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笑わない女

4、笑わない女

あの時のことはよく覚えていないというのが正直な感想だ。

普段おとなしい萌々子がまさかあんな告白をするとは到底思わなかったのだ。朋美はなんと答えていいかよく分からなかった。

だからよく覚えていないというのが正直な感想なのだ。

と言っても一応は何を言ったかは覚えている。

『好き・・・なの??』

『・・・はい・・・。』

『だったら辞めなくてもよくね?』

『でも・・・あたし・・・もう何が何だか分からなくて・・・。』

そういうと萌々子は泣き出してしまったのだ。

別れ話の際に女に泣かれると男は非常に困るというが、なんとなくその気持ちが朋美には分かるようだった。

とにかくその場は萌々子をなだめて、仕事は辞めなくてもいいというようなことを萌々子の背中を優しくさすりながら言ったのを覚えている。


萌々子の告白はそのまま朋美の悩みになっている。

大体、40歳を目前にして20代前半の男の子に泣いちゃうほど恋してしまうなんて朋美にはあり得ない。仮に朋美が子供もおらず結婚もしておらず独身であったとしても・・・だ。

『恋は盲目』とは言うが、自分に自信がない萌々子が何が何だか分からなくなって、混乱しながら『仕事を辞めたい』と言い出したのは実に萌々子らしいと朋美は思う。ただでさえ自分に自信がないにもかかわらず、自分より一回り以上も若い男の子を好きになれば、自分の老いが嫌でも目に付くだろうし、それは混乱もするだろう。


ソフトボール大会は奇しくも敬と萌々子を連れて行くことになったのだが、前日に朋美は待ち合わせ場所などの詳細を二人に別個に伝えた。

敬が来ることを聞いて萌々子は今まで見たこともないぐらい明るい顔で笑った。

びっくりするぐらいかわいかった。

朋美は今まで萌々子のそんな表情を見たことがなかった。恋をすると女はキレイになるというのは本当なのかもしれない。それにしてもどうにもこうにも・・・朋美にはこの恋の結末は決していいのもではないような気がしてならない。それを考えると悩みは増えるのである。

大体なんで社員のプライベートなことまで考えてやらなければならないのだ・・・と朋美は思うことがある。

と言いつつも、同じ年の萌々子には心から幸せになってほしいとも思う。

我ながらちょっと複雑な気分なのである。


どうにもこうにも・・・という朋美の予想は現実のものになってしまった。

仕事のことで敬に指示を出したときのことである。

『そういえば明日のソフトボールなんすけど・・・。』

『明日の?』

最初に言われたときには何か伝え忘れたことでもあったかと思った。

『彼女連れて行っていいですか?』

『いいよ。・・・えっ!・・・てゆうか彼女??』

『はい。彼女ですが・・・。』

なんとなく分かっていたことではあるが、いざ言われてみると朋美はちょっとショックだった。

その証拠にちょっと声がひっくり返ってしまったのだ。

いや・・・ショックと言っても目の前の若くてかっこいい男の子に入れあげている誰かさんとは違うのだが、それでもなんとなくショックなのだ。

いつも不思議なのだが、なぜこういうことが起きると少し気持ちが揺らぐのだろう。

好きな芸能人が結婚したとか熱愛発覚とか・・・そういうときと同じような気持ち。別に本気で恋愛したい相手というわけではないのに、特定の相手ができてしまうとなぜだか少し魅力が半減してしまうあの変な気持ち。

『恋』という字が『変』という字と似ているのがなんとなく朋美には分かったような気がした。

こんな小さな気持ちから、萌々子が思っているような大きな恋心に至るまで・・・『恋』は人を『変』な気持ちにさせる。だから字の形態が似ているのかもしれない・・・と朋美は思った。

『彼女いたんだ・・・。』

『いないような感じですが実はいたんですよ。』

敬はいつものように愛想よく言った。

この愛想の良さが彼のいいところである。

ソフトボール大会は家族なども参加が可能である。

昨年は朋美も娘たちを連れていったのだが、今年は彼女らも友人との付き合いがあるらしく、母親と行動を共にすることも少なくなってしまった。『ママ、ママ』と言ってどこへ行くのもついてくるようなかわいい時期などわずかなのである。

『いいわよ。迎えに行くから、当初の予定通り、自宅の前で待っててね。』

『それでちょっと相談なんですけど・・・。』


敬の相談とは彼女のことだったのだが、さほど難しいことでもなかった。

介護を生業なりわいとしているものにとってははっきり言って何も感じない。

『内海くんらしいな。』と朋美は思った。なにせ介護職員が3人もいるのである。そんなことはなんてことはない。

それよりも『内海くんに彼女がいる』という事実を萌々子に伝えなければいけないことの方が朋美にとっては大きな問題だった。

また『辞めたい』と言い出すんじゃないだろうか・・・朋美には悩みが絶えなかった。

大体、40歳目前にして萌々子は恋愛偏差値が低すぎるのだ。

朋美は周りに比べても早くに結婚してしまった方だが、それでも結婚するまでには何度か恋愛して何度か失恋してきた。何度か失恋してきて、その時は落ち込んでも、時間が経てばそれが自分への自信にもつながった。

萌々子にはそういう経験がないのかもしれない。

この際、ここで思い切ってそういう経験をするのも萌々子のためなのかもしれない。

『と言ってもなあ・・・。』

パソコンの前で書類を作りながら朋美は一人つぶやいた。

気が付けば時間は夕方になっている。

事務所の窓から見える空はゆっくりと昼間の空から夜の空に変わりつつある。確か・・・萌々子は今日、日勤のはずだ。言うなら早めに言っておいた方がいい。

どうせ明日にはわかってしまうのだ。

知ってて言わないのはずるい。


『いちごちゃん、ちょっといい?』

朋美は思い切って萌々子を食事に誘うことにした。

自宅に電話したら、ちょうど旦那が帰ってきており、事情を説明したら快く許してくれた。

旦那だけでなく、二人の娘も良くやってくれている。こういう瞬間に家族の協力なしにはこの仕事を続けることはできないと朋美は感じる。

『はい・・・。』

相変わらず表情の暗い萌々子だが、もうそれはいつものことだし、それよりも重大なことを伝えなければいけないこちらの身としてはそんなことはどうでもよくなってきている。

『今日、何か予定ある??』

『いえ・・・特にないです。』

『じゃあ、食事でも行かない?』

『はい。』

少し嬉しそうに萌々子は言った。

一緒に食事に行くぐらいで嬉しい顔をしてくれるんだったら、今度からもう少し多くこういう機会を増やしたいと朋美は思うのだが、その反面、自分の家庭のことを考えたらそういうわけにはいかない。

もしかしたら萌々子には同じ歳ぐらいの独身で萌々子と同じ立場の同性の同僚が必要なのかもしれない。

『ライバル』という言葉はあてはまらない。

どちらかというと『戦友』と言う言葉があてはまるだろうか。

そんな同僚がいればいいんだが。

今度の求人でそういう人が入ってくれるとありがたい・・・と朋美は思った。

もちろん、萌々子のようにあからさまに暗い子は大いに困るのだが・・・。


萌々子を待たせるわけには行かないので、仕事はそこそこに切り上げて二人でお店に向かうことにした。

明日はソフトボール大会だし、朋美は車なのでアルコールを飲むわけには行かない。

いつもは旦那が座っている助手席に萌々子を座らせて、車のエンジンをかける。

車は2台所有している。

ちょっと贅沢なのだが通勤や買い物、それに普段から移動範囲が多い朋美にとっては車は生活必需品なのである。もちろんセカンドカーは軽自動車で、その軽自動車に朋美は乗っている。

『どこがいい?』

『・・・どこでも大丈夫です・・・。』

どこでも大丈夫、なんでもいい、という言葉は一見人に合わせることができる気の利いた言葉にも見えるが実は主体性のない言葉でそれを言われると困ることが多いのだ。

『じゃあ・・・ファミリーレストランでいいかな??』

『はい。』

いつも朋美は思うのだが、もう少し萌々子は主体性を持った方がいいと思う。

この主体性のなさが彼女を暗くしているのではないか、とさえ思うのだ。ただ結論は堂々巡り。結果として彼女がどうして主体性がないかといえば、それは自分に自信が持てないということなのである。

つまり主体性のなさを直すには自分に自信を持つということが大事だったりする。

朋美はハンドルを切って大通りにでた。

大通りを少し走れば、確か、左側にファミリーレストランがあったはずだ。

夏が終わって、秋が深まり、夕方になるとあっという間に暗くなる。『秋の釣瓶落とし』とはよく言ったものだ。

車は夕方でもヘッドライトを付ける必要があるし、街の中はすでに暗くて街灯が光っていた。

早く暗くなると気分まで少しさみしくなるのだが、歳と共にさみしいというよりも暑い夏が終わったことに対する安堵感の方が大きくなる。

1ケ月の夏休みがなくなり、気が付けば自分も人の親となり、逆に夏休みは子供がずっと家にいるので暑い夏がいつも以上に大変になり、さらに・・・さらにだが・・・体力も若いときに比べたら確実に低下しているわけだから、夏が楽しいと思えなくなっている。

だから朋美にとっては『秋の釣瓶落とし』は寂しいどころかほっとしてしまうのである。


フェミリーレストランは金曜日ということもあって空いていた。

窓際の禁煙席に案内されて、メニューをみて注文してから朋美は言った。

『明日、本当に大丈夫だった?』

『はい・・・。』

『ごめんね。せっかくの休みなのに、出勤扱いにもならないんだけど・・・。』

『大丈夫です。どうせ何もやることないんで。』

『休みの日っていつも何してるの??』

『う~ん・・・朝方と夕方は走ってます・・・。あ、でもそれは出勤の日も夜勤じゃない限りは走ってますけど・・・。』

朋美は萌々子が1日2回も走っているのを聞いて、彼女のスタイルの良さの理由が分かったような気がする。

『1日2回も走ってるの??すごいね。』

『そ・・・そうですか?』

『普通、そんなに走れないでしょ。』

『あたしも最初はそんなに走れませんでしたけど、走っているうちにだんだん距離も増えていきまして・・・気が付けば走ることが日課になってますね。もしかしたら軽いランナーズハイになっているのかもしれませんけど。』

走ることの話になると、萌々子は少しいつもとは違う明るい表情になる。

もしかしたら萌々子は『走る』ということに関しては少し自信があるのかもしれないな、と朋美は思った。

いつもこの表情ができればいいのだが・・・。

『えっと・・・ところで話って・・・。』

萌々子は変なところで敏感だ。

どう切り出して良いか分からずに適当な世間話でお茶を濁しているうちに、先に萌々子から本題についてきかれてしまった。

『実はね・・・。』

『はい・・・。』

『内海くんの話なんだけどね・・・。』

『あ・・・はい。』

朋美が敬の名前を出した瞬間、萌々子は恥ずかしそうに下を向いてしまった。

そんな調子で今から話す内容に萌々子は耐えられるのだろうか・・・朋美はかなり不安になった。

でもここまで来たら腹をくくって言うしかない。

『・・・。』

『・・・。』

朋美は無言で萌々子を見た。

萌々子と目が合う。

気まずそうに話をしている40歳目前の女二人がファミリーレストランで食事をしている様子はさぞや滑稽な様子だろう。

『ダメ!!ごめん。やっぱ言えない!!』

『え?え?気になるじゃないですか。教えてくださいよ。』

『いや・・・世の中知らない方がいいこともある!』

『いやいやいや・・・無理ですよ。そこまで言ったら教えてください。』

『じゃあ・・・。』

『じゃあ?』

『まず深呼吸してください。』

『え??』

『いいから深呼吸!』

『はい。』

『心して聞きなさいよ。』

『・・・。ちょっと待ってください。』

『何よ。人がやっと覚悟決めたのに。』

『てゆうか・・・もしかして・・・悪い話ですか・・・。』

萌々子はいぶかしげな顔をしていった。

気が付けば頼んだ料理は目の前にあった。

ハンバーグステーキの美味しそうな匂いがするが今はそれどころではない。

てゆうか・・・萌々子はもしかしてこの流れで自分にとって良い話だと思っていたのだろうか、と朋美は不思議に思った。普段の萌々子はいつもネガティブな感じなのだが、変なタイミングでポジティブになったりするから困りものである。

『いい話なわけないでしょ!』

『え・・・。どうしよう・・・。』

『どうする?聞いとく?辞めとく??』

これでいい、と朋美は心の中でつぶやいた。

聞くか聞かないか・・・どちらにせよ明日には分かるのだ。

分かったときに『ホーム長は知っていて黙っていた。』という形さえ避けられれば朋美はどちらでもいいのだ。

『・・・。』

萌々子は下を向いて無言で考え出した。

いろいろ考えているのだろう。

悪いことを・・・。

『とりあえず食べよ。』

萌々子の目を見ながら朋美は言った。

あまりいい顔をしていない。

どうか・・・『聞きたい』と言わないで・・・。

朋美は祈るような気持ちでハンバーグステーキを口に入れた。まったく味がしない。

娘たちが聞いたら『ママ、ずる~い!!』と言いかねない大きなハンバーグだし、朋美自身もしばらくぶりに食べるハンバーグなのだが・・・。

食事の時の雰囲気は味にかかわるというのはどうやら本当らしい。

朋美は萌々子の顔を見ながら無言でハンバーグを食べた。萌々子も食べているが、どうも美味しいのか不味いのか分からないような顔をしている。おそらく朋美と同じように味がしないのだろう。


よく考えてみれば、好きな人に彼女がいたなんて話はけっこうよくある話だしたいした話ではない。

特段、ショックを受けるような話ではない。

高校生ぐらいの女の子ならすごくショックなのだが、朋美や萌々子ぐらいの年齢にもなればそんなにショックではないはずだ。ずうずうしい女になれば『奪ってやる』ぐらいのことを思うかもしれない。

こう考えるともしかしたら萌々子は『恋愛』という一点においては高校生の時から時が止まっているのかもしれない。

かなり大きなハンバーグステーキ。

食べるのに相当時間がかかりそうだったが、すでに半分以上は食べてしまった。

もちろん、味はしない。

『で・・・どうしよ?』

聞かなくてもいいときに先走って聞いてしまうのは朋美の昔からの悪い癖だ。

どうも短気なこの性格は一生治りそうもない。

『・・・。』

萌々子は無言でハンバーグを口に入れた。

『・・・聞きたいです。』

『そう。』

『はい・・・。悪いことでも聞いておきたいです。』

『分かった。あのね・・・。』

『あ・・・。ちょっと待ってもらえます。』

『何よ。』

『深呼吸します。』

萌々子はそう言うと深呼吸をしだした。

『いい?』

『はい、どうぞ。』

『落ち込むんじゃないわよ。』

ここまで言えば察しはつきそうなものだ。覚悟もできているだろう。

朋美も腹に力を入れて言葉を吐き出した。

『彼、付き合ってる人がいるみたい。明日、連れてくるって・・・。』

萌々子の顔がみるみるうちに暗くなっていくのが分かる。

やっぱり言わなきゃよかったのかな・・・朋美は一瞬、そう思った。

『・・・。』

『大丈夫??』

朋美は萌々子の顔を覗き込んで言った。どう考えても大丈夫そうではない。

『本当・・・ですか??』

『てゆうかウソついてなんになるのさ。』

『・・・ですよねえ・・・。』

萌々子は自虐的な笑顔をして言った。しっかり食事の手は止まっている。

『で・・・ここからはあたしの提案なんだけど。』

『提案・・・ですか??』

今度は絶望的な顔をしている。

実に分かりやすい。

朋美が萌々子に言いたいことは敬に彼女がいることだけではなく、その先のことまで話したかったのだ。

と言ってもやはり最初に萌々子にとっては残念なお知らせを告げなければいけないことは気が重かったし、目の前の萌々子の絶望的な表情を見ているとこちらまで世界の終わりではないかと思うぐらい暗い気持ちになってしまう。しかし、この問題に関してはここから先が大事なのだ。

朋美が思うに、萌々子はなんらかの理由で恋愛に大失敗したせいで、恋愛経験がとぼしい。

独身女にとって恋愛できない、恋愛偏差値が低い、という事実は自己否定にまでつながることは若い頃の経験を通じて、朋美はよく知っている。朋美だけでなく、もしかしたら朋美ぐらいの既婚女性ならみんな分かることなのかもしれないが・・・。

だからこそここから先が萌々子にとっては重要なのだ。

何かを乗り越えて一つ自分に自信をつける必要が彼女にはあるのだ。

『折を見て告白してみたら?』

『え・・・だって・・・。』

『いやそりゃたぶんふられるでしょうよ。』

『だったら・・・。』

『でもそれでいいわけ?いちごちゃんの気持ちはそれで収まるわけ??』

『でも・・・。』

『気持ちを押し殺したままにしててもろくなことがないよ。それにふられるとは限らないでしょ。』

萌々子は下を向きっぱなしだった。

これでしばらくは暗い顔をしたままだろう。しかしそれは自分の気持ちを押し殺しているからそうなるのだ。思い切って飛び出してしまえば、実は悩んでいたことは実にちっぽけだったことに気づくのだ。

『そんな暗い顔しない!幸せが逃げるよ。』

『あたし・・・幸せじゃないですから・・・。』

『そういう気持ちでいるからダメなのよ。』

『だって・・・。』

萌々子は泣きそうな顔をしている。

『気持ちはつらくても無理やり笑ってごらん?』

朋美はなるべく優しい言葉で言った。

しかし朋美の思いとは裏腹に萌々子は泣きそうな顔をして下を向いている。

また、朋美の中の短気の虫が騒ぎだした。

『ガマンガマン・・・。』そう思ったが、萌々子の暗い顔を見ているとガマンできなくなってきた。

『そういう顔がダメだって言ってるの!』

朋美はテーブル越しに両手で萌々子の頬をつかんで、ぐーーっと上に持ち上げた。

『こうやって口角を上げて笑うの!!』

『ひたい・・・ひたいでひゅ・・・。』

『うるさい!いい加減暗い顔は辞めなさい!!』

気が付くとお店の客はみんなこちらを見ている。

『あ・・・。』朋美は赤い顔をして萌々子の頬を離した。

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