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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第7話「誰でもできること」

「ルイーゼさん、それ絶対おかしいですって!」


朝の工房に、ナディアの声が突き刺さった。


私は作業台の上に広げた橋梁の施工記録から顔を上げた。


「……何がですか」


「何がって、聞いてください! あたし昨日から数えてたんです。ラシードさんがルイーゼさんにやってること」


ナディアが帳面の裏に走り書きしたメモを広げた。勢いよく指で叩く。


「まず、道具箱。赴任初日からルイーゼさんの作業台に私物の道具箱を置いてる。これもう二年半以上ですよ」


「それは前に聞きました」


「次、深夜の薬湯。ルイーゼさんが倒れた時、自分で薬湯を持ってきて廊下で寝つくまで待ってた」


「部下の体調管理は上司の——」


「最後まで聞いてください!」


ナディアが手を振って遮った。


「作業台の位置。気づいてます? 橋の共同設計が始まってから、ルイーゼさんの作業台、技師長の作業台に近づいてるんですよ。最初は工房の端と端だったのに、今は三歩で行ける距離です。誰が動かしたと思います?」


「……地震?」


「カルムに地震なんかないです!」


ナディアが声を裏返した。


「それだけじゃないですよ。食堂のこと、知ってます? ルイーゼさんが夜遅くまで工房にいる日、食堂の管理人に頼んで夕食を取り置きさせてるの、技師長ですからね。あたし確認しました」


知らなかった。夜遅くに食堂に行くと、いつも一人分の食事が蓋をされて残っていた。管理人が気を利かせてくれているのだと思っていた。


「毎朝の道具箱、深夜の薬湯、作業台の位置調整、食事の手配——これ全部『上司の仕事』ですか?」


「この国では、そういうものなのかと……」


「普通じゃないです!」


ナディアが両手を机に叩きつけた。帳面が跳ねた。


「あたしが残業した時、技師長が食事を取り置きしてくれたことなんて一度もないですよ。作業台だって動いてないし、薬湯なんて夢のまた夢です。ルイーゼさんにだけなんですって、全部」


私にだけ。


その言葉が、胸のどこかに引っかかった。


「……ナディア、それは」


「あたしの口からは言いません。でもルイーゼさん、いい加減気づいてください」


ナディアはそれだけ言って、棚に向き直った。背中が怒っている。


私にだけ。


上司の仕事だと思っていた。この国ではそういうものなのだと、自分に言い聞かせてきた。でもナディアの言葉は、その説明を根元から揺さぶった。


考えるのが怖くて、図面に視線を戻した。橋の施工記録。今日も現場がある。考えている暇はない。


橋の建設は最終段階に入っていた。


石造アーチ橋の主構造は完成し、残りは欄干と路面の仕上げだ。カルムの町の人々が手伝いに来ていた。水路修復の時には懐疑的だった石工の親方が、若い人足に指示を出している。その隣で、町の商人が石材を運んでいた。


「ルイーゼさん、西側の欄干の高さ確認お願いします!」


人足の一人が声をかけてきた。名前を呼ばれたことに、一瞬驚いた。水路の時は「外国の技師」としか呼ばれなかった。


「はい、今行きます」


水準器を持って欄干に向かった。高さを確認し、帳面に書き込む。石材の噛み合わせは正確だ。ラシードさんと共同で設計した接合方式が、現場でも機能している。


「ヴェルナー」


背後から声がした。振り返ると、ラシードさんが橋の上に立っていた。


「路面の最終確認、やるぞ」


「はい」


二人で橋の端から端まで歩いた。路面の平坦度を確認し、排水勾配を測る。ラシードさんは黙って数字を読み、私が帳面に記録する。水路修復の頃から変わらない作業の流れだ。


ただ、あの頃と違うことがある。


ラシードさんの立つ位置が近い。肩が触れそうな距離で、同じ帳面を覗き込む。以前なら一歩引いていたはずの距離が、いつの間にか縮まっている。


ナディアの言葉が頭をよぎった。振り払った。


午後、路面の仕上げがすべて終わった。


橋の上に立って、全体を見渡した。渓流をまたぐ石造アーチ橋。長さは二十歩ほど。大きな橋ではない。でも、これでカルムの南の交易路が直通する。荷馬車が迂回しなくて済む。


石工の親方が寄ってきた。


「なかなかのもんだ。接合が堅い。十年は持つぞ」


「ありがとうございます。皆さんの石組みの精度のおかげです」


「ふん」


親方は鼻を鳴らしたが、口元は緩んでいた。


町の人々が橋の周りに集まっている。水路の時よりも多い。商人も、職人も、子供を連れた母親も。みんな、橋を見ている。


これは私が作ったものではない。ラシードさんの設計があって、オスマンさんの予算承認があって、石工の親方と人足たちの手があって、町の人たちの協力があった。私はその中で図面を引いて、現場に立っていただけだ。


「これは誰でもできることですから」


口に出したのは、独り言のつもりだった。


隣にいた町の人に向けて言ったわけでもない。ただ、胸の中にあった言葉が漏れただけだ。


沈黙が落ちた。


振り返ると、ラシードさんがいた。三歩ほど後ろに立っていた。黒い目がこちらを見ていた。


表情が違った。


いつもの無表情ではなかった。眉の間に、見たことのない力が入っている。唇が一度開いて、閉じて、もう一度開いた。


「……誰でもはできない」


低い声だった。静かだが、重い。地面から響くような声だった。


「水路を直して、水量を戻して、交易路を生き返らせて、橋を架けた。お前がやったことだ。誰でもはできない」


言葉が、一つずつ区切られていた。技術の話をする時の滑らかさとは全く違う。絞り出すように、一語ずつ。


ラシードさんの目に、怒りに近い何かが浮かんでいた。怒り。でも、私に向けた攻撃ではなかった。もっと深い場所にある、何かに対する——


「ラシードさん、すみません。余計なことを言いました」


「余計なことではない」


遮るように返された。声が硬い。


「お前がやったことを、お前が否定するな」


その一言で、空気が変わった。


橋の上に風が吹いた。渓流の水音が聞こえる。周囲の人々は少し離れた場所にいて、こちらの会話は聞こえていないようだった。


ラシードさんは口を閉じた。我に返ったように、視線を橋の欄干に移した。顎が強張っている。言いすぎた、と思っているのかもしれない。


「……施工記録を仕上げる。工房に戻るぞ」


それだけ言って、踵を返した。背中が遠ざかっていく。


私はその場に立ったまま、動けなかった。


怒らせてしまった。私が「誰でもできること」と言ったから、ラシードさんを怒らせた。


でも。


あの目は、怒りだけではなかった。


怒りの奥に、別の感情があった。私の言葉を聞いて、私が自分を否定するのを聞いて、この人は——苦しそうだった。


なぜ。


なぜ、私の言葉で、この人が苦しむのだろう。上司が部下の自己評価を正すのは、業務上の指導だ。チームの士気に関わるから、正確な評価を求めるのは当然のことだ。


そうだ。そういうことだ。


そう思おうとした。でも、あの目を思い出すと、胸の奥が締まる。呼吸が浅くなる。これは業務上の指導に対する反応ではない。


私が勘違いしているだけだ。この人の好意を、仕事以上のものだと錯覚しているだけだ。道具箱も、薬湯も、作業台も、食事も、今の言葉も——全部、有能な上司が有能な部下にする、当然のことだ。


当然のことだと、思いたい。


思いたいのに、あの目が消えない。


工房に戻ると、ラシードさんはもう自分の作業場にいた。施工記録の帳面を開いている。いつも通りの背中だった。


私も自分の作業台に着いた。帳面を開く。数字を書き込む。手が動く。頭は動かない。


「ルイーゼさん」


ナディアが横に来た。声を落としている。


「さっき橋の上で技師長と何かありました? 技師長、戻ってきた時すごい顔してましたよ」


「……すごい顔?」


「なんていうか、怒ってるのか悔しいのかわかんない顔。あたし三年ここにいますけど、あんな顔見たの初めてです」


初めて。


ラシードさんが、あんな顔をしたのが初めて。


「何でもないです。私が余計なことを言っただけです」


「余計なことって?」


「橋のことを、誰でもできることだと」


ナディアが目を見開いた。それから、大きく息を吐いた。


「……ルイーゼさん、それは怒りますよ。あたしだって怒ります」


「え?」


「だって、みんなで作った橋を、『誰でもできること』って言ったら。設計したルイーゼさん自身がそう言ったら。一緒に作った人たちの仕事も、全部『誰でもできること』になっちゃうじゃないですか」


思ってもみなかった視点だった。


私は自分を否定したつもりだった。でもそれは、一緒に働いた人たちの仕事を否定することにもなる。ラシードさんとの共同設計を。石工の親方の技術を。町の人たちの協力を。


「……そうですね。配慮が足りませんでした」


「配慮の問題じゃないと思いますけど」


ナディアは何か言いかけて、口を閉じた。首を振って、棚に戻った。


帳面に向き直った。数字を書き込んだ。だが鉛筆が何度も止まった。


あの目が、まだ消えない。


怒らせてしまった。でもあの目は、怒りだけじゃなかった気がする。何だったのだろう。


答えは出なかった。出せなかった。答えを出したら、自分がこの人に何を感じているかに向き合わなければならない。


工房の灯りが橋の施工記録を照らしている。完成した橋の数字が並んでいる。私とラシードさんの筆跡が混在した図面の控えが、作業台の端に置かれている。


明日からは橋の完成後の交易路の整備に入る。やることはまだある。手を動かし続ければいい。


でも今夜は、手が止まるたびに、あの低い声が耳の奥で響いていた。


「誰でもはできない」と、あの人は言った。


それを信じてはいけない。信じたら、崩れる。二十二年かけて積み上げた「見てもらえなくていい」という壁が、崩れてしまう。


だから、信じない。


信じないと決めたのに、薬湯の温度も、図面が綺麗だと言われた夜も、今日のあの目も、全部胸の中に積み重なって、重くなっていく。

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