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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第8話「帰還の書状」

橋の上を、最初の荷馬車が渡った。


車輪が石の路面を踏む音が、渓流の水音に重なった。荷馬車を引く馬が一歩ずつ進み、アーチの頂点を越え、対岸に降りていく。欄干の高さは車輪の外径を十分に超えている。ラシードさんと計算した通りだ。


荷馬車の御者が手を上げた。


「通れるぞ! しっかりしてる!」


その声を合図に、橋の両側から歓声が上がった。カルムの町の人々だった。石工の親方が腕を組んで橋を見上げている。人足たちが互いの肩を叩いている。商人が早速、次の荷馬車を列に並べ始めた。


ナディアが駆け寄ってきた。


「ルイーゼさん、見ました? 渡りましたよ! 荷馬車が!」


「……うん。渡った」


声が震えた。自分でも意外だった。


橋を架けた。水路を直して、その次に橋を架けた。壊れていたものを直して、なかったものを作った。それだけのことだ。


町の人が近づいてきた。市場で顔を合わせる青果の商人だった。


「技師さん、ありがとう。これで南の荷が一日早く届く」


「いえ、私は図面を引いただけで——」


「図面がなきゃ橋は建たないだろう」


笑って去っていった。その後ろから、宿屋の女将が声をかけてきた。パン屋の主人が頭を下げた。名前も知らない人足が「いい橋だ」と言って通り過ぎた。


戸惑った。こんなに多くの人から声をかけられたのは、前世を含めて初めてだった。


どう受け取ればいいのかわからない。ありがとうと言われて、どんな顔をすればいいのかわからない。


でも、口の端が少し上がっているのは、自分でもわかった。


橋の完成を見届けた翌日の朝、工房に入ると空気が違った。


ナディアが帳面を整理する手を止めて、奥のラシードさんの作業場をちらちらと見ている。


「ナディア、どうかしましたか」


「……技師長のところに、今朝、外交の文書が届いたみたいなんです」


外交文書。ラシードさんは王室技師長として、外交関連の行政文書にアクセスする権限を持っている。公国の行政窓口を経由して届く文書を、先に受領する立場だ。


「カルムに外交文書が届くことなんて、あたしがここにいる間は一度もなかったですよ」


ナディアの声が低い。好奇心よりも不安が勝っている顔だった。


工房の奥から、足音がした。


ラシードさんが作業場から出てきた。右手に封書を持っている。赤い封蝋が押された、厚い紙の封書。公式の書簡だとわかる体裁だった。


ラシードさんの顔は、いつも通りの無表情に見えた。けれど、封書を持つ右手の指先が白かった。握りすぎている。


「ヴェルナー」


私の名を呼ぶ声が、わずかにかすれていた。


「話がある」


ラシードさんの作業場に入った。扉は開けたままだ。作業台の上には図面も帳面もなく、代わりに先ほどの封書が一通、置かれている。


「これは外交ルートで公国の行政窓口に届いた文書だ。宛先はお前——ヴェルナー技師だ。俺は受領者として先に目を通す権限があるが、中身はお前宛のものだ」


丁寧な言い回しだった。いつもの短い指示とは違う。制度上の手続きを、正確に説明している。


封書を差し出された。


受け取った。ラシードさんの指が、封書を離す瞬間にわずかに震えたのが見えた。


封を開けた。中の書状を広げた。


ヴェルトハイム王国の紋章入りの用紙だった。文面はヴェルトハイムの宮廷書記の筆跡で、署名はブレヒト伯爵フリードリッヒ・フォン・ヴェルナーの名になっている。父の名だ。


文面を読んだ。


「帳簿の管理が立ち行かなくなった。来客の段取りができる者がいない。領地の実務を担える人材が不足している。どうか戻ってきてほしい」


切迫した文面だった。書記の筆跡は整っているが、内容は悲鳴に近い。帳簿が合わない。商取引の書類に不備が出ている。来客への対応が遅れ、伯爵家の信用が落ちている。


商人の噂で聞いていた話が、ここに書かれていた。ブレヒト伯爵家の段取りが酷いという噂。ヘッセ子爵家の書類不備。全部、繋がっている。


私が二年半以上前に出て行った後、あの家の実務を引き継いだ人間がいなかった。継母エルザは実務に興味がなく、義弟フェリクスは帳簿の付け方も知らない。父フリードリッヒは気弱な人で、継母の意向を追認するだけだ。


崩れたのだ。私がいなくなって、あの家の実務が。


書状を下ろした。手が冷たかった。


帰還要請だ。伯爵家の当主である父の名で、外交ルートを通じて正式に送られた帰還要請。


「……帰らなければならないんですね」


口に出した言葉は、自分でも驚くほど静かだった。


ラシードさんを見た。黒い目がこちらを見ていた。表情は動かない。けれど、顎の筋が張っている。


「制度上、帰還要請が届いた場合、任期中であっても——」


「お前の判断だ」


遮るように、短い声が返った。


「文書の受け渡しは俺の義務だ。それ以上は、お前が決めることだ」


それだけ言って、ラシードさんは作業台に向き直った。背中がこわばっている。


何か言いたそうだった。けれど言わなかった。口を閉じて、背中を向けた。


帰還要請が来た。帰らなければならない。招聘制度の任期中であっても、祖国からの正式な要請には応じなければならないのだろう。制度の詳細な条項を、私は読み込んでいない。三年任期で、任期中は公国民と同等の権利がある——そこまでは知っている。でも帰還要請への対応については、正確なことがわからない。


帰らなければならない。


そう思った瞬間、胸の中で何かが軋んだ。


工房の表で、空気を吸った。


封書を手に持ったまま、工房の前の通りに立っていた。カルムの町が午前の陽射しの中にある。昨日渡り初めをした橋が、南の交易路の向こうに見える。


ここにいたい、と思った。


思ってしまった。


ここで図面を引いて、水路を直して、橋を架けて。ナディアと帳面の話をして、オスマンさんに数字を報告して、ラシードさんと——


「ルイーゼさん」


ナディアの声がした。工房の入口から顔を出している。


「あの、大丈夫ですか。何があったか聞いていいですか」


「……帰還要請が来ました。ヴェルトハイムの実家から」


「帰還要請って、帰れってことですか?」


「そうです。正式な書状で。帰国しなければならないと思います」


ナディアの顔が曇った。口を開きかけて、閉じて、また開いた。


「あたし、さっきオスマンさんのところに帳面を届けに行ったんですよ。そしたらオスマンさんが帰還要請の話をしてて——行政窓口経由で町長にも通知が来るんですって」


「ナディア、それで——」


「それで、オスマンさんが言ってたんです。招聘制度には、帰還要請が来ても本人の意思で残れるって条項があるって」


足が止まった。


「本人の、意思で?」


「そうです。帰還要請は祖国からの私的な要請で、公国側が技師を引き渡す義務はないって。本人が残りたいと言えば、残れるって。あたしも詳しいことは知らなかったんですけど、オスマンさんが制度の条文を読み上げてました」


残れる。


帰還要請が来ても、自分の意思で残ることができる。


知らなかった。三年任期のこと、公国民と同等の権利のこと、工房長の指揮下に入ることは知っていた。でも帰還要請への対応は、誤解していた。帰還要請が来たら帰国するしかないと、思い込んでいた。


「自分で、選べるんですか」


「選べるんですよ、ルイーゼさん」


ナディアが真っ直ぐにこちらを見た。


選べる。


残ることも、帰ることも、自分で決められる。


それなのに、すぐには答えが出なかった。


残りたい。この町に、この工房に、この人たちのそばに。それは嘘ではない。ここにいたいと思っている自分がいる。


でも、あの書状の文面が頭に残っている。帳簿が合わない。来客の段取りができない。どうか戻ってきてほしい。あの家が崩れている。私を見えない存在として扱い続けた家が、私がいなくなって崩れている。


見捨てた、と思われるだろうか。帰らなければ、あの家の人たちはどうなるのだろう。父フリードリッヒは、あの気弱な父は。


帰りたくはない。でも、呼ばれている。


残りたい。でも、選ぶのが怖い。


自分で選んだことがない。前世では上司の指示通りに動いた。今世では継母エルザの意向に従って透明に生きた。カルムに来たのだって、逃げ出しただけだ。自分で選んだのではなく、他に行き場がなかっただけだ。


自分の意思で、ここに残る。それは、今までの人生で一度もやったことのない行為だった。


封書を握る手に、力が入った。


ナディアが黙ってそばに立っている。何も急かさない。ただ、いる。


「……少し、考えさせてください」


「はい。いくらでも」


ナディアが頷いて、工房に戻っていった。


一人になった。


橋が見えた。自分が設計した橋の上を、二台目の荷馬車が渡っていくのが見えた。


帰れと言われている。ここにいてもいいとも聞いた。なのに、まだ選べない。選ぶことそのものが、怖い。

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