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白い世界

2、白い世界

スタイルの事はどうでもいいと言えば嘘になるが、それでも走り続けることとスタイルをよくすることは萌々子の中では無関係になりつつある。

職場に着て行っているのは体型を隠すような赤と白のダボッとしたワンピースとその下にはズボンを履いているのだが、走るときはそのままでは走れないので、スポーツ仕様のショッキングピンクのTシャツと黒いスパッツの上にいつものモスグリーンの短パンに着替えて、靴も白地に赤い曲線の入ったシューズを履く。

動きやすい恰好に着替えたら、i-podに好きな音楽を入れて、イヤホンを耳に入れる。

入念にストレッチをして、ゆっくりと走り出す。

その瞬間、好きな音楽をバックに自分だけの世界が見えるのだ。

なんだか真っ白でなにもない世界に、音楽だけが流れている萌々子にだけしか分からない世界。

そんな何もない白が萌々子は好きだった。

白は何事にも染まらない・・・というよりは余計なことを考えない・・・という意味合いが強いように萌々子は感じている。

萌々子が感じている世界とは対照的に、目の前に見える夕方の物悲しい風景は今や真っ暗な夜の闇となっている。ただただ風景を見ながらいつもと同じコースを走る。

今日はどれくらい走ろうか・・・。


暑い夏は終わりを告げ、ずいぶんと涼しくなった。

夜も更けてくれば秋の虫の声が心地いいはずだが、イヤホンを耳に入れている萌々子にはそれを感じることはできない。

ジョギングをしていると同じ時間にジョギングしている人に出会うことが多い。

萌々子が走っているコースは大きな運動公園の遊歩道で、夕方から夜の時間にかけては犬の散歩やジョギングしている人が多いのだ。この遊歩道は夜でも街灯もともっているし、走っている時間帯は人気ひとけもけっこうあるから物騒ではないのでこのコースを選ぶことにしたのだ。

公園の中にはいろんな施設があり、空いていれば自由につかえる。

バスケットゴールやフットサル場、奥に行けば野球場まであるのだ。

そういえば大好きな高校野球も今年は全く見なかった。開幕した日にはいつも、今年こそは見ようと思うのだがいつも忙しさに負けて忘れてしまうのだ。

ソフトボールも高校在学時以来ずっとやっていない。

ひさしぶりにあのボールの感覚を味わいたいなあ・・・そんなことを思いながら萌々子は公園の外周を走っていた。

萌々子が唯一、自信のあること。

それは走るスピードがけっこう早いことだ。身体を動かすことに関してはあまり歳を感じたことはない。もちろん高校生の頃に比べると緩やかに体力は低下しているのだろうけど・・・。

もし走っている最中に変質者が現れたとしても逃げ切る自信が萌々子にはある。

毎日、走っているうちに、長い距離を、しかもけっこうなスピードで走れるようになった。考え事していると疲れをいつしか忘れてしまうのである。アドレナリンが分泌されているからだろうか?

世界一周マラソンに挑戦したあるタレントは『いくら走っても疲れない。』と言っていたが、最近になって萌々子はその言葉の意味が分かった。

とにかく走っている最中は何も考えない。

それが萌々子にとっては救いであり、嫌な自分を見つめなくてもいい時間なのである。


同じコースを何周走っただろうか。

あまり夜も遅くなるとさすがに公園には人が少なくなってしまうから、萌々子は1時間程度走ったら帰途につくことしている。

自宅のアパートの少し手前のところでスピードをゆるめる。

そしてすぐに走るのをやめるのではなく、歩きながら息を整える。そして最後に軽くストレッチ。

ぼーーーっと頭の中に心地いいしびれを感じる。

この瞬間も何も考えない。

考えない・・・というよりは頭にどんな考えも入ってこないと言った方が正しい表現かもしれない。

まさに何にも染まらない白い世界なのである。


家に入るとすぐにシャワーを浴びる。

そしてあらかじめ炊いておいたぬる湯のお風呂につかる。

入浴剤はゆずの香りにした。甘酸っぱいいい香りが萌々子を包む。

白い世界にはいろんな色がつけられていく。

萌々子の中の『何も考えない時間』は終わる。

浴槽の中でお湯につかりながら一息つく。

『はあああああ~。』

そんな自分を萌々子はおじさんみたいだと思う。

体力的にはもしかしたら若いのかもしれないなあ・・・と萌々子はふと思った。

考えてみれば、いくらスタイルのためとは言え、毎日、一時間もぶっ通しで走っている人はごく少数だろう。

そういえば今日はバスケットゴールのところに何人かいて、ゲームを楽しんでいるようだった。

萌々子は、高校を卒業して、専門学校を経て、特別養護老人ホームに数年、お礼奉公として働き、そのあとこの新しいグループホームに就職した。ソフトボールだけに限らず、団体でやるスポーツを楽しんだのは高校生の時以来ないかもしれない。

でも毎日走ってるぶん、今、ソフトボールをやっても若い子と遜色のない動きをする自信はある。


その割には・・・。

萌々子は自分の身体を見てつぶやいた。

『全然スタイルよくない・・・。』

スタイルをよくするという行為は実は非常に難しいのかもしれない。

というのもただ痩せればいいというものではないからだ。痩せすぎて骨と皮だけになってもそれはそれで何も魅力はないのである。

かといって肉付きが良すぎるのも問題ではあるのだが・・・。

余計なことは考えないつもりでも走り終わってしまうと余計なことを考えてしまう。白い世界は気持ちのいい色に染まればいいのだが、萌々子にとってはあまりいい色に染まらない。

余計なことを考え始めると萌々子の頭の中には敬の姿が出てきて、心の中は灰色に包まれる。

最初は優しく声をかけてもらったことを思い出す。こういうことを思い出している最中は灰色の気分ではない。淡いピンク色の気持ちに一瞬だけ包まれると自分の顔はさぞしまりのない顔なんだろうな・・・と萌々子はいつも思うが、一人でいるときにどんな顔をしていようが自由なんだろうからそこはあまり気にはしていない。

そのあとは気になることを考える。

考えなくてもいいのに考えてしまう。

2階の恩田恵のこと、ホーム長の安埜朋美のこと、グループホームにいるすべての職員のことを考えるのである。

なにを考えるのか・・・。

それはもちろんホームの中の誰かが敬のことを狙っているのではないかと思うのである。

逆もまたしかり。つまり敬が好きなのは誰なんだろうと考える。

誰かが彼を狙っているということは十分に考えられるのだが、彼が誰かを好きになることなんかありうるだろうか。そもそもホームの中には彼より年下の若い女性はいないのだ。

恩田恵はメグちゃんとみんなから呼ばれているのだが彼女の年齢は萌々子より下の32歳。それでも敬よりは10歳近く年上だ。

彼女は色白で目がぱっちりしていて、少し気が強すぎるのはたまに傷だが、こう言っちゃなんだが黙っていたらなかなかの美人である。

彼女には付き合っている彼はいるんだろうか・・・。

というのも最近、萌々子は彼女が敬と一緒に楽しそうに話しながらたばこを吸っているところを見かけるからだ。

萌々子はたばこは吸わない。

学生の頃はそんなものを吸ってチームのみんなに迷惑をかけるようなことは絶対にできなかったし、今もなんだか身体に悪そうなので吸わないのだ。

ただ・・・『なんだか・・・』ではなく実際にたばこは身体によくはないのだが・・・。

それでもああやって楽しく会話ができるんだったらいいなあ・・・萌々子は思った。しかし萌々子の場合はたばこを吸うことではなく、敬と楽しく会話ができるかどうかの問題なのだが・・・。

恵は悪い子ではない。

いつもにこやかだし、嫌な仕事も進んで行うし、利用者受けも悪くない。

でもそんなに話す方かといえば、あまり話さない方である。

にもかかわらず、敬とは楽しそうに話していた。

このグループホームに入社してから、彼女があんなに笑っているのを萌々子は初めて見たような気がする。気のせいならいいのだが、きっと気のせいではない。

『ふ~ん・・・。』

萌々子は鼻で大きく息を吐いた。


一人暮らしをしていると、TVが恋人になることが多い。

萌々子は風呂から上がると身体を拭いて部屋用のTシャツとジャージに着替え、冷蔵庫の中から作り置きのサラダと、冷えたビールを取り出してTVをつけた。

『あ・・・そうか・・・。』

萌々子は冷たいビールを見つめてつぶやいた。

そうなのである。

なかなかスタイルが良くならないのはビールが原因なのかもしれない。

お酒に関しては、よく飲む方だと萌々子は自分でも思う。すぐに酔ってしまうが、酔いつぶれることはない。強いのか弱いのかは分からないが、美味しいと感じることが多いので、たくさん飲んでしまうことも少なくない。

萌々子は冷蔵庫の横に置いてあるビールの箱を見た。

エビスの500mlをケース買いする独身女なんてそうそう見かけないだろう。

かといって・・・ジョギングで汗を流して、風呂にゆっくりつかった後の冷たいビールを辞めるなんてことはできない。これは萌々子の数少ない小さな幸せなのだ。

ただでさえいいことがないのにこういう小さな幸せまで捨ててしまったら、何が楽しくて生きればいいのだ。

『でもこれだけはなあ・・・。』

萌々子は一人つぶやいた。

だれもいない部屋の中に萌々子の声が響く。

TVをつけて、テーブルを拭いて、サラダとビールと冷やしておいたグラスを置く。

『いただきます。』

サラダには塩と胡椒しかふっていないけど、ビールの肴にはそれで十分だ。

そもそも萌々子は料理がそんなに得意ではないのだ。

そういえば敬は酒を飲むのだろうか・・・。

敬が入ってきて、まだ歓迎会をやっていない。

『う~ん・・・。』

歓迎会はしたい。

萌々子は職場のみんなとお酒を飲むのがキライではない。みんなでわいわい言いながら飲むお酒は楽しいものだ。

お酒を飲めば普段あまりしゃべれない萌々子でも饒舌になる。

もしかしたら敬との距離も縮まるかもしれない。


TVには先週から見ているドラマが映っていた。

男女の三角関係を描いた話で、この手の話はそんなに好きでもないのだが、音がないと不安になるのでつけているのだ。

本来は野球やサッカーなどのスポーツが見たいのだが、最近は視聴率の問題で地上波ではそんなにスポーツ中継はしていない。

萌々子は何も言わずにビールを飲みながらTVの画面を見ていた。ビールを飲むと軽く酔いが回るからぼーっと見ているだけなのだが、どうにもこうにも現実的リアリティに欠けるようなこの手のドラマを惰性で見続けてしまうのは萌々子の悪い癖である。

そんなことをしている暇があれば本の一冊でも読めばいいのだが、萌々子は昔から読書というものが苦手なのである。

読書が苦手。もちろん勉強も苦手。

介護福祉士の試験は2回落ちた。

介護支援専門員ケアマネジャーの試験も2回落ちた。

この時間を勉強か読書に充てればもっと語彙ボキャブラリを増やすこともできるだろうから、恋愛ももう少しうまくいくのかもしれない

でも苦手なものは仕方ない。

読書は鏡を見ることの次に苦手な行為なのである。

苦手なことを克服する努力は確かに必要だが、逆に苦手なことより得意なことを磨くことも大事だと萌々子は思っている。だから毎日走ることは欠かさない。

身体を動かすことは得意だから。

ただそれが恋愛に直結するか否かというのは別問題だが・・・。


ドラマの中ではヒロインの彼氏が浮気するシーンが描かれていた。

『嫌な男・・・。』

酒に酔うと普段は口にしない言葉がすらすらと出てくる。

以前に安埜朋美にも言われたことがある。

『あんた、酔うと変わるわね~。』

確かに酔うと萌々子は少しだけ積極的になれる。

積極的になっても呂律の回らない言葉で半笑いで話をするのである。そんな自分は他人からはきっと40歳目前の年増の女がだらしなく酔っているようにしか見えないのではないかと萌々子は思う。

『あんなんだから結婚もせずに一人でいるんだよ。』という陰口が萌々子の耳には聞こえてくる。

もちろんそんなことは誰も言っていない。

萌々子が勝手に考えてしまうだけなのだが、どうしてもこんな自分に対して人が女として魅力を感じているとは思えないので、そんなマイナスな気持ちになってしまうのだ。

恋愛は積極的に行った方がいいとはいうが、そんな状況では間違えても恋愛には発展しないだろう。

『大体、なんでみんな簡単に好きな人ができて、簡単に付き合えちゃうわけ?あたしなんかいつまでも一人なのにさ~。』

萌々子は自分で言って自分で悲しくなってきた。

走って忘れたはずの嫌なことが、頭の中に真っ黒な雲のようにむくむくとわいてきた。走って作り出した萌々子の中での『白い世界』はいとも簡単に灰色から黒い色に染まっていく。

素面しらふなら耐えられないところだが、いい加減、ビールが進んでくると思考力も下がってくるから、灰色だろうが黒だろうが・・・もうどうでもよくはなってきている。実は酒が入っているときが一番どんな考えにも染まらないのかもしれない。

『内海くんはあたしのことなんてなんとも思ってないんだろうなあ・・・。』

萌々子は酒の酔いでぼーっとした気持ちに任せて独り言を言った。

酒が頭に回ってくるといつも心に閉じ込めていることが閉じ込めておけなくなる。

普段はあまりしゃべらない方だが、酒が入ると饒舌になるのだ。

そして一人で呑んでいると誰かの声が聴きたくなる。誰かと話したくなる。

だから間違えても人に電話して迷惑をかけてはいけないので萌々子は携帯の電源を切ってから酒を飲むことにしている。

というのも・・・今年の春先に萌々子は大きな失敗をやらかしているからだ。

春先の出来事。

いつも萌々子が酔っぱらったときの愚痴を聞いてもらうのは、高校時代のソフトボール部の後輩である。

例の・・・萌々子の初恋の相手に啖呵を切ってくれたあの子。

彼女は5年ほど前に結婚した。

たまたま地元をでて近くに住んでいたことが分かったので彼女が独身の頃からよく一緒に食事に行ったり呑みに行ったりしており、結婚した後もちょくちょく萌々子の誘いにのってくれていた。

萌々子にとっては後輩というより、仲の良い親友という感じなのだ。

萌々子は彼女のことを学生時代から『かこちゃん』と呼んでいる。

その日も気軽に電話したつもりだった。

いつも電話はしていたし、深夜にするわけでもないのでいいかと思ったのだ。

ちょうど彼女が妊娠したことも聴いたあとで、そんな幸せを萌々子は分けてもらいたいとも思って電話したのだった。

しかしその日、彼女はいつもの明るさはなかった。

あまりに彼女がいつもと違ったので酔いに任せて萌々子は事情を聴いてみた。

すると彼女の口から出た言葉は『流産』という重い現実だった。

子供がほしいと言っていた彼女は妊娠したとき、とてもうれしそうな顔をしていた。電話の向こうの暗い声を聴いて、余りの出来事に萌々子は何を言ってあげていいか分からなかった。

ただひたすら『ゴメン』と謝ったのを覚えている。

電話を切ったあと、萌々子は涙が止まらなかった。

かこちゃんはあたしのためにいろいろやってくれたのに・・・あたしがかこちゃんにしたことと言えば傷口に塩を塗るようなことだった・・・そう思って萌々子はすっかり酔いがさめた中、部屋で一人泣き明かした。

それ以来、萌々子は酔って誰かに電話しないようにしているのである。

幸い、かこちゃんとはその後も仲よくしている。


電話と違い、独り言はいくら言ってもだれにも迷惑をかけるわけでもない。

はたから見ていればちょっと気持ち悪いだろうけど、別に見ている人間なんていやしないのだから気にすることもない。

『ばか!!男が相談に乗るっていうのは口説くのと一緒なんだよ!!』

TVを見ながら萌々子は言った。

ちょうどドラマではヒロインの彼氏が浮気するシーンだった。

『あ~あ・・・。相談するなら女にすればいいじゃん。この女もずうずうしいなあ。』

ヒロインの彼氏は職場の後輩でもある女の子に、相談を持ちかけられてそれが続いて浮気したというよくありがちな話だ。

職場の女の子・・・。

相談・・・。

喫煙所。

メグちゃん。

ドラマと現実がごちゃごちゃになってくるのが萌々子にも分かる。

恵と敬が仲良さげに喫煙所で話している風景が頭の中に鮮やかによみがえる。萌々子にはそんな中には入って行けない。

『ずうずうしいなあ・・・。彼氏いるんでしょ・・・。』

萌々子はつぶやいた。

確か恵には彼氏がいる・・・というような話を聞いたことがある。本当か嘘かは知らないが、おそらく本当だと思う。

自分以外の女にはみんな彼氏か旦那がいるんだ・・・。

独りなのは自分だけ。

そう思うと萌々子は鼻の奥がつーんとしてきて自然と涙が出てきた。

もう寝よう。


萌々子は布団をひいたりあげたりするのがめんどくさくてベッドで生活している。

酔った頭でベッドにもぐりこむと気持ちいい。

ふわふわした気持ちが何もかもを忘れさせてくれる。走っているときとはまた違う高揚感である。

目をつぶると萌々子はすぐに眠ってしまった。


これは夢だ・・・。

萌々子にはすぐに分かった。

敬が誰かと話して笑っている。萌々子以外の女の子と話している。

別に付き合っていないんだから誰と話そうが自由だ。

夢であっても萌々子は悲しかった。

これは夢であるということは分かっているだけに夢でもこんなことを考えてしまう自分が嫌だった。

そう思ったところで萌々子は目が覚めた。


時計を見たら朝の6時を指していた。

職場までは歩いてでも数分しかしないからまだまだ時間はある。

萌々子は朝、早く起きれたときは走ることにしている。身体を動かすことは好きなのである。

嫌なことは走って忘れるに限る。

またあの『白い世界』に行こう。

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