ソフトボールの君へ
11、ソフトボールの君へ
今回の人事はうまく行ったと朋美は思っている。
あれから数か月。
萌々子は慣れないことはあってもうまくリーダーとしての業務をこなしている。雫はちゃんと出勤するようになった。料理の腕はまあ・・・今一つらしいけど・・・。
萌々子が雫を教えているところを朋美は見たことがある。見たことがあるというか任せきりにせずちゃんとチェックだけはしておかなければいけないのだが・・・。
『そうそう。あせんなくてもいいからゆっくりね。』
『はい。』
利用者を入浴介助するときのことだった。
入浴は忙しいから次から次へと急いでやらなければいけない。だから利用者も職員のあせりが分かるのか、不穏になることが多い。その点、萌々子は実にうまかった。
朋美は今までどうして萌々子が入浴介助をするとみんなすんなりお風呂に入ってくれるのかが不思議だったが彼女が教えている姿を見てそれがようやく分かったような気がする。
『時間がなくなったら、また明日やればいいんだから。その辺は融通利かしてみんなでやっていくから、とにかくあせって失敗だけはしないようにね。』
教えるときの萌々子はいつもの口調よりさらにのんびりした話し方になる。
普段からゆったり話すタイプだが、教えるときはさらに口調をゆっくりにするよう自分でも気を付けている様子だった。
ただゆったりして言葉とはうらはらに彼女の動きは早かった。
言葉がゆっくりだから周りはそれを感じない。
基本的に高齢者は認知症でなくても行動が遅くなってしまう傾向にある。通常の動きでこちらがせかしてしまうと利用者の方も不穏になってしまうものなのだ。
萌々子の仕事ぶりは非常に良かった。
彼女は自分が勤務でないときも雫の出勤日にはフリーで仕事して、つきっきりで様子を見ている。
もし雫が失敗してもあまり怒らない。
『・・・すみません。』
バツが悪そうに謝る雫に、萌々子は笑顔でこう言うのだ。
『大丈夫だから気にしないでね。』
そのあとにヒヤリ・ハットなどの報告書を書かせる。
書くときにも一緒にいてチェックする。
もともと、雫は真面目な子だ。目くじら立てて怒らなくても、ダメなことはダメだと分かっているのだ。
柔らかく、当人が分かるように噛み砕いて指導してやれば、嫌にならずに一生懸命仕事をこなしてくれるのである。
萌々子を1階のリーダーにしたのは朋美がここ数年で行った施設内の人事の中ではホームランクラスにいい人事だったのではないか、と朋美は心の中でガッツポーズをしているぐらいだ。
萌々子は他の職員との人間関係も上手にこなしている。
管理職になっても、なった方は、さほど変わるわけではないのだが、往々にして他の職員は見方が変わったりするものだから、そういった人間関係のゆがみが出てしまいがちではある。しかし萌々子がリーダーになってからはそういうことはない感じがする。
もちろんそれは朋美に見えないものもあるんだろうけど・・・。
『これはなんとかしないといけませんねえ・・・。』
『なるほどですねえ。』
『まずはやり方をマニュアル化してから全職員に周知徹底しないと。』
1階には口うるさくて融通の利かないおじさんの職員がいる。
彼も新人の頃、2階に配属させたのだが、恵と合わなくて1階に異動させたのだ。弥穂はそんな彼相手でもうまいことやっていたのだが・・・。
弥穂はうまくかわしていたのだが、萌々子はとくにかわしていない。
そもそも不器用な彼女は『かわす』というやり方は向いていない。自分なりのやり方を身に着けている様子だった。
『全職員はちょっと難しいから、1階の職員だけにしません?』
『いや・・・それじゃ意味ありませんよ。』
『確かにそうなんですよね。でもね・・・あたし一人の権限じゃそこまでできないのでとりあえず試験的に1階だけやってみましょうよ。成果を数字にしてもらえば、管理者会議でホーム長に提案してみますから。それまでは城沢さんが中心になってやっていってもらってもいいですか?』
城沢勉の相手は朋美でさえ手を焼くことが多い。
というより短気な朋美はこの理屈っぽい・・・いや理屈が服を着て歩いているようなおじさんが非常に苦手だったりする。
萌々子も実は最初、嫌がっていたのだが、いつの間にかうまくやれるようになっていた。
このおじさんは理屈っぽいだけで性格は非常にいい人なのだ。
やり方次第でいい仕事をしてくれるのである。
萌々子はそれを踏まえた仕事をしていた。城沢から頼まれた依頼の半分以上は城沢自身にやってもらって、朋美に報告するところだけを請け負っている。
これなら彼女の負担はほとんどない。
実に賢いやり方である。
2階に関してもうまく行っている。
シフトを組むたびに発狂するように怒っていた恵はまったく怒らなくなった。
というのも、空いた部分はほとんど弥穂がやる、といってくれるからである。またそれでも空きがでてしまう場合でも弥穂が例の柔らかな口調で職員へ出勤を頼み込んでくれるので、結果的に恵の負担は減っている。
『ホーム長。あたし、1階のリーダーやってる方が楽でしたよ。』
弥穂は冗談交じりに朋美に言ってきたことがある。
確かにそうだろう。
自分がやるのと、人に教えるのとでは難しさは違うのだ。
『すみません。なんかかえって忙しくさせちゃって。』
『いやいや・・・1階の後任が育ったと思ったら今度は2階のじゃじゃ馬娘を育てなくちゃならないなんてねえ。』
弥穂の言葉に朋美は少し驚いた。
弥穂は朋美も知らないうちに萌々子のことを『育成』してくれていたのだ。
確かに萌々子は変わったかもしれないが、管理者としての業務そのものを円滑にこなすことなんて一朝一夕にできるものではない。
『そうだったんですか?』
『だって、あたしがリーダーやれるのも、もう少ないからね。』
『ま・・・まあ、そりゃそうですけど・・・。』
『だから、いつあたしが仕事できなくなってもいいようにシフト作りから、職員の捌き方まで、2年前ぐらいから教えといたのよ。』
『でも・・・どうしていちごちゃんだったんですか?』
そう。
朋美にはそれが分からない。
確かに、数年前から萌々子を管理者に・・・とは思っていた。しかしそれは朋美の中でそう思っていただけで、誰かに伝えたことはなかったからだ。
正直、萌々子を1階のリーダーにした時には、自分も助けてやらなければならない、そう朋美は思っていたのだ。しかし蓋を開けてみればそうではなく、萌々子は新しい仕事をキラキラと輝きながらこなしている。
弥穂は笑いながら言った。
『だってホーム長、短気だから。ユニットリーダーは極力、ゆるい感じの人の方がいいんじゃないかと思ったんですよ。』
『・・・なるほど・・・。』
朋美は真の底から納得した。
確かに管理者の仕事というのはチームワークの部分が大きい。自分の下についてくれる人間には自分にない部分を補ってくれる存在が必要なのだ。
言われてみるとそういう観点からユニットリーダーを選んだことはなかった。
恵にしても、萌々子にしても、勤務が長く経験豊かになりつつあるところから朋美はユニットリーダーに・・・と思っていたのだが、本来はそういうことも頭に入れて人選しなければいけないのだ。
そうやって聞いてしまうと朋美は少し不安になった。
というのも萌々子はともかく、恵の方は大丈夫なのだろうか。
『大丈夫なんじゃないの?』
朋美がその不安に関して弥穂に聞いたところ、彼女は他人事のように言った。
『いや・・・ホントに大丈夫ですかね??』
『大丈夫よ。あの子はそもそも気の強い子じゃないから。』
あんなに短気で、言うことを聞かない後輩のことになると眉をつりあげて怒る恵のことを、弥穂は『気の強い子ではない。』と言う。ではどんな子が気が強いのだろうか。朋美は不思議に思ったが口には出さなかった。
と言うのも、人は表面に現れている事柄だけではその人の性格は計り知れないからである。
『逆に、いちごちゃんの方は案外頑固なのよね。』
弥穂の言葉のこちらの方は朋美にも理解できた。
萌々子は言い始めると聞かないところがある。おとなしいように見えて頑固なところは確かにある。
『まあ、違うタイプのユニットリーダーをどう使って、施設を良くしていくかはホーム長の腕の見せ所だね。』
すずらんにはユニットごとに事務所があり、パソコンも1台ずつ配置されている。
1階のユニットに居住している利用者さんの情報は1階のパソコンに入力されており、2階のユニットに居住している利用者さんの情報は2階のパソコンに入力されている。
個人情報の関係で、仕方ないことではあるが、これが意外と煩わしかったりもするのだ。
シフトに関してもスタッフの個人情報に注意する必要があるから2階のスタッフにシフトは2階で組んで、1階のスタッフのシフトは1階で組む。
シフトはあらかじめ、各階のユニットリーダーに案を考えておいてもらい、それを最終的に決定するのは朋美の仕事である。
メールに関しては、1階でも2階でも受けることができる。
そのメールを朋美が発見したのは1階の事務所でシフトの最終チェックをしようとパソコンを開いたときだった。朋美はついメールを見ないままにする癖があるので、なるべくパソコンを開いた時にはメールをチェックするようにしている。
そのメールの件名にはソフトボールとあったので朋美はまたソフトボール大会でもやるのかな?と思ってメールを開いた。メールの内容は『ソフトボールの君へ』とだけ書いてある。
『なんのこっちゃ・・・。』とは朋美は思わなかった。
会社のアドレスを使ってこの手の悪ふざけをする人間を朋美は一人だけ知っている。恐らくこのメールも朋美が見ることを前提に書かれたものだろう。
てゆうか差出人のところに『グループホームりんどう』とあるので犯人はもう誰だか一目瞭然なのだが・・・。
『こんなもんほぼ私用のメールじゃんよ・・・。』
朋美は額に青筋が浮いている自分の顔が容易に想像できた。すぐに電話の受話器をとってダイヤルする。
しばらくコールが続くと相手先が電話に出る。
『お電話ありがとうございます。グループホームりんどうです。』
電話に出たのは紛れもなく朋美の知っている声である。
同期入社で隣接施設の『りんどう』のホーム長、田村である。
考えてみれば朋美はこの会社で働くことになってからずいぶん経つ。
入社したときは朋美も独身だったのだ。気が付けば朋美は結婚し、子供を二人も生んで、ここにいる。時代はめぐるものだなあ・・・と実感する瞬間ではある。
田村とはなんでも言い合える仲である。独身の頃はよく飲みに行ったし、今でも家に遊びに来ることがある。実は田村と朋美の旦那はもともと友人同士であり、それが縁で朋美は旦那と知り合ったのである。
『随分と面白いメールしてくれんじゃん。』
『おう。読んでくれた??』
能天気な声は今も昔も変わらない。
『あんた・・・このアドレス・・・。』
『固いこと言うなよ。』
『あのね!あんたが女誘うためにここのパソコンのメールがあるわけじゃないんだよ!』
『だってあの子の名前、忘れちゃったんだから仕方ないじゃん。』
『誘いたかったらなんであの時、携帯番号でもなんでも聞かなかったのよ。』
『え・・・そんなん・・・恥ずかしいじゃん。』
『バカじゃないの?いい年して。』
田村が例のソフトボール大会で萌々子のことをずっと見ていたのは知っていた。それどころか朋美に連絡先を教えろとも言ってきていたが、朋美はめんどくさくてずっと適当に聞き流していた。
てゆうかそんなに萌々子に会いたければ自分で聞けばいいのだ。
いい年齢して子供みたいなのがここにもいたんだな・・・朋美は今更ながら思い出した。
『いや・・・そのさ、だから、ほら飲み会か、なんかやろうよ。』
『あたしもそんなに暇じゃないんだけどな。』
『安埜は来なくていいよ。』
『あのなあ!』
『いや失敬失敬。』
『あんた本気なわけ?遊びだったら承知しないよ!』
『そんなに凄まれると考えちゃうなあ・・・。』
田村は真剣に考えてる風でもなく言った。こういう軽いところが女性から敬遠されるところだということを彼はよく分かっていないのだ。
『でも一応、今のところオレ、彼女いないし、本気っちゃ本気だよ。』
『あのね・・・。』
朋美は大きく息を吸った。
言いたいことはたくさんあるが何から言っていいか分からないのでわずか数秒の間で考えを整理する必要がある。
萌々子のことを好きになってくれるのは朋美にとっても嬉しいことだ。
良いように変わった彼女が恋愛もうまく行けば、これからもっと良くなるに違いない。もしかしたらさほどうまくもない料理もめきめきと上達するかもしれない。
まあ、サンマを不味く料理してしまう彼女には料理の才能はないのかもしれないけど・・・。
それでも、今、もし彼女が、自分のことに好意を持ってくれている男性に出会えればそれは彼女がさらに自分に自信をつけるのに役立つに違いないのだ。
ただ・・・。
基本的に萌々子は朋美と違って融通の利かない真面目なところがある。
もし恋愛にうまく行かないときがあれば、萌々子はまたもとのいつも下を向いている暗くて地味なあの萌々子に戻ってしまう可能性があるのだ。
だから本当にいい加減な気持ちで付き合われるのは困るのである。
見た目や話の内容ほど田村がいい加減でないことは朋美が一番良く知っているには知っているのだが・・・。それでも心配は心配である。
『あの子、すごく真面目だし、あたしと同じ年齢とは思えないぐらい恋愛に関しては初心なのよ。そういうことも加味してもらわないと困るのよ。』
『へえ。かわいいじゃん。』
『あんた・・・。あたしの話聞いてた?!』
『聞いてる聞いてる。恋愛に関しては初心なんでしょ。いいじゃんいいじゃん。』
『まったくこいつは・・・。』
短気な朋美は血圧が上がるのを感じた。
それにしても男と言う奴はみんなこうなのだろうか。
よく考えてみれば旦那にもそういうところがあるような気がする。何かこちらが真剣に話しているのにちゃかすあの感じ・・・。本当にいらっとする・・・。
『あのね・・・。』
『飲み会やろ。合コン合コン。』
『うわ~。本気でぶん殴ってやりたい。』
『残念。電話だからできません~。』
『ガキか・・・。まったく・・・会社の電話で・・・。』
『かけてきたのそっちだもんね~。』
さらに血圧が上がりそうになったので朋美は大きく深呼吸した。
深呼吸したら、気持ちが少し落ち着いてきた。大体、怒るだけ無駄なのだ。
入社した当初は利用者とも話ができない愚にもつかない奴で、同期の朋美にさえ怒られていたような男が、変われば変わるものである。
自分に自信をつけるというのは人生において非常に重要なことなのかもしれない。
もちろん・・・程度問題もあるが・・・。
『分かった分かった。一応、考えてもう一回電話するから。』
『いつ電話くれる?』
『さあね。』
朋美はそう言い放つと受話器を乱暴においた。
入社当初は毎日のように叱り飛ばしていた田村に最近ではいいようにおちょくられているのはなんとも腹立たしい。
短気な朋美は人から見ると実に適当に物事を考えているという風に誤解されることが多い。
頼まれごとに対してこと細かく対応すると意外な顔をされることも少なくない。
実は朋美は頼まれると断れないという短所がある。いやそれは長所でもあると朋美は自分でも思っている。こんなくだらない頼みごとでも引き受けてしまった以上はちゃんとやらなければ気が済まないのは性格なのだが、つくづく損な性格である。
コーヒーを一口飲んでから気を落ち着かせて『で・・・何人行けばいいの?』と朋美はメールを打つ。
しばらくすると携帯の着信音が鳴る。
恐らく田村からである。
携帯を開いてメールをチェックする。
『今から誘うけど4人。』
田村からのメールは非常に返信が早い。
一緒に会社に入社した時は、恐ろしいぐらいに口が重かったのがウソのようである。メールだって最初はまったくやらなかったのである。
田村が口が重かった話をしても今ではだれも信じない。良く考えてみると・・・。
『似てるかもしれない・・・。』朋美は一人つぶやいた。
良く考えると似てる。
萌々子と田村はどこか似ているような気がするのだ。萌々子もつい最近までおしゃべりな方ではなかった。最近は何かが彼女の中で変わってあんなに明るくなったのだが・・・。
そういや・・・田村もおちゃらけて見えるが彼女がいた・・・と言う話は聞いたことがない。
合コンが好きだという話を聞いたことはあるが、実際に『合コンを仕切ってくれ。』と言われたのはない。今回はどちらかと言えば合コンのようなものだが、一応名目は『会社の飲み会』である。意外に彼は恋愛偏差値は低いのかもしれない。
『甚だ不満は残りますが、了解しました。』
朋美はメールを返信した。
少し嫌味を言ったつもりなのに、どちらかと言うとはっきり自分の気持ちを言ってしまうところは我ながら自分らしいと携帯の画面を見ながら朋美は思った。




