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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第6話「数字が語る町」

三ヶ月前、この町の交易量は今の半分だった。


オスマンさんの執務室で、その数字を聞いた。町長の机の上に、帳簿が何冊も積み重なっている。オスマンさんは一冊を開いて、こちらに向けた。


「水路修復の前と後で、荷馬車の通過数が倍になっとる。水やりと馬の飲み水が確保できるようになったからだ。それに伴って商人の滞在日数が伸びた。宿の稼働が上がり、市場の売上も増えた」


低い声で、淡々と数字を並べる。税収の推移、人口の増減、交易路を利用する商人の登録数。全部頭に入っているらしく、帳簿を確認する手つきには迷いがなかった。


「橋の設計図を見せてもらった」


帳簿を閉じて、オスマンさんがこちらを見た。


「ラシードとお前の共同設計だそうだな。あの渓流に石橋を架ければ、南の交易路が通る。荷馬車が迂回せずに済む分、一日の行程が短くなる。商人にとっては、それだけで理由になる」


「はい。交易量のさらなる増加が見込めます」


「見込み、ではない」


オスマンさんの声が、わずかに変わった。


「数字がそう言っとる。水路一本でこれだけ変わった。橋が架かれば、もっと変わる」


帳簿の上に、太い指が置かれた。


「この娘は本物だ」


私に向けた言葉ではなかった。独り言のように、低く、短く。けれど確かに聞こえた。


「橋の設計を、行政として正式に承認する。必要な資材と人員の手配は、わしのほうで町の予算から出す。やれ」


頭を下げた。言葉が出るまでに、少し時間がかかった。


「……ありがとうございます、オスマンさん」


オスマンさんは何も返さなかった。帳簿を積み直して、次の書類に目を落とした。


これまでの「結果を見る」や「悪くない」とは違う。数字を根拠に、この人が自分の判断で承認した。試していたのでも値踏みしていたのでもなく——いや、試していたのだと思う。ただ、その試し方が誠実だった。軽々しく信じない代わりに、信じると決めたら数字で裏づけを取る人だった。


執務室を出て、工房に向かう道で足を止めた。


この町で、自分の仕事が数字になっている。水路を直したら交易量が増えた。それは事実だ。でもそれは、私が何か大きなことをしたわけではない。壊れた水路を直しただけだ。誰でもできることだ。


そう思ったが、口には出さなかった。


午後、工房でナディアと帳簿の整理をしていると、オスマンさんとラシードさんの会話が聞こえてきた。


工房の奥、ラシードさんの作業場。扉は開いている。声を潜めてはいるが、工房が静かなので断片が届く。


「あの子は、仕事で人を見る」


オスマンさんの声だった。


「十四の時のお前と同じだ。口は動かさん。手を動かす。結果で語る」


ラシードさんの返事は聞こえなかった。沈黙か、頷きか。


「お前が橋を直した時、わしが見つけなければ、お前はまだ村にいた。あの娘も同じだ。誰かが見つけなければ、あの国の屋敷で消えていた」


十四の時に、橋を直した。


ラシードさんが。


村の橋を、十四歳で一人で直した。それをオスマンさんが見つけて、先代の技師長に繋いだ。それが、ラシードさんが王室技師長になるまでの道の最初だった。


「……あの子のことは、関係ない」


ラシードさんの声が、かすかに聞こえた。低くて、短い。いつもの調子だが、どこか硬い。


「関係なくはないだろう」


オスマンさんの声には、保護者のような柔らかさがあった。普段の厳格な調子とは違う。


「お前がどう思っとるかは、わしの口から言うことではない。ただ、あの子は本物だ。それだけは、わしの目で言える」


会話はそこで途切れた。


私は帳簿に目を落とした。ナディアは棚の整理に集中していて、聞こえていない様子だった。


ラシードさんは平民出身の叩き上げだった。十四歳で橋を直した少年が、二十二歳で公国史上初の平民出身技師長になった。貴族の出ではなく、実力で。


私と似ている、と思った。加護がないから透明人間だった私と、平民だから風当たりを受けたラシードさんと。技術で結果を出すことでしか、居場所を作れなかった。


似ている、と思うことが、少し怖かった。この人を特別だと感じる理由が、増えていく。


夜になった。


橋の設計は佳境に入っていた。オスマンさんの承認が出て、資材と人員の手配が動き始めた。あとは最終的な施工図を仕上げれば、着工できる。


工房に残っているのは、私とラシードさんだけだった。ナディアは日没前に帰った。


二つの作業台を並べて、施工図を広げている。水路の修復では私一人で帳面を広げていた。今は二人の鉛筆が同じ紙の上を走る。


「欄干の接合部、ここに補強材を入れたほうがいいですか」


「いや。石材の噛み合わせで持つ。補強材を入れると重量が増えて、アーチへの負荷配分が変わる」


ラシードさんの指が、欄干の接合部を押さえた。私の指のすぐ隣だった。


「この部分の石材は、東の丘陵から採る。目が細かくて、加工しやすい」


「水路の時も東の丘陵の石を使いましたね。粘土層の下に良質な砂岩がありました」


「……ああ。覚えている」


声が低くなった。鉛筆が止まった。


沈黙が落ちた。工房の灯りが二人の影を壁に映している。


ラシードさんが、図面から目を上げた。私を見た。


「……お前の図面は、綺麗だ」


低い声だった。技術の話をする時の滑らかさとは違う。言葉を一つずつ、選んで出しているような声だった。


「え」


「線が正確で、注記が読みやすい。数字の配置に無駄がない。最初に見た時から、そう思っていた」


最初に見た時。水路修復の図面を提出した日だ。あの時ラシードさんは黙り込んで、何も言わなかった。


「図面が綺麗だと思っていたんですか。あの時」


「……ああ」


それだけだった。ラシードさんは図面に目を戻した。鉛筆を手に取って、施工図の続きを描き始めた。


私も図面に向き直った。けれど鉛筆が動かない。


綺麗だ、と言われた。図面を。図面の話だ。線と数字の精度の話だ。技術者としての評価だ。


なのに、心臓がうるさい。


鉛筆を握り直した。手が震えている。疲れているのか。いや、違う。疲労ではない。これは。


「ラシードさん」


「何だ」


「……ありがとうございます。図面を、褒めていただいて」


「褒めたつもりはない。事実を言った」


素っ気ない声だった。図面に向かったまま、こちらを見ない。


けれど、鉛筆を持つ手が、ほんの少し止まっていた。


この人は、技術の話で饒舌になって、我に返って黙る。感情が言葉にならないから、行動に出る。道具箱を置いて、作業灯に油を足して、薬湯を部屋の前に置いて。そして今、「図面が綺麗だ」と、言葉にした。


この人にとって、それはどれほどのことなのだろう。


聞けなかった。聞く勇気がなかった。聞いたら、自分が何を感じているかに、向き合わなければならなくなる。


施工図の残りを仕上げた。深夜になっていた。ラシードさんが先に鉛筆を置いた。


「明日から着工準備に入る。身体を休めておけ」


「はい。ラシードさんも」


ラシードさんは頷いて、自分の作業場に戻った。灯りを消す音がした。


私は図面を丸めて、作業台を片付けた。


綺麗だ、と言われた。図面を。


それだけのことが、胸の中でずっと回っている。回り続けて、止まらない。


工房を出て、夜空を見上げた。星が出ている。カルムの夜は静かだ。


ここに居場所がある、と思った。初めて、そう思った。仕事があるから、ではない。数字が出ているから、でもない。この町で、この工房で、この人たちと一緒に図面を描いていることが——ここにいる理由になりつつある。


まだ怖い。こういう感覚を信じるのは、怖い。


でも、図面が綺麗だと言ってくれた人がいる。数字で信頼を示してくれた人がいる。それは、嘘ではないはずだ。


宿舎に向かって歩き出した。明日から橋の着工準備が始まる。やることは山ほどある。


胸の中はまだうるさいが、足取りは軽かった。

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