中心にあるもの
9、中心にあるもの
もやもやした気持ちがすっきりしたのはいつぐらいぶりだろうか。
萌々子は走りながら思った。今までは、嫌な気持ちの時にその気持ちを忘れるためにずっと走っていたのだが、今日はそうではない。気持ちはなぜか晴れやかで、なんだかフワフワした気分である。
結果的に萌々子は失恋した。
告白して見事に断られたのだ。照れ隠しのようにとっさにウソをついたが、今思うと、実はあれはウソと言うより本音が少し混じっていたように思える。もし、瑞希にこのことが知れても『冗談だった。』ということで乗り切ろうと萌々子は思っている。実際、敬は萌々子の彼氏になったわけではないのだ。
何もやましいことはない。
時折・・・というかけっこうな頻度で、メールを通じてスリー・オン・スリーに誘われる。
夜勤でもない限り、萌々子は参加することにしている。
やはり身体を動かすのは楽しいし、一人で走っているのもいいが、みんなでわいわい言いながら身体を動かすのはもっと楽しいのだ。
バスケに関しては学校の授業でしかやったことはないので、萌々子は少しネットなどで動画をみながら基本から練習することにしている。
『上達早いよね~。』
運動公園の近くの喫茶店で都は萌々子に言った。浜島都とはよく会う。
都とは他のメンバーが都合がつかないときでも二人でちょくちょく会うようになった。
会う時というのは大体、運動公園で基本的なバスケの練習を少ししてから、近くの喫茶店に行く。都と気が合うのは、二人でも1-1の試合の形式をとるというよりは、キチンと基礎練習の反復ができるところだ。体育会系の二人は基礎練習の反復をなんとも思っておらず、実にこういったことをキチンと行い、パフォーマンスを向上させることこそ、スポーツを楽しむ上では重要なことであると思っている。
そういう意味で都の方も萌々子とは気が合うと思っている様子だった。
運動公園の近くにはランチやディナーまでやっており、夜もけっこうな時間までやっている喫茶店がある。一人で走っているときはあまり入ったことはなかったのだが、スリー・オン・スリーのメンバーと知り合ってからはみんなで行くようになったのだ。
『そうですか??でも面白いですね~。バスケって。』
『だよね。あたしも誘われて初めてやったんだけど、これがなかなか面白いんだわ。』
『こうなってみるとやったことのないスポーツがあるのがもったいないような気がしますね。』
『そうよね~。』
『フットサルとかって面白いんでしょうかね?』
『あたしはテニスがやってみたいな。』
都との会話は基本的にスポーツの話が多かった。
学生時代にバレーボールをやっていた都と萌々子との話題の共通点はこれでもかというほどあった。
『ももちゃんはなんかやってたの?』
『あたしはソフトボールやってました。』
『え~。見えないなあ。』
『そうですか??』
『うん。だってソフトやってた人って、なんていうかもっとこう小太りというか・・・。』
萌々子はコーヒーを一口呑みながら都の話を聞いた。
この喫茶店は小さいようで案外、中が広い。照明は間接照明になっており、少し部屋全体は薄暗い。この薄暗さが萌々子は好きだ。何かからっと明るい部屋よりもすこし薄暗いような部屋の方が自分に合っているような気がする。
敬のことは思ったよりなんとも思っていない。
最近ではなんであそこまで悩んでいたのかさえ分からなくなってきた。もしかしたら片思いなんてもんはそんなもんなのかもしれない。そんなことは本当はもっと前にみんなが経験していることなのかもしれないが、萌々子はそれが人より遅かったのだろう。
『小太りですか?あたし、どちらかというと小太りですよ。』
『え?何言ってるの??』
『??』
『ももちゃん、あなた・・・ちゃんと自分のこと鏡で見たことあんの??』
『そりゃ、嫌だけどほぼ毎日・・・。』
喫茶店のテーブルの横のところにはいくつかの雑誌がある。新聞か雑誌が各テーブルの横にキレイ置いてあるところがまたこの喫茶店の品の良さだと萌々子は思う。
都は横から女性誌を一冊だして、ページをめくりながら言った。
そこには最近ドラマでよく見る若い女優の写真が載っていた。
『ほら。この子。』
『落語のドラマに出てた子ですね。』
『ももちゃんに似てるわよ。』
『やだ。まさか・・・。』
萌々子は普段、褒められ慣れていないのでこういう時はどんな顔をしていいか分からない。
なんか笑っているようでどうにも苦笑いしているような・・・そんな変な表情をしているのが自分でもよく分かる。どうにもこうにも変な気分だ。
『似てるわよ。あなたが自分のことどう思うかは勝手だけど、もう少し自分に自信を持ってもいいと思うわよ。』
『そ・・・そうですか??』
萌々子はどこかで聞いたことのあるようなセリフに若干の既視感を覚えたが、あまり深く考え込まずにコーヒーをさらに一口飲んだ。
女性誌のページの女優の写真はこちらを向いて微笑んでいる。
彼女は決してモデル体型ではない。
確かにかわいい顔立ちはしているが、スタイルがいいかと言われると普通の女の子というような感じではある。しかしこうも他との違いを感じるのは見た目というよりは、その表情だろう。表情や少しの仕草で彼女は何かを演じ、見ているものを魅了しているのだろう。そういうところがモデルと女優の違いなのかもしれない。
『あたしが小太りかどうかは置いといても、もうこの年齢になるとスタイルだけでは勝負できなくなっちゃいますね。』
『ももちゃんは大丈夫よ。』
『いや都さんだって大丈夫ですよ。』
萌々子は心から言った。決してお世辞ではない。
都は背は高くスラリとしており、手足も長い。顔も小さく、切れ長の目元は涼しげで、まるで宝塚のトップ女優のようだ。
萌々子は自分で言った言葉ではあるが『スタイルだけでは勝負できない。』という言葉が頭の中をぐるぐるとまわり始めた。また何かが分からなくなっている証拠である。
喫茶店の中には何の曲かは分からないがジャズが流れており、趣がある。
『でもねえ・・・。どうもなあ。』
ため息をつきながら都は歯切れの悪い言い方をした。
歯切れの悪い言い方で萌々子にはなんとなく都の言いたいことが分かった。
『そうですねえ・・・。』
ジャズの軽快なリズムが流れる中で、萌々子と都はため息をつきながら無言でコーヒーを飲んだ。
『ここ最近、ホントに浮いた話ないよね。』
都はもううんざりしたような顔をして言った。
萌々子は都の言いたいことがなんとなくわかった。それにしても都に浮いた話がないというのは少し意外な話で、自分ならともかくここまでの美人を男が見逃しているのがよく分からない。
そう思ったので萌々子は正直にそれらしいことを言った。
『あたしがないのは自分でも納得できますけど都さんだったらいくらでもありそうな感じがしますよ。』
『いや・・・こんなこというとね。なんか負け惜しみみたいになるけど若い頃はそれなりにそういう話もあったのよ。でも最近はねえ・・・。ももちゃんはどう??』
『あたしも何もないです・・・。』
萌々子は嘘をついた。
なんか・・・自分が一回りぐらいも若い男の子に片思いしていたことは、恥ずかしくて言えなかったのだ。
『そうよねえ。この年齢になると誰でもいいというわけにはいかないからね。』
『そ・・・そうですね。』
『よく、すごく若い女の子連れてるおっさんとかいるじゃない?なんか見苦しいように見えない?』
都の意見には萌々子も賛成だった。
男性もそうだが、女性でもあまりに年齢が違いすぎるカップルは見ていて不自然だ。都ほどの美人が一回り以上若い男を恋人として連れていたとしても、不自然さは否めないのだ。
もちろん本人たちがよければそれでもいいのだろうけど、でも基本的に年の差カップルは話もなにもかも合わないような気がしてならない。
冷静に考えると自分もなぜ敬があんなにも好きだったのか、泣きたくなるぐらい、いや実際、一人で泣いたりもしたのだが、そんなに切ないを思いをするぐらいだったのか・・・萌々子にはよく分からなくなってきている。
よくよく考えてみると敬と自分が付き合っている様子など想像もできないのだ。
失恋したことでそういうことも如実に分かるようになった。だから失恋の痛手を引っ張ることもなく、百年の恋も完全に冷めてしまったのだろう。そしてもしかしたらそういった意味では萌々子は少し成長したのかもしれない。
『なんか分かります。年相応ってありますからね。』
『そうなのよ。そうなるとあたしたちも誰でもいいってわけにもいかなくなるでしょ。』
『そうですよねえ・・・。まあ、でも一人も面白いですよ。』
萌々子は自分で言っておきながら、自分の言葉に驚いた。まさかそんな言葉が自分からでるとは思わなかったのだ。
確かに萌々子は今でも結婚願望はある。
結婚できずに一人でいるから実家にも帰りづらくなっているぐらいだから、誰かいい人がいれば、ということは今でも思っている。敬のことがあってやけになったから以前なら言えなかったような『一人でも面白い』という言葉が言えた、というわけではないのは分かるのだが・・・。
『実はあたしも一人が楽しいと感じてきちゃって・・・。でもこれってますます結婚が遠のく証拠らしいわよ。』
『え・・・。ホントですか??』
『ホントよ。だって結婚なんてどちらかというと勢いでするもんじゃん?』
萌々子は黙ってうんうんとうなずいた。
確かに結婚は勢いでするものらしい。萌々子にはよく分からないが、確かソフトボール部の後輩が少し前にそんなことを言っていたような気がする。
『大体、あたしらぐらいの年齢になるといろいろ考えちゃうから仮に誰かと付き合えたとしても結婚となると二の足踏んじゃうんだよね。』
ここ最近は夜勤でない限り、仕事が終わった後は走っているか、スリー・オン・スリーのメンバーの誰かに会っているか、もしくはスリー・オン・スリーをやっているか・・・萌々子のプライベートはなぜか失恋してから充実していた。
何が幸いするか分からない。そう萌々子は思っている。
こうやってある程度充実した毎日が送れているといつしか結婚どころか恋愛すらどうでもよくなってくる感覚に陥る。喫茶店で都が言っていた通りだ。
気が付けば暦は12月になっている。
随分、寒くなってきたが走るのはちょうどいい時期である。
萌々子は日勤の仕事を終えて、自宅に戻るとすぐにトレーニングウェアに着替えて走りに行く。
職場から自宅まで歩いて通勤しているので、いい準備運動にもなる。身体は少し温まっているので、しっかりとストレッチをしてから、自宅前から走り出す。
もちろん最初はゆっくり走る。
運動公園に着くころには身体が完全に温まっており、そこからはほとんど全開で走り出す。
萌々子はいつもの見慣れた景色の中を駆け抜けていく。走ると冷たい風が顔にあたる。『ああ・・・もう冬なんだなあ。』そう思いながら萌々子は走っていく。
走っているときは余計なことは考えないのは以前と変わらない。
しかし余計なことは考えなくても楽しいことは考えるようになってきた。
萌々子はここのところ自分にとって楽しいことを見つけたような気がしている。失恋してからそうなったのだが、これに関しては失恋がきっかけと言ってもいいかもしれない。というのも、スリー・オン・スリーの仲間から声をかけられたとき、以前の萌々子なら断っていたかもしれないからだ。
萌々子は決して人付き合いがうまい方ではない。だからこそ恋愛も今の今までうまくいかなかったし、自分で恋愛しようとも思わなかったのだ。
『なんか、声かけづらい感じだったからどうしようかな・・・って思ってたんだけど、あの日はなんとなく声かけたらOKしてもらえるような気がしたんだよね。』
リーダー的存在でもある宮本勇輔は後でそんなことを言っていた。
以前の自分は、自分でも気づかないうちに『話しかけないで』というようなオーラを出していたのかもしれないな、と萌々子は思うときがある。今は信じられないぐらい人と話せるようになった。仕事もなんかうまくいっている。
少し、自分に自信がついてきたのだ。
なぜかは分からない。
しかし、あの敬にふられた時から、なんだか気持ちがすっきりして、ショックにはショックだったのだけど、楽しい時間を共有できる仲間との新しい出会いもあり、自分の存在を必要としてくれている人がいることも知ったし、そんな人間関係の中で萌々子は今まで嫌で直視できなかった自分をちゃんと直視できたということも、自分に自信がついた大きな要因ではないかと思う。
最近、萌々子は鏡を見るのが嫌でなくなって来た。
実は、美容院に行って、ダラダラと長く伸ばしていた髪の毛を、思い切ってバッサリと切ってきた。
都のようなベリーショートではなく、肩に髪の毛がかかる程度のショートカットだが、以外にも自分にはそちらの方が似合うような気がした。
いつもは白髪染めのためにも黒く染めてもらっており、以前から少しだけ明るい茶色にしていたのだが、今回は栗色が目立つぐらい明るく染めてもらった。ちょっと派手かな?とも思ったが、実はこの髪型と髪の色を萌々子は非常に気に入っている。
まあ・・・スタイルに関しては仕方ない。以前と同じように肉付きの良いスタイルのままである。
でも寄る年波にはかなわないからこれはこれでいい、と萌々子は思っている。
今ではスタイルの維持のため、というよりスリー・オン・スリーでいいパフォーマンスができるように走っている。
だから走っているときには次に挑戦したいスポーツのことを考えるようにしているのだ。
そういえば・・・。
ソフトボールがしたい。
萌々子は走りながらそう思った。施設の親睦会でソフトボール大会をやったが、ああいう感じで上手い下手関係なく楽しめるような感じでやりたい、と走りながら萌々子は思った。
いろいろやりたいことはあるのだが、一番やりたいのはやっぱりソフトボールである。
学生のころからなじんだものというのは大人になった後もなじみがあるものなのかもしれない。
萌々子はすっきりした頭でいろいろ考えてみた。走りながら考えているので視界の中には飛ぶように景色がどんどん萌々子の後ろ側に消えていくのだが、そんな毎度の風景の中、萌々子は目の前が晴れ渡るような感覚で物事を考えることができていた。
ここ最近ならどんな難題をふっかけられてもできそうな気がする。
もしかしたら少しハイなのかもしれない。
そんなことを邪推しながらも萌々子は他のことを並行して考える。
まず、ソフトを定期的にやるとして場所はどうする?
それからメンバーは??
どのぐらいの割合でやる?
考えると案外いろんなことを決めないといけないということに気づいた。
それにソフトはスリー・オン・スリーと違って、人数が足りないと成立しない。そう考えると気楽には計画できないものがあるかもしれない。
運動公園のグラウンドはどのぐらいの割合で空いているのだろうか。
どうせやるなら2か月に1回ぐらいの割合ではやりたいがそんなにとれるものなのだろうか。
こんな風に考えるのは以前の萌々子には考えられないことだった。以前なら自分が中心になって何かを仕切ってやりたいとは思わずに、身体を動かしたいならこうやって運動公園の外周をただ走ればいいと思っていたのに・・・。
萌々子は自分でも不思議だった。
なんであんなに自分は引っ込み思案だったのかも今ではよく分からない。鏡を見るのもなぜにあんなに怖かったのだろうか。
醜く何の魅力もないと思っていた自分だが、実はそうでもないということに気づいたのは、自分を直視できるようになったからかもしれない。自分の嫌な部分に目をつぶってしまうと、ちょうど目をつぶると視界から何も見えなくなるのと同じように・・・嫌なところだけでなく良いところまで何も見えなくなってしまうものだ。何も見えなくなってしまうとそこにはありもしない悪い想像をしてしまうのである。
以前の萌々子は、恋愛という気持ちを封印しており、そういう気持ちを封印してしまうと、周りと自分を比較してしまい、周りは彼氏がいるとか、もう結婚しているとか・・・そんなことばかり考えて、そこに価値観の中心が偏ってしまっていたのだ。
恋愛は嫌だ。
魅力のない自分は嫌だ。
嫌だ嫌だと思って見ないようにしているうちに萌々子は何も見えなくなっていたのだろう。
自分の気持ちに正直に、ダメな自分を直視して、全体を見ることができれば考え方は変わる。
だから価値観の中心にあるものも変わるのだ。
思い切って敬に告白したのをきっかけに萌々子は自分が今まで嫌だと思って見なかったものを見ることができた。
こんな自分も悪くないな・・・萌々子はそう思いながら冬の夜の中を走り続けた。




