萌々子の告白
3、萌々子の告白
管理職の仕事はなかなか大変である。
しかしその大変さは案外理解されないことの方が多い。現場職員の中には、利用者の排泄介助や入浴介助などの骨の折れる仕事を管理者がすることは少ないために『楽そうでいいなあ。』などと陰口をたたくものもいるぐらいだ。
しかし管理者というのは職場全体を管理し、円滑に業務が進むことを見守るのが仕事であり、その仕事は細部にわたるので、気の休まる暇はなく、仕事が終われば切り替えることができる現場職員の方がはるかに楽なのだ。
グループホーム『すずらん』でもそれは例外ではない。
建物の1階と2階をユニット分けして2ユニットで構成しており、1ユニット9人、最大で18人の利用者を入所させることが可能だが、空床が出てしまうと売上に影響するので、体調不良などの理由で入院された利用者がいればその動向を見守り、施設へ戻ってくることが困難であるなら、空いた部屋を新規の利用者にあてがうことを絶えず考えなければいけないわけで、その仕事はほかでもないホーム長である安埜朋美の仕事でもある。
管理者の仕事はそれだけにとどまらない。
慢性的な人手不足に悩まされる介護業界において、グループホームでも人手不足で、やれ1階のスタッフが辞めることになったとか・・・2階のスタッフが病欠になったとかで、各階のユニットリーダーと相談しながら1か月ごとのシフトを組んでいくのも仕事のうちである。
それに月ごとの売り上げ表を作りながら、短期、中期、長期にわたる売り上げの目標を立てることや、施設そのものにかかるコストをいくら削減できるかなど、会社全体における利益に関する施設としても取り組み方を、会議資料の形で作り、管理者会議で発表することもある。
人手不足で職員が足りないときは、代わりに現場に入ることもある。
管理者の仕事は本当に忙しいのだが、今回、朋美の頭を悩ませているのは社内のソフトボール大会のことである。
㈱検査科学の事業は多岐にわたるが、その事業の一つが老人介護事業で、グループホームの営業に会社は力を入れており、グループ間の連携を強めるためにも半年に1回ほど、ソフトボール大会をはじめとするイベントがあるのだ。
『すずらん』からはそのソフトボール大会に3人出すことになっている。
隣接施設の『りんどう』から3人。
さらに川向うの『すすき』から3人。
㈱検査科学自体の規模がかなり大きいので、このソフトボール大会の規模も大きい。
『・・・たく・・・この忙しい時期になんだってソフトボールなのよ・・・。』
ソフトボール大会に出場するのは、その日シフトを休みになっている職員である。
でもその職員もプライベートがあるので、休みの日に会社にそういう仕方でしばられるのはいい顔をしないのである。
『3人かあ・・・。』
朋美は事務所でパソコンをにらめっこしながらつぶやいた。
ソフトボール大会の日に休みになっているのは、1階は川本萌々子。2階は内海敬。
あと一人は朋美がでるつもりだ。
萌々子はおそらく一人で何もすることなく家で時間を持て余しているだろうから引き受けてくれるだろうけど、敬の方はどうだろうか。
もしだめならシフトそのものを変えなければいけない。
こういう時、朋美は断られた時のことはまず考えないことにしている。それを考えてしまうと説得できるものもできなくなるからだ。
まずは敬を説得し、もしダメなら他の人間に当たりシフトを調整する。
1階の事はそのあと考える。
その手順で行こう・・・と頭の中で仕事の段取りを組み立てると、朋美は事務所を出て2階に行った。
朋美が2階に行くと敬は男性の利用者と話をしていた。
ちょうど朝食が終わり、朝の散歩も終え、昼食まで少しゆっくりできる時間だ。
『内海くん。今度の日曜日、シフトでは休みになってるけど空いてる?』
『とくに予定はないですけど・・・何かあるんですか??』
『実は社内のソフトボール大会があってね・・・。うちからも3人出さなきゃならないのよ。』
『ソフトボールですか。いいですよ。でも自分、へたくそですよ。バスケなら自信があるんですけど・・・。』
『それは大丈夫。あたしもソフトなんてやったことないから。』
このソフトボール大会はほとんど素人しかでない。
朋美も学生時代はテニスをしていたものの、ソフトボールは素人同然である。
『じゃあ、全然OKっすよ。』
『よろしくね。詳細はまた追って知らせるから。』
こういう話は得てして、難しそうな方の話がうまくいくと、簡単な話がうまく行かなくなることが多い。
朋美は1階に戻ってすぐに萌々子をさがした。
『いちごちゃん。ちょっといい??』
萌々子は利用者と散歩に行って帰ってきたところだった。
萌々子はある意味、朋美とは対照的である。年齢が同じだから余計にそう思うのかもしれないが、彼女は独身で、毎日を自由に楽しんでいるように見える。月に一度は美容院に行っているようだし、身に着けている洋服も少し派手目のかわいいものが多い。
40歳を目前にしてかわいい服を着るというのは通常で考えたら少し痛い女のように思えるが、萌々子がやるとしっかりとはまってしまうから不思議である。いつも通勤で使っている大きないちご柄のバッグもそうだが・・・。
恐らくそれは童顔でスタイルのいい彼女だけがなせる業なのだろう。
朋美は萌々子のことを『いちごちゃん』と呼んでいる。
彼女のトレードマークともいうべき大きないちご柄のバックにちなんで、親しみをこめてそうよんでいるのだ。でも『いちごちゃん』という呼び名が似合っていることは否めない。
萌々子を見ると、とても39歳には見えないのだ。
間違いなく朋美にはそういう呼び名は似合わないし、萌々子と同じようなファッションに身を包んだなら『痛い女』と思われるだろう。しかし、同じ歳の萌々子にはそのファッションはよく似合うのだ。
朋美は実は少しだけ、萌々子の隣にいるのが嫌な時がある。
同じ歳だと、スタイルのことで心の奥底では何かと張り合ってしまうのは女特有の本能みたいなものなのかもしれない。
朋美は結婚も出産も終えて、すべてのことを終えてしまったようなそんな一抹のさみしさを感じることもあるので、そういう意味でもそれらを一度も経験していない萌々子を見るとうらやましく感じることもある。
オシャレを楽しみながら、自分の時間を謳歌することは主婦でもあり母親でもある朋美には今やかなわぬことなのである。
『はい・・・。』
萌々子はうつむき加減で返事をした。
彼女の悪いところは少し陰気なところである。
これで明るかったらすごくもてるだろうに、陰気なだけにまったくもってもてないのだ。
朋美は萌々子の浮いた話を聞いたことがない。どうやら彼氏もいないようだ。
『今度の日曜日、シフトでは休みになってるんだけど暇??』
『え??暇・・・ですけど・・・。』
『会社のイベントがあるんだけど協力してくんないかな?』
『イベント・・・ですか??』
萌々子の話し方を見ると、なんだかなにかにおびえながら話しているように見える。
おびえたような話し方は彼女の自信のなさの現れだと朋美は思っている。
いつも朋美は不思議なのであるが、どうして萌々子はこんなにも自分に自信がないのだろうかと思う。
仕事も最近ではいい仕事をするし、外見だって取り立ててものすごい美人・・・というわけではないが、それでも美人かどうかと言われれば美人の方だろうし、オシャレだし、それなりに気遣いもできる。
だからこそ、朋美は萌々子を1階の副リーダーに抜擢したのだ。
なのになぜにこんなに自分に自信が持てないのだろうか?
『そう。来れる??』
会社のイベントへの参加は強制参加ではない。
だから朋美も無理強いはするつもりはない。
『う~ん・・・。』
『何かあるの?あるんなら無理しなくていいよ。』
『いや・・・。』
『ないんならできれば来てくれるとうれしいな。』
『う~ん。』
萌々子はいつも煮え切らない。
優柔不断を絵にかいたようなタイプである。
行くのか行かないのか・・・二つに一つではないか。ましてこちらは無理強いしているつもりはないのだ。嫌なら断ればいい。
竹を割ったような性格の朋美にはこういう煮え切らない態度はいらいらする。
『どっち!?行くの?行かないの?!!』
第三者が見たら怒っているようにみえるだろう・・・と朋美は思った。
萌々子にはいつもそんな態度をとってしまう。
『い・・・行きます・・・。』
結果的に無理強いしたような形になってしまったことに後味の悪さを感じながら朋美は『じゃあ、詳細は追って知らせるからよろしくね。』と言って事務所の扉をくぐった。
事務所は1階にあり、1階のユニットと隣接している。
パソコンもこの部屋にあり、ソフトボール大会の話がひと段落ついたので、朋美はパソコンに向って作業を始めた。まずは電子メールのチェックとソフトボール大会の出席メンバーを送る。
それが終わると今度は今月の保険請求と売り上げのチェックが待っている。
『ホーム長。お客さんです。』
作業に集中しようとすると必ず来客があったりして邪魔が入るのだ。
朋美はいずれこれもなんとかしないといけないと思っている。というのも一人でなんでもかんでもできないからだ。来客などの対応に関しては自分でないとできない部分もあるが、保険請求や売り上げのチェック、それに社内のイベントに関するような内容の仕事はほかの人間でもできるのだ。
なんでもかんでも抱え込んでしまうのは朋美の悪い癖である。
ただ・・・。
施設の中に任せられる人間がいないように見えるのもまた事実である。
1階のユニットリーダーはあと1年で定年であり、来年にはリーダー業務はできなくなる。
これは『育成』に力を入れるという会社の人事の方針である。
ユニットリーダーというのはどちらかというと現場仕事の色合いの強い管理職である。だからできればこの仕事にはベテランの社員にやっていてほしいというのが朋美の本音ではあるのだが・・・。
順調にいけば、というか何もなければ・・・来年から1階のリーダーは川本萌々子に任せることにはなる。
『どうもありがとう。』
来訪してきたのは客ではなく宅配便だった。
朋美は印鑑を押すと大きな荷物を受け取った。
おそらく先日まとめて頼んだ紙おむつだろう。
『お客さんです。』と呼んだのは萌々子だ。声で分かった。
宅配便ぐらいは自分の判断で受け取ってくれればいいのだが、彼女はそういう臨機応変な仕事ができない。
リーダーを任せるまでに、彼女にはこういうことをしっかりと覚えてもらわなければいけない。現場仕事は見事にこなすようになったのだが、こういう事務的な仕事がほとんどできないのは萌々子に限らず、この業界の女性には多くみられる傾向ではある。
『いちごちゃん。ちょっと・・・。』
『あ・・・はい。』
利用者と話をしていた萌々子を朋美は呼んだ。
こういうことは早めに言っておかなければいけない。
『さっきの宅配便。あたしを呼んだのいちごちゃんだよね?』
『はい。』
『あたしが受け取る必要ある??』
『え・・・。』
朋美が言うと、萌々子は泣きそうな顔をした。
泣きそうな顔をされようが、どうなろうが・・・これは仕事の話である。宅配便が来たからと言っていちいち管理者を呼んで対応しなければいけないのなら、管理者は身体がいくつあっても足りない。
『あ・・・いや・・・分からなかったから・・・。』
『何が分からなかったの?』
朋美はなるべく優しい語調で言うように心がけている。
もちろん、萌々子は多少強く言ったからと言って気持ちが折れてしまうことはないだろう。彼女は前職でも施設勤務をしていており、そこでも上司や先輩から強い言葉で怒られたりもしてきているはずだから、そういうことに耐えることはできるはずだ。
しかし朋美はそういうやり方は好きではない。
別に人間的にキライというわけではないのだ。あくまで仕事の話で直してほしいところを指摘しているだけなのだから、必要以上に感情的になる必要はないのだ。
『いや・・・その・・・あたしが受け取っていいかどうか・・・。』
『現金を支払うもの以外は受け取ってもらえるとありがたいな。』
『はい・・・。なんかすみません。』
『いやいや、大丈夫よ。今度から気を付けてくれればいいから。』
来客と来訪者の区別がつかないのは萌々子だけに限った話ではなく、彼女以外の職員が出ても朋美は呼ばれることが多い。それは彼らが管理者などは暇だから・・・と思っている証拠でもあるのだが、そう思うのは自由だが、その程度のことは臨機応変にやってもらわなければ困る。
『てゆうか・・・なんか最近元気ないじゃん。』
萌々子が元気がないのは今に始まったことではない。
とにかく陰気な彼女は元気があるときがないのだ。
ただ最近、特に元気がないように思えるときがあるように朋美には思える。朋美は萌々子には向こう何年かで管理者レベルの仕事をしてもらいたいと思っているから、あまりに元気がないと困るのだ。
『え・・・そうですか?』
どうやら図星の様子である。
萌々子は悩みがすぐに顔に出るので分かりやすい。
『時々、ぼーーっとしてるし・・・表情もさえないわよ。』
時々ぼーーっとして表情がさえないのはいつもの萌々子なのだが、あえて朋美は水を向けてみた。すると萌々子は沈んだ表情でうつむいてしまった。
『何かあったの??』と聞きながら同時に朋美は『ああ・・・どつぼにはまったなあ・・・。』と思った。
まさかそこまで大きな悩みを抱えているとは思わなかったのだ。
『最近元気ないじゃん。』と言ったら『そんなことないですよ~。』と返してくると思ったのだ。
もともと陰気な萌々子だが、確かにこうやって見るといつもよりも暗く、深い悩みを抱えているようにも見えなくもない。
『いや・・・大丈夫です・・・。』
どう見ても大丈夫ではなさそうだ。朋美は気にはなったがあえてつっこまないことにした。
本人が言う気にならないことを無理やり聞き出しても仕方ないのだ。
それに彼女は40歳を目前に控えた立派な大人である。
自分なりに解決方法を模索するだろう。こちらも忙しいからそこまで面倒は見きれないのだ。
『そう。困ったことがあったら相談するのよ。』
朋美がそういうと萌々子は『はい。』と言って事務所から出て行った。
『はあ・・・。』
シフト表のチェックをしながら朋美はため息をついた。
1階ユニットの人手不足がけっこう深刻なのである。問題は人手不足という問題もあるのだが、パート職員の身勝手さにもあるのである。
大抵、身勝手なことをいうのは朋美より上のおばさんたちが多い。
というのも朋美の世代の職員はみんなまだ正社員で働いていることが多いからだ。女性社員に比べると同じパート職員でもおじさんたちはしっかり働いてくれる。在宅介護では行き場のない男性職員だが、施設では大いに必要な人材なのだ。
ただ・・・この業界は女性が圧倒的に多く男性は入ってこない。
そんなわけで身勝手なおばさんたちに管理者は振り回され続けなければいけないのだ。さすがの朋美でも自分より年上の人に強い口調では怒れない。
しかし彼女らは柔らかく言っても聞きはしないのだ。
シフトに穴が開くことなどは彼女らの知ったことではない。
自分たちはパートで自分たちが好きな時間に出勤できればいいと思っている人は少なくない。しかし仕事とはそういうものではない。ある程度、組織全体を見通すことのできる力と融通はパートと言えども培ってほしい。
そういうことができない人が少なくないから、人手不足になるという側面もあるのだ。
『あたしはこの歳だしいつ辞めてもいいから。』
というのがそういうおばさんたちの殺し文句だ。
もちろんみんながみんなそうではないが、そういう人が多いのもまた事実なのである。
グループホームのような施設だと、シフトを3人勤務のところを2人にするという方法でしのぐというやり方もあるが悲惨なのは在宅の管理者である。
地域の交流会で在宅の訪問介護のサービス提供責任者と朋美は話をしたことがあるが、在宅になると一人の利用者に対して一人のヘルパーを派遣しなければならないから、そういう身勝手な人がいるとどうしようもなくなるということだった。
どうしようもなくなると言ってもどうにかするのだろうけど、その苦労たるや、ほぼ毎日シフトに頭を悩ませている朋美にはよく分かるのだ。
朋美は目の前のパソコンの画面を見つめた。
今月も2人勤務が多い。
このままだとスタッフから文句がでそうだ。
『あの~・・・。』
煮え切らないこの調子の話し方はおそらく川本萌々子だろう。
事務所でパソコンとにらめっこしながら『どうぞ~。』と朋美は言った。昼食が終わり、食後の散歩も終わりおやつを食べさせ、時計の針は15時を回っている。ちょうど施設は一番暇な時間である。
萌々子は自信なさげな顔をして事務所に入ってきた。
『どうした??何かあった??』
朋美は萌々子を見て言った。見ると萌々子の手には二つ、コーヒーカップがある。
入れてきてくれたのだろう。
『ありがとう。』
『え?』
『だから・・・そのコーヒー。』
これでそのコーヒーが朋美のためのものではなかったならかなり間抜けな話ではあるが・・・。
もっとも・・・事務所にコーヒーを持ってきたのにもかかわらず何も言いださずに二つのコーヒーカップを持ったまま突っ立っている萌々子はずいぶん間抜けではあるが・・・。
まあ・・・今に始まった話ではない。
『あ・・・どうぞ。』
『ありがとう。』
朋美はコーヒーを一口呑んだ。
熱いコーヒーは仕事の合間には一服の清涼剤だ。
『で・・・どうしたの??』
『いや・・・その・・・。あたし仕事やめようかな・・・って思ってまして・・・。』
『は?!』
朋美はもう少しで手に持っているコーヒーカップを床に落としてしまいそうになった。
萌々子は正社員でほぼ毎日に近くシフトに入っている。辞められたら困るのだ。ただでさえ埋まらないシフトが萌々子に辞められてしまったらもう収拾がつかなくなってしまう。
ただ、萌々子が『仕事を辞めたい』というのはこれまた今に始まった話ではない。
彼女にとって『辞めたい』と言う言葉は『悩みがある』と言う言葉と同義語であり、その悩みが何の悩みかが分からないときに『辞めたい』というのである。
困ったものだ・・・。
いつも朋美はそう思う。
萌々子はどちらかと言うと美人だし、スタイルも出産を経験している朋美に比べたらはるかにいい。
仕事だって黙ってこつこつやるタイプで決してできないわけではない。まあ・・・融通が利かないところはあったとしてもだ。
そうやって考えるともう少し自分に自信を持ってもいいのに、何か悩みが出始めると普段の倍以上、自分に自信がなくなってしまい『辞めたい』と始まってしまうのである。
朋美は『やれやれ・・・。』という気持ちをなるべく外に出さないように萌々子に言った。
『何かあったの?』
萌々子はなかなか話し始めなかった。
とにかく彼女は語彙が少ない。だから今の自分が何で悩んでいるのかが分からないのだ。自分でもどうしていいか分からないのである。
何か悩みがあると仕事と関係のないことでも仕事につなげてしまうことが多い。
どうにもこうにも・・・。
萌々子は落ち込むと自己否定に走る傾向にある。
数年前までは何か悩んでいても『辞める。』とは言いださなかったのだが、ここのところ多くなったように思える。もっとも・・・萌々子が何か悩んでいないときなどないのだが・・・。
『辞めるにしても一応理由は聞いておかないとだからね。』
朋美の一言で意を決したかのように萌々子は話し出した。
『自分に自信がないんです。』
蚊の鳴くような声で萌々子は言った。
『自分に自信がない・・・って・・・新人じゃないんだから。』と朋美は思ったがそれも顔に出さないようにした。
『自信??』
『はい・・・。』
『どういうところに自信がないの?』
『どういうところ・・・?えーと・・・。』
相変わらず煮え切らない態度なのだが、萌々子のこういうところはもしかしたら語彙の少なさにあるのかもしれない。
『仕事とか・・・。』
少しの沈黙のあとに萌々子が言ったのはやはりよく分からない言葉だった。
仕事に自信がないということはどんなベテランにもありうる話なのだ。そもそもこの仕事はそういう仕事だ。マニュアル通り同じことを繰り返すのではなく人によってやり方を柔軟に変えていかなければならない仕事なのだ。
だからどんなベテランに聞いても自分の仕事に完璧に自信がある人間の方が少ないと朋美は思っている。
『仕事??どういう仕事に自信がないの??』
『全部です。』
『全部って?』
『すべてです。』
自分でも自覚はあるのだが、朋美は短気なところがある。
萌々子が朋美をからかっているわけではないのは分かるが、せめて辞めたいのならその理由ぐらい言えるようにしてから来てほしいものである。
『あのね・・・。仕事に自信がないって言ってもいろいろあるでしょ。例えば利用者さんとの会話に自信がないとか、排泄介助が生理的に受け付けないとか・・・。』
いらいらしてはいけないとは分かっているものの、萌々子のこの煮え切らない話し方にいらいらしてしまうのは今日に始まったことではない。
『はい・・・。』
『で・・・。何??原因は??』
『えーと・・・会話に自信がない・・・です。』
『さっき鈴本さんと話ししてたじゃん。』
鈴本さんと言うのは1階に居住する利用者さんの名前である。
鈴本さんと萌々子の会話はそんなに問題のあるものではなかった。
『はい。』
『いや・・・はいじゃなくて・・・。』
『あ・・・はい・・・あ・・・いや・・・そのお・・・。』
『何?はっきり言いなよ!分からないよ!!』
『すみません・・・。』
『で・・・なんで辞めたいの?』
『・・・。』
『じゃあ逆に聞くけど辞めてどうするの?』
『・・・。』
『いちごちゃん、一人暮らしなんでしょ?実家に帰るわけ??』
『いや・・・その・・・。』
帰れるわけがない。
以前に萌々子は実家には居場所がないというようなことを言っていたような気がする。
『・・・貯金があるからしばらくは大丈夫です。』
『しばらく??そのあとは??』
『・・・え・・・いや・・・。』
『考えてないんでしょ。』
『・・・。』
『せめて辞める原因だけでも教えてほしいな・・・てゆうかできれば辞めないでほしいけど・・・。』
朋美がそういうと萌々子は下を向いて黙り込んでしまった。
本当に子供じゃないんだからこういうことはしっかりしてほしいと朋美は思う。
『もしかして人間関係?』
朋美はもうどうでもよくなって適当に言った。
大体、辞めたい理由なんて仕事が身体に合わないか、もしくは人間関係ぐらいなもんである。
萌々子はこの業界は長いはずなんだから今更、仕事が身体に合わないなんてことはないはずだ。
『・・・。』
なぜか萌々子は真っ赤になって下を向いている。
なんで赤くなるのだろうか。
朋美は萌々子のことを分かっているようで何もわかっていなかった。というか理解できないのだ。
思ったことはすぐに口にできる朋美は、萌々子のように語彙の少ない人の気持ちが本当の意味では永遠に理解できないのかもしれない。
『誰なの?』
『・・・内海さん・・・。』
『え?!』
萌々子の答えは意外だった。
内海敬は誰からも好かれる人間だ。この間入社してきた男性社員で、若いからこれからしっかり仕事を教え込んでユニットリーダーに・・・そしてゆくゆくはどこかのホーム長をやってほしいと思っている人材なのだ。
『なんで??何か嫌なことでもされたの??』
朋美は心底驚いて言った。
真っ赤になって下を向いている萌々子からは返ってきた答えはさらに・・・さらに意外なものだった。
『好きなんです・・・。内海さんのことが・・・。』




