ったって」
もし名だたる家の出身なら、黒田の家の騒動は知っていてもおかしくはないが、その言い方に何かひっかかるものを感じる。まるで身内のことのように話すその姿に嫌な気がした。
「あの、あなたは…?」
「黒田くんからよく聞くわ、貴女のこと」
慈愛に満ちた微笑からこぼれるその台詞に、みちるは喜びを隠せなかった。たとえ一瞬でも自分のことを考えていてくたたのは、やはり嬉しい。
「自分の意思でない婚約は疲れるんですって。それは貴女も同じことでしょうにね。酷い人だわ」
そんなことは、知っていた。黒田龍一郎が自分の意思で婚約したいと思っていなかったこと。みちるもそう思っているのだ。
ただそれを目の前の女性に話していたことが、信じられなかった。
違う。
信じたくないだけなのだ。
黒田龍一郎は嘘が上手い。私はそのことをよく知っていたのに、彼の吐いた嘘を何処かで信じていた。いや、信じていたかった。もしも、あの日の演技のように、本当の婚約者のように自分を想っていてくれたら、と。
「く…、龍一郎さんは、昨日、貴女のところに居た…の?」一言一言が喉に引っ掛かり、上手く言うことが出来なかった。
「ええ、黒田くんは昨夜も私の家に居たわ。とはいっても別宅だけれど、そこが気に入っ
ているみたいで何度も泊まっているわ。もちろん私も一緒に……あら、まだこんなこと、みちるちゃんに言っちゃいけないわね」
いくらみちるが年下でも、その意味は十分理解できた。
彼女は黒田龍一郎の恋人なのだ。息が詰まるほどの牽制も感じ取れた。
もう何ほども言うことは無かった。
みちるは無言で振り向くと、ベンチから離れてどんどん歩いた。途中、エリオが呼ぶ声
が聞こえたが、それも無視して走り出した。
「みちる?待って。みちる!」
「あら、どうして留学生の貴方がみちるさんと一緒に居るのかしら?ベッキオ君」
「………君は、」
「もしかして、そこのベンチでお話していたの?恋人同士のように」
「………。」
「みちるさんも、自由に恋愛できる方なのね、羨ましいわ」
みちるの去った後、慈愛に満ちた笑顔は嘘のように一瞬で消え去り、冷たい空気を醸し
出す般若のような女がそこにいた。エリオは嫌々ながら吐き捨てた。
思い出せる限り、女性に対してこんな態度を取った事は今までに無い。
「君には関係ない」
「貴方も心奪われたのね…馬鹿馬鹿しい、黒田に生きる定めなのに」
「僕も今まで学内の噂を鵜呑みにしてきたけれど、果たして君が本当に黒田龍一郎に愛さ
れているのか疑問に思えてきたよ。」
「だとしたら?どうせ彼女は黒田君とは添い遂げられないわ」
「どうしてそれを僕に?」
「だから、傷つく前に奪うことも、一つの愛情の形じゃないかしら」
エリオは彼女の言うところが十分すぎるほど理解できた。残酷な運命から逃れられなか
った幸せな結末を想像して、エリオは自分を嫌悪した。
「ただいま戻りました、黒田…じゃない、龍一郎さんは帰っていますか?」
とにかく話し合わなくてはいけない。その思いだけでみちるは黒田の門から全く立ち止
まらずに玄関を上がろうとした。使用人たちはひどく当惑しながらみちるの鞄を持ち、周
囲を見回した。
普段は女中が一人、玄関で出迎えるだけだが、何故か数人が待機していて門の前には車
まで停めてあった。誰か外出するのだろうか。
「お嬢様、おかえりなさいませ。あの…、ちょっと、奥には上がらずに離れのほうに行か
れたほうが・・・」
「どうしたんですか?何か、あったんですか?」
何かが起こっていることは分かっていた。それが、もし黒田龍一郎の身に起こっていた
らと思うだけでもたまらなかった。
自分の気持ちを自覚するというのは不思議なものだ。今までは黒田龍一郎が怪我でもし
て痛い目を見ればいいのにと思っていたのに。
「いいえ、あの…」
使用人が言いかけて、加恵が玄関までやってきた。
「みちる?あぁ、今日は遅くなると思っていたのに!」
普段は部屋着でも洋装を着こなしている加恵が、地味な絣の浴衣で登場した。いかにも
間に合わせた、という風な着方が余計にみちるの不安をかきたてた。
「どうしたの?加恵」
「いいから、早く隠れて!阿川の大叔母さまがいらしてるのよ!」
そう言われても、その苗字には馴染みが無く、また黒田家には多くの分家が存在してい
るので、一度説明されただけのみちるには、やはり何が起こっているのか分からなかった。
「だから、その阿川の大叔母様って?」
「私の母の実家よ!分かるでしょうけど、貴女のことを快く思ってらっしゃらないの!今
はお兄様とお話されてるから、はやく隠れて!」
普段は憎まれ口しか聞いたことのない加恵が自分を庇おうとしていることに気付いたみ
ちるは、この不器用な従妹も愛おしく感じた。
「加恵…」
「御紹介に預かりまして結構なことですわ、加恵さん?」
玄関のすぐ横の部屋から、着物を着た妙齢の女性が現れた。とても大叔母と言われる年
齢には思えなかったが、きっと若く見えるのだろうという結論にした。
「加恵さん、貴女は下がってらしてくださる?私、みちるさんとお話したいわ」
「で、でも・・・」
「聞こえなかったの?お下がりなさい」
黒田龍一郎以外に加恵に命令できる人間が居るなんて。みちるは自分の体温が下がるの
を感じながら、これから相手に何を言われるのかを考え、身構えていた。
やはり、この人も婚約に反対していることは容易に納得が出来た。
外国人の娘は身を引け?生まれの正しい娘に席を譲れ?
そんな事を考えて、黒田龍一郎の恋人を思い出した。
「みちるさん、自分の立場を分かっておいでかしら?」
「立場、というと?」
「御自分のお母様のことをご存知かしらと聞いているのよ」
「何があっても誇れる生き方をした人だと思いますが、何か?」
自分よりはるかに年上の人に、挑戦的な態度を取り続けることは、かなり精神的にも圧
迫を感じていた。しかし負けるわけにはいかない。みちるの自我が叫んでいた。
「まったく、恥を知らないというか…親が親なら娘も娘ね。黒田には相応しくないわ」
「それを決めるのは龍一郎さんだと思います」
いつのまに、私は黒田龍一郎をこんなに信用していたのだろう。
「何が当代の気に召されたのかしら?その外見?嫌だわ、まるで外国人みたいなその外見
かしら?それとも、私たちには分かりそうにもない手管を使ったのかしら?母親がああな
ら、何を知っているか分かったもんじゃないわ。女学生らしくないその髪だって、男の為
に伸ばしているんでしょう?おお、嫌だ」
これほどの怒りに支配されたことは無かったみちるには、自分が何をすべきかを考える
余裕がなかった。もしここに黒田龍一郎が居たら、双方が冷静になるように促しただろう。しかし悲しいかな、この事件の当事者は最後まで現れなかった。
後にこの事件が語られる際に居合わせると、彼は決まって居たたまれぬ気分になった。
「さぁ、目の前から居なくなって頂戴!見るのも汚らわしいわ!」
「撤回していただけますか?」
これほどの怒りの中で、まだ敬語が使えていたのは不思議だった。
みちるは既に相手の立場も自分の立場も忘れていた。
「あら、口答えするのかしら?私に何を謝罪しろと仰るの?」
「私の母に対する侮辱を、撤回してください」
「そうね、貴女がその髪を加恵さんほどに切ってしまうなら、考えてもいいわ」
このときのみちるは、赤い感情の虜になっていた。
一縷のためらいも見せず、みちるは女中に告げた。言葉は冷たく皮張りの廊下に響く。
「鋏を持ってきてください」
「お、お嬢様…そんな!」
「いいから!早く!」
阿川の大叔母は冷静に微笑みながら、こちらを観察している。それは、黒田龍一郎の恋
人と同じ類の微笑みだった。
嫌気が差す。そんな自分にもっと嫌気が差す。
堂々巡りの思考の中で、自分の嫌いな人間だけが笑う。
女中がおずおずと差し出した鋏を受け取ると、みちるは自分の三つ編みを根元から切り
落とした。
ひどく乾いた、ざくりという響きが落ちた。
周囲の息を飲む音にも構わず、もう片方も切り取ると、まだ鋏を入れようとしたところで、襖の陰から見ていた加恵が叫んだ。
「やめて、みちる、やめてぇっ」
「加恵さん、これはみちるさんが御自分で勝手になさったことよ?皆さんも、分かっていてね?」
「そんなこと言わなくても、皆は告げ口なんてしません。」
「育ちの良くない方は何をしでかすか理解できませんもの」
「そうやって自分が尊い存在ぶってればいいわ。髪なんて惜しくない。私、龍一郎さんが好きです。こんなことで諦めたりはしない。数多の育ちの良いお姫様たちに譲る気も無い。今日はっきりとそのことが分かりました。」
「そう、分かったわ。そのように阿川に伝えておきます」
玄関から黒の着物が出て行くのを見て、みちるはその場にへたりこんだ。
「馬鹿!なんであんなマネしたのよ!」
「どうして加恵が怒るの?」
「馬鹿、あんたが苦しかったら、兄様が苦しくなっちゃうじゃないのよ!」
そんな筈はない、と胸中でかぶりを振った。しかし、少なくとも加恵の目には睦まじい婚約者同士に映っているならそれでいい。
それだけで自分の想いは満たされている。
黒田龍一郎が事の顛末を知ったのは夕食の時間になってからだった。使用人たちの冷たい視線に気付き、彼はみちるは何処かと尋ねた。その一言を皮切りに全員が彼から視線をそらし、はっきりとは言わぬまでも、みちるの身に起こったことを示唆していた。
あれじゃあ、きっと出られないだろうねぇ・・・と、いう呟きで彼は立ち上がり、以前と同じようにみちるの部屋の前に立った。
前にもここで立ち尽くしたことがある、そう思いながら彼はみちるを呼んだ。
今度はもう障子を蹴破る気は無い。
「おい、夕食の時間だ。そろそろ出てこい」
必要以上に無遠慮に言い放ったのは、緊張のせいだっただろう。自分の与り知らぬところで被害を被ったことに対してなのか、心の何処かでまた拒絶されることを恐れているためなのかは測りかねた。
「はい、今行きます!」
予想外に明るい調子の返答にも驚いたが、黒田龍一郎が面食らったのは変わりきったみちるの姿だった。
障子を開けて、まず目に飛び込んできたのは短くなったみちるの髪だった。
それまでは長くて分からなかったが、生まれつきのくせ毛だったのだろう、形のいい頭に沿うように切られている髪の先が、所々はねている。まるで漂流記に出てくる活発な少年だ。視線を感じてか、相変わらず長い睫に縁取られた瞳が丸くなった。
「どうかしましたか?」
どうかしたのは、お前だ。
その言葉をかろうじて飲み込んだ黒田龍一郎は、自分の精神力を出来るだけ稼動させて無関心を装った。本人が気にしていないことを気にするのは彼の好むところでは無かった。詮索も、質問も必要ない。相手のことを深く知るわけにはいかない。
みちるは無言で広間に戻ろうとする龍一郎の後ろではなく、隣に立った。
訝しがるしかめ面に向かい、真夏の日向のように眩しい笑顔を見せると、相手が何を聞きたがっているのか心得たように話し始めた。
その態度にも変化を感じ、ひどく居心地の悪い思いをした。同時に胸の中で弾けるような音が何度か鳴った。
「遅れてごめんなさい、髪の毛を切っていました。」
「見ればわかる」
「そうですね、雑誌のような髪型にしたかったんです。似合いますか?」
どこまでも、彼女の嘘は完璧だった。それを嘘だと気付いたのは、彼だからだろう。彼はみちるの短くなった髪を、後頭部から撫で上げてぼそりと呟いた。
「嘘をつくな」
みちるは取り繕うのに精一杯で、紅潮した頬を押さえることも出来なかった。声もみるみる元気が無くなり、消え入りそうな声でやっと反論できた。
「嘘なんか…つかないですよ」
「お前が雑誌と同じ髪型にしたがるとは思えない。それに今日はお前の存在自体を疎んでいる阿川の妖怪婆あが来ていた。俺に婚約を解消するように迫る為にな。それからお前のその髪だ。すると何が起こったのかは、余程の阿呆でない限り、察しはつく。」
「黒田りゅ…」
またフルネームを言いかけてみちるは口をつぐんだ。
「それにしても、お前は俺が居ないところでは名前を呼ぶのにな」
みちるは一生この瞬間を忘れることは無いだろうと誓った。黒田龍一郎が見せたことも無いような優しい笑顔を浮かべて小さく笑った。
8
「……夕食を食べ損ねたようだな」
時計をちらりと見た黒田龍一郎はみちるの手を引いて炊事場に向かわせた。
「軽い食事を二つ頼む」
「どうして自分で頼まないんですか?」
繋がれた手に神経が集中して、頼まれごとを聞けそうには無かった。きっと、今までより黒田龍一郎の表情が柔らかいと感じるのは気のせいだろう。言いにくそうに視線を落としたその先に繋がれたままの手があっても、これも気のせいだと自分に言い聞かせた。
「男が炊事場に入るもんじゃない」
「そんな、明治時代じゃないんですから」
「うちはそうなんだ」
『うちは』、黒田家では。みちるの心に重くのしかかった一言は、ある思いと一緒になり弾けた。黒田龍一郎が他の誰でもないように、私は私だわ。
女中が握り飯と軽いおかずをつけて、二つのお膳に乗せてくれた。
振り返り相手に手渡すと、二つとも持っているので礼を言おうとしたが、言いかけてやまった。
「こんなじゃ足らんな」
「ちょっと、まさか二つとも食べる気じゃないですよね?」
「食っていいのか?」
「違います!こっちが龍一郎さんの分で、こっちが私の分!」
そう言ってから、名前を始めてスムーズに呼べたという小さな喜びに支配された。相手はまだ握り飯に集中していて気付いていないようだ。
案外、片恋という状態は楽しいものだ。みちるはにっこり微笑むと、膳で龍一郎を突いた。
「離れでゆっくり食べましょう。もうすぐ月が出るから」
「月見か。日本酒も頼めばよかったか」
「…………やめときましょうよ、お酒は」
記憶に新しい酒の失敗を思い、二人はしばらく黙り込んだ。
以前から離れは新婚の夫婦の為に使用されていたが、誠二郎の代では誰にも使われず、荒れてしまったこと、祖父はよくお気に入りの芸者を連れ込んでいたらしいことを龍一郎が取りとめも無く話していた。
こんなにリラックスしている姿は初めて見る。シャツのボタンを三つ開けて、胡坐をかいている彼が黒田の次期当主だと言っても、誰も信じないだろう。
空腹が満たされると上機嫌になったらしい、普段から想像もつかないほどよく話している。みちるはおかしくなって、黙って笑うのを堪えていた。
「そう、新婚夫婦のための離れだからな。こんな物もある」
初めて聞く子供のような口調に、すっかり聞き入っていたみちるには何の話だか全く分からなくなった。龍一郎が棚の上から出してきた紅い袱紗をじっと見つめる。
すこし黙ってにやにや笑いながら、首を傾げるみちるに問う。
「さて、なんだと思う?」
「見たことが無いから分かりません」
「見たこと無いだろうな。ある筈がない」
「だから、それ、なんですか?」
ようよう焦らされるのに痺れを切らしたみちるが龍一郎に近づいていった。すぐ近くのところで二人は触れ合う距離に気付き、直前で止まった。
みちるは恥じらい俯いたが、龍一郎の視線を頭に感じておそるおそる顔を上げようとした。さっきのように、龍一郎が後頭部のはねた髪の先を撫でるように触った。
それがみちるの反応を引き起こし、二人の視線がぶつかった。
何かが起こる気がした。それは願望ではなく純然たる予感だった。
みちるがそう感じ、龍一郎も思うところに至ったのだろう、彼は素早く視線をはずして結界を破るように足をくずし、立ち上がろうとした。
「新婚夫婦が睦み事をする夜には、この袱紗を入口に引っ掛けておくんだ・・・邪魔するなって印にな」
ゆっくり起き上がった龍一郎の背に、足に、総てに目を奪われ、息が漏れる。こんなに美しい動作を見たことが無い。腕を上げたときに見せる、流れる体の線が、脚の線が、総てが完璧に見えた。
「こんな風に」
振り返った顔立ちも完璧すぎる。
「みちる?」
どうして龍一郎の唇から発する音だけが特別に聞こえるのだろう。それが自分の名前なら尚更のことで、泣きたくなる。
「おい、聴いてるのか?」
「大丈夫です、どうして私にそんな事を?」
恥ずかしい、きっと今の私は首まで赤くなっているだろう。
「困った顔を見るのが楽しいからだ」
「性格が悪いって、誰かに言われたことありません?」
「記憶に無いな」
誇らしげに首を傾ける仕草に見とれ、みちるは胸中で敗北を感じた。この人に勝てた例など、今までもこれからもありえない。初めから勝てるわけがないのだ。
「龍一郎さんは、将来何になるんですか?」
「ごく近いうちに、ここの当主になるな。」
「そうじゃなくて……」
みちるが手を上げると、その手を掴んで戯れにみちるの頭に載せた。それを嫌がり、少し頭をずらしても、しつこく構わず続ける。
とうとう諦めてみちるが何の抵抗もしなくなると、飽きたのか手を離した。
子供のようなやりとりに、みちるの心だけが熱くなったようだった。
「みちるは何になるんだ?やはり、女はお嫁さんとかか。加恵も小さい頃そう言っていたな…あいつはあの性格を直さない限りは無理だろうが」
「それは龍一郎さんのことでしょう」
「俺はお嫁さんにはならん」
軽い口調で言ったその台詞が、重い意味を持ち合わせていることなど、このときのみちるには知る由も無かった。
お嫁さんか……。
黒田龍一郎の花嫁になれたら、どんなに幸せだろう。しかし、そうならない事は分かり過ぎるほど分かっている。ここ数ヶ月、表向きの婚約者としての風当たりは強いと言うものではなかった。これが一生続くとなると、黒田誠二郎から逃げ出した母の気持ちも分からなくはない。
母の行動にはもう少し理由がありそうな気がする。阿川夫人と話したことによって、みちるにも黒田の内面が感じ取れてくるようになっていた。
「みちる、どうした?」
不自然な沈黙に、龍一郎が笑ってみちるの前髪をかきあげた。
「なんでもありません」
「そうか?お前、今日はおかしいぞ。必要以上に明るくなったり、鬱になったり」
必要以上に普段より優しいあなたには言われたくない、とみちるは一人ごちた。
「俺に何か言いたいことでもあるのか?」
頭の中が熱くなって、自分が何を言っているのか分からなかった
ただもうずっと緊張した糸が見えていた気がする。
今はもうそれが緩んで矢がどこに飛んでゆくか分からなくなっている。
「あなたが好きです」
「は?」
「私は、あなたが好きです」
そう言ってから、みちるは口をついて溢れ出た告白に初めて気がついた。なんて事を言ってしまったのだろうという後悔と羞恥で身じろぎもできずにいた。
龍一郎はしばらく黙ってから、乾いた笑いを漏らした。
「お前は好きな男をフルネームで呼びつけるのか?」
冗談でこの場を済まそうとしているのが見えた。らしくない対応に、みちるは視線を合わせて嗜めた。
「誤魔化さないで下さい。昼間の応酬も気付いていたんでしょう?私は、最初にあなたが言ったように、仮初の婚約者としてではなく、一人の人間としてあなたを、……あなたに恋しています」
「誤魔化されていたほうがいい」
ひどく困ったようにうなだれた姿など見たくは無い。それは恋人が居るせいなのか。みちるは目の奥に熱く迸る涙を見たが、必死で堪えていた。
「何故?紗枝子さん、いえ、恋人が居るから?」
「溝谷と会ったのか?」
驚きと言うよりは嘆息に近い息が近くまで届いた気がした。もっと、近くで総ての反応を感じたい衝動から、みちるが近づいていった。二人はもう少しで体が触れ合う位置まで近づいた。
「昼間、あなたと会っているのを見ました。恋人なんでしょう?どうして最初からあの人と結婚しないんですか?」
「違う……。」
心底困り果てた表情は、みちるを勇気付けた。彼女は恋人では、ない?だとしたら、どういう関係なのだろう。いや、今はそんな事はどうでもいい。
「恋人じゃ、ないの?」
「溝谷のことを、仕事相手としては好ましいが、異性として好意を持ったことは一度も無い」
「仕事相手?」
「とにかく、この話は終わりだ。」
膳を持ち、立ち上がろうとした龍一郎をみちるが引き止めた。腕を引かれ、傾いた顔と顔がもう少しで触れそうになった。
直前に龍一郎が何事か呟いたように聞こえたが、みちるには聞こえなかった。
気がつくと、どちらともなく頬を合わせ、二人は唇を寄せた。
長く、どれほどの時間をそうしていただろう。そのうちに龍一郎の腕がみちるの腰に回り、みちるの腕は龍一郎の肩に回され、二人は至上の恋人同士のように抱き合っていた。
白檀の香りがまだ残っている。みちるはこの匂いが好きだった。龍一郎の香りと白檀が相まって気分を高揚させ、それでいて湯の中にいるように体が落ち着く。
幸せとは、こんな時を言うのだろうか。
みちるは白く靄がかかった思考でそんなことを考えていた。
龍一郎はまだ黙ったままで表情も読めない。目を閉じて、長い睫の先に触れたいと思った。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
しかし自分からこの甘美な時間を壊すような真似はしたくない。
交錯する二つの思いに捕らわれた瞬間から、みちるは心からこの空間を味わえなくなってしまった。いつでも、思考が感情を遮り人間は理性を取り戻すのだ。
そしてそれが人間のあるべき姿なのだろう。
「龍一郎さん」
「みちる」
龍一郎が名前を呼んだ。
その響きの中に色めいた感情は無かった。
「………無理なんだ」
「何が、無理なんですか?」
「誰かを大切に思うことも、誰かを愛することもしない。いや、できないんだ」
一言ずつ冷静に言い放つ龍一郎の表情は苦渋に満ちていた。
まるで何かの罰を受けているように。
聞いてはいけないことは分かっていた。聞いてしまえば、もう後には戻れない。
みちるは頭を振った。
いや、はじめから後には引けなかったのだ。
「どうして?」
「俺は一生子供を作らない。黒田を次代に継ぐ気は無いんだ。」
「龍一郎さんが子供を作らなくても、加恵であったり、誰かほかの人が後を継ぐのでしょう?」
「加恵は違う。加恵はどうしても継げないんだ」
「どういうことですか?私に質問ばかりさせないで、最初から話して下さい」
「聞いても後悔しないと誓えるか?いずれ出て行く家の話をここまで深く聞くことに抵抗はないのか?」
「後悔するかどうかも、いずれ出て行くことも、私が決めます」
決意に満ちたみちるの目に、龍一郎は無言で頷くよりほか無かった。
龍一郎は、まず自分の母親の話を始めた。誠二郎に愛されなかった苦しみを抱え次第に精神を病んでいったことは、暗に理解できた。
沙羅が呉川と駆け落ちするという、誠二郎側の不祥事の後も、何事も無かったように縁組は進み二人は結婚したが、そのとき既に母は何も話せなかったそうだ。一言も喋らず、普段は人形のように過ごし、ふとした瞬間から堪えきれぬ苦しみを吐き出すかのように、奇声を上げた。
女中の口さがない噂では、母屋から毎晩泣き叫ぶ声が聞こえ、時には誠二郎が怒鳴りつけることもあったという。
その中で龍一郎は生まれた。
「不思議だろう?」
「……え?」
「それだけ仲違いしている夫婦の間から子供が生まれるとは、不自然だろう?」
龍一郎が何を言わんとしているのか、すぐに気がついたが有り得ない話だった。彼はあまりにも父親に似すぎている。
「そう、勿論俺は黒田誠二郎の息子だ。阿川美津恵とな」
「母は毎晩子供を下ろす薬を飲んでいたそうだ。そして毎晩それを父と取り合い、言い争っていた」
子供さえ作ればお互い自由になれる、誠二郎はそう主張していた。彼はひどく疲れ果てていた。愛した女を失くし、夢も目標も潰えていた。とにかくこの胸の空洞を無視して生きるだけで精一杯だった。もはやこの黒田の中でしか生きられないのなら、せめて安穏に自由に独りで生きていたい。
そう望んでのことだった。
彼は生来の傲慢さでもって彼女の気持ちには気づいておらず、自分の失恋だけを見つめていた。
一夜の偶然が、彼を産み落とした。
「母親があんな状態では育児もできないということで、俺は生まれてすぐ別宅に移された。表向きは産後の養生ということだったから、母も一緒にな。」
「それで?」
「俺はそこで自由に育ったよ。黒田の嫡男としての義務は厳しかったが、本家から離れているぶん、ほとんど干渉されずに済んだ。そこは母方の別宅だったしな。……何より父は訪れなかったから母は安静でいられた。もっとも、すでに彼女はまともに話すこともままならなくなってはいたが」
「龍一郎さんは誰に育てられたんですか?」
「誰ということもない。世話は女中が何人も居たし、休みは祖父がよく遊びには連れて行ってくれたな。あまり覚えていないが。」
自分でも知らずのうちに、拳を握り締めていた。このところ、長い間思い出さなかった幼少期の事がふとした拍子に纏わりつくように浮んでくる。
覚えていないはずのことでさえも。
みちるが息を吸ったかすかな気配で我に返った。
「そこで、龍一郎さんは、幸せだった?」
「しばらくは……」
衝撃の夜は、龍一郎が四つの誕生日を迎えてすぐだった。
母が妊娠していることが判った。
ここのところ体調を崩していたのが、全く医者を寄せ付けないので、親戚から医者を連れてきて寝ている間に見せたようだった。
父はここ数年別宅には寄っていない。
祖母は嘆き悲しみ、祖父は激昂した。
幼い龍一郎の目には優しかった祖父が顔を真っ赤にし拳を振り上げる姿が焼きつき、泣くことすらできず見つめていた。
「せっかくようやっと黒田に輿入れできた思うたら……誰や!!言うてみ!どうせしょうない男やろ!」
「誰なのか…わかりません」
まるで幼い少女のようにぼうっとしながらうわ言のように母は呟いていた。
周囲の話では、その頃若い庭師がよく出入りしていたとか、人が居なくなったのを見計らい町の男を引き入れていたとか、定かではなかった。
加恵は今も自分の出生を知らずに暮らしている。
「しかし黒田側の態度はあからさまだ。いつ気づくとも、いやもう気づいているのかも知れない。……父は加恵を大事に扱いはしているが、どこか線を置いている。それを加恵も分かっていて、家の中で孤独を感じているようだ。」
「唯一の、心から家族と思える人は龍一郎さんだけなのね」
「いつまでもそうしてられんだろう。じきに外に目を向ける。」
黒田の令嬢として家を誇り、いつでも完璧でいられるように努力していた加恵が目に浮かび、運命の皮肉さに泣きたくなった。
もしかすると加恵は気づいているのかも知れない。黒田の中にあって、周囲の目は冷たく、自分だけが異質であると感じ、認めてもらいたくて模索している。
みちるにもなじみの感情だった。
「その後すぐ、母は苦しみながら死んだ。黒田、阿川の両家から圧力を掛けられて加恵を生んだ後の状態が悪くなったとだけ伝えられたが、実際はもう心が蝕まれていたんだ。自ら死を望んでいたのだと思う」
詳細を、みちるも少しながら関わっていることを、どうしても口に出すことはできなかった。死にゆく母が「黒田を潰せ」と懇願したことも。
「黒田も阿川も…皆くだらない一族だ。人を傷つけてもどうとも思わない。排他と欺瞞に閉ざされた、成長の望めない空間だ」
激昂とも思えるほど深い怒りの声は、重く響き心を締め付けた。怒りは外に向けられて、龍一郎を支配していた感情が読み取れた。
我武者羅に全てを早く手に入れ、破壊しようとしているのも。
「それに、母親がああだったからな、どうしても女性を愛することに興味が持てない」
「それは・・・」
「分かっている。興味ではない、恐怖だ。俺の世界に、とうに愛は存在しない」
みちるは黙って龍一郎の手を取った。頑なに握られていた拳は、みちるが優しく撫ぜると、ゆっくり開いていった。
息を吐くと、いつもの冷静な声が戻った。
言葉を放つ龍一郎の目は空虚を見つめていた。
ここまで傾いだ心を見せつけ、自虐に走ろうとしているのは私だから出来るのではないだろうか。自惚れでは無くみちるは自然にそう思えた。ここまで感情を吐露できるのは、もしか心が乱れたのが私の所為だから?
「じゃあ、溝谷さんのことは?」
「言っただろう!仕事相手だ」
どうしてここで頑なに否定する必要があるのだろう。誤解を解こうとする気持ちだけは彼の目に露だった。みちるは視線をそらし、続けた。
今の彼女はそれと知らず精神の深淵を導く言葉を並べていた。狡猾にして純粋な女性がそこにいた。
「仕事相手だということは分かっています。それでも、彼女と貴女の関係があったのは事実でしょう?」
このように女性が理論的に、かつ冷静に話すのを彼は不得手としていた。単にそういう態度の女性が周りに居なかったからだけではなく、心が深く動かされるのを感じ、居たたまれなくなるのを嫌悪した。
同時に、無意識のうちにではあったが、みちるの揺るがない精神力に感服さえしていた。
「ああ、そうだ。関係があったかと聞かれれば、答は肯定だ。だがお前の思うような関係ではない」
「どうして私の考えることが貴方に分かりましょう」
みちるはかつてないほど冷静になっていた。視界は澄み渡り、目の前の男がひどく小さく見える。体躯が、ではない。精神が、だ。
「とにかく、そんな精神的な繋がりは無いんだ。」
「まるで言い訳のように聞こえます」
「そうじゃない!」
龍一郎が声を荒げた。目の前の女は本当にみちるだろうか。
こんな風に聖母の様な微笑を湛えつつ鋭く斬りつけてくる女は知らない。
攻められているわけではない。であるにも関わらず敗北を感じる。何故か、生涯この女だけには敵わないような気分になった。
そして彼の脆弱な部分がそれを甘んじて受けようとしている。みちるの背後から差す光を求めている。
そんな訳にはいかない。とっさに反駁を探した。
「持ちかけたのは溝谷だ。俺の提案を受け入れる代わりに恋人の振りを、と。初めは体の繋がりは無かったが、計画が座礁するのを懸念して、口止めの代わりに」
「子供みたいだわ、素直に肉欲に従ったことを認めたらいかがですか?」
「たとえそうだとしても、お前に対して認めるわけにはいかない」
「何故?」
「都合のいい言い訳を与える」
みちるはこの台詞を理解できなかった。実は龍一郎の態度を責めるのが精一杯で、彼の言葉の深い意味を、それらが徐々に別の色を増してくるのに気付くことはできなかった。もし気付いていれば、事態は大きく揺らいだだろう。
「別に溝谷に限らなかった。誰でもいい。特に煩いことも言わず関係を続けられるのなら、ただし一族に関わるわけにはいかない。しかるべき時が来れば、俺は不具の者として婚約を解消するつもりでもいたし」
「てんで説得力の無い理由ですね」
あまりにも男性らしすぎる龍一郎の体躯では、冗談のほかに聞こえない。
「その為に医者も抱きこんだ」
「それで?その後はどうするつもりだったんですか?」
「実際必要なものは金と権力だ。幸い俺はどちらを得るにも恵まれた環境にあって前者は色々手を加えた結果、徐々に理想に近づきつつある」
「『学外活動』で?」
「家庭教師というのは嘘だ。輸入や古い権利や土地を売り買いしている。この前の公家も顧客だ。お前も話を聞いていたから、気付いてはいただろう?」
「ええ、薄々は……」
「溝谷の家が所有しているもので、どうしても俺が手に入れたいものがあった。そこで彼女に協力してもらって権利を譲渡してもらったんだ。暗々裡にな。」
「手に入れたかったもの?」
「それは言えん。」
きっぱりと言い放つ龍一郎の目尻は紅く染まり、気持ちの昂ぶりを抑えられず苛々しているのが見て取れた。
案外、この男は真正面から攻撃されるのに慣れていないのだ。そう気づくとみちるは抱きしめたい気持ちと突き放したい衝動の間で揺れた。
「俺は生涯誰とも深く関わる気が無い。特に、過去に関わる人間とは、みちる?聞いているのか、……お前のことだよ」
「生涯をたった一人で過ごすなんて無理ですよ。決して一人では生きていけないでしょう。あなたの精神はそれほど強くはないもの」
この一言は龍一郎の自尊心をひどく傷つけ、同時に彼は先ほどのみちるの告白さえ疑った。好きだといえる人間をこれほど傷つけることができるのは、本当に恋していると言えるのだろうか。恋とはもっと……。
考えるのを止めた。自分には分からないはずだ。
「どうしてそんな事が言える」
自分はこれまで剣道によって身体の鍛錬はもちろん、揺るぎない精神を鍛えたはずであった。そうあるよう努めてきた。
だが、なぜ今ここまで心が傾ぐのだろう。
目の前の真摯な瞳から透き通った液体が煌めき零れ落ちるのを見た。
これほどまで自分の深い、誰にも見せることの無かった、心の入口へと軽々と踏み込まれることに嫌悪を感じて当然のはずだった。
彼はいまひどく揺れていた。
暗闇の中、一筋のぼんやりとした明かりを目にした時のようにゆっくりとそれに手を伸ばし、確かめたい衝動に駆られていた。
だが、いったい何を確かめるのか?
初めてみちるに接吻た瞬間の、何か自分の意思とは異なる、深い力がまた彼を動かした。皮膚の一枚下に熱いものがたゆたっている。
堪えきれず助けを求めた。
手を伸ばした先にはみちるがいた。
「……どうかしましたか?」
立ち上がり、踵を返そうとする前に、一度だけ、みちるを強く抱きしめた。
彼は本当の温かさを、初めて味わったように思えた。
「龍一郎さん?龍一郎さん!」
彼はその後、消息を断った。
9
使用人と仲がいいのを利用して、やっと龍一郎の部屋に入ることができたのは、三日目の晩のことだった。
「うわっ……防具くさ」
窓のすぐ近くに防具が日干しされており、そこから妙な臭気を漂わせている。みちるは瞬間顔をしかめると、机に向かった。
思えば、一度だけこの部屋に立ち入ったことがある。
黒田の人間に見つからないように使用人の仕事を嬉々として手伝っていたみちるは、余計な気を利かせた女中から龍一郎の洗濯物を預かっていた。
たたまれた洗濯物の一番上は、燦然と輝く白い下着だった。みちるは両手でそれらを抱えていたのだから、避けようとしたところでそれらは視界に入ってきた。
中に龍一郎がいる気配を察して、みちるは声をかけた。
「洗濯物です」
このとき、彼が何の反応も示さなかったのでみちるは襖に手をかけ、もう一度言った。
「洗濯物が重いので、入ってもよろしいでしょうか?」
みちるの茶色い髪が視界に入った途端、彼はばたばたと片付け始めた。
「なんだ、どうした」
思えば、黒田龍一郎にしては激しい動揺だった。
「だから、洗濯物ですよ!」
みちるが手渡したそれらの一番上が、彼の視界にも飛び込んできた。
「…………お前が洗ったのか?」
「まさか!!」
「それはよかった」
あの時は気にしていなかったが、確か彼はこの机の中から何かを出してどこかに…。
みちるはその時の龍一郎と同じように机に向かった。
今まで使われていたのかが疑わしいほど、きちんと整頓されている。本棚に目を移すと、性分なのだろう、こちらは中々乱雑に使用された後がはっきり残っていた。じっくり見ても医学書や辞書などが殆どで、みちるには表紙だけでも全く理解できない。
外国語の背表紙の本を何気なく手に取った。
何故かこの本だけ真新しく、触れられていないようだった。
「なにか…挟まってる?」
ふと開いた本の間に挟まれていたのは数枚の紙片だった。簡単なメモ書きで、急いでいるような字も少し乱れている。
みちるは目を見張った。
一枚目のメモは資産価値と地価の変動、地税と資産税を計算したものらしい。しかし、土地や記号でなんとなくそうと分かるだけで、定かではない。
みちるを絶句させたのは二枚目のメモだった。
早く、できる限り早く、黒田龍一郎に会いに行かなければならなかった。
喪失の恐怖はみちるの深層心理に潜み、素直に人に向き合う部分に影を落としていたことを知った。
愛する人を喪って、それでも生活は目まぐるしく動き、何の変化も無い。
私のこの腕は、体は、頭は何のためにあるのだろう。みちるは時々そう考え、深く溜め息をついた。心はあの日から龍一郎に持っていかれたまま既に三日経っている。
傀儡のような生活はみちるの美しさを際だたせ、黒田の家人の中には龍一郎とみちるの結婚を承諾するものが出てきたが、それらは本人の与り知らぬ所の出来事だった。
黒田龍一郎が姿を消したことは、みちる以外には大した影響を与えなかった。
もともとの教育方針が放任であったうえ、彼は既に成人していることもあり、黒田の生活ではある程度の自由を与えられていた。家名を汚すようなことが無い限り、学生という立場の彼は自由だった。だからこそあのような「商売」もできたわけなのだが、みちるはとにかく彼に繋がる手がかりを探していた。
今、黒田龍一郎を見つけ出さないと何かが壊れていく気がした。
「みちる?まだ起きてたの?」
部屋の前に居たのは加恵だった。不安そうにこちらを見つめていたので、みちるは部屋に入るよう促した。
「あのね、兄様のことなんだけど…」
「気にするなって言っても無駄よ、どうせ気になるもの。もしこのまま龍一郎さんが帰ってこなかったら、何年かかったって見つけ出すわ。」
意外にも加恵の微笑んだ顔は可愛いらしかった。このところ、二人は睨み合うことも無く、ほのかな友情が芽生え始めていた。
「違うの。昔、兄様のお付きをしていた人が、兄様を見かけたって!」
翌日、みちるは朝早く家を出た。
畳の上に寝転がり天井の木目についていた大きな染みを見つめた。肌着とシャツが一体化してじっとりと背中に張り付いている。朝に着替えたはずなのだが。
蒸し暑い。
すでに六月も終わりかけていることをここに来て漸く知った。
いつから季節を肌に感じることも無くなったのだろう。おそらくは、毎日をただ過ぎていく瑣末な紙切れの上に支配されてしまったときには、そうなってしまっていたようだ。すべてのものに何かを感じる気持ちや、世の中のものすべてを欲すような探究心、おおよろ「こころ」と呼ばれるようなものはどこかに失くしてしまった。
あの頃持っていたものすべてが懐かしい。
「おやっ、ぼっちゃん!」
開け放していた障子の向こう、庭の生垣から顔を出していたのはいかにも好々爺といった感じの庭師だった。鋏を生垣に入れながら、ちなみに頼んだ覚えは無いのだが、きれいに切りそろえていく。
「…面識があったかな?」
庭師は勝手口から入り込んだ。もはや驚くことなどなにもない。
たとえお茶菓子を大声で求められても、俺はまだここの水屋の作りを知らん。
「覚えとりますよ、こちとら人覚えだきゃあ得意なもんで!」
「まさか、俺がここに住んでいたのは…」
「もう十年ほど前になりますかねぇ」
驚いた。たしかに最後にここを訪れたのは十年前だったからだ。その後人手に渡り、さまざまな利権に使われたこの家を取り戻せたのはわずか数ヶ月前のことだった。
そのためにさまざまな労力と犠牲を払い、復讐を成し遂げる予定だった。
事実、もう殆どの黒田に関連する法人団体は掌握し、運営している。つまり、これで分家は誰一人として龍一郎の意向に逆らえなくなったということだ。持ってきた鞄に着替えと一緒にそれらの書類が入っている。急にその鞄が無為なものに思えた。
計画は順調だった。その筈だったのだが……。
「あの時のお嬢さんは、元気にしとりますかね?」
「加恵は、…妹は生れたときしかここには居なかったが?」
「いえいえ、はす向こうの家に来てた、あのお嬢さんですよ!」
はす向こうの、娘?記憶の糸を手繰っても、全く覚えが無かった。
「ほんに可愛らしいお嬢さんで、はきはきしとりやしたなぁ。別れてしもうた坊ちゃんに大声で『結婚して』って言ってましたお声が、また可愛らしゅうて」
「どんな…」
言いかけて、その台詞を思い出した。涙を瞳に浮かべて、小さな手で俺の裾を掴んでいた。自分にもうひとり婚約者がいたことを、いまさら思い出したところでどうなるものでもないが。
確かはす向かいは日本画か写真の大家の別荘だったから、その縁の娘だろう。
そうだ、思い出した。
「あなた、ここの子?」
あからさまに年下に子供扱いされ、龍一郎はできる限りのしかめ面をした。
他の10歳男児と比べてかなり成長が早いとはいえ、まだあどけなさの残るその顔では脅しにはならなかっただろう。少女は全くひるむことなくにっこり笑って縁側に腰掛けた。すらりと伸びた手足は軽やかに動き、しばらく彼の目を捕らえたままにした。
「このおうち大きいから、どんなに多く、人が住んでるのかと思った」
「今は俺と数人の使用人だけだ。それに、本宅のが大きい」
思えば親戚や使用人以外の女性と口をきいたのはこれが初めてだった。
少女はくるりと肩のところではねた髪を指でとかしていた。少し赤みがかった茶色だ。肌と一緒に陽に焼けたのだろう。背は加恵よりも高いから、七つくらいだろう。すこし話し方が幼いが。
「あたし、お父さんとお母さんとじいじのとこに来てるの!でも内緒なんだって!おかしいでしょう?」
「なにがおかしいんだ?」
彼にとって父母の傍に居ることで、彼女は普通の家の人間だった。少なくとも、彼自身よりは。
「だって、なんで内緒なのか、教えてくれないし。それに、外に出ちゃダメっていうの。こんなにいいお天気なのに!」
彼女が指差した先は、どんよりした曇り空だった。
「……そうか?」
「あなたはなにしてたの?」
と、言われても何も思いつかなかった。本宅での分単位で決められている予定もなく、ただ呆けているのが落ち着いたからだった。
「外を見ていた」
「外に何があるの?」
庭を見つめて、彼はとっさに口走ってから考えた。そのように喋るのは久しぶりだった。こんなにも言葉は口から吐いて出るものなのか。
それともこの少女と居るせいなのか。
「ナツツバキが」
「なつつばきが?」
「そこにある。あれは今は咲いてないが6月も半ばか7月になれば真っ白いキレイな花が咲く。それを見ていたら…」
「みてたら?」
彼は少女を見た。
「お前が来た」
ぱっとナツツバキが咲いたように、満面の笑みが咲いた。それまで気付かなかったが、可愛い顔をしていた。いや、女というものが可愛いことにこのとき初めて気付いた。
胸の中に火花が散った。
「あっ、じゃああたしを待ってたんだね!よかったね、待ってたから来てあげたよ」
「……ずいぶん横柄だな」
目を丸くしてこちらを見る姿さえ可愛いかった。
「オウヘイってなに?」
「…明日来たら教えてやる。」
ほんの一週間、二人は午後の数時間を毎日縁側で過ごした。
別れがくることは自明だったが、それはあまりにもすぐにやってきた。
「やだ!」
案の定泣いていたのは向こうだった。このときにはすでに龍一郎の精神は複雑かつ難解を極めていたので、別離は仕方のないものとして諦めていた。
迎えに来た運転手がいつまでも龍一郎のそでにつかまっている少女を引き剥がすのに一苦労していた。普段からよく彼の面倒を見てくれているのだが、このときばかりは小さな妹背を引き離す役柄を引き受けてしまっていた。
「なかなか手ごわいお嬢さんですな!ん!さ!はっ、なれ、な、さいっ!!」
腕に少女の全体重をかけられて、鈍い痛みが続いていた。
それでも彼は最後まで腕を振り払うことはしなかった。できなかった。
「やだ!もう少しだけ!」
「あきらめろ」
冷静に言い放った龍一郎を覗き込んだ目は涙でいっぱいになっていた。このときに彼女を可愛いと思う気持ちの向こう側にもっと泣かせてみたいという衝動が戦慄となって彼の背筋を走ったが、これは嗜好の問題として置いておく。
「じゃあ…」
言葉を続ける少女に対して、彼は何の言葉もかけられなかった。思えばここまで彼の人生に別離のない出会いなどなかったからだ。どうすることもできない。
流れる生活に対して逆らう気力すら起こらない。
「ケッコンして」
そう言い放った彼女の目は据わっていた。
「………は?」
運転手がそう聞き返さなければ、彼はこの言葉の意味が分からなかっただろう。すでにこの二人のかけあいは少しのギャラリーができるほど注目の的になっていた。
「ケッコンって、ずっと一緒に居られることなんでしょ?だからあたしとケッコンして。」
絶句。
「ぼっちゃま、これはこれは…。」
なぜか運転手が頬を染めている。龍一郎自身は状況が理解できずに身じろぎもせず、木偶のように突っ立っていた。
「わかった」
だからそう答えたのも記憶にない。
「ほんとに?」
「ただし、今はできん。俺が大人になったらここに迎えに来てやる」
そう答えたらしい…たしか。
「ぼっちゃま…。」
そうだ、その帰りの車の中で俺は始めて後悔という言葉を知った。
婚約したことについて、ではなく、彼女の名前すら知らなかったことについて。
果たして、誰だったのか。
昼間庭師から聞いたところによると、日本画の大家である白河禎次が住んでいたそうだが、彼には孫はおろか子供が居ないはずだった。もっとも、妾腹かもしれないが。
となると、弟子か使用人の子という可能性が高い。
いまさら会ったところでどうなるものでもないが、ひどく心引かれた。
もしかすると彼女なら、自分の失くした気持ちを取り戻す鍵を持っているのではないかと、そんな淡い期待を抱いてしまった。
それもこれもみんな一人の女の所為だ。
彼女を思うと胸に火花が散る。まるで鳳仙花、いや爆弾花だ。
いままっすぐに彼女を見つめられない自分を呪う。
目を閉じて、そのまま彼はゆっくりと眠りの中に落ちていった。
ぴちゃり、と玄関で水音がした。
数十分前から雨が降っているようだが、もしかして漏ってきたのだろうか。五年ほど誰も住まず、手入れされていなかったので雨漏りや罅割れは仕方のない話だが。
ひたひたと足音が続くと、決定的だった。
侵入者だ。
本能から体を起こし、構える姿勢をとって備えたが本心ではどうでもよかった。
それにここには盗むほどの価値のあるものは何もない。
と、おもむろに襖が開いた。
「みちる?」
幻だろうか。みちるが濡れたままの制服でこちらを睨んで立っている。
ああ、そうか。
俺はどうやらあのときのみちるを思い出しているのだ。婚約が決まった直後、いつものようにみちると加恵がやりあって女学校に呼び出されたあの日。成長したみちるを始めて見たときの感想と同じく、今度もやはりみちるに制服が似合わないように思えた。おそらく、みちるの表情のせいだろう。そんな決意と敵意をむき出しにした双眸の女学生はあまり見かけないように思う。
夢とはいえ、雨の匂いも、湿気も、みちるから零れ落ちる雫も現実味を帯びている。過ぎるほどに。
やはり茶色の髪からも雫は零れて、おちる。
龍一郎は何気なく同じ台詞を口にした。
「呉川、みちる?」
「ええ、そうです。」
返ってくるのも同じ台詞。この頃は、まさかみちるに好かれるとは夢にも思っていなかった。会えば火花を散らせていたのだから。
懐かしく思いながら、ふと矛盾に気付いた。
みちるの髪が、短い。
途端にみちるが大きなくしゃみをした。
「夢か?」
「いったい何を……」
怒りに燃えるみちるの目を見た次の瞬間、これが夢ではないことを知った。
なぜなら彼はみちるに胸倉をつかまれ、生れて初めて頭突きの痛みを味わったからだ。
「…何の真似だ」
「それはこちらの台詞です!急に居なくなって私がどれほど心配したかお分かりですか?」
まだ頭が痛んでみちるが何を言っているのかはっきりとは聞き取れなかった。彼女から零れ落ちる雫が頬に落ち、まるで自分の涙のように伝っていった。
「どうして!どうして居なくなったんですか!ここは何なんですか!何が大事なんですか
!復讐?平穏?何も得るものなどもうないのに!」
「落ち着け、みちる」
「落ち着けません!復讐したっていい、何もせずに黒田の重圧から逃げたっていいですよ。罪を犯しても構わない!でも、逃げるなら、もし何か取り返しのつかないことになって逃げたとしたら、そのときは…」
何故かみちるとあの少女がオーバーラップした。袖を掴んで結婚を迫ってきた少女。
「もし俺が逃げるなら?」
答えは聞かずとも分かっていた。
その言葉をみちるの口から聴きたかった。
今はとにかくみちるが必要だった。
「私があなたを連れて逃げます。もう離れていかないで…。わたしは、わたしはあなたと一緒に居たい。あなたを…。」
崩れ折るみちるの体を抱きとめて、自分の膝の上に座らせた。
彼女の細くしなやかな腕が背中に回されて、二人は重なり合った。
「愛しています。」
どこかで錠の外れる音がした。それは箍だったのかもしれない。
「知っている」
すべてを味わうように体を重ね、唇を重ね合わせた。ほどけていくのはみちるの唇ばかりではなく、心の襞まで捲られていくように感じられた。
小さなくしゃみが時を元に戻した。
「みちる」
「はい?」
鼻をすするみちるの髪を自分の袖で拭きながら、龍一郎の目が怪しげに輝くのを彼女は知る由も無かった。
「ここは長年使われていなかったからな」
「……?そのようですね」
ふと離れで二人きりだったことを思い出した。どうやらお互い雨に切っても切れない縁があるようだ。
「風呂が沸かせん」
それは、龍一郎さんがやり方を知らないだけなのでは、と言いかけて余計な口論を避けるためみちるは黙り込んだ。とにかく寒いので、じっとしていよう。
「着替えもない。明日着くはずだが。」
……いったい何が言いたいのだろうか。このさい寝巻きでもただの布でもいいので乾いたものを身に纏いたかった。
「さらに、布団が一組しかない。」
つまり、そういうことになれば、翌朝にはそういうようになっていて、週刊誌の見出しに出たような婚約中に交渉を成立させたアベック45%の内の一組になるということだろうか。
昭和の無軌道な性を憂う雑誌を思い出した。
「ふ、婦人月報?」
「……何の話だ。」
「本当に、寒くないですか」
肩まで布団をかぶったみちるは不安げに囁いた。
「いいからさっさと寝ろ」
言い終えたと同時に隣で胡坐をかいていた龍一郎が大きくくしゃみを連発した。
みちるはかろうじて龍一郎の鞄のなかにあった着替えのシャツを着ているだけだったので、布団で隠すように命じられた。というよりも「命令させ」た。
「やっぱり寒いんじゃないですか!」
「誰のせいでこうなったと思うか」
みちるが口ごもったのを意地悪く笑っている龍一郎を見つめて、自分の覚悟を振り返って彼女は小さく息をついた。ここまで来ておいて、ましてやあんな愛の告白をしておいて、いまさら女学校の教えに殉じてどうするというのだろう。
例えば今が明日をも知れぬ戦争の真っ只中だとしたら、答えは明白なはずだ。
みちるは息を吸った。
女は世間に打ち勝つ度胸が必要だ。
特にこれからの時代は、きっと、おそらく。
きっと真摯に龍一郎のほうを見つめたみちるが澱みなく告げた。
「あたためてあげましょうか?」
洟をかんでいた龍一郎の動きが止まった。
「なん……だと?」
「率直に申し上げますと布団の中に入ってきませんか?」
この瞬間、ともあれ龍一郎の度肝を抜くことに成功したことを知り、みちるはにっこり微笑んだ。
「お前は本当に家で作法を習ったのか?」
「作法よりしきたりより、あなたのほうが大事です」
もう目前に迫っていた。みちるには火花が見えていた。
「いま、傍にいなくていつ居るんですか。龍一郎さん」
おもむろにシャツに手をかけた龍一郎に、もう否定の言葉はなかった。
「言ったでしょう、一人で生きていくなんて無理ですよ。」
「だから、お前が共犯者になってくれるのか」
「いいえ、伴侶になります」
龍一郎は自らの目の端にきらめくものを見た。口が自然と弧を描いた。
二人はその晩、温もりを分かち合った。
いつの間にか雨は止み、朝がもうすぐ近づいている。
嫌な予感がして、龍一郎は手早に服を着た。不思議なもので、今まで纏わりついていた過去の忌まわしい記憶は、みちるが迎えに来た瞬間から取り払われ、まるで生まれ変わった気分だ。
傍らに眠るみちるの横顔を眺め、白い肩に指を滑らせた。きれいな女だ、と思った。
つまらない意地や感情を捨てれば、みちるは自分の目には美しく見えるのではないかと思っていたが、今でも彼女はただの女だった。外見はただのきれいな女だ。
むしろ美しいのはその内面であって、誰にも屈せず自分の意思を貫く強さにある輝きに彼は惹かれていた。
いまでも愛は分からない。
みちるがすべてを自分に捧げたように、清廉で力強いものを、それ相応のものを、自分が彼女に与えられるとは到底思えない。これまでの仕打ちを思えば、どう贖おうと許してもらえないだろうのに、それすらみちるは受け止めている。愛されることとは赦されることなのだろうか。みちるの唇を、髪を、指で撫でながら暗鬱とした気分が拭えなかった。みちるを幸せにしたい。もし二人が添い遂げるなら、様々な問題が発生するだろう。あの不幸の連鎖がもたらした毒塗れの黒田から守りたい。おそらくは家を捨てることはできないだろう。俺もまた、黒田に縛られ呪われている。もし断ち切ることができたとしたら、そのときはみちるに傍にいて、安らかに余生を過ごしたい。
ただ俺がみちるに捧げるものがあるとすれば、信頼とこれからの時間。たったこれだけで、みちるは頷いてくれるだろうか。
「おはようございます」
いつの間にかみちるが起き上がり服を手にしていた。
朝の光に肌を照らされるのが恥ずかしいのだろう、すこし頬を染めて視線を決して合わせようとしない。まさか昨夜のことを後悔しては居ないだろうか。
「あの、りゅ、龍一郎さん?」
もう一度あの言葉が聞きたくて、下着を奪い取るとそのままみちるを布団の上に押し倒した。無理矢理に唇を押さえつけると、不平の声が漏れた。
「やめてくださいっ」
「俺のことが好きか?」
今すぐ聞かないと、不安に食われそうになる。参ったことに、俺は相当弱い人間らしい。
「好きですよ!だから、どいてください!」
……それにしても、これが好きな相手に対する態度なのだろうか。
「俺もだ」
鳩が豆鉄砲食らったように、みちるが目を丸くした。
「みちるが好きだ」
とりあえず言葉に出して言ってみると確信に変わった。
瞬間、みちるが裸のままで抱きついてきた。紅く、やわらかい唇が重なってくる。
……それにしても、本当にみちるは黒田で作法を学んだのだろうか。甚だ、疑問だ。そんなふうに情熱的に返されると時間帯としても非常に抑えがたい衝動が起こるのだが。
ふと言い忘れたことを思い出し、みちるの顔を離した、その時だった。
一つ、咳払いが響いた。
「兄様、みちる、入ってもよろしいかしら?」
襖の向こうから聞きなれた声がした。二人は顔を合わせた。どちらも呼んだ覚えはないのは明白だった。みちるが急いで制服に手をのばした。
「……加恵、いったいどうやって」
「悪いとは思いましたけれど、みちるの後を付けさせていただきましたわ。もっとも昨日は傍まで参りましたところ、おそらくはここだと思いましたので、邪魔することなく、翌日あらためてお伺いしようと思って、今、参りましたの。」
みちるは声も出せていなかった。
「ご安心なさって。わたくしはお父様から、みちるを追えば兄様が見つかるので尾行するようにとの密命を受けて参りましたの。みちるは兄様の白鷺なんですって。意味は存じ上げませんけど、白鷺は必ず夫婦、番で行動するんでしょう?」
「だから私が龍一郎さんを見つけると思ったのね」
みちるがやっと乾いた上着を被りながら答えた。
「でもここの家はとうの昔に売却されていて、持ち主は存じ上げないし、みちるはここに真っ直ぐ向かうし、雨も降ってきたしで、昨日は帰りましたの」
大きく息をついた加恵のシルエットが朝陽に照らされてくっきり浮かび上がっている。
「………加恵」
「何ですの、兄様?」
心なしか、加恵の対応は今までとは違っていた。気恥ずかしさからか、または突きつけられた現実による兄離れだろうか。
「つまるところ親父は俺とみちるがここに居ることを知っているんだな?」
「兄様とみちるが一つ布団で一夜を過ごしたかどうかはご存じ無いかも知れませんが。」
それは、せめてもの救い、なのだろうか。みちるが半眼で襖の向こうを見つめた。
「………聞かれても黙っているように」
「承知いたしましたわ。」
本宅に着くなり、書生がみちるのもとに駆け寄ってきた。
「何だ」
間を隔てる御簾のように龍一郎に遮られているので、書生が何かを持ってきたのを見ることはできなかった。書生は主人の顔色を伺いながら、おそるおそる告げた。
「は、あの、みちる様に昨日客人がいらしたので…」
「誰だ」
「龍一郎さん、黙っててください」
書生はこの二人の態度の変化の原因をしっかりと繋がれた手に見て、恥ずかしい思いでいっぱいになった。そして言い出しにくい伝言を今更伝えるべきか思案してしまったので、龍一郎に促されるまでぐぅの音も出なかった。
「あのっ、赤毛の外国人の男がみちる様にこれを餞別に渡してくれと。祖父が亡くなったので、今日の午後に帰郷しなくてはならないそうです。二時の列車に乗ると言っていました。」
「ヴェッキオか」
龍一郎から手渡されたエリオからの餞別は、この間やっと返すことができたセーターだった。これ以上ない、エリオとみちるの思い出の品だ。時計を見た。一時十三分だった。いまから駅まで走れば、間に合うかもしれない。
踵を返したみちるの手を、龍一郎がきつく握り締めた。驚いて振り返ったみちるに、苦しげな声を出したのは相手のほうだった。
「どうしても行くのか」
「あなたを裏切るつもりはありません、ただ伝えたいことがあるんです」
みちるの顔をしばらく見つめた後、大きく息をつき、書生に向き直った顔は黒田の主人としての落ち着きを取り戻していた。
「……車を出せ」
ぱっと顔を輝かせたみちるの手は、まだ離していなかった。
「ただし、俺も一緒に行くからな」
10
列車の時刻を伝えたのは、たまたま聞かれたからだった。
別に彼女が息せき切って走ってくるのを期待していたわけではない。すでに振られているのも十分に理解している。
だがしかし、まさか婚約者つきで現れるとは予想できなかった。
加えて言うなら、帰国する日に見たくないほど嫌いな男なら尚更。
「……久しぶりですね、クロダリューイチロ」
「その微妙な片言をやめろ。婚約者の家に住み込む女性に言付けて呼び出すのは関心しないな、ヴェッキオ」
「まさか、イソギンチャクよろしくその婚約者に付いていらっしゃるとは思いもよりませんでしたがね。ご自身の身辺は整理できましたか?例えば片付けられない昔の恋人、とか。」
「腰巾着だろう。それに、貴様に言われる筋もない」
みちるは微笑んだまま、間に割って入った。まるで子供だわ。
「下らないことを言い合うのはやめましょう。エリオの乗る列車がもうすぐ出ますから。龍一郎さん、少し離れててもらえますか?」
何か言いかけて、そのまま龍一郎が駅の外に出て行った。
「荷物が無いね、みちる?」
「荷物を持ってくるくらいなら、龍一郎さんとは来ないわ。分かってるでしょう?」
エリオは首をかしげて自嘲した。分かっている。みちるはもう彼のものだ。しかもまずいことに、彼女自身がそう望んでのことだった。
「それじゃ連れていけないなぁ。仕方ない、一人で行くか」
わざと冗談めかして肩を落とした。本当は、荷物などいらないから手をとって無理に連れて行きたい。そのほうが彼女が幸せになれる。そうする自信が有る。
傲慢と自制の狭間で揺れているエリオの胸中には気付かずに、みちるがゆっくりと告げた。ずっと、伝えたかった言葉を今言うときがきたのだ。
「まず、本当にありがとう。この数ヶ月の私の身辺のめまぐるしい変化で、参ってしまった私を誰よりも支えてくれたのは、あなただわ。それから、あなたが私を好きだと言ってくれたその気持ちにも、本当に、感謝しています。いつも他人と違うことで引け目を感じていた、その気持ちを消してくれた。それから、自信がついたわ。ありのままの私を受け入れてくれたから。あなたが好きになってくれて、愛を教えてくれたから、わたし…」
ずっと俯いていたエリオが鼻をすすった。鼻の先が少し赤くなっている。
「わたし、龍一郎さんを愛してるの。本当に、やっと幸せな気持ちになれた。エリオ、離れてても、あなたのことは忘れないから」
みちるも涙が溢れてきた。思えばエリオに会わずに居れば、いつまでも混血という負い目を抱えて、周囲に立ち向かい、本当の友情を得ることも無かった。
愛も、知ることが無かった。
「みちるは僕の運命の相手だ。誰がなんと言おうと…僕のただ一人だ。誰と結ばれても、君を忘れることは無いよ。」
涙目でみちるが笑った。別れの瞬間に彼女の笑顔を見れたことを神に感謝した。
なんて美しい女なのだろう。
エリオはみちるが生まれた運命に本当に感謝した。
「行ったのか?」
「いまさっき列車に乗りましたよ」
みちるは目の端にまだ涙を滲ませている。
ヴェッキオがみちると会っていると知ったときから胸の中に巣食った黒い感情の名を、龍一郎は今更ながらに実感した。到底自分とでは結べない信頼に対する嫉妬だ。
「龍一郎さん?」
「少し、歩くか」
今までは自分の感情を他人に悟られることなど到底なかったし、そこまで心の内に踏み込まれることもなく過ごしていた龍一郎は不安を感じた。
今更ながら、醜い感情をみちるに見せたくなかったのだ。
「そういえば、あの嵯峨のお屋敷のことなんですけど」
目も向けずに龍一郎が頷く。
「なんだ」
この仕打ちにみちるは苛立ったが、おそらくはエリオのことを気にしているのだろうと感じ、やぶへびに指摘してしまうことを避けた。ちらりと頭をよぎったのは、もしもそうでなかったら、龍一郎が嫉妬しているのではと思った自意識過剰を恥じたからだ。
やっと両想いに成れたというのに、この苦しみは何だろうか。
お互いに怖れて、何も言えずただ当たり障りの無い会話を続ける。
このままではいけない。
でも、確信をついてしまったらもう後には引けないかもしれない。
喪失の恐怖。
「龍一郎、あなたもこの家に生まれたからには、黒田に踊らされる運命にあるのよ。……けれど考えてみて?愛とは何かしら?……幸薄い西洋人の考え出したそんなもの、存在しないのよ。」
母の言葉が脳裏をよぎった。
存在し得ないはずの愛を信じたい気持ちがあった。
少なくとも昨夜の時点では、信じていた。
失ったら生きてはゆけない。失くしたくないあまりに、本当のことには蓋をして、何も感じないように過ごす。
驚いたことに、俺は相当臆病な人間なのだった。
昨夜、みちるを抱きながら、ふと暗闇に灯るような奇跡を胸に抱いていた。もしかすると、あの少年の日、自分に求婚してきた少女はみちるだったのではないか、という期待。そして少しばかりの可能性。
しかし、それを追求することはしなかった。
否定されたときに失望してしまうことを怖れたのだ。
今まで否定してきた、運命や愛を、馬鹿馬鹿しいと笑っていた自分こそが強く求めていることを、優しさなど必要ないとはねのけた手を持つ自分こそがそれらを誰よりも強く望んでいたことを知って愕然とした。
隣の小さな女にひどく打ちのめされた気分だった。
「あのね、私考えたんですけど」
みちるが唐突に袖を引いた。こころなしか拗ねたような表情でいるのは、まともに顔を見れない俺に対する不満だろうか。
「家が落ち着くまで、少しの間、この事は黙っておいたほうがいいような気がするんです」
焦燥が勝った。
脈打つ鼓動の音に邪魔をされて、あまりみちるの話が聞けなくなってしまった。
「この間の阿川の大叔母様の件もありますし、しばらくの間は親戚中の反応をうかがったほうが…」
考えたくないことだった。いつか、黒田の重圧に耐え切れなくなったみちるが出て行ってしまう。みちるの母のように、誰かの手を借りて。
ヴェッキオは去った。
しかしいつ他の男が現れるとも限らない。いつか誰かが苦しむみちるに、手を差し伸べるかもしれない。
もし、もしもそうなってしまった場合、自分はどうなってしまうのだろう。
この心は、体は、喪失の衝撃に耐えられるのだろうか。
赤褐色の狂気が目の前に広がった。
「逃げるのか?」
「そういうつもりじゃ…」
少し考えればみちるの言い分も尤もであるし、お互いに少しでも落ち着く時間が必要だった。しかし目の前が赤くなってなに見えない。
「もし黙っていたところで露見するのは時間の問題だろう。俺は以前のようにはみちるを扱えないし、お前さえよければ毎晩同じ部屋で休みたいぐらいだ」
所有欲なのか?それとも愛とよばれるものなのか?
「何を言っ…」
みちるの顔が羞恥に染まった。黙って目を閉じて、もしかすると昨夜のことを思い出しているのかもしれない。
「俺は辛抱の足らん人間だからな」
「そんなこと、分かってます」
「それでも、やっぱり、作戦っていうか、少しは対策か何か練るべきじゃないかと」
「無理だな。」
とうとうみちるが苛立ちをあらわにした。
「どうして、そう話も碌に聞かずに却下するんですか!」
「明日、本宅に親戚分家一同が会する。俺はそこでみちると結婚することを告げるからだ」
みちるは開いた口が塞がらない様子だった。
自分でも呆れるほどの思いつきだった。もともと明日、親戚が集まるのは亡き伯父の法要の打ち合わせの為なのだが、実はそこでみちるとの婚約延期を打明ける予定だったのだ。まさか真逆のことを言うようになるとは。
結局、それから翌日まで目も合わせず朝餉を迎えた。学校に行くつもりらしくきっちり制服を着て飯をよそうみちるには、家についてからずっと無視され続けている。とはいえ、こちらから声をかける努力をしたわけではないのだが。
寝室の件も冷静になれば、どう切り出せばいいのか思案せざるを得なかったので保留することにした(諦めたわけではない)。どうにか味噌汁で朝餉を飲み込んだ。
「龍一郎、今日の用意は」
誠二郎が出し抜けに聞いた。龍一郎はみちるに気を取られて父親のほうも向かずに言った。
「滞りなく。昼には全員到着する由伝わっております」
息子の視線の先をしっかり捉え、誠二郎は落ち着かなく視線をめぐらせた。
「それから、あー、その、だな」
「みちるも同席させますが、何か?」
みちるが書生の茶碗を取り落とした。あわてて両方が手を差し出したので、書生とみちるの手が触れた。年若い書生は過敏なほど反応し、青白い頬を染めた。龍一郎の顔が見る間に不機嫌になってゆく。そちらを向いていないみちるだけがそれに気付かなかった。
書生はしばらく女性の手の感触にぼうっとしていたが、若い主人と目が合った瞬間に明らかな殺意を感じ、色を失いうつむいた。使用人らは同情の視線を彼に向けた。
彼らは二代にわたり血を争えぬ途方も無い執着心を再び目の当たりにした。
「ねぇ、みちる、昨夜はちゃんと眠れた?」
「え、ええ。なぜそんなこと聞くの?加恵」
少し意地の悪い衝動は、にやりとした唇に現れていた。
「ええ、昨夜遅くまで兄様がみちるの部屋の周りをうろうろしていたようだから!」
今度は龍一郎が茶碗を取り落とす番だった。しかし表情はなんとか冷静を保っていた。昨夜は純粋に話のきっかけを探して部屋の前を行ったりきたりしていたが、なるほどみちるは早くから休んでいたからか全く気付いていなかった。
「えっ、あ、か、加恵!」
「きっと今日のことでお話があったんじゃないかしら。ねぇ、兄様?」
普段なら明るく社交的になった妹のお茶目など軽く受け流せばいいはずなのだが、ようっやっとの思いで頷いた。
「そうだ。みちる、食事を終えたら広間に来るように」
「いや、その前に龍一郎よ、話がある」
「みちる、こっちよ」
加恵に手招きされるまま進んでいった先は通路とも言えないような板張りの通気溝だった。幼い頃、使用人らとかくれんぼをしていて見つけたのだそうだ。
「やっぱり、盗み聞きなんて気が進まないわ」
「でも、お父様と兄様が何をお話しするか気になるでしょう?もしかしたら、二人のことに反対してらっしゃるのかも知れないし」
「それは、そうだけど…。」
「じゃ、行ってらっしゃーい」
と、勢いよく加恵がみちるを通気溝に押し込んだ。掃除もここまでは行き届いていないようで、ひどく埃が立っていた。みちるは驚きと埃で涙目を押さえて言った。
「ええっ、私一人で行くの?加恵は?」
「私には学校が御座いますもの。遅刻なんてしたら大変だわ。では、行ってまいります、御義姉さま」
あまり根本から性格は変わっていないことに、少しの安堵を覚えたがそれは黙っていることにした。
加恵が立ち去ったあと、みちるは体半分だけ通気溝に入ったままにして思案していたが、使用人らの声に驚き、中へと逃げ込んだ。一度入ってしまえば後は奥に進むだけだったので光の差すほうへみちるは四つん這いでどうにか向かっていった。
部屋一つほど越えただろうか、と思った瞬間光が失われた。
予想していなかった暗闇にみちるの背が粟立ち、手当たり次第に壁を押した。
先ほどまで光が見えていたのだから、絶対にどこか出口があるはずだ。そうでなければ、こんなところに閉じ込められてしまう。誰にも気づかれず、闇の中で飢え、乾き、そしてついには……。
「龍一郎さん…」
目を閉じ、みちるは思わずその名を呼んだ。
「誰だっ」
聞きなれた不機嫌そうな声が響いた。
「どうかしたか?龍一郎よ」
「いえ、今誰かが呼んだような…」
「気のせいだろう。それよりも本題に入るぞ」
いつの間にか大広間についていたようだった。みちるがもう一度、光の差していたほうに手を伸ばすと、引き戸がついていた。開いてみると座椅子や布団が置かれている。
押入れだわ、とみちるは胸中で感嘆の声を上げた。
まだ隙間に余裕のある押入れに移動し、襖の隙間から黒田の親子を確認した。
「確かここに……ああ、あった」
誠二郎は部屋の奥で何かを探している。小さな箱を手にとって、座り直したときには襖から覗いているみちると向き合う位置になった。
「それは何ですか?」
龍一郎は誠二郎に向かい合って座っているため、みちるからは顔が見えなかった。少し声に苛立ちが混じっているように聞こえるが、普段からそんな声を出しているような気もする。
「いや、これはいいんだ。ところで、今日みちるさんを同席させるといったがどういう心積もりだ?お前はてっきり、卒業するまでは婚約しないと言い張る気がしていたのだがな」
「察しのとおり、婚約を発表するつもりですが」
「それよりも、あれを聞かせてほしいな。昨日帰宅してからというものお前の人間が変わったように見えるのだが、その理由を考えると…」
「理由は…」
「みちるさんの父親である呉川氏に対して顔向けができないような事があったのではと」
「昨日、みちるを無断で外泊させたことは謝ります。ですが学生としての節度を持ち、呉川氏にも顔向けできないような事は一切致しておりません」
みちるが滑って転んだ。
かなりの物音が響いたが、襖に挟まれて部屋にはコロンという音が小さく鳴っただけだった。しかし龍一郎は明らかな気配を感じ押入れに鋭い視線を向けた。
その瞬間、視線が結びついたように感じ取られ、みちるは息を飲むことすらままならなかった。
「押入れに何かいるようですが」
「放っておけ、鼠か何かだろう」
ちゅうちゅう……。誠二郎に感謝しつつみちるは胸中で鳴き真似を試みた。口に出してはおそらく墓穴を掘ってしまうだろう。
「だとすれば、お前は婚約の意思を固めた。そう理解していいのだな?」
「はい」
「龍一郎、お前、何か忘れてないか?」
龍一郎は返事もせずに思案した。一体、何か忘れていることがあるだろうか。分家一同に承諾させることはそう容易いことではないが、説得と誠意を持って強攻策を提案すれば、止められることはないはずだろう。
むしろ、誠二郎は先だってこの事を進めてもいいはずだった。何しろこの婚約はもともと彼が言い出したことなのだから。
やはり、何か見落としていることは……。
みちるがまだ15歳で、あと一年結婚には必要だということだろうか。
「返事は?」
誠二郎が宙を見つめ呟いた。
父の過去をふっと思い出し、声を上げそうになった。
しまった。まだみちるに求婚していなかった。もともと婚約を打診されていただけに、すっかりその気で居たが、何も言っていなかった。
まさか、昨夜みちるが早く部屋に下がったのは、それを気にしていたのだろうか。何も言わず事を進める俺に対して怒りを感じているのか。
「すみません、少しみちると…」
少し控えめに言いかけたその声は、使用人の影と深く響く声に遮られた。憮然として黙ったが、使用人は謝るそぶりすら見せず続けた。どうやら、よほど急ぎの用事らしい。
「旦那様、阿川の御夫妻がお話があるそうで、お止めしたんですが…」
分家頭、阿川の大奥方はアンチみちる派の筆頭だ。先日みちるとやりあって、彼女は見事なまでに啖呵と髪を切った。おそらくは、親戚一同が集まってしまう前に、誠二郎に対して警告しようとしたのだろう。
「どこまで来てる?」
「隣の控えで、ここにお通しされるのを待っておいでです」
「……龍一郎、そこに隠れているように。わかった、通しなさい。」
みちるには最後の言葉が聞こえなかった。使用人が控えてから、二人の会話は声が抑えられていたからだ。
龍一郎がこちらに歩いてくる。みちるが気付いたのは、龍一郎のスラックスで視界が占められてしまってからだった。
押入れが開いた。
眩しいほどの光の中に龍一郎の姿があった。
「お前、何してる」
「おい、来たぞ」
誠二郎の警告で、とっさに二人は押入れの中に入り込み、襖を固く閉めた。
みちる一人では余裕のあった空間も、龍一郎の体躯が入り込むには少々手狭だった。二人は抱き合うようにして押入れに埋まった。
「みちる、さっきの話をきいていたのか」
「あ、はい、聞きました」
「お前、埃っぽいぞ?」
「通風孔のような所から来たので…」
「酷い格好だな」
「いちいち言わなくても分かってます」
「俺と結婚してくれるか?」
間が空いた。みちるの大きな目がこれ以上ないほど開かれた。
「け、けっこ……」
大きな声と動揺を、龍一郎の手が押さえつけた。
「叫ぶな。頷け。」
その命令に、みちるは思わず笑ってしまった。
「笑うな。」
どうやら龍一郎は真剣なようだ。みちるが首を横に振らないように、きっちり両耳を手で押さえつけ顔を挟んでいる。
みちるはまだ微笑んでいる。
「みちる?」
「何ですか?」
「早く返事を」
みちるの白い歯が見えたかと思ったら、唇が重なった。やわらかく包み込まれる感触にしばらく思考伝達が緩慢になった。微笑んだままみちるが耳元で囁いていた。
「分かりました?」
「いや、…わからん」
顔が分かるくらいの距離をとって、二人は見つめ合った。
「まだ分からないな」
みちるが目を閉じて、ゆっくり頷いた。
「一生、ついていきます」
人生最良の日だった。
結局、襖から出られるまでに二時間かかり、その間は息を潜めて阿川夫妻がみちるに対しての悪評をぶちまけるのを辛抱強く聞いていなければならなかった。
この数時間のようなことは、おそらく一生続くだろう。
彼女の心変わりを怖れて、しかと握られた龍一郎の右手に唇を寄せたみちるが呟いた。
「さっきの言葉を少し訂正します」
吐く息は返事にもならなかった。
「私が、あなたを一生幸せにします」
「お前、なにを…」
「この毒塗れの黒田の家から守ってあげるわ」
ゆっくりと龍一郎がかがんで、互いの額を軽くぶつけた。
決意の儀式のように、みちるも同じことを繰り返した。
あの日はまさか、みちるが今日ここに居ないことなど想像もつかなかった。
みちるが頷いてくれた、あの日から10年が経っても俺は全く変わっていない、弱いままだった。目の前の襖を暗澹とした表情で見つめた。
「ねぇさま~、ととさま、あすこでうんうんしてるの?あたまいたいの?」
「悠ちゃん、お父様はよくあそこで考え事なさるの。頭が痛いわけではないのよ。お邪魔しちゃ、ダメよ」
みちるによく似たふわふわした茶髪の男の子は悠一郎。その四つ年上に生れた長女は鞠絵という。真っ直ぐ伸びた黒髪と利発そうな顔立ちは龍一郎によく似ていた。
「鞠絵ちゃん、悠ちゃん。お食事の時間よ…あら、どうしたの?」
年嵩になった加恵に呼ばれ、二人は不安げに振り向いた。彼女は女子高を卒業後、なんと龍一郎の大学で出会った法学部の学生と結婚し、いまでは弁護士事務所を手伝いながら公私にわたり夫を支えている。嫁した後もよく実家に出入りしては、子供たちの世話をしては、米を持って帰っている。
「加恵おばさま~、悠ちゃんがお父様をご心配してるの。」
「ああ、いつものことじゃない。大丈夫よ、悠ちゃん」
「ととさま、だいじょうぶ?」
悠一郎の小さな手をとって、加恵が優しく囁いた。彼女はすでに母親の目をしていた。お腹の中に芽生えた小さな命は、あと八ヶ月でこの世に生を受けることになっている。
「昔ね、悠ちゃんのお父様はあの押入れの中でお母様にプロポーズなさったの。だからお父様はお母様が居ないときに思い出にひたってらっしゃるのよ」
「ステキ!」
「鞠絵ちゃん、他にも面白い話はお母様に聞けば教えて下さるわ……あら、噂をすれば」
玄関のほうからばたばたと音を立てて、荷物が、いやみちるが現れた。向日葵色のサンドレスに白い帽子で、すでに夏の出で立ちだった。
「あら、みちるったらもうそんな格好。神戸は暑かったの?呉川さまはお加減いかが?」
「加恵、子供たちを見ていてくれたのね、ありがとう。お父様は神戸に移ってからすごく調子がいいみたい。最近は洋画もはじめているの。」
「かかさま、かかさま、おかえりなさい」
「悠ちゃん、鞠絵、ただいま帰りましたよ~」
障子が開いた。龍一郎が苦悩の表情でみちるの腕をつかんだ。
「龍一郎さん、ただいま帰りました」
しかし、龍一郎はそれに応えることなく、加恵に向き直った。
「もうしばらく子供たちを頼む」
「あらあら……、頼まれました」
障子が閉められた。
昼の太陽に照らされて、二人が抱き合っている影がくっきり映し出された。
「加恵おばさま、お父様はお母様を愛してらっしゃるのね」
「ええそうよ、でもご本人にいくらそう言っても信じてくださらないの。誰が見たってそうなのにね」
いまだ本家のみにとどまらず、黒田の問題は山積している。龍一郎は長い歴史の中で腐敗した系図を立て直すのには一生かかるだろうと夫があるとき呟いた。しかし加恵はこう思っていた。どんなに外で打ちのめされようとも、守るべきもの、癒してくれるものがあれば人生は安泰だろうと。
たとえ真っ暗な道が続こうとも、愛する人が隣にいることで胸の内に少しの光を灯すことはそう難しくない。願わくば、その光が次の世代にも届きますように。
まだ見ぬ自分の子に、そして世の中の子らに加恵は祈った。
完