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神の銃口  作者: カイリ
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神の銃口 第2話

自分をないがしろにする父ジェームズに絶望するチャールズ。だが、その父に悪魔の影が忍び寄ろうとしていた。

 翌朝。礼拝に向かうジェームズの耳に鋭く名を呼ぶ声が響いた。

「ジェームズ!」

 皆が振り返ると、大廊下の先から女官を引き連れた王妃アンがやってくる姿が見える。いつになく顔を強張らせ、目には怒りが篭っている。側近らは眉をひそめて顔を見合わせた。一方のジェームズは、やれやれと言いたげな表情で溜息を吐く。同じホワイトホール宮殿で暮らしながら、普段は滅多に顔を合わせることのない二人が対面するのは実に珍しいことだ。アンは夫を睨みつけながら口火を切った。

「聞いたわ。チャールズの誕生日をお忘れになっていたそうね。本当なの」

「忘れていたわけではない」

 王はうんざりした様子で言い放つ。

「ずいぶん前から祝いの準備をさせていたから、つい安心していただけだ」

「言い訳は結構よ! あなたはいつまでヘンリーのことばかり考えているの!」

 ヘンリーの名にジェームズの眉がぴくりと吊り上がる。周囲の者たちも思わず息を呑むと目を見開く。

「おまえはヘンリーを忘れよというのか」

「そうじゃないわ。もっとチャールズを見てあげて。あの子はずっともがき続けている。皆から王太子に相応しい存在だと認められようと、あんなにも努力を重ねている……! 何故それをわかってやれないの!」

 普段は無邪気に笑顔を振り撒いて皆を呆れさせているアンが必死に訴える様子に、皆は口をつぐんだ。女官たちも哀しげに眉をひそめ、項垂れている。だが、

「おまえが口出しすることではない。私だってチャールズには期待をかけている。わからんのか。わからんのなら黙っておれ!」

 そう言い捨てて踵を返そうとする夫の腕を掴み、鋭く詰め寄る。

「それだけではないわ」

 ジェームズがさすがに顔を歪めて振り返った。

「カトリックの司祭を殺したそうね」

 秘書官たちがさっと顔を上げる。

「ひどいわ……。どうして罪もない清らかな司祭様を……! いつまで彼らを迫害するつもりなの?」

 苦い表情をしたのは王だけではなかった。側近らは皆一様に眉間に皴を寄せ、口許を引き結ぶ。中でも露骨に顔を歪ませ、鋭い眼光で王妃を凝視したのは治安判事のストーン卿だ。カトリックを弾圧する王の妃は、カトリック教徒であった。だが、ジェームズはかっとなると身を乗り出して怒鳴りつけた。

「罪がないだと? 連中はこの私を殺そうとしたのだ! そして、過去に国教徒を地獄に追いやった!」

「それは国教徒も同じでしょう!」

「黙れ!」

 ジェームズは妻の手を振り払った。

「カトリックの血を流したくないのはこちらの方だ。罪深いカトリックの血でこのイングランドが穢されては堪らん!」

 王の咆哮にアンは震えながらも相手を見据えた。

「おまえも……、いつまでもカトリックに騙されるな!」

 ジェームズはそう怒鳴りつけるとやがて背を向け、足早にその場を去っていった。

「……王妃……!」

 女官たちが震えの止まらないアンを両脇から支える。

「……悔しいわ……!」

 唇を噛み締めて搾り出す囁きに、女官エレン・モートンは痛ましげに王妃の背を優しく撫でた。


 王宮で王と王妃のただならぬ言い争いが繰り広げられていたなど露知らず、ヴィリアーズは一人ロンドンの街に繰り出していた。寒空の下、多くの市民が通りを行き交う中、彼が目指したのはホルボーン地区のとある工房だった。扉を叩くと、見習いの一人が出迎える。

「親方、サー・ジョージです」

 弟子の言葉に、工房の奥から太った男がのそのそと出てくる。

「ああ、サー・ジョージ。わざわざありがとうございます」

「そろそろ出来上がっているかと思ってね」

「ええ。少々お待ちを」

 ヴィリアーズは工房の中を見渡した。独特の金属臭と薬品臭。何に使うのかわからない道具の数々。部屋の天井には蝋燭の燭台が目一杯吊り下げられ、室内は真夏の空のように明るい。そして、奥の作業台には眩い色彩を放つ宝石たちが息づいている。そっと歩み寄ると、濡れたように艶やかに光る宝石に手を伸ばす。エメラルド、サファイア、そしてダイアモンド。磨かれ、滑らかな曲線の石を撫でていると、女の体に触れているような感覚に囚われる。女か。久しく触れていない。ヴィリアーズは冷たい笑みを浮かべた。

「お待たせいたしました」

 宝飾細工師、クリントはビロード張りの盆を恭しく差し出した。ヴィリアーズは思わず身を乗り出すと、感嘆と共に目を見開いた。

 濃紺のビロードの海に浮かぶ、乳のような柔和な光。小さな王冠を冠った円やかな真珠に、ダイアモンドをあしらった鉤が繋がれている。一対の真珠の耳飾り。彼のために作らせたのだ。廃園に這う茨のような眼差しを持つ彼には、これぐらいの柔らかな光が必要だ。

「……見事だ」

 そう囁くと耳飾りのひとつを手に取り、蝋燭の明かりに翳す。溶けるような輝きが瞳に宿り、ヴィリアーズは満足げに頷いた。

「私も、自分の手がけた宝飾がチャールズ王子のお耳を飾ると思うと光栄でございます」

 クリントも神妙な顔つきで囁く。そして、真珠に見惚れるヴィリアーズに呼びかける。

「一対で贈られるのではなく、おひとつでございますよね」

「ああ、ひとつだけだ」

 言いながらヴィリアーズは真珠を盆に返す。

「想像以上の出来だ。ありがとう」

「よろしゅうございました」

 だが、不意に真顔になるとヴィリアーズは声をひそめて尋ねる。

「で、いくらになる」

「これほど……」

 太った細工師は手の平を広げて見せた。ヴィリアーズは苦い顔で頷く。

「これでも破格でございますよ」

「ああ、わかっている。ちゃんと用意してあるから安心しろ」

 ヴィリアーズは息を吐くと腕組みをして耳飾りを眺めた。チャールズの誕生日を祝うための耳飾り。祝いの品を用意するのは今回が初めてだ。去年の誕生日はまだ王宮に出仕したばかりで、それだけの蓄えがなかった。だが、今は違う。ありったけの金を使って、主の耳を飾る真珠を購ったのだ。きっと、素直に喜んではくれるまい。どんな言葉を投げつけてくるか、それすらヴィリアーズは楽しみでならなかった。

「君を紹介してもらってよかった。良い贈り物ができた」

「もったいないお言葉」

 クリントが恭しく頭を下げると、部屋の奥から彼の細君がやってくる。

「どうぞ、サー・ジョージ」

 差し出されたゴブレットを受け取ったヴィリアーズは機嫌よさそうに喉を潤した。

「お気に召されたようで、安心いたしました。これからもお引き立てのほど」

「ああ」

 ヴィリアーズはゴブレットを掲げると得意げに笑ってみせる。

「今以上に成り上がってみせる。君たちの世話になることも増えるだろう」

「まぁ」

 細君は口許に手をやるとおかしそうに笑いを漏らす。くくっ、と耳裏を引っ掻く嬌声にヴィリアーズは目を細めると唇をゴブレットに寄せた。見ているがいい。これがただの虚勢ではないと、いずれわかる日がくる。舐めるようにワインを流し込んだ、その時。目の端にぼぅと影が映る。窓の歪んだガラス越しに映る水底のような路地裏を赤毛の女がゆく。青白い頬を蛇のように豊かにうねる赤毛が隠し、ちらと覗く長い睫毛が目に焼き付く。

「……美女ありき」

 ヴィリアーズは窓に手をかけると呟いた。そして、笑みを浮かべながら首を巡らす。

「ホルボーンには美女が多いと見える」

「あら」

 細君は弓のような眉を釣り上げ、口の端を持ち上げた。クリントが巨体を揺らして窓辺に歩み寄る。

「ミス・エレン・モートンですな」

「アン王妃の女官ですわ」

 夫妻の言葉にヴィリアーズは頷きながらエレンの後ろ姿を目で追う。

「なるほど。では、後宮に行けば会えるわけだな」

「陛下に見つからないように、サー・ジョージ」

「キャサリン……!」

 妻の余計な一言にクリントが慌てるが、当の本人はただ含み笑いを続けるばかりだ。クリントは鼻の下の汗を拭うと息を吐いた。

「しかし、ミス・モートンは最近ちょっとばかりおかしいんでございますよ」

「何が」

 ヴィリアーズは眉をひそめて振り返った。クリントは肩をすくめて言葉を続ける。

「夜な夜なお屋敷を抜け出してはどこかへ通われているようで」

「後宮に住み込みではないのか」

「王妃のお気に入りなのでお部屋はいただいているそうですが、通いだそうです。あんな真夜中に人目を忍んで出歩くなんて」

「きっと恋人との逢瀬ですわ。でも、人目を憚るということは許されないお相手なのだわ、きっと。お可愛そうに!」

 キャサリンが身を乗り出して囁くものの、その鳶色の瞳は心なしか輝いている。

「惚れた腫れたはいいんですがね」

 人の好い細工師は心配そうに鼻を鳴らすと声をひそめた。

「最近この辺りでもカトリック狩りが増えております。恐ろしいことに巻き込まれなければいいんですが」

 カトリック狩り。つい昨日も司祭が殺され、多くのカトリック教徒らが捕縛された。物騒な世の中だ。ヴィリアーズは吐息をついた。


 その日の夜。王の寝室からはくぐもった笑い声が漏れ聞こえていた。豪奢な天蓋が黄金色のランプを遮り、わずかばかりに届いた明かりが男たちの裸体を浮かび上がらせている。

「ああ、今日は疲れた。まったく頭の痛いことばかりだ」

 そう言いながらも、ジェームズは満面の笑みを浮かべて愛人の頭を掻き撫でている。

「おまえがいるからどうにか正気でいられるのだ、スティーニ」

 ヴィリアーズは王の首に腕を巻き付けると大袈裟に眉をひそめてみせる。

「お疲れでございますね」

「あの馬鹿女を相手にしていると頭がおかしくなりそうだ。だから女は面倒だ」

「おや。どなたのことです」

「アンだ」

 王の愛人は目を細めて笑った。

「そんなことを仰って。本当は王妃を愛しておられるくせに。陛下にはご婦人の恋人がいらっしゃらないではありませんか」

 心にもないことをヴィリアーズは平気で口にできる。ジェームズは苦笑いを浮かべると愛しい恋人を抱きしめ、項に分厚い唇を押し当てる。

「ふふ。美しい女ならば目も潤う。だが、あの女だけは駄目だ。愚かにも程がある」

 実は、ジェームズにはごくわずかながら女の愛人もいた。それを知らないはずはないヴィリアーズは王の髪をまさぐりながら囁いた。

「そういえば、私も今日美しいご婦人を目にいたしました。謎めいたご婦人ほど妖しく美しいものはございませんね」

「なに」

 愛人の言葉にジェームズは慌てて体を起こす。

「駄目だ、おまえは女を見てはならん」

「何故です」

「おまえは私だけのものだからな。女を見てはならん!」

 ヴィリアーズはじっと王を見つめていたが、やおら唇を耳に寄せた。

「私は陛下おひとりのものです」

 その言葉にジェームズは嬉しそうに頬を包み込むと接吻の嵐を降らせた。そして、愛人を組み敷くと勢いよく覆いかぶさる。

「離さぬぞ。私から離れることは許さぬぞ」

 ヴィリアーズは細めた瞳から王の裸体を眺めた。たるんだ肉が流れる背中。はみ出した腹。鼻をくすぐる体臭。ああ、なんて醜い生き物だ。瞳を閉じると、蒼白い顔でこちらを見つめるチャールズの眼差しが脳裏をよぎる。彼はあの宮殿でたったひとり眠っているのか。ヴィリアーズは眉間に皴を寄せると奥歯を噛み締めた。


 未明。泥のようなまどろみから目を覚ましたヴィリアーズは、重い体を起こしかけると隣で眠っているジェームズを見やった。口を半開きにしたままだらしない寝顔で寝息を立てる王を、無表情で見つめる。やがて深い吐息をつくと乱れた前髪を掻き揚げ、夜具から抜け出す。厚いカーテンに阻まれた寝室は暗闇に近い。床に脱ぎ散らかしていたリンネルのシャツを探り当てると袖を通す。タイツを探し、見つけた時だった。扉が軋む音がしたかと思うとさっと一筋の明かりが差し込む。ヴィリアーズはぎょっとして顔を上げた。と同時に、ひとりの女と視線がぶつかる。薄暗がりに浮かび上がる、赤毛の女。

「……あ」

 女が上げた細い声にヴィリアーズはかっとなって扉に歩み寄る。

「何の用だ」

「お、お着替えを……」

 震える声で囁く女官にヴィリアーズは頭を振って息を吐き出す。

「陛下ならまだお休み中だ……!」

「も、申し訳ございません……」

 足がすくんで動けないのか、震えたまま立ち尽くしている女に目を走らせる。眉をひそめ、大きく見開いた灰色の瞳が射るようにまじまじと見つめてくる。ヴィリアーズは目を眇めると声を荒らげた。

「何だ、その目は」

「い、いえ……」

「思いがけず穢らわしいものでも目にした、と言わんばかりの顔だな」

「お、お許しを……!」

 顔を引き攣らせ、後ずさる女官に向かってヴィリアーズは顔を歪めて怒鳴りつけた。

「行け!」

 女官は息を呑むと背を向け、その場を立ち去った。ヴィリアーズは苛立たしげに息を吐き出すと扉を拳で打ち付けた。


 その後、ヴィリアーズはむっつりと不機嫌そうな顔つきでセント・ジェームズ宮殿に帰ってきた。王との情事の後を女に見られたかと思うとどうしようもなく情けなく、惨めな思いに駆られる。食堂に現れたチャールズは、顔を強張らせ、いらいらした様子のヴィリアーズを目にして顔をしかめた。

「……おはようございます」

 それでも恭しく頭を下げてくる彼にチャールズは小さく頷く。どんな時でも愛想を振りまくこの男が機嫌を損ねているのは珍しい。朝食が用意されていくのを見守りながら、チャールズは侍従頭のハーバートを呼ぶ。

「ハーバート、父上にお伝えしろ。今日は気分が優れないからホワイトホール宮殿には参内しない、と」

「はっ」

「ヴィリアーズからフランス語を習う、とでも言っておけ」

 ヴィリアーズが目を上げて主を凝視する。チャールズは顔を背けたまま低く言い添える。

「今日はおとなしくしておけ」

 思いも寄らない気遣いにヴィリアーズの表情が見る見るうちに明るくなる。

「殿下……」

「何があったかは聞かぬぞ」

「ありがとうございます、殿下……!」

 途端にいつもの薄っぺらな笑顔に豹変すると席を立ってチャールズの隣に跪く。

「あなたはいつもそうやって私をお守り下さる。私が女ならば放っておきませんよ」

「調子にのるな!」

 迷惑そうに言い放つチャールズの肩に馴れ馴れしくしなだれかかると耳元でわざとらしく囁く。

「フランス語のお勉強でございますね。睦言ならばたくさん知っております」

「真面目にやれ!」

 手をふりほどいて喚く王子と、めげずに言い寄る青年をハーバートは肩をすくめながら見守った。


 チャールズの計らいで、ヴィリアーズはその日をセント・ジェームズ宮殿で過ごすことにした。チャールズの求めに応じ、自室でフランス語を口伝えで教える。晩秋の薄い陽光が室内にたゆたう中、静かに交わされるフランス語の囁きはまるで秘密のまじないのようだ。

 机に向かうチャールズの生真面目な横顔にヴィリアーズは目を細めた。勉学にしろ、武芸にしろ、いつも全力で没頭する姿は感心するばかりだ。だが、同時に不安にもなる。いつかは得ることになる王太子の称号。尊敬していた兄の称号を受け継ぐことに畏怖と不安が渦巻いているに違いない。そして、文武に情熱を傾けることで自らを認めてもらいたいのであろう。父王に。

(だから、ひとりにはしておけない)

 ヴィリアーズは胸で呟いた。理由はどうあれ、一心不乱に物事に打ち込むチャールズの眼差しはいつ見ても見惚れる。自分が支えてやらねば。

 そんなことを考えながらチャールズを見守っていたヴィリアーズだが、不意に顔をしかめるとそっと胸を押さえる。急に胸が締め付けられた感覚に襲われたのだ。

「ヴィリアーズ、ここは」

「……はい」

 問いに答えるものの、そのうち声に覇気がなくなり、顔色が悪くなっていく。チャールズはペンを休めると顔を上げた。

「おまえ、本当に調子が悪いのではないか」

「……どうも胸が」

 ヴィリアーズは顔をしかめながら胴着を押さえた。

「何だか締め付けられるような……。おかしいですね」

 チャールズが心配そうに身を乗り出す。ヴィリアーズはうっすらと汗を浮かべ、上目遣いににやっと笑った。

「恋でしょうか」

 その言葉にチャールズはついと顔を背けると再び机に向かう。ヴィリアーズは苦笑いを漏らしながらも眉間に皺を寄せ、大きく息をつく。

 おかしい。どんどん胸が苦しくなっていく。息苦しい。縄でぎりぎりと締め上げられるような圧迫感。どうしたのだ。溜め込んだ息を震えながら吐き出す。胸を両手で押さえて背を丸めるヴィリアーズに、チャールズはすっと席を立った。

「ハーバートを呼んでくる」

「殿下っ、だ、大丈夫です。自分が……」

 そう言って慌てて立ち上がった瞬間。

「ぐっ……!」

 突き刺すような激しい痛みに思わず床にしゃがみ込む。

「……ヴィリアーズ!」

 顔色を変えたチャールズが駆け寄る。ヴィリアーズは真っ青な顔で脂汗を流し、奥歯を噛み締めて胴着をぎゅうと掴んだ。

「ヴィリアーズ! どうした、苦しいのか」

「む、胸が……」

 絞り出すように囁く声に耳を寄せてから、チャールズはおろおろと辺りを見渡す。

「畜生……! 何だ、これは……!」

 普段は滅多に聞かれないヴィリアーズの悪態にチャールズは恐る恐る胴着に手を伸ばす。

「ど、どこが痛むのだ。どんな風に痛いのだ」

「胸が……、針に、刺されるように」

 そこで言葉を飲み込むとヴィリアーズは床に蹲った。

「うぅっ……!」

「ヴィリアーズ!」

 絶え間無く突き刺る激痛。痛みに合わせて心臓がびくびくと波打つ。これは、異常だ!

「ヴィリアーズ、ヴィリアーズ……!」

「……は、針……」

 幼子のようにすがりついていたチャールズが、怯えた顔を寄せる。

「針が……、胸を……!」

 ヴィリアーズの囁きを聞くや否や、チャールズは彼を床に押し倒した。そして、胴着をはだけると肌着のボタンを外す。

「殿下ッ?」

 痛みに悶えながらもヴィリアーズが狼狽えて口走るが、チャールズは構わずに肌着を脱がす。と、

「ひっ!」

 思わず短い悲鳴を上げ尻餅をつく。顔を歪めながら自分の胸を覗き見たヴィリアーズも両目を見開く。ごくりと唾を飲み込んでから、「これは……」と呻く。

 陶器のように滑らかな美しい白い肌。その胸に、無数の赤い斑点が刻まれていた。まるで血の雫が盛り上がっているように見えるが、血ではなく、痛々しい湿疹だ。そして、再びヴィリアーズが呻き声を上げると同時に、またひとつ新たな湿疹が浮かび上がる。チャールズは怯えの色に満ちた目で湿疹を凝視した。

「……ヴィリアーズ……! お、おまえ……、い、い、一体、何をした……!」

「し、知りません……! 食事も、殿下と同じものしか食しておりません!」

「ど、どうして……」

 チャールズが震える指を湿疹に近付けるが顔を振って身を引く。

「……ど、どうすれば……」

 恐怖に打ち震えるチャールズに声をかけようとした時。不意に扉が荒々しく叩かれ、二人はぎょっとして振り返った。

「殿下! 大変でございます! 陛下が……!」

「ハーバート?」

 扉が激しい勢いで開け放たれる。

「殿下、陛下が……!」

 血相を変えて部屋に飛び込んだハーバートだったが、彼は言葉を飲み込んで凍り付いた。胴着と肌着をはだけさせた教育係に馬乗りになった王子。青年は国王陛下の愛人だ。ハーバートは顔を引き攣らせて後ずさった。

「ば、ば、馬鹿者っ! 勘違いするな! ヴィリアーズの、む、胸に、傷が……!」

 顔を真っ赤にしてまくし立てるチャールズに、ハーバートは眉をひそめて恐々とヴィリアーズの体を覗き込む。が、思わず絶句すると口許を押さえる。

「……これは、ひどい……」

「突然、苦しみ出したのだ。胸が締め付けられると言って」

 その言葉にハーバートは顔色を変えてチャールズを振り仰ぐ。

「胸が苦しくなって……? そ、それは、ひょっとして、い、いや、しかし……」

「どうした」

「へ、陛下も……」

 ハーバートはごくりと唾を飲み込んでから言葉を継いだ。

「陛下も、突然胸が苦しいと仰せられて、胸の周辺に湿疹がおできになったそうでございます。い、今、報せが」

 チャールズは息を呑んだ。そして、無言でヴィリアーズの胸の湿疹を見つめる。

「……殿下、ホワイトホール宮殿へ」

 ヴィリアーズの言葉にチャールズは顔を歪めた。

「しかし……」

「私なら大丈夫です。ご心配でしょう、陛下が」

 それでも腰を上げようとしない王子に、ヴィリアーズは顔を俯けるとぐいと肩を押す。

「行って下さい」

 言われるままふらふらと立ち上がるが、それでも部屋を出ようとしないチャールズにハーバートが「殿下」と声をかける。彼はしばし項垂れたヴィリアーズを見つると、ハーバートを仰ぎ見た。

「……ヴィリアーズを頼むぞ」

「はっ」

 チャールズは不安に満ちた表情でもう一度ヴィリアーズを見やってから踵を返した。


 チャールズを乗せた馬車がホワイトホール宮殿に到着すると、宮殿はざわめきに包まれていた。

「殿下」

「父上は」

「寝室に……」

 出迎えた秘書官が冷静に王子を後宮に導く。

「医師は何と言っている」

「症状を伝え聞いた当初、その……、チフスかと疑われたのですが、どうやら違うようでございます」

 チフス。チャールズはその場に立ち尽くした。少し遅れて立ち止まった秘書官が静かに頷くと肩に手を添える。

「原因はまだわからないようです」

 チャールズの兄、ヘンリー・フレデリックの命を奪ったのは公にはチフスということになっている。あまりにも突然の発症に毒物が疑われ、その嫌疑の矛先はチャールズに向けられた。あの日の記憶がまざまざと蘇る。チャールズの顔色から血の気が失せてゆく。秘書官は、明らかに動揺している王子の背をそっと押すと、寝室へと向かった。

 後宮も多くの人々が行き交っていた。寝室の扉を開けると、寝台の傍らにアンが蹲っている。横たわっているジェームズは苦しい顔つきで目を閉じ、眠っているようだった。

「……チャールズ」

 息子の姿を目にしたアンは泣き出しそうな顔つきですがりついてきた。

「母上、父上は」

「い、今は落ち着いているわ。でも……」

 言葉が嗚咽でかき消される。チャールズは母の背をそっと撫でると、寝台の父に目を向けた。疲れ果てた様子で口を半開きにし、不規則に寝息を立てている。チャールズはアンを離すと寝台に屈みこんだ。父の寝衣をはだけると、たるんだ胸に無数の赤い湿疹が浮き上がっている。ヴィリアーズと同じだ。

「……どうして、こんなことに……」

 混乱したまま譫言のように呟く母に、チャールズは険しい表情で振り返る。

「ヴィリアーズにも、同じ症状が出ております」

「……ジョージにも?」

 アンは震えながら息子を凝視した。

「朝、父上に変わった様子は?」

「い、いいえ、特にないわ」

 秘書官を振り返るが、彼も黙って顔を横に振る。そして、傍らに控えていた典医がそっと前へ進み出る。

「現在は症状が落ち着いておりますが、原因がわからない以上、予断を許しませぬ」

 背後でアンがすすり泣きを漏らし、チャールズはいたたまれない思いで振り返る。自分を顧みることのない冷淡な夫に希望を捨てたかのように振舞う母だが、それでもこうして身を案じ、涙を流す。父は何故、こんなに優しい母を邪険に扱えるのだろう。

「……父上から目を離すな」

「はっ」

 典医が神妙に頭を下げる。チャールズはもう一度母をそっと抱きしめると寝室を後にした。

 後宮を出て大廊下(ギャラリー)を訪れると、いつもとは違う落ち着かない空気に包まれていた。皆は声をひそめ、恐怖に満ちた表情でひそひそと囁き合っている。チャールズが険しい顔つきで大股に大廊下を行き過ぎようとした時、唐突に「呪いだ」という言葉が耳に突き刺さる。ぎょっとして振り返ると、物見高い貴婦人たちが顔を青ざめさせながら囁き合っている。

「きっとカトリックの呪いだわ……。だって、よりによって司祭を殺しているのだもの……!」

 カトリックの呪い。そうだ。父は即位以来、執拗にカトリックを弾圧している。投獄され、処刑された者も多い。だが、チャールズは顔をしかめた。呪いだとしたら、何故ヴィリアーズにも同じ症状が現れたのだ。あまり信仰心が篤いとは言えない彼だが、特にカトリックに対して憎しみは持っていないはずだ。細波のように広がる人々の囁きに心がざわつく中、不意に名を呼ばれる。

「チャールズ王子」

 振り返ると、物々しい衛士らを引き連れた老人が静かにローブを揺らしながら現れた。その姿は、さながら罪人を探す地獄の番人だ。

「ストーン卿」

「お聞きになられましたか。皆、カトリックの呪いだと噂しております」

 チャールズは険しい表情で目を眇めた。ストーン卿は奥まった目から探るような目つきで見据えたまま言葉を続ける。

「愚かなカトリックたちがおぞましい呪いの儀式を行っているに違いございません。早速市内を虱潰しに……」

「馬鹿者!」

 王子の一喝に衛士たちが目を見開く。チャールズは強張った顔つきでストーン卿に迫った。

「いたずらに騒ぎ立てれば、それこそ奴らの思う壺だ。そなたがせねばならぬのは、不安を煽り立てる噂を利用して反乱を起こそうとする輩がいないか、監視に努めることだ。それが、治安判事の義務であろう!」

 ストーン卿はしばらく無言でチャールズをまじまじと凝視していたが、やがて恭しく頭を垂れた。

「誠、仰せの通りでございます。市内の治安維持に全力を注ぎます」

 チャールズは苛立たしさを隠すように息を吐き出すと、素早く踵を返した。


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