萌々子、一歩踏み出す。
8、萌々子、一歩踏み出す。
言わなければ後悔する。
萌々子は走りながら思った。走っている最中に考え事をするのは初めてだ。いつもは頭を真っ白にして走るだけだから。
今日は動揺していたのが自分でもわかる。
何が何だか分からなくなっている。だから走る時にいつも持ってくるiPodも忘れてきてしまった。
いつもの運動公園の外周をいつもと少し違う形で走っていると、土曜日ということもあって周りは真っ暗ではあっても、フットサル場にもバスケットゴールにもそれなりの人がいる。耳に音楽を入れていないと、いろんな音が飛び込んでくる。
これもまたいいかもしれない。
先日、鈴本リンという利用者が亡くなった。萌々子が夜勤をして一晩中話しを聴いた2日後だった。あの時はしつこいな・・・と思ったのだが、いざ亡くなってみるとリンの言葉がぐるぐると萌々子の耳の中に回っているのだ。
『恋愛は自分の中で終えることができなければ先には進めないのよ。』というリンの言葉が萌々子の耳に残っている。
敬が好きだ。
萌々子は強くそう思った。いろいろ面倒なことはあるけどその気持ちにウソはない。
自分の中で『恋を終える』ならその気持ちにウソをついていては先に進めないと思う。だから萌々子はその気持ちを敬に言おうと思ったのだ。
言わなければ後悔する。
それだけは・・・はっきり分かる。
少しペースが速いのか、萌々子は苦しくなってきた。息が上がるし、足はついてこない。それでもペースを落とすことはなく萌々子は走り続ける。悩みを振り切るかのように走り続けているのだ。
誰もいなければ『わあーーーーーーーーーっ!』と意味もなく大声を出しながら走りたいぐらいだ。
自分の気持ちを伝えるのはいい。もうそのことに関しては腹は決まった。
でもいろいろ面倒なことが多い。
例えば、瑞希とはどんな顔であえばいいのだろうか。
これに関してもいろいろ考えてしまう。
まずないだろうと思われるが敬が『OK』した場合はどうなるのだろうか。そうなっては困るのだが・・・そうなってほしい自分もいる。敬と両想いになりたいと思う自分はおり、それは正直な自分の気持ちなのだが、瑞希とも仲良くしたい。
少し走るスピードを緩めながら萌々子は思考を落ち着かせた。
あまりにいろいろ考えすぎるとペースが速くなりすぎる。さすがに早いペースで走りすぎたのか、息が上がり始めている。
ゆっくり息を整えながらペースを緩める。
さっきから同じことをぐるぐるとずっと考えている。もしかしたら自分はこうやっていろいろ考えすぎるからダメなのかもしれない。考えていたって結論が出ないこともあるのだ。思い切って出たとこ勝負をしてみてもいいのではないだろうか、そう萌々子は思った。
『考えすぎ・・・。』
走りながら萌々子は声にならない声でつぶやいた。
そう考えすぎなのかもしれない。
と言っても行動を起こしても何も変わらないかもしれない。もしかしたら今より最悪な事態に陥るのかもしれない。しかし、行動を起こさなくても、悪い状態には変わらないのだ。
結婚している人はこういうことをすべて乗り越えてきているのだろうか。
萌々子は不思議な感覚だった。というのも自分にはこういうことは乗り越えていけるような気がしないのだ。朋美やリン、そして世界中のすべての人が当たり前のようにこういう恋愛の機微を乗り越えてきているのだろうか。もしそうだとしたならば萌々子は少し人間としては欠陥があるのかもしれない。
そんなことを思うと少し気持ちが重くなってきた。
気持ちが重くなるとそれを振り払おうと思うのでつい走るペースが上がってくる。
やはり考えながら走るもんではない。今日はペースがガタガタである。
『お姉さん、いつも走ってるけど早いねえ。』
バスケットゴールの横を走っているときに声をかけられたのでつい足を止めてそちらを見ると、自分と同じぐらいの年齢の男女が数人そこにいた。手にバスケットボールをもっているからスリー・オン・スリーでもしていたのだろうか。
『あ・・・ありがとうございます。』
『実はうちら一人足りないんだけど、もしよかったら入ってもらえない?』
『え・・・。でもあたし・・・。』
『大丈夫、大丈夫。うちらもそんなにうまくないから。』
5人でバスケをやっていたのは実はこの近くの職場で働いてはいるものの、職場も立場も違う5人だった。聞くと年齢は案外バラバラな感じの5人だった。
当初は宮本勇輔と萌々子に名乗った男性が、一人でここでバスケットゴールに向かってシュートを打っていたのだが、ある日、勇輔がバスケをしに来ると、同じように一人でバスケをやっている男がおり、その男が北山駿だったわけだが、話しかけて一緒にやるようになってからは、盛り上がってスリー・オン・スリーができるぐらい人数を集めようという話になりお互いの知り合いに連絡してこのメンバーがそろったというわけだ。
勇輔の知り合いが鈴木智と言う長身の男である。見れば少し吊り目のいい男である。
智の知り合いは長倉瞳という少し華奢でみんなの中では一番身体が小さく華奢な女性である。
さらに駿の知り合いが浜島都だった。
どういう経緯でお互いが知り合ったかは良く知らないが、つてをたどってここまでの人数をそろえて、バスケを定期的に楽しんでいるらしい。それは萌々子も良く知っている。というのもこの運動公園の周りを萌々子もまた定期的に走っているからだ。
ちょうど女性が一人足りておらず、しばらくは2-2でやっていたのだが、いつも走っている萌々子を見ていた勇輔と駿は『入ってくれないかなあ』と話し合っていたとのことだった。
5人は仕事が早く終わったときには連絡を取り合って、必ずここでスリー・オン・スリーをしているらしい。
スリー・オン・スリーはコツさえつかんでしまえばなんとなくポジショニングだけはよく分かった。
シュートの打ち方や、ドリブルに関しては見様見真似でちょっと不恰好だったが、少し練習をすればできそうな気がした。
何ゲームかやったが最後の方は慣れてきたせいか、萌々子は何本かシュートも決めることができた。
ボールがバスケットゴールのネットを通る瞬間は得も言われぬ達成感がある。そもそも萌々子はスポーツ全般が好きなのである。
公園の休憩所にのベンチに座りながら、萌々子は5人と少し話をした。
『今日はありがとう。』
終わった後、都は萌々子にお礼を言ってきた。
見た目の年齢だけだとおそらく萌々子とさほど変わらない。もちろん年齢をきくわけにもいかないが・・・。
都は女性にしては身長が高い。そしてスタイルのいいからモデルのようだ。
ちなみに身長に関しては萌々子も女性にしては高くて、160センチ近くあるのだが、都はそんな萌々子が見上げるほどの大きさだったのでゆうに170センチ以上はあるだろうか。他の男性と背の高さがさほど変わらないところをみると175センチぐらいはあるかもしれない。
『いえ・・・。こちらこそすごく楽しかったです。浜島さんはバスケやっておられたんですか??』
スリー・オン・スリーをやっている中では、萌々子を含めた女性グループでは動きがダントツに良かったからだ。リバウンドを取りに行くときのジャンプのタイミングなどは恐ろしいぐらいに良かった。
『高校、大学とバレーボールやってたのよ。実は春高にもでたことあるのよ。』
『えーーー!すごい!!!』
春高と言えばバレーボールをしているものがすべて憧れる高校バレーボールの全国大会である。代々木体育館で行われるのだが、その大会を経て日本代表に入る選手もいるようなそういう大会だ。
高校野球で言えば『甲子園』だと思ってもらえば分かりやすいかもしれない。
『そんな・・・やめてよ。』都は少し照れながら言った。
体育会系の女性らしくサバサバした性格であるように見える都だが、照れているときはやはり女性っぽい可愛さがあった。
髪の毛をベリーショートにしているところなどは、バレーボール時代の名残なのかもしれない。
『今じゃしがない営業事務よ。』
都は自虐的に笑いながら言った。それでも身体を動かすのは好きなのだろう。萌々子にはその気持ちがすごく共感できた。
『川本さんってこの辺に住んでるの?』
『はい。職場も近いですよ。』
『え~。どこで勤めているの?』
運動公園の周りは畑が多く、住宅街もあるがその中にもいくつか小さな工場がいくつかあったり、高校があったりとか、何もないような土地の割に、人が集まる要素はある。
5人はそれぞれの違う立場で仕事はしているものの、みんな独身だった。
一見、実はグループ交際をしている感じにも見えなくもないが、こんなところで習慣的にバスケをしているところを見るとそうでもないのだろうか。当初の目的はスリー・オン・スリーだったのだろうけど・・・。
『えーっと・・・あっちの方の田んぼの奥にある介護施設です。』
『あー。知ってる知ってる。』
智が話に割り込んできた。少し吊り目のいい男である彼だが残念なことに萌々子のタイプではない。
友人としてこんな感じで付き合うのはいいが、軽い感じで話す彼はどうにも恋愛の対象外である。
気が付けば萌々子は会う男性すべてに心の中で採点をかけていた。
そんなことはある程度、誰でもやっていることなのだが、萌々子にとっては大きな変化である。敬のことが好きになってから特にそういうことをしだしたわけだから、おそらくこの変化にこの恋は無関係ではないだろう。
『いつも散歩してるよね。オレ、休憩中よくみるよ。』
確かに午前中の散歩の時間は10時ぐらいのときもあるので、彼らの職場の前を通っているかもしれない。
『どうぞ。』
ジャンケンで負けた人間がコンビニに行ってビールを買ってくるということで、負けた瞳はなぜか勇輔と一緒に戻ってきた。
瞳はみんなに比べると一回り身体も小さく華奢で男好きするような感じの子だった。何を言っても少しオーバーリアクションで良く見れば『ぶりっこ』に見えがちなので、同性からは嫌われることもあるような感じの子ではあるが萌々子はキライではない。
彼女は非常に人懐こくすでに萌々子のことを旧知の中のように『ももちゃん』と呼んできた。
萌々子はあまり人付き合いが上手ではないのだが、そうやって人間関係の壁をいとも簡単にひょいと乗り越えて誰とでも仲良くできる人間が好きである。瞳のような人間を『なれなれしい』と嫌うタイプの人間もいるが、萌々子はそうではない。
『ありがとうございます。』
親切にされるとなんだかうれしくなる。
恋愛でうまくいかなくて、『こんな自分なんて・・・』と思っている毎日なのに、こうやって自分のことを必要としてた人たちもいたと思うと気持ちが明るくなってくる。
『やっぱり介護って大変なの??』
勇輔はビールを他のメンバーに配りながら言った。
彼は気遣いもできるし、優しい感じだが・・・萌々子が見てもすぐに分かったのだがおそらく瞳のことが好きである。瞳の方はまったく気づいてないような感じだが・・・。
初対面の萌々子にさえ分かるのだから、他の3人は分かっているだろう。
現にコンビニに行くのも最初は瞳一人で行く様子だったのに、『いや、この人数分のビールを買いに行くんじゃ重いだろうから。』と言って一緒に行ったのだ。もちろんこれが誰でも勇輔は一緒について行ったような感じではあるような気もするのだけど、やはりちょっとなにか感じが違うな、と萌々子は思ったのだ。
ただ気になるのは元々、瞳は智の知り合いであった・・・ということで、もしかしたら智と付き合っている・・・ということも考えられるのかもしれない。
『そうですねえ・・・。慣れるとそうでもないですよ。』
萌々子はにこやかに話した。
介護の仕事というのは基本的には慣れである。
下の世話にしても高齢者との会話にしても、基本的にこれといってこうしなければいけないというものはない。もちろん研修にいけば『ボディメカニクス』というテコの原理を利用して介護をするように教わったり、それなりに基礎的なやり方というものは存在するのだが、やはり人間を扱う仕事は一筋縄にはいかないのである。基本通りにやっても嫌がる利用者もいるわけで、そういうときは利用者にあわせたやり方で介護しなければならないわけである。
そういう意味で介護の仕事は慣れなのである。
『そうなんだ・・・。いや・・・オレにはできないからやっぱりすごい仕事だな・・・って思って。』
勇輔は言った。
大体、介護という仕事を知らない人の大半はそういう風に言う。
ただ、この仕事。よっぽど高齢者の匂いがダメとかそういう体質的なものでないかぎりはできない人はいないと萌々子は思っている。というのもこんな自分ができているのだからそう思うわけなのだが・・・。
『そんなことないですよ。ところで皆さんはいつもここでバスケしてるんですか?』
5人とはとりとめのない話をしばらくして別れた。
『またやろうよ。』勇輔が言って来てくれたので、萌々子は快諾してそれぞれと携帯の番号とアドレスを交換した。
萌々子の悩みは何一つ解決はしていないのだが、それでも人と会話して身体を動かすことによって気持ちがすっきりした。かえって自分の方向性は決まったような気がした。
萌々子は少し伸びをして、自宅へとゆっくり走って行った。
次の日はちょうど敬も出勤だった。
例のごとく二人勤務の日は多く、ここのところ萌々子はいつも通常の日勤の時間より早めに行く。
全体的に1時間早く出勤して人手不足をカバーするのだが、通常3人で回しているところを2人でやるのは少し無理がある。いつもならうんざりするような疲れが仕事をする前からあるのだが、今日の萌々子は身体が軽く、気持ちもさわやかだった。
萌々子にとって一つ大きな決断をした日だった。
調子がいいと仕事の時間を早く流れていく。
萌々子がふと時計を見ると、時間は15時を回っていた。
『お疲れ。』
『お疲れ様です。』
朋美が1階のユニットに入ってきた。
『しばらくあたしが見てるから休んでいいわよ。』
『ありがとうございます。』
萌々子はコーヒーを持って外に出た。タバコを吸うわけではないが喫煙所で座ってゆっくりコーヒーを飲もうと思ったのだ。外のピンと張ったような冷たい空気が萌々子の顔にあたる。
なんとなく敬がそこにいるような気はしていた。
敬が今日、2階の勤務であることは知っていた。確か・・・遅番だったはずだ。
『あ・・・お疲れ様です。』
萌々子の予感は当たった。敬はタバコを吸っていたが萌々子の顔を見ると吸い殻入れにタバコを捨てた。
『お疲れ様。』
『休憩ですか?』
『あ・・・はい。』
これではどちらが先輩か分からないな・・・そう萌々子は思った。
こんなに敬と話すのが怖いと思ったことはなかった。今、言わなければならないのか・・・否・・・今言わなければいつ言うのだろうか?萌々子は心の中でいろいろな葛藤がぐるぐるとまわり始めた。
敬と二人きりになれる機会など、そうないのだ。
今・・・言うしかない。
『あの・・・。』
『はい。』
『いや・・・その・・・。やっぱ・・・そのお・・・二人勤務ってやっぱ大変ですね。』
『そうですね。早く人が入ってくるといいですね。』
敬はにこやかに話しながら2本目のタバコに火をつけた。早めに言わないと2階のユニットリーダーが来そうな気がする。こういう時の萌々子の予想は悲しいほど良く当たるのだ。
早く言わないと・・・そう思うと心臓が早鐘のように鼓動して言葉が出てこない。
その瞬間。
『恋愛は自分の中で終えることができなければ先には進めないのよ。』
『え?!』
萌々子はびっくりして後ろを振り返った。もちろん後ろには誰もいない。
しかしはっきり聞こえた。
リンの声が・・・。
『どうしたんですか?』敬は不意に後ろを振り返った萌々子に言った。
萌々子は敬の方を振り返った。
敬の端正な顔が萌々子の視界に入る。キレイな目をしている・・・と場違いなことを思ってしまう。
『あの・・・好きなんです・・・。』
『え??』
『内海さんのことが・・・。』
『え?あの・・・。』
『いや・・・いやいや。』
萌々子は顔が真っ赤になっていくのが分かる。
何言ってるんだろう・・・あたしは・・・。心の中で萌々子は言ったが、パニックになってしまい何が何だかよく分からなくなってきている。
『その・・・すみません。いきなりのことでなんなんですが・・・あの・・・ご存じの通り、オレ、彼女いますんで・・・。』
『は・・・ははは。ごめんごめん。ちょっとからかっただけだよ~。瑞希ちゃん泣かしたら許さないんだから~!!』
萌々子は敬の肩をバシバシ叩いて言った。
異性に触れるなんて、以前の萌々子なら逆立ちしてもできなかったのだが、何か重しがとれたかのように萌々子の気持ちは軽くなった。考えてみればしっかり予想できた敬の答えであり、むしろ『いいよ。』と言われる方が困るのだ。
恋愛って複雑だな・・・今更ながら萌々子は思った。
『いやあ・・・かなりビックリしましたよ。本気にしちゃいました。』
『なわけないでしょ~。』
敬は真の底から驚いた顔をしていたが、顔は笑顔だった。
こうやって改めてみると敬はすごく若い。萌々子とは何かが違う。いや何かがというよりいろいろ違うのだが決定的に萌々子と違うのはやはり人生経験だろう。
今のウソを信じてしまうところなんか、彼が若い証拠である。わざとそうしてくれたとしたらそれはそれで敬らしい優しさなのかもしれないが、今の彼にはそこまで理解しているようには見えない。
言う前は『そんなことは口が裂けても言えない・・・。』と本気で悩んだが、いざ言ってしまうと案外それはたいした話ではなかった。
フラれることも予測できていた話であるし、いざ振られてみるとそんなに気持ちは重くない。むしろ晴れやかな気持ちだった。なぜ今までこれが言えなかったのかが分からないぐらいである。
『お疲れ~。』
2階のユニットリーダーがやってきた。
やっぱり萌々子の予感は悲しいほど当たるのだ。
『早く言っておいてよかった・・・。』萌々子は心からそう思った。




