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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第9話「百二十七通」

夜の工房に、月の光が差し込んでいた。


窓枠が白い四角を床に落としている。作業台の上は片付いていて、図面も帳面もない。代わりに、一つの木箱が置かれていた。


ラシードさんに呼ばれたのは、日が沈んでからだった。ナディアが帰った後の工房に、二人だけ。いつもなら図面を広げている時間だ。でも今夜は、作業台の上に図面はなかった。


木箱は両手で抱えるくらいの大きさだった。蓋に金具はなく、ただ板を合わせただけの簡素な作り。ラシードさんが自分で組んだのだろうか。木目が丁寧に磨かれている。


ラシードさんは作業台の向こう側に立っていた。木箱と私の間に、作業台の幅だけの距離がある。


黒い目がこちらを見ていた。表情は動かない。けれど、顎の線が硬い。唇が引き結ばれている。何かを決めた人間の顔だった。


「ヴェルナー」


声がかすれていた。一度、唾を飲み込む音が聞こえた。


「お前のことは、赴任の前から知っていた」


工房の空気が止まった。


「赴任の前から?」


「外交報告で知った。ヴェルトハイムのブレヒト伯爵家に、加護のない娘がいると。屋敷の中で透明人間のように扱われていると。技術に明るく、帳簿も見事だが、家族には見えていないと」


ラシードさんの右手が、作業台の縁を掴んでいた。指が白い。


「お前がカルムに来る二年前から、知っていた」


二年前。赴任の二年前。私がまだヴェルトハイムの屋敷にいた頃。婚約を破棄される前。あの家で透明に生きていた頃から、この人は。


「それで——」


「書いた」


ラシードさんが木箱に手を置いた。


「五年間。お前に宛てて。一通も送れなかった」


蓋を開けた。


中に手紙が詰まっていた。折り畳まれた紙が、木箱の底からぴったりと並んでいる。日付の順に整えられていることが、端に見える数字からわかった。


「百二十七通。全部、ここにある」


百二十七。


五年で、百二十七通。月に二通。書き続けていた。送れないまま。


「なぜ送らなかったんですか」


声が震えた。自分で制御できなかった。


「お前の境遇を外交報告で知った時点で、俺はお前に対して対等ではなかった。お前は何も知らないのに、俺はお前の事情を知っている。その状態で手紙を送ることは——利用になる」


ラシードさんの声は低く、途切れがちだった。技術の話をする時の滑らかさはなかった。一語ずつ、喉の奥から押し出すような言い方だった。


「お前が公国に来てからも同じだ。俺は上司で、お前は部下だ。俺が事情を知っていると明かせば、お前は身構える。対等な技師として見てもらえなくなる」


「だから、黙っていたんですか。二年半、ずっと」


「……ああ」


沈黙が落ちた。月光が木箱の中の手紙を照らしている。紙は薄く、インクの色が表に透けて見えるものもある。


「知っていたのに、言わなかった」


自分の声が遠くに聞こえた。この二年半の日々が、頭の中で組み替えられていく。赴任初日の道具箱。水路修復の承認。深夜の薬湯。作業台の位置。食事の取り置き。「図面が綺麗だ」という言葉。「誰でもはできない」という怒り。全部が、別の意味を帯びていく。


「俺はお前の仕事を見ていた。ずっと」


ラシードさんの声が、かすかに震えた。


「図面を見た時、予想通りだと思った。外交報告の通りだと。それと同時に——報告の文字では伝わらない精度だった。線の一本一本が正確で、数字に無駄がなくて。実物を見て、思った」


言葉が途切れた。手が作業台の縁を握り直す。


「この人の仕事を、誰も見ていなかった。それが——」


声が止まった。唇が震えている。この人が言葉に詰まるのを、私は何度も見てきた。技術の話で饒舌になって、我に返って黙り込む。でも今は違う。言葉が出ないのではなく、言葉にならない何かを押し出そうとして、体が追いつかないのだ。


「一人にさせてもらえますか」


私の口から出た言葉に、ラシードさんが顔を上げた。


「書簡を、読みたいんです。一人で。自分の目で確かめたい」


ラシードさんは数秒、こちらを見ていた。それから、小さく頷いた。


作業台を離れ、工房の出口に向かった。背中を見送った。足取りはいつもと同じだが、肩が下がっていた。


扉が閉まった。工房に一人になった。


木箱の前に座った。


最初の一通を取り出した。日付は五年前。紙は新しいが、折り目がしっかりついている。何度か開いて読み返した跡がある。


開いた。


文面は、技術メモのようだった。


「カルムの三番水路の勾配計算に不整合がある。前任者の設計は粗い。誰かこの水路を正しく直せる技師がいれば、と思う」


技術の話。水路の話。私への呼びかけはなく、報告書のような乾いた文体だった。


二通目。三通目。


同じ調子が続く。カルムの交易路の問題。橋が必要な渓流の話。工房の人手不足。技術的な課題を淡々と書き連ねている。


四通目あたりから、変化が生じた。


「ヴェルトハイムの外交報告を読んだ。ブレヒト伯爵家の令嬢が婚約を破棄されたとある。退屈な女だと言われたらしい。あの図面を引く人間を退屈と呼ぶ者の目は節穴だ」


呼吸が詰まった。


図面。私の図面を、この人はいつ見たのだろう。外交報告に図面が添付されていたのか。それとも別の経路で。


十通目。二十通目。


技術メモの間に、「あなた」という言葉が混じり始めた。


「あなたが設計した排水路の断面図を、工房の書庫で見つけた。招聘制度の応募書類に添付されていたものだ。線が美しい。数字の配置に無駄がない」


図面が綺麗だ、と言われた夜のことを思い出した。あれは、突然出た言葉ではなかった。五年前から思っていたことが、あの夜ようやく声になったのだ。


五十通目を超えた頃、文体が変わった。


技術メモではなくなっていた。ラシードさんの、ラシードさん自身の言葉になっていた。


「あなたが来てから、工房の空気が変わった。図面を広げている時の横顔を見ていると、手が止まる。これは上司として適切ではない」


「今日、あなたが石工の親方と一緒に石を積んでいた。手が震えていた。手伝いたかったが、上司が手を出せば、あなたの仕事を奪うことになる。見ていることしかできなかった」


「薬湯を部屋の前に置いた。廊下で待っていたのは、容態が心配だったからだ。それだけだと思いたい。それだけではないことを、わかっている」


涙が落ちた。


紙の上に、水滴が一つ。慌てて手の甲で拭った。でも次の滴が落ちて、次の次も落ちて、止められなかった。


百通目。


「あなたが『ラシードさん』と呼んだ。技師長ではなく。その瞬間のことを、俺は多分ずっと忘れない。書き言葉でしか伝えられないことが、悔しい」


百二十通目。


「あなたが橋の上で『誰でもできること』と言った。怒りが出た。抑えられなかった。あなたの仕事を、あなた自身が否定することが許せなかった。上司としてではなく、俺個人として。もう隠し通せない」


百二十七通目は、まだ読んでいない。最後の一通だけが、他とは違う紙に書かれていた。新しい紙だ。今日、書いたのかもしれない。


手紙を木箱に戻した。最後の一通だけは、明日読む。今は、ここまでで精一杯だった。


目の前がぼやけている。涙が止まらないのは、悲しいからではない。


見ていた、とこの人は言った。ずっと、と。


五年間、百二十七通。送れなかった手紙。技術メモから始まって、いつしか「あなた」になって、上司と部下の境界を越えて、それでも声にできなかった言葉。それが全部、この木箱に入っている。


信じていいのだろうか。この重さを、受け取っていいのだろうか。


工房の窓から月光が差している。木箱の中の手紙が、白く照らされている。最後の一通が、他の手紙の上に載っている。


明日、読む。


今夜は、この月の光の中で、百二十六通分の重さを抱えて座っている。

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