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加護のない私は溺愛を知らない  作者: 月雅


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第4話「薬湯の温度」

体がうまく動かない朝は、前世の最後の日を思い出す。


深夜のオフィス。蛍光灯の白い光。画面に並んだ数字がぼやけて、キーボードの上に倒れた。それが、前の人生の終わりだった。


目を開けた。宿舎の天井が見えた。朝日が窓から差し込んでいる。


体が重い。腕を持ち上げるのに、ひと呼吸かかる。三番水路の修復工事が始まってから二週間あまり。石組みの現場に毎日立ち、夜は工房で帳面をつけ、夜明け前に図面を確認して現場に出る。その繰り返しだった。


起き上がろうとして、膝が笑った。寝台の縁を掴んで、体を引きずるように立ち上がる。


着替えて、顔を洗って、工房に向かった。


三番水路の現場に着いたとき、職人たちはすでに作業を始めていた。


石工の親方が、私を見て眉を寄せた。


「顔色が悪いぞ」


「大丈夫です。今日は曲線部の最終区間ですから、立ち合います」


「おい」


親方が何か言いかけたが、私はもう水路に降りていた。曲線部の石組み、最後の三段。内壁の高さを変える区間だ。ここを間違えると越水する。


水準器を当てた。指先が震えている。冷えているのか、疲れているのか、区別がつかない。


数字を読み取る。帳面に書き込む。鉛筆の先が滑った。書き直す。


「ヴェルナー」


頭の上から声がした。ラシード技師長だった。水路の縁に立って、こちらを見下ろしている。


「通水試験の準備はできているか」


「はい。曲線部の最終段が終われば、上流の堰を開放して水を通します。午後には実施できます」


「……ああ」


それだけ言って、ラシード技師長は現場を離れた。背中が遠ざかっていく。二年半の間に何度も見た光景だが、今日はその背中を目で追うのに妙に時間がかかった。


視界が揺れた。


水路の縁の石に手をついて、体を支えた。息を吐いた。吸った。大丈夫。動ける。まだ動ける。


午後、通水試験を行った。


上流の堰を開放すると、水が勢いよく三番水路に流れ込んできた。修復した石組みの間を、水が走っていく。曲線部で流れが外側に膨らむ。内壁を高くした区間が、それを受け止めている。越水はない。


水量を計測した。修復前と比較して、流量が回復している。勾配修正と断面の拡幅が効いた。


水路沿いに歩いて、全区間の接合部を確認した。漏水はない。親方の石組みは正確だった。


水路の端に立って、水面を見下ろした。水が流れている。きちんと流れている。自分が計算した勾配の通りに、自分が設計した断面の通りに。


町の人が何人か、水路の様子を見に来ていた。荷馬車を引いた商人が、水路沿いの道を通り過ぎながら足を止めた。


「水が戻ったのか。これなら荷馬車の水やりに困らん」


独り言のように呟いて、去っていった。


水路を直した。それだけだ。壊れていたものを、元に戻した。


体が揺れた。足元が傾いた気がして、水路の縁石を掴んだ。


「ルイーゼさん!」


ナディアさんの声が遠くから聞こえた。足から力が抜けて、地面に膝をついた。


目を覚ましたのは、宿舎の自室だった。


寝台に横たえられている。窓の外は暗い。夜になっていた。


「起きた?」


ナディアさんが椅子に座って、こちらを覗き込んでいた。


「……どのくらい」


「半日くらいですよ。現場で膝ついて、そのまま。石工の親方が抱えて運んでくれました」


体を起こそうとした。ナディアさんに肩を押さえられた。


「駄目です。寝てください」


「でも、通水試験の記録を」


「もう技師長が全部やりました。水量の数字も帳面に書いてありましたよ。ルイーゼさん、二週間ろくに寝てないですよね」


反論できなかった。二週間。毎日、夜明け前から日が落ちるまで現場に立って、そのあと工房で帳面をつけて、寝台に入るのは深夜で、また夜明け前に起きた。


前世と同じだ。体が限界を訴えているのに、頭が止まらない。目の前にやるべき仕事がある限り、手を止める理由がわからない。


ナディアさんが立ち上がって、部屋の扉の前に置かれたものを持ってきた。


木の椀だった。蓋がしてある。湯気が漏れている。


「これ、ルイーゼさんの部屋の前に置いてありました。薬湯です」


「薬湯?」


「あたしが来た時にはもう置いてあったんです。で、宿舎の管理人に聞いたら、夜遅くに技師長が来て置いていったって」


手が止まった。


「ラシード技師長が?」


「それだけじゃないですよ。管理人が言うには、技師長はルイーゼさんが寝つくまで廊下にいたらしいです」


意味がわからなかった。


薬湯を、部屋の前に置いて、廊下で待っていた。寝つくまで。


「……部下の体調管理は上司の仕事ですから」


口から出た言葉は、自分でも平坦だとわかった。


「いやいやいや」


ナディアさんが両手を振った。


「上司の仕事って、普通そこまでしないですよ。薬湯を自分で持ってきて、廊下で寝つくまで待つ上司、聞いたことあります?」


「この国では、そういうものなのかと」


「違いますって! あたしが風邪ひいた時、技師長は『休め』の一言ですよ。薬湯なんて出てこないし、廊下で見張るなんてありえない」


ナディアさんの声が大きくなる。宿舎中に聞こえそうだ。


「ルイーゼさんにだけですよ、ああいうの」


木の椀を受け取った。蓋を開けると、薬草の苦い匂いが立ち上った。温かい。まだ温かい。


一口飲んだ。苦くて、少し甘い。体の奥に、熱が沁みていく。


上司の仕事だ。部下が倒れたら、体調を気遣うのは当然のことだ。薬湯は、そのための手段だ。廊下で待っていたのは、容態が悪化しないか確認するためだ。


そう、それだけだ。


そう思おうとした。でも、椀を持つ手が微かに震えていた。疲労のせいだ。きっとそうだ。


「……ナディアさん」


「はい?」


「明日は休みます」


「当たり前です! というか、あたしが休ませます」


ナディアさんが胸を張った。それから、少し声を落とした。


「ルイーゼさん、無理しすぎですよ。倒れたら元も子もないでしょう」


わかっている。前世で一度、それを経験した。倒れたら終わりだということは、誰よりも知っている。


なのに止まれない。目の前に仕事があると、手が動く。休む理由より、動く理由のほうが先に見つかる。


薬湯を飲み干した。椀の底に、薬草の葉が沈んでいた。


翌朝、工房には行かなかった。


寝台の上で、天井を見ていた。体が動かないのではなく、動かさないことにした。ナディアさんとの約束だ。


午後になって、ナディアさんが帳面を持ってきた。


「オスマン町長が現場を見に来たそうです。通水試験の結果を確認して、一言だけ」


「何と」


「『悪くない』って」


悪くない。前回と同じ言葉だ。けれど、ナディアさんの表情は前回と違った。少し嬉しそうだった。


「本心なんですかね」


「さあ。あの人のことはわかりません。でも、数字は見てるはずですよ。水量が戻ったんだから」


帳面を受け取った。ラシード技師長の字で、通水試験の数値が記録されていた。丁寧な字だった。私が倒れた後、この人がすべての計測を引き継いでくれたのだ。


帳面を閉じて、枕元に置いた。


壊れた水路を直した。水が流れるようになった。町の商人が「水やりに困らん」と言った。それだけのことだ。


私がやったのは、勾配を計算して、石の積み方を指示して、自分でも石を積んだ。それだけだ。


それだけのことで、水が流れている。


枕元の帳面を、もう一度手に取った。数字を見た。水量の回復率。計画値と実測値の差異。想定通りだ。計算は合っていた。


ラシード技師長の字を、指先でなぞった。


上司の仕事。そう、それだけだ。


椀はもう空だった。薬湯の温もりは、まだ体の中に残っていた。

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