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ため息のでるような・・・。

1、ため息の出るような・・・。

川本萌々子の職場、グループホーム『すずらん』に内海敬が入社してきたのは数か月前の話だった。

彼はすらりと背が高く、目鼻立ちがはっきりしており、今流行りのタイプの『イケメン』だった。『ヒット』クラスのいい男ならよく見かけるが、彼はまさに『ホームラン』だった。彼が入社してきたとき、職場のおばさんたちが色めきたっていたのを覚えている。

色めいたのは何もおばさんたちだけではない。

ホーム長である安埜朋美あんのともみも、2階のリーダーでもある恩田恵も、なんだか目がキラキラ輝いていたのを萌々子は覚えている。

まあ・・・実際、萌々子も朋美も40代を目前に控えた39歳。恵も若いとはいえ30代。

だから決して若くはなく十分におばさんである。

最近、若い子はなかなか介護の業界には入ってこない。やはり介護の仕事は大変なのである。誰にでもできる仕事ではない。その上、低賃金で重労働だから、若い子はそういう現実を知ってしまうとこの業界には入ってこない。

だから若い方の萌々子やメグちゃんでも、世間的には決して若くはないのである。

それに介護の仕事というのは基本的に女性職員が圧倒的に多い。

若い子が入ってきても結婚、出産で辞めていくのだ。

気が付いてみれば残っているのは萌々子のような売れ残りばかり。

あとは結婚して子育ても終えた人ばかり・・・。

だから少々外見が今一つでも男性スタッフは重宝されるのだ。

外見が今一つでも重宝されるのだから、どこからどう見てもイケメンの内海敬が入社してきたときに、ホーム内の女性スタッフが色めきたったのも分からない話ではない。

男性が若くてかわいい女の子が入社してきたら嬉しいのと同じく、女性だって若くてかっこいい『イケメン』が入社してきたら嬉しいのだ。


萌々子は最初、何も感じなかった。

そもそも40歳を目の前にして20代前半の若い男の子を相手に、目をハートにしても仕方ないという気持ちがあったのである。それに自分のように何のとりえもないような40歳を前にしたとうのたった女を敬のような男性が相手にするわけがないと思っていたからだ。

ここのところの萌々子が一日で一番嫌な時間は鏡を見なければいけない時だった。

とにかく自分を直視するのが嫌なのだ。

高校の頃、ソフトボールをしていた時から悩みだったのだが、決してモデル体型とは言えない、少し肉付きの良すぎる自分の体型は、年齢のせいかどんどん崩れ始めてきているように萌々子は感じていた。

顔もなんとなく老けてきたような気がする。

萌々子は丸顔なので、年齢としにしては若く見られることが多いが、それは決して『美人』であるということではない。世の中では『美人』以外のすべての女性への褒め言葉は『かわいい』に分類されるのだ、と萌々子は思っている。

鏡を見るとき、そういう現実を直視しなければいけない。

だから萌々子は鏡を見るのが心の底から嫌だった。

こんな自分を必要としてくれる人なんかいないんじゃないか・・・とまで思えてくるからだ。


『おはようございます。髪の毛切ったんですか??』

敬が声をかけてきたのはつい最近のことだった。

正確には仕事上で必要なことやあいさつぐらいはしていたのだが、職場のだれも気付いてくれないわずかな変化に気づいてくれたのは彼が初めてだった。

髪の毛もばっさり切ったわけではない。

少しすいてもらっただけだ。

それに白髪が目立ち始めてきたので染めてもらった。

本来、萌々子は美容院に行くのも嫌なのだが、行かなければ行かないでもっとひどいことになりそうなので、定期的に行くようにはしている。

実は鏡を見るのは嫌でも、キチンと化粧もするし、服もなるべく自分に似合いそうなものを買いに行くようにはしている。ただでさえ外見も中身もぱっとしないのに・・・努力しなければ、もうどうにもならないと思うからだ。

努力だけはしよう。

萌々子はいつもそう思っている。

『おはようございます。ええ・・・少しだけ切りました。』

『よく似合ってますね。』

『そ・・・そうですか??』

萌々子は耳の先まで赤くなるのが分かった。

身体の中心から指の先まで熱くなるのがわかる。

『ナチュラルに茶色に染まってるのがオシャレですよ。』

『ホントですか?いやいや・・・そんな・・・。』

この後、萌々子は何を話したか覚えていない。

ただそう言われて自然と顔が笑顔になったのを感じた。

敬のこの一言でいつもは面白くもない仕事がすごく楽しかったのを覚えている。

報われない努力ではあっても、認めてくれる人がいるというのは嬉しいものなのである。

だからこの日は、いつも徘徊してしまう利用者の世話も、排泄介助を拒否する利用者の世話も・・・どんな面倒な仕事でも、いつも以上に笑顔でこなせたような気がする。


入社したての敬はよく働いていた。

かっこいいというだけでなく、なんでも進んでやるという勤務態度だったので、入社してすぐに彼はホームになじんでいた。

それに彼は誰にでも優しかった。

重い荷物は率先して持ってくれるし、大変な仕事も嫌な顔一つせずにやってくれる。

利用者からの評判もよかった。

女性利用者は彼から介助されるのを喜んでいたし、男性利用者であっても一生懸命やる彼の介護に誠意を感じるらしく、敬のことを嫌っているものはだれもいなかった。

『いい人が入ってきてくれてよかったわ~。』

ホーム長の安埜朋美あんのともみは敬の働きぶりを遠目で見ながら萌々子に言っていた。

朋美は萌々子と同じ年齢で、彼女は結婚もしており2人の子供もいる。

家庭もうまくやっており、仕事と両立させている。

考えてみれば、仕事も恋愛もさほどうまく行っていない萌々子とは対照的である。

さらに姉御肌の朋美はホーム長という管理職をしているせいもあってか非常に面倒見が良く、とても萌々子と同じ年齢としとは思えない。

風貌もとても若く見える。

性格もさっぱりした性格で、はっきりものを言うがけっして後でくどくど言うことはないし、それになんといっても美人である。ばっさり切ったショートカットが彼女のそういうさばさばした性格を表しているようで、萌々子は彼女の髪形を見るたびに、だらだらとセミロングまで伸ばした自分の髪の毛を見ながら本気で『ショートにしようか・・・。』と考えるのである。

大体、この歳になってあまり髪の毛が長くても面倒なだけでなんのメリットもない。

人と比較しても仕方ないのであまり比較はしないようにしているのだが、子供や仕事のことはともかく、結婚できないで未だ独身であることは萌々子の大きな悩みの一つでもある。

実家に帰れば父親や母親はしつこいぐらいに結婚の話をしてくるし、弟はだいぶ前に結婚しており、お嫁さんと子供を連れてくるものだから、なんとなく実家に居場所がなくなってきているのを萌々子は感じ始めている。

だから萌々子は数年前から実家には帰らなくなっている。

自宅にいても一人。

実家に帰っても居場所はない。

かといって仕事が特別できるわけでもない。

自分を直視した時、萌々子は泣きそうになる。自分なんかここに存在する意味があるのだろうか・・・と・・・。

結婚だけが人生ではないが、仕事も恋愛もダメなら何が自分に残るのだろう・・・と思ったらせめて恋愛ぐらいは・・・結婚ぐらいはしたいと思うのだ。

疲れた時・・・。

落ち込んだ時・・・。

横にいてくれるだけでいい。

そう思うのだが・・・。

かといっても・・・結婚は相手のある問題でもある。

したくても相手がいなければできない。


『ホントですねえ。』

オープンキッチンの中から朋美の隣りで敬のことを見つめて萌々子はしみじみと言った。

『あんた、惚れるんじゃないわよ!』

朋美は豪快に笑って萌々子の背中をたたきながら言った。

感情をこめて言ったつもりはないし、朋美としては冗談だったのかもしれないが、萌々子の胸にはズキンと響いた。

『ま・・・まさかぁ・・・。』

おどけて萌々子は答えるのが精いっぱいだった。

なんだか心が見透かされたような気がした。

最初は何も感じなかったのにどうして今になってこんな気持ちになるんだろう。

萌々子は不思議な感覚だった。

萌々子が最後に恋をしたのは高校の頃で、そのときの苦い経験が、彼女の心を閉じており、今まで恋愛をしてこなかった。

『もう恋なんてしたくない。』そう思っていたのだ。

結婚はしたい。

本当は恋愛もしたい。

でも・・・傷つくのが怖い。

恋愛を『してこなかった』というのは言い訳かもしれないが、でも確かにしてこなかった。あえて出会いの場に行かなかった・・・いや・・・行けなかったのだ。


高校の頃。

萌々子には好きな男の子がいた。

彼は野球部のエースで、目元が切れ長ですらりと背の高い人だった。

どこが好きだったのかは今となっては思い出せない。

彼は萌々子とはクラスも違うし話すことも少なかったということもあるのだろうけど・・・。今もそうだが萌々子は恋愛に積極的ではなく、当時も遠くから彼を見ているだけで幸せだった。

そんなある日。

なぜか萌々子の気持ちがその彼の知るところになってしまったのだ。

なぜ知られたのかは分からない。

もしかしたら萌々子の行動が分かりやすいからかもしれない。

『なんか・・・すげー見られてて、はっきり言って・・・迷惑なんだよねえ。』

たまたまだが、彼の本音を聞いてしまったとき、萌々子の心にその言葉が鋭利な刃物のように突き刺さった。それは深い傷となっている。

『そんな風に言うのって最低だと思いますよ。』

当時、野球部のマネージャーをしていた後輩は、一人で泣いていた萌々子からその話を聞くや否や、すぐに野球部の部室に駆け込んでそう言ってくれた。その子はソフトボール部にも所属していた子で、ピッチャーである萌々子の球を受けてくれていたのだが、彼女は普段おとなしいのに柔らかな言葉ですごいことを言っていたので萌々子はあの時のことを鮮烈に覚えている。

当時、彼女は2年生。

彼は3年生。

本来、どんな事情があろうが、先輩にものを言おうなんて、上下関係が厳しい体育会系の人間関係ではありえないことだ。

それはソフトボール部でも同じことだったのだが、萌々子は後輩に偉そうにすることが苦手だったので、そういう上下関係などは関係なく後輩とも接していた。

実はその後輩とは今でも仲よくしていたりするのだが・・・。

彼女がそう言ってくれたおかげで少しは気持ちも収まったはずなのだが、その時以来、萌々子は恋愛というものが怖くなったのである。

自分のような・・・なんのとりえもない女が人を好きになってもろくなことにはならない。

そう思うようになってしまったのだ。


どうして今になってこんなにも好きな人ができてしまったのだろう。

今まででも外見だけはかっこいいなあ・・・と思う人はいた。

でもため息がでるほど人を好きになったのは・・・あの時以来かもしれない。

萌々子は利用者に出す食事を作りながら思った。

ぼんやり野菜を切りながら頭に浮かぶことは端正な敬の顔だった。

今まで誰にも優しくされたことがない萌々子にも優しく接してくれる、そして髪型や外見のちょっとした変化も気づいてくれる・・・。

『おい。ぼんやりしてるんじゃないよ。』

ふと萌々子が顔を上げると、目の前には女性の利用者がいた。

ふっくらした外見で80歳を超えた今でも顔にはしわがあまり目立たない。色白でおばあちゃんでも『かわいい。』と思える彼女の名前は鈴本リンさん。

『あ・・・ごめんなさい。』

『ふふ。あんた・・・恋してるね。』

グループホームに入所してくるのは基本的に認知症のお年寄りである。

時間や記憶に関する感覚はおかしいことが多いが、感じる力は人一倍ある。

『そ・・・そんなわけないじゃないですか!!』

萌々子は赤くなりながら両手を前にブラブラさせて、なんだか変な感じで否定した。

でもこの動揺ぶりは肯定したも同然の反応である。

『いや・・・恋してるよ。絶対に。』

『そ・・・そうだといいんですけどね。』

『なんだい。うまくいってないのかい??』

『いえ・・・そんな・・・浮いたの話さえないですよ。』

『そうかいそうかい。』

リンさんはにこやかにテーブルに向かって歩いて行った。

オープンキッチンの目の前にあるテーブルには、入所しているお年寄りたちが集まっている。

晩御飯の時間が近いので、勤務している職員がテーブルに誘導したのだろう。

リンさんはテーブルのところですでにほかの利用者とほかの話をしている。

話したそばから話した内容を忘れてしまうのも認知症の特徴だ。


恋をするとすべてが楽しくなる。

そういうイメージがどこかにある。

おそらく作られたイメージなのかもしれないけど、恋愛は楽しいものというイメージ。

しかし萌々子は恋愛で『楽しい。』と感じたことはない。

萌々子の場合は『苦しい』ことの方が多い。

心の傷が萌々子を苦しくしているのだ。

片思いの恋しかしたことのない萌々子はどうしても恋愛に関しては後ろ向きな気持ちにしかなれなかった。

好きになれば好きになるほど苦しい。

萌々子は自分に自信がないからそう感じてしまうのかもしれない。この恋愛・・・いや、いつのときの恋愛でも、萌々子が自分を好きになれない限りは苦しいと感じてしまうのだろう。

そんなことは百も承知である。

しかし分かっていてもどうしようもないこともある。

自分を好きになること、自分に自信をつけること・・・それってどうすればいいんだろうか・・・。

考えても考えても分からないので、いつしか萌々子は考えなくなってしまった。

いや・・・そういうことを考えるのは怖いのだ。

というのは萌々子にとって自分を直視することは鏡をみるのと同じで、自分の魅力のなさを再確認することだったからだ。

と言いつつも何度も何度も萌々子は今の自分を嫌と言うほど直視しているのだが、そのたびにつらくて嫌な思いにかられるのである。

だから必要以上にそういうことを考えないようにはしているのだ・・・。


仕事帰りは早くても夕方。遅くて夜の9時ごろ。

夜勤のときは翌朝になる。

その日の勤務は日勤だったから、帰りは夕方だった。

幸い残業はなかった。

萌々子はいちご柄の大きなバックに着替えや仕事に必要な荷物を詰め込んで、誰もいない自宅に向かった。

このバックは実は高校の頃からずっと使っている。

30歳を過ぎた頃から、このバックで出かけるのは少し抵抗があるのだが、着替えやお弁当などいろいろなものを入れるのに一番使い勝手が良くてついつい使ってしまう。

もっとスタイリッシュな、働く女性にふさわしいバックを購入すればよいのだが・・・そういう持ち物は自分には似合わないような気がするのだ。

それに介護の仕事はどちらかというと肉体労働に近い。

スマートな鞄だと必要なものはすべて入らない。

どうせ大きなスポーツバックを購入しなくてはいけないのならこのいちご柄のバックでもいいと思うから萌々子はそれを使い続けている。

いちご柄のバックは大事に使っているせいもあって丈夫で壊れない。

このいちご柄の大きなバックは今や萌々子のトレードマークのようになっていた。

朋美からは『いちごちゃん』なんて呼ばれているぐらいだ。

『はあ・・・。』

萌々子はため息をついた。

基本的にここのところ・・・いや・・・ここ数年はあまり面白くもない毎日ではあるのだが、ここまで複雑な気持ちでため息がでることはなかった。

なんでため息がでるのかは萌々子自身がよく分かっていた。

10歳以上も年下の男の子を好きになっても絶対に報われないことはよく分かる。しかし・・・それでも・・・。

好きなものは好きなのだ。

だからため息がでる。

『はあ・・・。』

大きないちご柄のバックを見つめて萌々子はさらに大きなため息をついた。

いい歳をした少し老け始めた女が、こんな子供っぽいものをもっていること自体、少しおかしいことなのかもしれない。

自分が男だったら、こんな女を相手にしたいだろうか・・・。

萌々子は歩きながら少し考えた。

世間では『女は愛嬌』なんて言葉もある。しかし自分にはその『愛嬌』もないような気がする。

もちろんとりたてて美人ではない。スタイルも決して良くはない。

スタイルを良くしようと思って毎日、日課のようにジョギングをしているのだが、若い頃と違って基礎代謝が落ちたせいか、最近では太る一方のような気がする。

スタイルを良くしたいのなら水泳がいいと言われたこともあるのだが、水着になるのがどうしても嫌でジョギングにしたのだ。

このジョギングも最近では、スタイルを良くしたいというより、頭を真っ白にして嫌なことを忘れるということが目的になってきている。

何も考えないようにして走るとどこまでも走れるような気がする。気が付くと頭の中は真っ白になって雑念はすべて消え失せ、考えないようにする努力をしなくても何も考えていないという状態になる。そして、ただひたすらに前を見て走り続けるのである。

汗がたくさんでて、走り終わったあとにはよく分からない爽快感を覚えることが多い。

幸い、萌々子は中学の頃からソフトボールをやってきたので、身体を動かすことにはまったく抵抗はなかったから、長続きしたのかもしれない。よくよく考えてみると萌々子は学生時代から身体を動かして嫌なことを忘れようと努力していたような気がする。

今思うと、試合で勝つことよりも、地道な練習の方が好きだったような気がするのだ。

ただ・・・残念なことに、嫌な出来事はストーカーのように萌々子の頭から離れず、走り終わったあとの爽快感も翌日になれば跡形もなくなくなってしまい、気持ちが暗くなっていることの方が多いのだが・・・。

『違うこと考えてる・・・。』

萌々子は、ふと一人つぶやいた。

そして自虐的に笑った。

いつもそうだ。

気持ちがマイナス方向に行くことの多い最近では考えをまとめるのも困難である。

てゆうか・・・実は考えていることには結論が出ているのだ。

自分にはなんの魅力もない・・・ということである。

『はあ~。』

思わずため息がでるのは、魅力のない自分のこの恋が、最初からうまくいかないということが自分でもよく分かるからだ。

敬のような若くてかっこいい男性が、40歳を目前にした、美人でもない、とくになんのとりえもない女を好きになるだろうか。なるわけがない。

夕暮れの帰り道は、萌々子の気持ちを代弁しているかのように、何か物悲しい風景だった。

『今日も走ろう。』そう思いながら職場からの帰り道をとぼとぼと下を向きながら萌々子は歩いて行った。


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