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混乱

6、混乱

ソフトボール大会が終わってから、萌々子は瑞希と時折メールするようになっていた。

瑞希との付き合いは萌々子にとっては何物にも代えがたいものとなりつつあった。仕事と家の往復で休みの日でもどこかにでかけるわけでもなく、ずっと家にいるか、近所の運動公園で走っているか・・・その程度の毎日に瑞希とのメールはいい刺激になった。

瑞希との付き合いは萌々子を悩ませる大きな要因でもある。

敬のことをどうするのか・・・という悩みである。敬のことは相変わらず好きである。彼は萌々子のいいところ、誰も褒めてくれないところに気づいて褒めてくれる。そういう優しさや気遣いが好きなのである。

その反面、瑞希に対する気持ちもある。

この恋が成就するとは思わないが、彼女に申し訳ないという気持ちがある。こんな気持ちを持ち続けてはいけないと思うのだ。

もう頭の中が何かでぐちゃぐちゃにかき回されてなにがなんだか分からないぐらいに好きな気持ちと好きになってはいけないという気持ちがぐるぐると混ざり合わさっている。

夜勤をしながら昼間はスタッフや入居者である程度、活気のあるリビングに一人待機していると静かすぎて余計なことを考えてしまう。

『あんた・・・恋をしているね。』

不意に声がかかったのでそちらを見ると丸っこい顔をした老婆がいた。

他の職場なら何かホラーの類を連想するところだが、ここは認知症対応型のグループホームであるからして、入居者が起きだしてくることは少なくはないのだ。

『鈴本さん。もう寝ませんか?』

ここのところ、記録を読むと入居者の鈴本リンさんは昼夜逆転しており、夜、なかなか寝てくれないらしい。

夜勤の最中に一人でも寝ない入居者がいると全体を見回さないといけない関係で仕事が多くなるのだが、それはこちらの事情である。それに、そうは言うもののあんなに昼間に昼寝しているようではそうそう眠れないだろう。

『あんたの恋の話を聞くまでは寝ないよ。』

これはここ最近の鈴本さん口癖ではあるのだが、萌々子にとっては当たりすぎるぐらいに当っている現実でもあるのでちょっと反応に困ってしまう。まさか入居者に本当のことを言うわけにもいかない。

『あたし、恋なんかしてないですよ。そんな相手もいないし。』

『いや、そんなことないね。あたしの目はごまかせないよ。あんたは間違いなく恋してるよ。それもせつない片思いだ。』

『そんな風に見えますか?』

『ああ。恋してるよ。間違いないよ。』

『寝ませんか?』

『あんたの恋の話を聞くまでは寝ないよ。』

認知症と言うのは言ったそばから自分の言った言葉を忘れてしまう病気である。

おそらく、萌々子がここで恋の話をしたところで、話し終わった後に同じことを聞いてくるだけである。

だからうまいこと話をしなければ延々と同じ話をしなければいけなくなってしまうのだ。

『恋の話してもいいけど、その前にちょっとこれ呑みませんか?』

萌々子はお茶を入れてリンに出した。ついでに睡眠薬も一緒に呑んでもらうつもりだった。

医師から処方された睡眠薬は眠れないときに飲ませる頓服薬ではあった。

『恋はいいものだよ。女は恋をしないと。』

『そうですねえ。いいものですね。』

『恋はいいもの』なんて思ったことは萌々子にはない。

なんで世間は恋愛をあんなに持ち上げるのだろうか。恋愛は美人のためにあるのだ。どこにでもいるような女のためにあるわけではない。そう萌々子は思ってしまう。

大体、片思いでもハッピーエンドになればいい。

しかし現実はハッピーエンドにならないことの方が多いではないか。

大抵、結婚してる女の人に聞いても『なんであの人と結婚しちゃったんだろうねえ。』なんて言っている人が多い。そんなんで本当に恋愛することは幸せにつながるのだろうか。

まして萌々子はちょっとした三角関係に悩んでいる。

大好きな男性には彼女がおり、その彼女はすごくいい子で自分の友人となった。萌々子は何もできないでいる。

『恋はいいもの』なんて萌々子には思えない。

『はい。どうぞ。』萌々子は鈴本リンの湯呑にぬるい白湯さゆを入れて、薬と一緒に手渡した。

『飲むのかい?』

『ええ。』

『嫌。』

『どうして?』

夜勤はただでさえ疲れるのだ。

若いときはさほどでもなかったのだが30歳を過ぎたあたりから、ものすごく身体に堪えるようになった。

認知症の高齢者にまともなことを望んでも仕方ないのだが、できれば眠ってもらえるとありがたい。

ただ一度拒否が始まると、しばらく時間をおかないと態度は軟化しない。

『嫌なもんは嫌。』

『そうですか。分かりました。』

萌々子は自分でもぞっとするぐらい冷たい言葉を自分で発したことに驚いた。

いらいらすることが多いこの仕事ではあるが、服薬を拒否する利用者の相手なんかしょっちゅうやっていることだし、なぜにこんなにいらいらするのか、萌々子は自分でも分からなかった。

いつの間に自分はこんなに優しくなくなってしまったのだろうと思い、萌々子は少し反省した。この仕事を始めた時は高齢者と話をすることが楽しくて仕方なかったはずなのに、気が付けば最近ではいらいらすることの方が多い。

それは多聞たぶんにして、介護の仕事は人間のどろどろとした汚い部分も直視しなければいけない仕事だからに他ならない。この仕事を始めると、当初は高齢者とのふれあいが楽しいのだが、長く続けているといい人ばかりではなく、とんでもなく性格の悪い人とも遭遇する。いい人だと思った人でも、嫌な一面があったりする。もちろんその逆もまた然りで、そういうところがこの仕事の魅力ではあるのだが、それでも人間のあらゆる面に深くかかわらなければいけないところにずっと自分の身をおくということは精神的にも疲れることが多いのだ。

身体的にも疲れる夜勤の最中に、精神的に疲れるようなことがあれば、疲れも倍増するわけで、萌々子でなくてもいらいらすることはあるわけである。

思いきりため息をつきたいのを我慢して目の前の老婆の同じ話に何度も何度も相槌を打たなければならないのか、と思うと確かにそれは仕事ではあるのだけど、どっと疲れが押し寄せてくるようだった。

『あんた、恋をしているね。』

認知症の高齢者は何度も同じことを言うが、リンは萌々子以外には『恋をしている。』と語りかけてはこないらしい。

彼女は何かを感じて萌々子にそう語りかけているのだろうか。

感じる力が強いと言われる認知症の高齢者にはもしかしたら何かを感じるのかもしれないが、萌々子には何か自分が見透かされているようでそれが嫌で仕方なかった。

『鯉は食べたことはありませんよ。』萌々子はいい加減に答えた。

『その鯉じゃないわよ。恋よ。女は恋をしなきゃダメよ。』

いい加減に答えると伝わってしまうのもけっこう厄介なところでこの介護の分野での難しさでもある。

『恋ですか・・・。あまりいい思い出はないですねえ。』

萌々子はもう投げやりに答えた。

そもそも萌々子は恋愛の話などしたくないのだ。萌々子の恋愛の話などいい話はない。何が悲しくて暗い過去をもう一度振り返らなきゃならないのだ。何が悲しくてかなわぬ恋の話などしなくてはいけないのだ。

『恋は楽しいわよ。』

『そうなんですか?じゃあ鈴本さんはどんな恋をしてきたんですか?』

『あたしの恋は道険しかったわよ。』

『女は灰になるまで女。』という言葉があるが、まさにリンにあてはまるような言葉だな、と萌々子は思った。

ふっくらした体型は若いころのような張りはないが、色白で目元がくっきりしている顔つきはさぞ可愛かったに違いない。それに彼女はこの歳でも着るものにも気をかけているし、化粧もしている。認知症という病気のせいでチグハグになりがちだが、そこは職員が手助けするので、品良くまとまっている。

『片思いだったんですか?』

『そういうのもあったわ。』

『そういうのも??』

『ええ。学生時代に知り合ったあの人はどうしているかしら?』

『学生時代に・・・ですか??それでどうしたんですか?』

『毎日、ずっとあの人を見てた。見てるだけで幸せだったわ。』

リンはうっとりした顔つきで言った。

『見てるだけ?見てるだけでよかったんですか?』

萌々子は自分のことを棚に上げて言った。自分でもおかしいなと思う。自分だって敬のことは・・・たとえ瑞希のことを知らなかったとしても・・・自分の気持ちを伝えるのは二の足を踏んで見てるだけにしているのに、人のことはなぜか気になるし、『見てるだけで満足できるのか?』とも思うのだ。

『最初のうちはね。』

『最初?じゃあ・・・途中から違ったんですか?』

『そうね。結局、思いを伝える勇気はなかったんだけど、毎日、胸が苦しかったわよ。』

胸が苦しい・・・とは今の萌々子の状態と同じである。

萌々子もこの胸の苦しさはよく分かる。しかし、自分の思いを伝えるという行為はただ単に恋愛を成就させるか否かということだけではなく、自分の内面から外面まで、もう一度、自分というものを見直さなければいけないものだとも萌々子は思うのだ。だから告白する勇気が持てないでいる。

現に、敬に告白しても間違いなくダメだろう。

萌々子が男だったとしても萌々子と瑞希なら瑞希を選ぶ。

それは分かっているし、心のどこかで萌々子はもう自分がふられることを受け入れることはできているのだ。逆に今の段階では成就してしまうことの方が困る。

だけど、じゃあ自分のこの胸の苦しさはなんなんだろうか。

この鬱々とした気持ちはどこに持っていけばいいのだ。

『学校を卒業してからすごく後悔したわ。』

リンは萌々子のことなどおかまいなしに一人で話し続けていた。

『恋愛は自分の中で終えることができなければ先には進めないのよ。』


結局、リンが眠ってくれたのは明け方近くだった。

萌々子にとって非常に性質たちの悪いことに、一晩中、リビングと部屋の間を行ったり来たりして『寝る。』と言っては部屋に戻るのだが、数分すると部屋から出てくるのだ。そしてリビングにずっといてくれるのかな?と思いきや、数分経つと『寝る。』と言い出す。

リビングにいるときはほぼ同じ恋愛の話を、テープレコーダーのように何度も何度も聞かされる。

萌々子はグループホームの職員で、仕事でやっているからある意味こういったことも割り切っているので耐えることもできるが、これが同居している家族ならどうしようもないだろう。いくら認知症には寄り添わなければいけないと言われても同居家族にだって、それなりに仕事があって一晩中、こんな感じに付き合うわけには行かないのだ。

同居家族ならこれは間違いなくイライラするに違いない。

眠れないだけでもイライラするのに、同じ話を何度も聞かされる上にこちらの話はほぼ聞いていない。

疲れはそれだけで倍増するのだ。

そんなことを思いながら、萌々子は時計を見た。

時間は6時30分を指している。そろそろ入居者たちが起きだしてくる頃である。

朝食は8時からだから、そろそろ作り始めなければならない。と言っても朝食を作っている最中に利用者が起きだして来たらまずいので、早番の職員が7時30分に出勤してくるまでは朝食作りは火を使わず、なるべく気を利用者の居室に向けるようにし、わずかな気配や音も察知できるようにする。

明け方から6時ぐらいの時間帯というのは基本的に眠くて仕方ないのだが、今日はそれどころではなかったので眠さなどは感じている暇はなかった。

気が付けば早番が出勤してきて、さらにいろいろ仕事をしていると、あっという間に時間は9時になった。

夜勤はきつい・・・と感じ始めるのは30歳を過ぎてからと人は言うが、萌々子も例外ではない。

9時近くになると眠さがかなり押し寄せてくるようになってきた。

やはり年齢にはかなわないのかもしれない。

疲れ・・・というより眠さを感じる。ぐっすり眠ってしまえば疲れは残らないので問題はないのだが、とにかく眠いのだ。

萌々子は時間をかけて記録を書いてからタイムカードを打った。

記録も途中で何度もうとうとしてしまったから、随分と骨が折れた。でもこれをちゃんと書いておかなければ引継ぎがちゃんとできなくなってしまうので書いておかなければいけないのだ。

『お疲れ様です・・・。』

萌々子はそういうと施設を出た。萌々子の家までは徒歩で数分のところにあるのだが、そこまで歩くのがしんどいというか、もう意識が朦朧もうろうとしていた。

『恋愛は自分の中で終えることができなければ先には進めないのよ。』

テープレコーダーのように一晩中、何度も何度も聞かされたリンの言葉が萌々子の中でぐるぐるとまわり始めた。

自分の中で終えることができなければ・・・。

萌々子の中で、今回の恋愛は終わっている・・・と萌々子自身は思うのだが、どうにも釈然としないものがある。このままで終っていいのか?と言っているほかの自分もいる。

でもその反面、瑞希のこじんまりとした可愛い顔が浮かぶと、やはり終わってもいいのではないかとも思うのだ。

うとうとしながら歩いていたら、すさまじい衝撃が萌々子を襲った。

『痛い・・・。』

ゆっくり目を開けたら目の前には電柱があった。

なんだか顔が痛い。

よく分からないまま萌々子は自宅に帰った。すぐにベッドにもぐりこんで夢の中に落ちて行った。


夢を見た。

なんだかよく分からない夢を萌々子はみた。

夢の中で萌々子は走っている。何も考えず走っているところに敬がいる。何か優しく声をかけてくれる。夢とは分かっているが嬉しい気持ちになる。いつの間にか瑞希のことは忘れている自分がいる。

『笑いなさい!』

朋美の声がしてビックリした萌々子は何かにつまずいて転んでしまう。

痛みが身体中に走って萌々子は目が覚めた。

なんだか眉間の少し上の辺りが痛い。

ゆっくりベッドから起き上がると、カーテンを開けて外を見る。まだ日は高い。いったいどのくらい寝たのだろうか。のろのろと萌々子は時計を見た。時間は4時を指していた。

けっこう寝たのだろうが、この倦怠感はやはり人間の身体は夜起きて昼間寝るような構造にはできていないことを如実に示すものなのだろう。

なんだか顔が痛い。

萌々子は鏡を見た。

『わ!!』

鏡に映る自分の顔を見て一気に目が覚めるのは初めてのことだ。

当然、美人になっているわけではない。そうなっていたらいいのだが基本は残念ながら自分のままである。それどころか眉毛から上のおでこの部分が赤黒くなっており、少し腫れている。

『・・・え?・・・。』

一瞬何が何だかよく分からなかったが、たぶん、帰りに何かにぶつかって転んだときにできた傷だろう。

あのときは痛いと感じるには感じたのだが、寝ぼけていたのでさほど感じなかったのだろう。まさかこんな風になっているとは・・・。

『はあ・・・。』

萌々子は鏡の前でため息をついた。

仕事と家の往復でほとんど毎日は消費される。それ以外には特に何か起こるわけではない。

実に無駄に毎日を過ごしているような気がするのだ。

何もないだけならいい。萌々子の場合は好きな人には彼女がおり、自分のほのかな片思いは終わりを告げてしまった。仕事にしても夜勤をしているわりにはそんなに言うほど給料をもらっているわけではない。

その上、夜勤明けでこんな怪我をしてしまうなんて。

萌々子はなんだか悲しくなってきた。自分にはこの先何もいいことがないのではないような気がしてたまらなく悲しくなってきた。

鼻の奥がつーんとしてきて、目には自然と涙が浮かんできた。

情緒不安定なのかもしれない。

自分でもなんとなく自覚はあるのに、悲しさは止まらなかった。

死にたくはないけど自分がここで生きている意味はあるのだろうか・・・と思った。

いつもなら余計なことを考えずに走りに行くところだが、こんな顔では走りに行くこともできない。鼻から下の傷ならマスクで隠してしまうのだが、おでこでは隠しようがない。

怪我をしてしまったのは自業自得だが、それでも毎日精一杯がんばって生きているのにどうして萌々子だけこういう目に遭うのだろうか。もちろん萌々子だけ・・・というのは被害妄想も甚だしいということは萌々子自身にもよく分かる。

朋美が聞いたら『バカねえ。そんなわけないじゃん!!』と一蹴されそうだ。

でもそういうことじゃないのだ。

こんな風に気持ちまで暗くなってしまうのは萌々子だけなのだ。少なくとも萌々子にはそう思ってしまうのだ。

薄暗い部屋の中で萌々子は大粒の涙をたくさん流して一人泣いた。

でも泣いていても何かが良くなるわけでもないし、部屋が薄暗いままなら余計に寂しくなるので思い切って窓を開けた。

空はまだ明るいが、『秋のつるべ落とし』であと数分で真っ暗になってしまうだろう。

窓の外から冷たい風が入ってくる。秋も深まってきているのだろう。

『ああ・・・。寂しいなあ・・・。』

秋は寂しい季節だ。活気のある夏に比べたら、日に日に寒くなっていく毎日は秋が深まるほどに寂しくなるのだ。

萌々子は冷蔵庫の中を見た。

寂しさを紛らわすためにビールでも飲もうと思ったのだ。

今日は走れないからまたもや肉付きが良くなってしまうような気がしないが、もうどうでもいい。

なんだか絶望の海におぼれているようなそんな感覚に萌々子は陥っていた。

萌々子は冷蔵庫の前の床にペタンと座って、500mlのビール缶を開けて、一気に半分ぐらい飲み干した。

冷たくて苦い味がのどをぐいぐい通っていく。

『あ~!!美味しい!!!』

どんな時でもビールは美味しい。

すきっ腹にビールを一気に流し込んだものだから、アルコールが萌々子の身体にしみわたり、思考がぼんやりしてきた。そもそも自分がなぜにこんなに寂しい思いをしているのか、萌々子には分からなくなってきた。

分からなくなってきたのにまた大粒の涙が出てきた。

冷蔵庫の中にはこの間買っておいたイカの塩辛がある。

塩辛を出して萌々子は狭い部屋の中はのろのろと歩いて、リビングのテーブルにおいた。ふと、萌々子は着替えもせずに寝ていたことに気づいた。

『汚い女・・・。』

萌々子は自虐的につぶやいて着替えをだした。

少し考えたが、入浴はすることにした。浴室に行き『自動』ボタンを押してお湯をためることにした。

窓を閉めて、さらにカーテンを閉めたあと、着ている服をすべて脱いで薄いピンクのパジャマに着替えた。今日はビールを飲んでまた寝る予定だ。

あまり起きているとそれこそ昼夜逆転してしまう。

着替えたあと、テーブルに座ってビールの残りを飲み干してしまった。

なんで寂しいのか?

そもそも自分がこんな思いをしている原因はなんなのか?

それは夜勤をしているのに給料が低いことでもないし、夜勤明けにボンヤリして怪我したことでもない。

好きな人に『好き』と伝えることができない。つまりそんな単純な理由にすぎないのだ。

でも好きな人に『好き』と伝えても、その人には大事な人がいるのだ。萌々子のことなど相手にもしてくれないに違いない。

萌々子は冷蔵庫からビールを取り出した。

2本ぐらいはいつも飲んでしまうのだが、今日はいくら飲んでも完全には酔えないかもしれない。

『気持ちを押し殺したままにしててもろくなことがないよ。それにふられるとは限らないでしょ。』という朋美の言葉を思い出した。

『でも・・・。』

萌々子はイカの塩辛を口に入れてから考えた。口の中にはイカのワタの独特の香りが広がって、またビールがほしくなる。

敬に自分の気持ちを伝えても間違いなく振られてしまう。

いや・・・瑞希のことを考えるとOKされても困る。

かといってこのままでいいのだろうか・・・。

『気持ちを押し殺したままにしてもろくなことがない・・・。』

萌々子は口に出して言ってみた。

『恋愛は自分の中で終えることができなければ先には進めない・・・。』

リンの言葉を思い出した。

朋美に言われた言葉とリンに言われた言葉が萌々子の頭の中でぐるぐると渦潮のように回っていく。

寂しい・・・と思っているのは自分のせいなのだ。寂しいなら寂しくないように、つらいならつらくないように・・・毎日を楽しく過ごせるか過ごせないかはやはり自分次第なのだ。行動を起こさなければ何も始まらない。


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