第5話「橋を架ける理由」
橋を架ける理由を、聞かれたことがあるだろうか。
私はない。前世でも今世でも、「なぜこの仕事をするのか」と問われたことは一度もなかった。壊れているから直す。必要だから造る。理由はいつもそれだけで、誰もそれ以上を聞かなかった。
だから、ラシード技師長に呼ばれた時も、理由を聞かれるとは思っていなかった。
「橋を架ける」
工房の奥、ラシード技師長の作業台。広げられた地図の上に、カルムの町と周辺の交易路が描かれている。ラシード技師長は地図の一点を指で押さえた。町の南側、渓流が交易路を分断している場所。
「ここに、石橋を。王室技師長として正式に委任する。設計はヴェルナーに任せる」
水路修復とは規模が違う。水路は町の中の補修だった。橋は町と外をつなぐインフラだ。交易路の整備に直結する。
「……私にですか」
「お前の図面を見た。任せられる」
短い言葉だった。けれど「任せられる」と言われたのは、前世を含めて初めてだった。
頭を下げた。
「お引き受けします」
設計に取りかかって、三日で壁にぶつかった。
水路の修復は前世の知識で対応できた。市役所の土木課で扱っていた規模だった。けれど石橋の設計は違う。前世では橋梁は専門の設計事務所に外注していた。構造計算の基本は知っているが、大規模な石造アーチ橋の詳細設計は経験がない。
作業台に図面を広げて、断面図を描いては消した。アーチの曲率、キーストーンの寸法、橋脚にかかる荷重。計算するほど、わからないことが増える。
「……ここの荷重分布、どう処理すればいいんだろう」
独り言が漏れた。夜の工房で一人、鉛筆を回している。
自分一人では無理だ。
その認識が、喉に引っかかった。前世の癖だ。一人で全部やらなければ、という感覚が抜けない。市役所では、助けを求めると「自分でやれ」と返された。成果は上司が持っていった。誰かに頼ることは、自分の無能を認めることだった。
でも。
ここはあの職場ではない。
翌朝、工房に着いてすぐ、ラシード技師長の作業台に向かった。
「ラシード技師長、橋の設計について、ご相談があります」
「何だ」
「石造アーチ橋の荷重分布の処理について、私の経験では対応しきれない部分があります。共同で設計していただけないでしょうか」
口に出すのに、息を一つ余計に吸った。助けを求める言葉は、いまだに喉を通りにくい。
ラシード技師長は作業台から顔を上げた。黒い目がこちらを見た。数秒の沈黙。
「図面を持ってこい」
自分の作業台に戻り、描きかけの図面を抱えて持っていった。ラシード技師長の作業台に並べて広げる。二人の作業台は工房の端と端にあるから、こうして一つの台に図面を広げるのは初めてだった。
「アーチの頂点にかかる鉛直荷重はここで処理できます。問題は橋脚への水平方向の推力です。河床の地盤が弱い場合、橋脚が外側に押される」
説明しながら指で図面をなぞると、ラシード技師長が隣からのぞき込んだ。近い。肩がほとんど触れそうな距離だ。
「水平推力は、橋脚の幅を広げるか、地盤にくさびを打ち込んで受ける」
ラシード技師長の声が変わった。低く、速く、滑らかになる。技術の話をする時の、あの声だ。
「この渓流の河床は砂岩層だ。くさびが効く。橋脚の基部に三列、深さは二腕尺。断面はこうだ」
右手が図面の上を走った。橋脚の基部に、くさびの配置図を描き込んでいく。鉛筆が紙の上を滑る音がした。
「アーチの曲率は、荷重に対して放物線よりも円弧が安定する。石材の加工精度がこの町の石工の技量に依存するなら、円弧のほうが施工時の誤差を吸収しやすい」
止まらない。
前に水路の現場でも見た光景だ。技術の話になると、この人は別人になる。寡黙な上司が消えて、言葉が溢れ出す。両手が図面の上を動き回り、構造の道理を指先で描いていく。
「それと、欄干の高さ。荷馬車が通るなら、車輪の外径から少なくとも――」
不意に、言葉が途切れた。
ラシード技師長の手が止まった。顔を上げて、こちらを見た。口を閉じた。我に返ったように、一歩下がった。
いつもこうだ。喋りすぎたと思って、黙り込む。
「ラシードさん、続けてください」
自分の口から出た言葉に、一瞬遅れて気がついた。
「技師長」ではなく、「ラシードさん」と言った。
ラシード技師長が――ラシードさんが、わずかに目を見開いた。それだけだった。表情はほとんど動かない。けれど、瞬きが一回多かった。
「……続けるぞ」
低い声で言って、また図面に向き直った。
私も図面に目を落とした。耳が熱い。なぜ呼び方を変えたのか、自分でもわからない。ただ、技術の話をしている時のこの人を「技師長」と呼ぶのが、急に遠すぎる気がした。
共同設計は、その日から本格的に始まった。
数日後、ナディアが工房に飛び込んできた。
「ルイーゼさん、聞きました? 交易路を通る商人が言ってたんですけど」
「何を?」
「ヘッセ子爵家——ヴェルトハイムの貴族の家らしいんですけど、最近商取引の書類に不備が多いって。契約の日付が間違ってたり、代金の計算が合わなかったりで、取引先がいくつか離れたとか」
ヘッセ子爵家。ディートリッヒの実家だ。
「……そうですか」
「知ってる家ですか?」
「昔の知り合いです。今は関係ないです」
それ以上は聞かなかった。ナディアも深追いしなかった。
ヘッセ子爵家の事務が崩れている。書類の不備。前世の感覚で言えば、バックオフィスの機能不全だ。ディートリッヒは子爵家の三男で、政治的権限はほぼない。実務を支えていた人材か仕組みが、何か変わったのだろう。
私には関係のないことだ。
作業台に向き直った。橋の設計図面が広がっている。ラシードさんが描き込んだ橋脚の詳細図。私が計算したアーチの構造図。二人の筆跡が一枚の図面の上に混在している。
一人では描けなかった図面だ。
前世では、一人で全部やろうとして、一人で倒れた。ここでは、助けを求めた。求めたら、応えてもらえた。それだけのことだが、その「それだけ」がどうしようもなく慣れない。
ラシードさんの字を目で追った。鉛筆の線が力強くて、迷いがない。技術の話をする時の声と同じだ。
あの声が、嫌ではない。
嫌ではない、というのは控えめすぎるかもしれない。共同設計の数日間で、ラシードさんが技術の話を始めるたびに、私は鉛筆を止めて聞き入っていた。止まらなくなる言葉。走り出す指先。我に返って黙り込む瞬間。その全部が、気になる。
気になる。
その感覚に名前をつけるのは、まだ怖い。
図面に向き直って、鉛筆を握り直した。橋の設計を進める。二人で描いた図面を、一枚の完成図に仕上げる。今やるべきことは、それだ。




